第二章
「大津様、いつぞやの書物を――」
「おお、わざわざすまぬな」
「申し上げます。大津様、新たに加えられましたこの条文について――」
宮はまだ作られたばかり、すがすがしい香りすら感じられるような通廊では、大津がたくさんの家臣に囲まれていた。大津は人望がある。その気さくな性格と優れた知性によって、彼を慕う者を集める。
少し離れたところから、草壁は彼らを見つめていた。今日は朝から身体が重く、熱もあるようだった。出仕を休むことは憚られ、こうして無理を押して出てきたが、太陽が高くなるにつれ気分は優れなくなる一方だ。
周囲の者達にそれとなく館へ戻るよう勧められるころには、気力を保つこともできなくなって、草壁はそれに従った。そして、大津を見つけたのだった。今日も彼は品のよい衣を纏い、内から輝きを放つような、見事な在りようだ。
「草壁?」
ぼんやりしていて、大津の視線に気づくのが遅れた。草壁が刹那の自失から我に返ったときには、大津の大柄な体躯が貴族達の輪を抜けて自分のほうへ近づいてきていた。草壁はすぐに目を伏せたが、それでも、目の当たりにしてしまった。
貴族達の眼は、大津に向けていたものをすべて消し去って、草壁を映していた。
「草壁!」
身体が傾いだ。と、思った時にはすでに大津が草壁を支えている。呼吸が、止まった。
「大丈夫か? ――熱も高いな」
首筋に触れる大津の指のほうが、ずっと熱い。草壁は小さく震える。
「大丈夫……今から、館へ戻る」
やっとの事で言葉を紡いだのに、言外に離れてほしいと訴えたのに、大津は草壁を抱えるようにしてそのまま歩き出した。しっかりした足取りが伝わってくる。
「大津……」
「気にするな」
柔らかい言葉は少しの間途切れ、また続いた。
「昔からのことだろう?」
昔。
草壁は、唇を噛む。
幼い頃から草壁は病弱で、館にほとんど籠もりきりで育った。父を同じくする他の兄弟達が年相応に成長していく中、草壁は小さく細く、色も白いままだった。そんな彼と対照的に、大津はどこまでも野を駆けていく力強い子供だった。彼が力を尽くして走れば、誰も追いつけなかった。
彼はたった一人でも、果てしない彼方へ行くことのできる者だ。草壁とは違って。
「そうだね」
そのはずなのに、いつも大津は。
「昔から……私を気にかけてくれたね」
年が近いからか、何くれとなく気遣ってくれた。
それはずっと、変わらず。なぜ、変わらないのだろう。
一人でどこまでも、ゆけるところまで行ってしまえばいいのだ。草壁のことなど気にせずに。
自分はこんなにも重く、一歩踏み出すことすらままならないのだから……。
「大津皇子様」
またも、横から、誰かが大津を呼び止める。大津がそちらへ顔を向けた隙に、草壁は支える腕からするりと抜け出した。
「あ」
大津が、何かを言いかけたのが聞こえたが、草壁は足を止めず、振り向くこともせずにそのまま歩き出した。身体は苦しかったが、できるだけ歩を早めた。
「草壁?」
また、名を呼ぶ声がした。大津かと思って身構えたが、横合いからやってきたのは別人だった。
河島皇子(かわしまのみこ)。大海人ではなく、その兄葛木(かつらぎ)の血を引く皇子だ。本来ならば、この場にいなくともおかしくない血筋だが、壬申のあの戦において大海人の側で尽くしたことを買われ、今も朝政に参画している。
そして彼は、大津ととても親しい。年はかなり離れているが、どちらも漢籍に明るいために話が合うのだろう。
「どうしたのだ? ああ……顔色が優れないな。馬にも乗らぬ方がよい」
「……ですが」
「送っていこう」
返事をする前に、河島は草壁を支えて歩き出してしまう。
「申し訳ございません」
「気にすることはない。無理はせず、身体をいとえ」
穏和な笑みを浮かべ、河島は続けた。
「お前は、次の大王(おおきみ)なのだから」
優しい声音に包まれた、残酷な言葉。
「草壁?」
静かに名前を呼ぶ河島の声が、胸をさらに抉る。
河島はそのまま草壁を館へ送り届けてくれたが、その間草壁は無言を通した。口をきくこともできぬほど思わしくないのだと彼は解釈してくれたようだが、どろどろと草壁の胸を押しつぶしていたのは、彼の短い一言だった。
大王の後継。日継皇子(ひつぎのみこ)。
それは確かに、草壁のことだ。正式に決められたわけではないが、貴族らの間では暗黙のうちにそれを承諾している。その空気は、草壁にも感じられないわけではなかったが、受け止め己を磨く覚悟はまだできていない。――この先仮に父が草壁を日継にと定めたとしても、腹をすえられるとは思えない。
寝台に横になり、草壁はじっと天井を見つめていた。部屋はほどよく調度され、狭くはないがあまり広くもない。焚きしめられた香木とこの広さが、草壁には安らぎだ。唯一ここだけがくつろぐことのできる場所である。
部屋の入り口の布がはたはたと揺れた。温もりが逃げないよう、降ろしてあったものである。次いで「草壁様」と呼ばわる女の声。草壁が短く答えたあとに、布をめくりしずしずと妻の阿閉皇女(あへのひめみこ)が入ってくる。
「薬湯をお持ちいたしました」
「手ずからでなくともよかったのに」
「気がかりでございましたから」
ほとんど動かぬ表情と、抑揚に乏しい口調。一見冷たい印象だが、その心根の温かさを草壁は知っている。いつも何くれとなく心を尽くしてくれる、よき妻である。
「河島皇子様には、後ほどお礼の品を届けさせますゆえ」
「頼む。それから……」
「大后様からは何も」
「……そうか」
それを聞いて、ようやく肩から力が抜ける。しかし鵜野大后も、早晩草壁が日も高いうちに宮を辞したことを知るだろう。使いをよこし、容態を確かめ、使者を通して何か言づてをしてくるに違いない。
気が重い。
「それから、大津皇子様から使いの者が」
「え?」
一瞬いろいろなものが遠くなった。大津。
なぜ。
「大事はないと伝えておきました。薬草をいただきましたので、煎じて後ほどお持ちいたします」
「……そうしてくれ。礼の品も」
「はい」
阿閉の手がそっと草壁の身体を起こし、独特の香りのする薬湯を器に注いで差し出してくる。受け取ったものの、草壁はしばしぼんやりと濁ったその色を見るとはなしに眺めていた。
大津からの使い。そこまで、彼は自分を案じてくれているのか。
胸の中が濁る。手の中にある薬湯のように不透明になり、草壁自身ですら見通せなくなる。
想う女性には、歌を送る。
草壁に歌の才はなかったが、その分心を込めて歌を詠んだ。そのつもりだった。
大名児 彼方野辺に 刈る草の 束の間も 我れ忘れめや
――大名児よ、彼方の野辺で刈るかやの一束の、そのつかの間も私はそなたを忘れるものではない。
何度か目で読み直し、口の端にも上らせてみる。そして草壁は、溜息をついた。
自分はやはり、歌の才には恵まれていない。皇族・貴族は教養として漢籍の他に歌を身に着けることを幼い頃より義務として学んでいくが、だからといって皆が皆趣ある歌を作ることは無理なのだ。
こんな出来では、歌を返してももらえないかもしれない。草壁の気持ちは沈んだが、これ以上の歌を詠めるとも思えない。
「草壁」
部屋の外から名を呼ばれ、あわてて草壁は歌をしたためた紙をしまい込む。入ってきたのは大津、運良く気づかれなかったようで彼は屈託なく笑って草壁に挨拶をした。
「今日はかなり顔色がいいな」
「う、うん」
返した微笑みがぎこちなくなっていなかったか。草壁は未だ少々騒ぐ胸を隠そうと、先に切り出した。
「何か特別な用向きでも? 父上に呼ばれていたのだろう?」
だが口に出してしまってから、腹の底が冷たくなった。
大津が朝政を聴くようになってから、一年ほどになる。大海人が二十二の大津を頼りにしているのは、誰の目にも明らかだった。草壁が参画したときには、そのようなそぶりは見せなかったのに。
「それはもう終わった。あとは俺がいなくとも大事ないようなので戻ってきた」
こともなげに大津は答え、草壁は自覚しないまま拳を握った。
「しばらくお前とも顔を合わせていなかったから、足を向けたのだ。差し支えがあるようならばこれで帰る。どうだ?」
「……特には」
忙しいのだと、嘘をついてしまえばよかったのかもしれない。しかし結局、草壁は正直に首を横に振った。確かに大津と会うのは久しかったし、なによりも。
「そうか」
ゆっくりと、大津の整った相貌に深い微笑が浮かんだ。近い位置でそれを目の当たりにして、草壁の呼気は細く震える。
胸の内を、冷えていた腹の底を、温かく溶かし包んでくれるような。昔からの大津の大きな笑顔だった。
彼を帰すようなことを口にせず、本当によかった。この笑顔を見るたび、草壁はいつもどこか重い己の身体が、急に軽くなったような心持ちさえする。
「遠乗りに行かぬか? そろそろ山が色づく時分だ」
「そうだね」
大津の申し出に諾と答えたのも、そんな爽快さが後押ししたからだ。平素は出仕以外で、あまり草壁は外を歩かない。
厚着をするように大津は勧め、準備が整うと草壁も馬を用意させそろって館を出た。秋口の風は冷たく、草壁は身震いした。しかし手綱をつかむのに精一杯で、衣の前をかき合わせることもできない。
対照的に、大津の馬は力強く駆けていく。馬をあたかも自分の一部のように操って、どこまでも。
向かう先には何もない。暮れかけてきた空と、色を失いつつある草の原だけが続いていくのだ。その果てへ、きっと大津は行き着くことができるだろう。
大津ならば。きっと、一人でどこまでも。
「草壁」
必死で手綱を握っていた手を、しっかりと掴まれる。馬が止まる。その腕の先へ視線を辿らせ、草壁は息を詰めた。
「大丈夫か? すまない、急いてしまったな」
ぬばたまの黒瞳。その中に自分が映っている。強いこの目の持ち主とは比べようもないほどに弱々しく凡庸で、貧相な自分の姿が。
胸が重い。息が、できない。
心の臓が、狂ったように脈打っている。
「もう少しだが……しばし休むか?」
「いや……大丈夫」
自分でもはっきりわかるほど、声が震えていた。
大津はそれを、気分が優れないのだと受け止めたらしかった。草壁を支えて馬から下ろし、柔らかな緑の上に座らせた。
「無理に連れ出したようなものだな。すまない」
「……本当に、これくらいはいつものことだから」
大津を気遣ったのではなく、これは事実だった。物心ついてから、身体がけだるくなかったことはほとんど記憶にない。草壁にとってこの状態が当たり前のことだ。
「身体を温めろ」
大津は自分の衣を脱いで、草壁に着せかける。草壁の頬が熱を帯びる。
理由はわからない。しかし、大津が自分にしてくれる仕草の一つ、向けてくれる表情の一つが、草壁を騒がせる。
彼という石によりもたらされる心の波の、何と大きなこと。
「ああ、ここからでも見えるな」
大津が草壁の背中に触れ、何かを指さした。促されるままそちらを見やった、草壁の視界は直後鮮やかな彩りに染め上げられる。
紅が、黄の色が、あやなす錦の如く連なっている。時には深く、時には明るく。
「お前はいつも籠もりきりだ。折りあらば見せたいと思っていた」
言葉を失った草壁の背中に、支えるように手を置いたまま、大津は黄葉(もみじば)を眺めている。彼らの眼前にはいつの間にか山があった。近づく秋の霜により、染まる木々があたかも炎の如く見える。
「唐の国では、黄葉は仙女が織る錦だそうだ」
大津は山から目を離さず、不意に朗々と詩を詠じた。力強い声にて、外つ国風の詩(うた)がこの地の言葉で紡がれる。
天紙風筆雲鶴を畫き、山機霜杼葉錦を織らむ
「――いや、違うな」
だが中途でやめて、大津はつぶやく。十分によい詩だと草壁には思えたのだが、次に大津の唇から流れ出たのは、この国の歌であった。
経もなく 緯も定めず をとめらが 織る黄葉に 霜な降りそね
――縦糸もなく横糸も定めず少女たちが織っているもみじに霜よ、降ってくれるな。
詠じ終えて、大津は草壁を見て笑んだ。満足のいくように詠めたのだろう。その表情でわかった。
彼には、歌や漢詩の才もある。一目見た景色をその場で歌と為すことも、彼にはたやすいのだ。
身体が硬く強張るほどの時を文机の前にて費やし、それでもあのような恋歌がやっとの己とは違う。
腹から、温もりが奪われていくようだった。大津の手は、変わらず背中にあったというのに。
それから少しして、大海人が突然病に倒れた。
元来頑健な人物だったが、それだけに一度伏せってしまうと周囲には急激に悪化していくように映り、宮には不安が常に見えない霧のように立ちこめるようになった。
「大海人様の子として、これからはあなたももっと表に出るようになされませ」
鵜野大后は、一切の前置きなしにこう言い放った。草壁は一瞬唖然とし、すぐにうつむいた。
「今は、父上のご快癒のため、母上をはじめとした方々のため、力を尽くしたく存じます」
母の狙いはわかりきっている。これを機に、草壁を正式に日継皇子として公に知らしめようとしているのだ。草壁には、苦痛でしかないのに。
「何を言うのですか。あなたがしっかりしなければならない時期ですよ。そのような気の弱いことでは」
――次に来る言葉も、わかっていた。聞きたくなくて、だが耳をふさぐこともできず、草壁はそのまま突き刺さる不可視の刃を受け止めるしかなかった。
「大津が、あなたに取って代わってしまうではありませんか」
そうして、草壁は泣いた。表には一切出さず、死に至るほどの傷を負った心を支えるために、胸の内でのみ涙を流した。
鵜野大后も、即位する前の大海人皇子とともに、あの壬申の戦をくぐり抜けた。今ここにある朝廷を、大海人と一から創り上げてきたのだ。だから、わかる。彼女にとって、どれだけ皇位が意味のある重いものなのか。
けれど、だからこそ草壁は母の望むままに、日継にふさわしくあるようにと己に課すことができない。
ほとんどの日々を、館に籠もり病に圧され過ごす自分と。
戦の先頭に立ち、人々を導き君臨した父と。
――何一つ、似通ったところはないのだ。
父のようにあることのできない自分では、父が創り母もまた守るこの朝廷を継ぐことなど到底できない。
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