第一章



 鳥が鳴いている。どこか寂しいその声の中、彼は草の原を眺めていた。静かに風が渡る、広く閑雅な情景。だがその耳に聞いているのは怒号と悲鳴、その目で見つめているのは戦乱の様であった。
 それは、ほど近い過去。その壬申の年に、大きな戦乱が起きた。
 発端は、天皇位の継承。
 争いの先頭にいたのは、崩御した天皇、中大兄とも呼ばれた葛木の実弟である大海人皇子(おおあまのみこ)と、天皇の子である大友皇子(おおとものみこ)。
 いくさが収束したあとにも、生々しく語り継がれるほどに、大きく長く、悲しい闘いであった。
 今、大きな戦の爪痕は、青々とした草に覆われて隠されている。しかし、草壁皇子(くさかべのみこ)は風の通り抜ける原を悲痛なまなざしで眺めていた。彼は、覚えている。かつてこの地で剣戟が響き、人々が多く死んだこと。
 大海人が即位してから、十五年。当時まだ十にも満たなかった草壁も、この年で二十三となった。朝にも本格的に参画している。彼は、大海人とその第一の后である鵜野皇女の息子なのだ、ゆくゆくは日継皇子(皇太子)として、草壁は父の築いた基盤を引き継ぐことになるのだろう。父のあとを守り、発展させるために。
 しかし――。
「草壁!」
 蹄の音と、力強い男の声。
 草壁は、遠い日の戦火の中から、ゆうるりと心をうつつに戻した。彼がいるのは、都の外れ。すぐそばで、彼の乗ってきた馬が草を食べている。そして、振り返った先には駆けてくる駿馬の躍動の様と、それを自在に操る逞しい青年の体躯。
「大津(おおつ)」
 青年が馬から下りて自分に笑いかけるのと同時に、草壁は彼の名を呼んだ。
「探したぞ。大后様が心配されていた。急にどうしたのだ、こんなところに?」
「……特に、用事があったわけではないよ。大津こそ、よく私がここにいるとわかったね?」
「何となくな。それに俺もよくここに来る」
 え、と草壁が問う前に、大津がそばまで歩み寄ってきた。彼は、草壁の傍らに勢いよく座り、その低い位置から草壁を見上げてきた。
「座らないか?」
「……戻るのではなかったのか?」
「お前を見つけたのだし、少しくらいならいいさ。ずっと駆け通しで俺も馬も疲れているしな」
 大津は、本当に屈託なかったけれど。
「……」
 草壁は、そこに立ったままで大津から視線を逸らした。そのまま、身体の向きもずらす。大津のそばにいるのが、落ち着かない。
 大津は、草壁より一つ年上の兄だ。ただし、母親が違う。容姿も雰囲気も、ほとんど似ていない。
 大津は長身で、武に優れ逞しい。弧を描く眉は草壁のようなやわやわとした雰囲気は微塵もなく、意志の強さを垣間見せる。通った鼻筋と、薄くきりりと弾き結ばれた唇。そして何よりも、大津の漆黒の双眸の輝きは見る者に強い印象を残す。焼き付ける。彼の希なる聡明さと、文にも優れた才知がそこに現れているのだ。
 昔から大津は、草壁にとってまぶしい。
 草壁自身は、容姿も特に秀でてはおらず、平凡に過ぎると自分でも思うくらいだ。だが周囲からは、年も近いこともあり何かと二人を引き比べる声があることも、彼は知っている。
 けれど、ともにいるといたたまれない理由は、それだけではない。
「――草壁」
 いつの間にか、大津も立ち上がって草壁の隣まできていた。大津の方が上背がある。草壁はうつむいたが、肩に掛かった微かな重さと温もりに身体を緊張させる。
「一度聞いてみたかった」
 視線は合わせない。顔も見せない。声だけが、草壁の中に浸透していく。
 深みのある、大津の声。
「姉上をどう思う?」
 大津の姉。草壁には異母姉にあたる彼女の面影は、幼いころのままだ。
「齋宮の君を……?」
 異母姉・大伯皇女(おおくのひめみこ)は、二つ年長。決して美貌ではないが、たおやかにして聡明で、草壁も彼女を慕っていた。彼女が十四の年を最後に、もうずっと草壁も大津も彼女の顔を見ていない。天皇となった大海人皇子により、伊勢の齋の宮に任じられたのである。天武が、あの大乱の際に勝利をもたらしてくれた天照大神への感謝の意として、伊勢の社を公に祀ることを決定したためだ。大伯は、今は神に仕える神聖な存在。姉弟といえど、みだりに会うことは許されない。
 だから、草壁は返答に困った。あのころの彼女に対して抱いていた思慕を、そのまま答えとして口にしてもよいものか。
 しかしすぐに、大津の苦笑が聞こえてきた。
「すまん。答えられなくてもしかたがないな。もう何年もお会いしていないのだから」
「……」
 大津の声音が、揺れた。草壁は、彼の表情を容易に推し量ることができた。
 大津と大伯は、同母の姉弟。母を早くになくした彼らにとって、互いは半身に等しいのだ。それを草壁も、昔から肌で感じていた。大津の境遇を想うたび、草壁はいたたまれない気持ちになる。
「戻ろう、草壁」
「うん……」
 なぜ、急に大津は姉のことなど話題に上らせたのか。
 釈然としないまま、草壁は自分の馬の背に乗った。


 宮の廊下を、草壁はぼんやりと歩いていた。昨日、久しぶりに大伯の話をしたせいか、常よりなおいっそう、大津のことが気にかかっていた。
「草壁」
 はっと彼は足を止め、ゆっくりと振り向いた。
 昨日の、草の原でのことと、非常に今は似ている。けれど、彼を呼び止めたのは異母兄ではない。
 長いぬばたまの黒髪を、大陸風に一房だけ結い、残りを背に流した壮年の女性。老いは確実に見て取れるが、彼女の生来の気丈さは、未だ寄る年波にその美貌を奪わせてはいない。
 草壁とは、似つかない面差し。
「母上」
 大海人の第一の后にして、草壁の生母。鵜野大后(うののおおきさき)はさらさらと衣擦れの音をさせ、草壁を手招いた。彼女は自室の扉の前に立っていた。私的な用事なのだろう、草壁はそう思い、母に続いて部屋に入る。
 母は、彼に椅子を勧めた。浅く腰掛けると、すぐに彼女は切り出してきた。
「先の宴の際――あなたも歌を詠みましたね」
 きり、と下腹のあたりが痛む。草壁は、奥歯を噛みしめた。
 早晩、言われると思っていた。
 先だって、小規模だが皇族・貴族の集まる宴が催された。その際、通例として皇族、家臣達の中から数名が歌を読み比べたのだ。草壁は歌が不得手だが指名され、しかたがなく一首詠んだのだった。
「大海人様は歌の名手ではなくとも、力強く趣ある歌はお読みになる方ですよ。あなたはもう少し、歌の道も学ぶべきですね」
「……はい」
 歌のなんたるか。
 そのようなものは、幼いころから学んでいる。母もよく知っているだろうに。
「このままでは、大津に取って代わられてしまいますよ。もう少し、精進なさいませ」
 精進。
 努力。
 母はいつも、そう言う。
 どのようにすればいいのか、それは一言たりとも教えてはくれないくせに。
 重い心で、草壁は母の部屋を辞する。
 いつも、そう。ずっと昔から。
(私は、駄目なのだ)
 きりきり、と。
 先ほどから、下腹のあたりが痛む。歩いても歩いても、外へ出ることが叶わない。
 苦しくて、草壁は柱の一つに寄りかかり、深く息を吸い込んだ。
 太く重々しい柱。宮の柱はすべてそうだ。宮は広く美しく、新しく荘厳だ。天の下を治める、大王の住まう場所としてふさわしく作られている。だが、それは自分を押しつぶさんとするかのように、今草壁に迫っている。
 外へ、出たい。
「――どうした?」
 背中に宛われる手を感じた。
 ゆっくり顔を上げると、整った大津の相貌が間近にあった。宮の中であるために今日は冠もつけており、いっそう堂々たる風情だった。
「大津……」
「気分が優れないのか? 歩くのが辛ければ、館まで送るぞ」
 大事ない、と答えようとしたが、再び痛みが襲いきて、草壁は小さくうめいた。大津は無言のまま草壁の身体に腕を回し、ゆっくりと歩き出した。
「すまない、大津」
「いいさ。馬は無理のようだが、お前の館はここから近いだろう。すぐにつくぞ」
 ――いたたまれない。
 気遣ってくれる大津が。
 痛みが酷くなる。
「大津様。草壁様」
 じきに、宮を出ると言うところで、呼び止める声があった。
「不比等か。何事だ?」
 藤原不比等。鵜野大后の覚えめでたい、若い宮人の一人だ。秀でた額、武人を思わせる太い眉に角張った顎、ぎょろりとよく動く目の男は、暗い色の衣をさばきつかつかと二人のそばにやってくる。
「草壁の身体が思わしくないのだ。用件は後にしてもらえぬか?」
「は。……なれど、件の律令については、急を要しますゆえ」
「大津、私は一人で戻れるから……」
 ゆっくりと口を挟むと、大津はようやく草壁から手を離した。しかし気遣わしげな視線は変わらず、草壁は彼を直視できずようよう会釈だけを返し、厩舎に向かった。
 律令は、父が位についてから完成を急がせている政の制度だ。中国のそれを手本とし、一日も早く国中に行き渡らせようと、家臣達はもちろん皇族達も力を尽くしている。草壁は大海人の直系の皇子として陣頭に立ち、家臣達を導かなければならない。
 しかし、実際には自分はこうしてとぼとぼと家路を歩んでいるのだ。草壁の心はどんどん重く沈み、今や見えない足かせとなっていた。
 いっそ、と思う。
 いっそ、自分と大津の立場が逆であれば――と。


 織りのよい緑の衣にたくさんの草や葉をつけたまま、大津は笑っている。一つしか年が違わないのに、大津の身体はもう子供のそれではなかった。毎日野を駆け回っているからだろう。
「ほら、すごいだろう? 山で見つけてきた」
大きな笑顔だと思った。まぶしくて、明るい。草壁は眼を細めて、その笑顔から視線を外し、彼が無造作に床にばらまいた木の実を見た。
「たくさんあるね」
「ああ。これは食べられるぞ。美味いから食べてみろよ」
「うん、でも……」
 草壁が躊躇ったのは、母鵜野皇女のことを考えたからだ。先日も食事が合わずに腹に変調を来したばかりだ。今まで口にしたことのない木の実は、食べたらどうなるかわからず不安だった。もしもまた体の調子を崩したら、母は半狂乱になるだろう。
 そして、どんな手を尽くしても原因を探ろうとするだろう。――大津に行き着くまで。
「皇女様を気にしてるのか」
「う、うん」
「この間も、お前寝込んだんだって?」
「うん……」
 矢継ぎ早の質問は、草壁をいたたまれなくさせた。思わずうつむいて、気まぐれに一つ拾い上げた木の実を掌で弄ぶ。
「――ちょっと、貸してみろ」
 白く柔らかいそこから、大津の指が木の実をさらっていった。何が起きたのか把握できず、目を見開いて草壁は大津に顔を向ける。
「すぐにできるから」
 言いながら、すでに大津は何かに熱中していた。十本の指が器用に動いている。
 彼も草壁も、皇族のたしなみとして武術の鍛錬に参加している。しかし、病弱のため草壁には思うように身につかず、他の皇子達に後れをとっていた。大津はすでに師匠の武官にも賞賛されるほどだという。
 木の実を器用に転がす大津の指は、もう幼子のそれではない。草壁にとっては見上げるばかりである存在――父や異母兄と同じ大人のものだ。
「できた」
 ぼんやりと大津の指を眺めていた草壁は、その声にはっと瞬きした。
「あとで作って、姉上たちにも差し上げようと思ってたんだ」
 大人と同じその手が、やわやわとした草壁の白い掌に、そっとそれを落とした。
「これは?」
「こうやって回すんだ。ほら」
 縦に長い木の実は、中心を細い木の枝に貫かれていた。草壁に返した木の実をもう一度取り上げて、大津は床の上でくるりと木の枝を掴み、ひねるように回した。
「わあ……!」
 くるり、くるりと。
 少しいびつな螺旋を描き、木の実は床の上で踊っていた。
「すごいね」
「そんなにすごくない。急いで作ったから少しばかり割れた」
 唇を尖らせて、大津は言う。その様子が妙におかしく、草壁は喉の奥で笑った。
「あとで道具を使ってまた作る。もう一つやるよ」
「ありがとう」
 異母兄は、また大きな笑顔を見せた。







卒論で扱ったテーマですが、せっかく資料を
集めたからと、小説にしてみました。リサイクルリサイクル。
歴史の教科書とかではあまり出てこない時代ですが、
大津皇子は実はファンが多かったようです。



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