今日は、大切な日だった。マイアにとってはそうで、彼も同じだと一時間前まで信じていた。
「あの馬鹿はっ」
緑の香りの心地よい、フォルクガング邸のバルコニー。一般庶民には到底お目にかかれそうにない、瀟洒な陶器のティーカップを、マイアは乱暴にソーサーに叩きつけた。幸い割れはしなかったが、少し残っていた紅茶がはねて、白いテーブルクロスにみるみるうちに染みができた。
「……無意味だな」
ため息をついて、マイアは手ずから汚れてしまったクロスを外し、メイドの一人に手渡した。幼いメイドは、女主人の振る舞いに恐縮しながら、あわてて部屋を出ていった。
「……何をやっているのだろうな、私は」
結っていない豪奢な金の髪を人ふさ指でつまんで、マイアは一人ごちる。
「らしくない、本当に」
彼女は、かつて空色の翼を持っていた。それを捨てたのは、シーヴァスに出会ったからだ。華やかさの中に飛び込んでいくくせに、誰よりも覚めた目で喧騒を見つめていた青年に、彼女は自分の心を重ね合わせた。お互いに、虚飾を嫌いながらもそれで自分をよろっていたのだと気づいたときから、相手が何より大切になった。
――けれどそれは、自分の思い込みだったのだろうか?
「気弱な君も、なかなか赴きがあっていいな。だが、勝手が違って戸惑う」
聞き覚えのある、しかし長らく耳にしていなかった声が頭上から降ってきて、マイアは閉じていた薄いブルーの瞳を見開いて、身構えながら立ち上がろうとした。
「急に動かないほうがいい。今降りていく」
言葉どおり、声の主は静かに彼女の前に降り立った。銀の双翼をふわりとたたむ姿は、おそらくマイア以外には見えていない。
「……何の用だ、アレクス」
「ずいぶんとつれない挨拶だな、久しぶりの再会だってのに」
黒い髪は光沢があり、瞳の金は太陽の如く強く輝く。
人が成長する段階の、成熟と発達の狭間の伸びやかさとしなやかさを併せ持つ美貌の青年は、マイアの古くからの友人だ。最後の記憶と寸分変わっていない彼を目にして、彼女は急に自分の容姿が気になりだした。
人間は、衰えるのが早い。
「友人代表で、顔を見にきた。ついでに君の選んだ相手も見てみたかったしな」
マイアの内心には気づかず――あるいは気づいていても知らぬふりをしているのか――、銀の天使アレクスは彼女の細い手を取って口づけた。
「なっ!?」
「祝福だ。リールとエイランと、リリトからの」
天使の口づけは、人間のそれと多少意味合いが異なる。アレクスの言うように祝福として贈るのが主であるのだが、一年間人間の習慣の中で暮らしてきた彼女は、すっかりそのことを忘れてしまっていたのだ。
それを図らずも思い知らされて、彼女は少し驚いてしまった。
(私は……人間になってしまったのだな)
翼を捨てたこの身だけでなく、心も。
(間違ったのだろうか、私は)
「ところでマイア、その……気分は悪くないか?」
「え?」
なぜかはっきりしない言いまわしで尋ねられて、彼女の中に先刻の怒りが復活した。
「ああ、悪い。最悪だな」
八つあたりだと頭の中でははっきりわかっているのに、彼女の口からはぽんぽんときつい言葉が飛び出していく。気のおけない友人がいるから、心が緩んでいたのかもしれない。
「私にとって、とても重要なことだった。同じだと信じていた。それが現実はどうだ、あいつは覚えてもいなかったんだ。今日のことを話しても、首を傾げるばかりで……!」
「……」
「今日は、私が人となった日なのに――」
一年前の今日、彼女は翼を捨て、シーヴァスのもとへ降りたのだ。人間として彼を愛していくために。人間として愛されたかったから。
なのに、それを忘れていたとシーヴァスは言ったのだ。
「マイア」
わなわなと肩を震わせる彼女の名を呼んで、何を思ったかアレクスは彼女の腹部にそっと触れた。
「アレクス!?」
「心が乱れると、身体に障るぞ。この子にも、君にも」
「この子って……」
一瞬理解できなかった彼女だが、すぐにその白い頬に血が上った。
狼狽してなにも言えなくなる彼女に、アレクスは優しく言葉を続ける。
「君の伴侶殿は、君がいること自体が重要だから、思い出は心の中に大切にしまっていたんだろう。決して君をないがしろにしているわけじゃない。それはこの命が何よりの証拠だ」
「……本当に?」
当の彼女には、まったく実感がなかった。ひどく頼りない声が出てしまって情けなかったが、アレクスは微笑んで彼女の頭を抱き寄せた。
「受胎告知だ」
「それはガブリエル様のお役目だろう」
「そのガブリエル様が、俺たちに教えてくださったんだ。君は俺たちの大切な友人で、地上に降りて暮らす数少ない天使だから」
だから、新たな命をはぐくむことに、不安を抱かないようにと、水の大天使は彼女に近しい者に役を託したのだ。
「後悔していないか、地上に降りたことに?」
「――ああ。していない」
今なら、迷わずにそう答えることができた。
身体を離して、マイアが微笑んでいることを確認すると、アレクスは彼女と彼女たちの子のために祝福を授けた。
「幸せであるように。たとえ悲しみや苦しみに苛まれても、それを乗り越えていけるように」
飾らない、真っ直ぐな祈りの言葉が実に彼らしかった。
「ありがとう」
もう会うことはないだろう天の友人に、彼女はたくさんの思いをこめて頭を下げた。ここにはいない者たちにも、この気持ちが届くように願った。
半ば強制的にマイアに午睡を取らせ、アレクスはフォルクガング邸の屋根の上から広い通りを眺めていた。
どうしても、シーヴァス・フォルクガングを見てみたかったのだ。幼いころからともに育った姉とも妹とも思う美しい乙女が、その心を捧げたという男を。
「あれだな」
立派だが華美ではない造りの馬車が、門から入ってきた。アレクスは屋根を蹴って下降し、家の扉の前に下りた長身の青年に何の躊躇もなく声をかけた。
「シーヴァス・フォルクガングか?」
真っ直ぐな長い金の髪を首の後ろで縛り、油断のない動きで彼を見上げた青年に、アレクスは一方的に話しかける。
「あまりマイアを悲しませるな。素直じゃないところも確かにあるが、俺にとっては大切な友人だ。もし、お前のことで彼女が涙を流すようなことが一度でもあれば、俺は彼女を天界に連れていくぞ」
「なんだと?」
向けられている琥珀の瞳が、急激に険悪な光を帯びたのを確認して、銀の天使はほくそえむ。そして、さっさと移動の魔法を使ってその場から去ったのであった。
今ごろ、二人の間でどういう会話が交わされているか。アレクスは空の高みを駆け上がりながらくすくすと笑っていた。
シーヴァスに『俺たち』と言わなかったのは、単にやきもきさせたかったからだった。マイアが大切なことに変わりはないのだから、ああいえばさぞあわてるだろうという思惑があった。
「ま、大丈夫だろうけどな。あの意地っ張りのマイアが、あそこまで大切に思う奴なんだから」
後悔していないと言って微笑んだマイアは、本当に輝いていた。天使だったころよりもずっと。
「羨ましいな、ほんとに」
強気で不遜な銀の天使の口から、めずらしく転がり出た切ない言葉は、静かに空を行く風に流されていった。
1000ヒットを踏んでくださった、勇魚様のリクエストです。
マイアのお話、と言うことでしたが……アレクス、出張りすぎ(^^;)。
こんなんでよかったでしょうか……。
ネタは、私の両親の結婚記念日です。二人とも忘れてたんですよね。
世間では、おしなべて男の人が忘れてるらしいので、
マイアとシーヴァスだったらどうかな〜と。
結局ラブラブでした。