「エイン……!」
聖夜はほっと息を吐いたけれど、返ってきたエインの微笑は、ひどく弱々しかった。
「エイン、血が」
「大丈夫……これは、絵の具だから……」
傷口を探すために、身体をまさぐった聖夜をエインは止めた。そして、震える手を懸命に伸ばしてくる。聖夜はあわててその手を取って、ぎゅっと握った。
「聖夜」
今までに聞いたことがないくらいに、力のこもらない声でエインが聖夜を呼ぶ。それがとても不安で怖くて、聖夜は必死に首を横に振っていた。
予感がするのだ。今のエインと同じ状態になった者を、何人か見てきたことがあったから。彼らの末路を、知っているから。
エインはそんな彼の様子にかまわず――そんなことだって、初めてだ――もう片方の手も持ち上げた。拳の中に、何かがある。
「……本当は、自分で送るつもりだったんだけど……」
「エイン、しゃべるな」
何かを掴んだままの手で、エインは彼のそれに触れた。あわてて彼がそちらの手も支えると、微笑みに安堵の色が混ざった。
「……どうかこれを……僕の故郷の、僕の恋人に……」
故郷。隣の国。エインの生まれた場所。
「恋人……?」
「僕は、一流の画家になることが、ずっと小さい頃からの夢だった……。でも、国の中では認められなくて……それで、違う場所ならって……馬鹿だね、飛び出してきたんだ……」
呼吸が苦しげで、話すのが辛そうで。しかし他にどうすることもできず、聖夜はエインをしっかり抱き締める。
「……親はいなかった。それもあったからね……出てくることは、あのときはとても簡単に思えて……。だけど、僕は……」
「わかった。わかったから、エイン。だから……一緒に行こう」
胸が痛い。耳鳴りがする。この気持ちは、あのころの自分が常に感じていたものだ。エインに出会ったことで、知ってしまった感情だ。
「俺を一人にするな。そんなのはずるい。エインが俺を抱き上げたから、俺は……俺はもう――っ!!」
ひとりきりでは、いられなくなって、しまったのに。
「聖夜……この手紙を、僕の恋人に……イネリアに。彼女は優しい娘だから、君のことを……頼んでおいた。大丈夫だよ……」
「いらない! そんな奴、知らない!」
どんなに素晴らしい相手だろうと、エインではないのだ。それでは何の意味もない。
「俺は、エインと一緒にいたいんだ!!」
ずっと一緒に。
つまらないことで笑って、騒いで、エインは聖夜のスケッチをして、聖夜はそれに文句をつけて。
そして、聖なる夜には贈り物を。
「俺はまだ、何もあんたに、やれてないのに……!」
涙が溢れてしまう。泣いてしまったら、この不吉な予感を振り払うことはできないような気がするのに、抑えることができない。
エインは、手紙を握る手でそっと涙をぬぐってくれた。そして、何かに気づいたように、聖夜の掌の中から自分の手を引き抜いた。いっしょにぽとりと落ちたのは。
小さな、鉄色の。
「あ……」
ついさっき、ドワーフの老人に作ってもらった、護符。
エインは胸の上に落ちたそれを拾い上げ、指で表面をなぞった。
「これは……」
「エインに、やろうと思って。だって、今日は」
黒と白の花を、エインがくれた日だ。聖なる夜だ。
「……灯りを、つけてくれる?」
かすれた声で頼まれ、聖夜は彼を床に横たえてランプに火を入れ、彼のそばまで持っていった。彼はその灯りの中、じっと護符を凝視していた。
そして。
ゆっくりと閉じた彼の瞼から涙がこぼれ、唇には深い感情のこもった笑みが浮かんだ。
「そうだね……確かに、とてもこれは君にふさわしい……」
「エイン?」
「君には、もう一つの名前があったんだね……」
彼は手探りで聖夜の腕を探してつかむ。その手の中に、手紙を握り込ませる。
「……聖夜、君に会えてよかった。君は本当に……僕の幸せだった。……手紙を……」
――頼む、と。彼は言ったのだろうか。
言葉の最後はすうと呼吸の音に紛れ、
エインの、手は。
「――!?」
まるで、ただのもののように、ぱたりと。
落ちた。
叫んでいたのかもしれない。聖夜は力一杯にエインの身体を抱き締めて、腕を、手を、頬を、必死でこすった。ぬくもりが逃げていってしまうのだ。少しでもこうして、温めていれば、もしかしたら彼が戻ってくるかもしれない。
目を開けてくれるかもしれない。また、名前を呼んでくれるかもしれない。
だから、絶対に彼を放したくはなかったのに。
「ちょっと! さっきから何なんだい! うるさいよ! 家賃も用意できない上に大騒ぎするようじゃ、もうこっちだって我慢は――」
きんきんと響く、女の声が扉の外から部屋の中に飛び込んできた。
――うるさい。邪魔だ。エインが大変なのに。
振り返らずにいると、声は一瞬止まった。いなくなったのかと思ったのと同時に、声はさらに大きく煩わしいものになった。
「きゃああああああああああ!! く、黒の猫族だ! 何でお前、こんなところに!」
――うるさいうるさいうるさいうるさい!
憎悪すらこめて、聖夜は声を振り返った。視界に映ったのは太った人間の女、その顔には恐怖がある。
「な、そ、それは……血!? た、大変だ!!」
がたがたと、近くにあった家具にぶつかり倒しながら、女は外へ飛び出していく。
「誰か! 誰か来ておくれ! 血が! 黒の猫族がいるよ! 黒の猫族が、人を殺したよ!!」
仲間を呼んでいるらしい。混乱を残す頭で、聖夜はぼんやりとそう思った。皮肉なことに突然の女の乱入のせいで、少し冷静になっていた。
ここに、人間が大勢来るのだろうか。やってきた人間たちは、聖夜を取り囲んで罵声を浴びせながら、殴るのだろうか。そうなったとしても、抵抗する気は起きない。
(死ぬかな、そうしたら……)
死ぬ。
エインと同じように。
抱いている身体は冷たくて硬い。もう、どうやっても否定できない。エインは死んでしまった。
エインがいないのならば、別に死んでもかまわないと思った。もう誰も、彼を呼んでくれないのだから。
――聖なる夜、ホーリーナイト、僕の黒き幸。
彼をそう呼んでくれる優しい人の声は、笑顔は、もう永久に失われてしまったのだから。
彼はエインの顔を見下ろした。安らかで、静かだった。その頬に手を触れようとして、彼はふと、違和感を覚えた。
「……これは」
掌の中に、しわくちゃになった紙があった。エインが恋人にあてたという、手紙。
彼は、どんな気持ちでこれを書いたのだろう。
頼む、と。彼は、願ったのだ。
――この自分に。
少ししてから、ぼろ布をすっぽりかぶった小さな影が、開きっぱなしだった扉から外へはき出された。暗闇の中を選んで、影は一つの方向を目指して走っていた。
突然尋ねていった彼を、ドワーフの老人は驚きつつも何も言わずに家に入れてくれた。ついでに灯りも細くしてくれたことから、すでに噂がここまで流れてきていることが察せられた。
「で? ……何をしてほしいんだ、チビ猫?」
言い訳も説明も何もせず、彼は要求だけを告げた。
「隣の国には、<失われた文明>の言葉を使う村へは、どうやって行けばいい?」
老人は目を見開いた。
「いきなりだな」
「どうしても行かないとならないんだ。これを、届けないと……」
エインがよく使っていたぼろぼろの鞄を、彼は手で抑えた。この中には、エインに託された手紙と、彼のスケッチブックの一冊が入っている。
「あと、何でもいいし、少しでもいいから、食料を分けてくれないか?」
ドワーフの老人は大袈裟にこれ見よがしの溜息をついたが、何も言わずに奥へと引っ込んだ。
鞄の中に、食料はないのだ。人が来る前にここを出なければ。そう思って、彼は手紙と、思いついてスケッチブックも適当に一冊つかんで鞄に入れたのだ。手紙を届けるという目的が、彼に行動力と理性を取り戻させてくれた。エインの村まで、どれくらいの旅になるかわからない。そう考えて台所を探して、彼は初めて、その事実に気づいたのだ。
信じられないほど、家の中の食料は少なかった。パンは一切れ、肉はひとかけらもない。なのに、彼は飢えた思いをしたことはなかった。
それは、つまり。
(エインは馬鹿だな、ほんとに)
自分の分を削ってまで、どうして彼に食べさせてくれたのか。
また、涙がにじみそうになって、彼はあわてて目元を乱暴にこすった。
(エインは馬鹿だ)
挙げ句の果て、彼を置いて一人でいなくなってしまった。
「チビ猫」
油紙でくるんだ包みと、黒いパンの塊が不意に目の前に差し出された。
「……ありがとう」
彼は、それを鞄に入れようとしたが、スケッチブックが引っかかってうまくいかない。ドワーフの手がそれを一度外へ出した。
「こりゃ、お前か?」
うまく鞄に収まるように彼がごそごそやっていると、老人が声をかけてきた。
「見るなよ」
そこに描かれているのは、自分の姿だ。憮然と彼はそう言ったが、またしても目が熱くなっていた。
エインは、彼ばかりを描いたのだ。自分は黒の猫族で、そんな絵は不吉で売れないに決まっているといつもいつも繰り返したのに、微笑んで受け流して、彼の絵はどんどん増えていったのだ。黒ずくめのスケッチブックは、過ごした年月の間に何冊にもなってしまった。
不吉で、嫌われている、自分ばかりを描いて。
「……少し泣いていけ」
わさわさと、髪をやや乱暴になでられた。そうして彼は、ようやく自分が肩を震わせて嗚咽していることに気づいた。ある時から彼は、泣くことはしなくなっていた。泣くより先に傷つけようと思ったから。そうやって彼は孤独になって、いつしかそれを進んで求めるようになり、なのに――。
(エイン――!!)
エインの腕は温かだった。エインの微笑みは優しかった。エインと過ごす日々は、とても。
とても……幸せ、だった。
「じい、教えてくれ」
幸せを与えてくれたのは、エイン。温もりも優しさも、すべて彼がくれたものだ。
「俺は、エインの故郷に行くんだ」
エインとの約束を果たすために。
――聖なる夜、ホーリーナイト、僕の黒き幸。
優しさも温もりもすべて詰め込んで、エインが自分にくれたこの名前にかけて。
「……山越えになるぞ。冬にはかなり厳しい道のりだ」
それでも行くのか。まなざしだけの問いに、もちろん彼は――聖夜は、強くうなずいた。
ドワーフの老人は、それ以上は何も言わずに、しっかりと彼を抱き締めてくれ、ぼろぼろの布の代わりに新しいマントをくれた。
国と国との境目は、山なのだという。ドワーフの説明に寄れば、山を越えたすぐ近くに、エインの村はあるらしい。
確かに、老人の言うとおり山越えは厳しかった。道は険しく、天気は変わりやすい。茂った木々のせいで方向を見失いかけることもしばしばだった。
夜は寒く、食べ物も底をつきかけている。それでも火をおこすことはできなくて、聖夜は夜の間じっとマントにくるまってエインの名前を呼んで過ごした。
山狩りが、行われているのだ。
あの女が騒いだせいだろうか。人間たちが『人殺しの黒の猫族』を探して、聖夜が山に入るのと前後して追ってきたのだ。一度遭遇して、そのときは何とか逃げられたけれど、どんどん追いつめられている気がする。
(エイン)
寒さに震えながら、ちらつく雪を避けて木の陰にうずくまり、この夜もまた聖夜は大事な人の名前を何度も何度も繰り返した。
くじけることはできない。だって、エインは自分に願ったのだ。最後の呼吸で、それを聖夜に頼んだのだから。
――聖なる夜、ホーリーナイト、僕の黒き幸。
彼の声が、耳の奥に蘇る。彼が自分を呼んでくれた、その響きを忘れない限りは、自分は走り続けなければならない。何があっても。
「いたぞ!」
「こっちだ! くそ、手こずらせやがって!」
突然向けられる、カンテラの明かり。闇に慣れた目にはそれは痛いほどで、咄嗟に動くことができなかった。
ごつ、と、こめかみから鈍い音が聞こえた。次いで、熱い感触。石を投げられたのだ。思う間もなく、二つ目の石が今しも人間の手から投じられようとしている。
聖夜は低い姿勢のまま前方に跳んだ。鞄を両手に抱え、マントの前を押さえて、そのまま走った。フードが脱げて顔が露わになって、耳が瞬時に温度を失って切れそうに痛み出した。
「逃がすな! 国を越えさせるな!」
「悪魔の使いめ! 隣の国でも悪事をしでかすつもりか!」
悪魔、というのがどんなものなのか。いつかエインが教えてくれた。すべての、『悪』とされる物事を表す存在なのだという。
『だけど、君がそんなものと一緒に呼ばれるなんて、そんな馬鹿なことはないよ』
エインは、言いながら聖夜の頭をなでてくれていた。
『君は僕の黒き幸。君が悪魔の使いなら、僕がこんなに幸せなはずはないもの』
ホーリーナイト――聖なる夜と、呼んでくれた。
優しさも温もりも、すべて詰め込んで、呼んでくれた。
エインは。
(エイン、エイン)
彼の願いを。
ずっとずっと忌み嫌われていた自分に、エインがくれたすべてのものに対して、自分は何一つ返すことはできなかった。
それを償うためには、走るしかないのだ。
今は、ただそのことだけが、自分という者の意味なのだ。
それから何度も何度も、追っ手に見つかった。彼はそれでも走って走って、時にはしかたなく彼らに攻撃することもあったが、聖夜はすすんで相手を傷つけようとはしなかった。そんなことをしたら、エインが悲しむ。そう思った。
エインは、優しい人だった。聖夜を守ってくれた。聖夜がパンを盗んだときも、聖夜の代わりに謝って、殴られて。
(……エイン)
地面は、とても冷たかった。朦朧とする意識の中で、聖夜はただ、その名前だけを繰り返し思っていた。脇腹から血が流れている。止まらない。寒い。
「これでもう、逃げられないだろう」
そんな声が、上から降ってきた。
痛みも感じない。なのに、周囲の人間たちの話し声は、どういうわけか頭の中に流れてきた。さっきまで彼を殴り、傷つけていたせいか、どこか彼らは興奮しているようだった。
「このまま死なせちゃ、やばくないか?」
「何、死体だけでも充分だって話だぜ。よかったな、国境直前で捕まえられて」
国境。国と国との境目。――あと、少しだったのに。
もう少しで、エインの国だ。ほっとした矢先に大勢の人間たちに取り囲まれたのだった。黒の猫族の力までも使ったのに、人数が多すぎて結局地面に倒されて、それから――わけがわからなくなるくらい、全身が絶え間なく痛みに襲われた。それすら麻痺して、もう動くことなどできなくなった。
(エイン……)
エインの願いを。
叶えることが。
できなかった……。
(だけど)
死んだら、楽になれる。エインがいない、その苦しみ悲しみつらさにも、もう耐えなくていい。本当は、走っているのもずっとずっと苦痛だったのだ。彼の頼みを叶えたかったけれど、彼がいない事実は変わらないのだから。
「よし、連れて行こうぜ。お前運べよ」
「な、いやだよ! 黒の猫族だぜ、触ったら呪いがかかるかも」
話し声がうるさい。もう休みたいのに。眠りたい、エインの夢を見て。
「俺がこの鞄運ぶからさ。ほら、さっさと戻ろうぜ。早く温かいベッドで眠りたいぜ」
「ったく、調子いいな」
身体が持ち上げられた。本当にうっとうしい。おかげで、また目が醒めてしまった。
(エイン……)
夢だっていいから、会いたいのに。また抱き締めてほしいのに。また、名前を。
名前を。
(な、まえ)
残った力すべてを使って、彼は瞼を持ち上げた。ぼんやりする視界の中、揺れているものがあった。懸命に焦点を合わせようとするうち、それが何かわかった。
(あの、中には)
「なんだこれ、きったねぇ鞄だな。何入ってるんだ……?」
無遠慮な声がそう言い、無造作な手が鞄の中に入ろうとする。その瞬間、聖夜は大きく目を見開いていた。
「なっ!?」
「何だ!? こいつ、まだこんな力が!?」
「狼狽えるな。抑えろ! だいぶ弱ってることに変わりはない!」
聖夜は、手を伸ばしていた。鞄を取り返し、彼は全力で駆けだした。身体が軽い。まだ猫族の力を使えたことに少し驚いていたが、彼はとにかく走ることだけに集中した。
身体が白金に輝いているせいで、視界がやや明るくなった。鞄をしっかり抱き締めて、彼はひたすら前を目指した。この先に、エインの手紙を届けるべき相手がいるのだ。
「国境を出るぞ! その前に殺せ!」
後ろから、叫び声が聞こえる。やはり満身創痍の状態では、いつもよりも早くは走れなかったらしい。
(でも)
走れる限りは、走らなければ。これは、約束なのだから。
――聖なる夜、ホーリーナイト、僕の黒き幸。
そう呼んでくれた人の、最後の願いなのだから。
「――っ!?」
何かに足を取られて、彼は地面に投げ出された。一度倒れてしまうと、起きあがるための力は全身に散らばってしまい、また集め直すのに大変な精神力を必要とした。
背後から、たくさんの足音と怒鳴り声がする。このままでは、追いつかれてしまう。
(くそ)
こんなところで。ここまできたのに。
(負けて……たまるか)
足を引きずって、彼は身体を起こした。震える腕が平衡を失いそうになるが、そのまま彼は這いずって全身を続けた。
光が弱い。身体が重い。もう、力が限界なのだろう。
このまま動き続けていれば、死ぬかもしれない。
けれど、自分の死と引き替えに、力が手にはいるのならば。
エインのたった一つの願いを叶えるための、力が得られるのならば。
(俺は)
――聖なる夜、ホーリーナイト、僕の黒き幸。
「エイン――――――!!」
目の前が真っ白になって。
そこで、聖夜の意識は途切れた。
冷たい、と感じたのだ。
突然やってきた感覚をそんな名前で感知したとき、聖夜は目を開けるということを思い出した。
明るい。開いた目をまたすぐに細めて、彼は喉の奥でうめいた。同時に、身体全体が痛くてたまらなくなったのだ。
「よかった、目が醒めたのね。私の話していること、わかる?」
若い女の声のようだった。まだ、焦点を定めることすら億劫だったが、彼は声の主を捜そうとした。
「こっちよ、こっちを見て」
促され、のろのろと顔を動かす。視界の中に、ゆっくりと人の姿が現れてくる。徐々にものもはっきり見えるようになってきた。
「言葉は通じるみたいね。それに動くこともできるし、目も見える。もう安心だわ」
柔らかな印象の女が、そう言って微笑んでいた。淡い金の髪に、緑の瞳。知らない顔だ。
「……誰だ……?」
「あら、ずいぶんね。あなた自分で私を訪ねてきたくせに」
訪ねた。そんな覚えはない。そもそも、自分はどうしてここにいるのだろう?
「っ!?」
考えて、聖夜は急いで身体を起こし、すぐにうめいて横に倒れた。
「あらあら。だめよ動いたら。ずいぶん弱っているし、怪我だってひどいんだから。いろいろ知りたいことがあるのはわかるけどね。少しずつ、私が教えてあげるから」
女は元のように聖夜を寝かせて、そっと髪をなでてくれた。その手を振り払いたかったが、そんな些細な動作すら今の彼には大変な労力を必要とした。
こんな風に自分をなでていいのは、エインだけなのに。
「……俺は」
こんなところで、寝てはいられない。彼に頼まれたことを、果たさなければ。
「手紙を」
届けなければ。彼の恋人に。
女は、やはり微笑んでいたが、その一つの言葉を聖夜が零した瞬間、さらにその笑みが深まった。
「本当にあの人は、なんて事をするのかしらね。こんな小さな子に、こんな冬の最中に山一つ越えさせるなんて。それも私のためだなんて、呆れてしまう」
声の親しげな調子に、まず不信感を覚えた。次にやってきたのは、まさかという思い。
「まさか、あんた」
彼女の答えが真実なのか、確かめる術はない。けれど聖夜は訊かずにはいられなかった。
「あんたが、エインの恋人なのか?」
女から返ってきたのは、肯定のうなずき。
「私はイネリア。エインの手紙は、三日前に確かに受け取ったわ」
三日。瞬時には信じられないその時間に、愕然とする。自分はそんなに長い間眠っていたというのか。
「俺、ほんとにあんたに手紙を渡せたのか? 記憶がないんだ。山道で、殺されそうになって……」
「そんなことがあったの? それで、村に大勢人がやってきていたのね。『黒髪の、耳の尖った男の子供が来なかったか』って聞かれたわ」
「……あんた、それで?」
恐る恐るの問いかけに、イネリアは首をすくめた。
「そのとき『いる』って答えていたら、あなたは今ここにはいないわ」
知らないうちに力が入ってしまっていた身体の強張りをとくと、イネリアは再び髪をなでてきた。不思議なことに、さっきよりはいやではない。だが、疑問はある。
「どうして、俺を奴らに渡さなかった?」
「引き渡してほしかったの? そんなことしたら、あなた死んでしまっていたわ」
――エインがいないのだから、どうでもいい。
思ったことは言葉にはしなかったけれど、彼女には伝わっていたようだ。
「あなたを死なせるようなことはしないわよ。エインの手紙には、あなたを頼むと書いてあったし、何よりあなたは彼の手紙を届けてくれた恩人だわ。……それに、私は見たもの」
「何を?」
「あなたが月のように輝いて、空から舞い降りてくる姿を」
輝いて。それは、記憶が途切れてからのことだろうか。無意識のうちに、力を使っていたのだろうか。地面に倒れたときにはすでに力はつきかけていたのだから、そのせいで三日も眠り続けることになってしまったのだろう。
「あなた、私達の村のことは知っている? 古い古い世界の風習が、今もここには少し残っているの。あなたの名前になった言葉もそうだし、あのときのあなたの姿は、まさに名前と一緒だって思ったわ」
名前。どうしてこの一言で、こうも泣きたくなるのだろう。
――聖なる夜、ホーリーナイト、僕の黒き幸。
「あら」
イネリアは呟き、彼に覆い被さって頭を抱き締めてくれた。
「あなた、ずいぶん泣き虫さんね。でもありがとう、エインのために泣いてくれて。そこまでエインを愛してくれて」
彼女の声は、歌のようだ。その手は温かくて、優しかった。
聖夜は泣きながらエインの名前を呼び続け、そしてそのまま再び眠りに落ちた。
怪我が治るまで、イネリアは彼女の家を出ることを聖夜に許してはくれなかった。近くまでの散歩が許されたのもつい五日前のこと、それも彼女と一緒でという条件付きだった。そんなことをしなくても、聖夜はどこかへ行くつもりはなかった。どこへ行っても一緒なら、まだエインを知る彼女のそばにいたかった。エインを、忘れたくなかったから。彼を知らない者ばかりのところにいたら、きっといつか自分は彼を忘れてしまうかもしれないと、それがとても怖かった。
だがある日、ほとんどいつも家にいるイネリアが、七日間も家を空けた。きっと戻るから、と黒いドレスを纏った彼女は聖夜の髪をなで、約束してはくれたけれど、聖夜はその間ずっと不安で心細かった。自分が、ここまで一人きりという状況を恐れているのだと、思い知らされた。
七日目の朝、彼女が戻ってきたときは、だから気が抜けてへたり込んでしまったくらいだった。出ていったときと同じ黒のドレスの彼女は、黙って彼を抱き締めてくれた。
「ねえ、聖夜」
そのまま彼女は、彼を呼んだ。
「一緒に、ちょっとついてきてほしいの」
「散歩か?」
彼女のほうから、散歩に連れ出してくれることは何度かあったから聖夜はそう尋ねたのだが、彼女の様子がそのときとは少し違うことにも気づいていた。
彼女はやはり口をきかず、立ち上がり彼の手を引いて歩き出した。彼もまた、何を訊くこともせずに彼女に従った。
村の入り口というところで、イネリアは足を止めた。何があるのだろう、そう思っていると、外から馬車が一台村に向かってくるところだった。ただの馬車ではなく、何もかもが真っ黒だった。
「イネリア」
「……彼が。エインが、帰ってきたのよ」
短い言葉は、たくさんの想いを語っていた。聖夜はイネリアの手を強く強く握りしめた。彼女は痛いとも言わず、ただ馬車を待っていた。涙すら、零さずに。
どうして彼女は、泣かないのだろう。星矢はふと思った。自分は、エインが死んでから泣いてばかりだ。悲しいから、辛いから。彼女はエインの恋人なのだから、それは同じではずではないか。
けれどやはり、見上げた先のイネリアの緑の瞳は、乾いたままだった。動きもしなかった。
(なんで)
悲しくないのだろうか。苦しくも、辛くもないのだろうか。
その間に、黒い馬車は村へ入ってきて、彼女と聖夜の前で止まった。
「ありがとう。もう少し先まで、お願いできますか?」
彼女の声も、やはり静かだった。
「私の家まで運んで、棺を庭に埋めてください」
雪をかぶって真っ白だった庭は、土を掘り返されて今は墓になっている。小さな墓石には、聖夜が世界で最も大切に想う人の名前が刻まれている。
――エイン・ティルナノグ。
聖夜はこのときになって初めて、彼のすべての名前を知った。
「……ティルナノグ。<常若の国>という意味なのよ。そうね、神様の国かしら」
墓ができてからずっと動かず座っている聖夜の後ろから、イネリアが近づいてきた。彼のそばで立ち止まり、彼女は言葉を続けた。
「いつもいつも、夢を見ていた人だった。優しいけれど、頑固だった。村を出て行くと言い出したときは驚いたけれど、私は彼のそんなところをとっくに知っていたから、止めることはできなかった」
声が、乾いている。とても。それが我慢できなくて、聖夜は大きな動作で振り返った。自分を見返してくる彼女の穏やかな緑のまなざしとぶつかって、思わず彼は声を荒げていた。
「あんたは、悲しくないのか!?」
その勢いで立ち上がり、まくし立てる。
「エインが死んだのに! あんたは恋人なんだろう? エインを大事に想ってたんじゃないのか!? どうして……どうしてあんたは、」
苦しい息の下で、エインは彼女を呼んでいたのに。
「どうして……あんたはそんなに平気そうなんだ……」
言葉は力を失って、聖夜がうなだれるのと一緒に地に落ちていった。彼の頭を、イネリアは抱き締めてくれたが、彼は首を振ってその腕から抜け出した。
「……平気ではない、とは思うわ」
ややしばらくして、ぽつりとイネリアが言った。
「自分でも、よくわからないのよ。だって私が会いに行ったときには、彼はもう――」
あの街の聖堂の片隅、身寄りのないものが葬られる場所に、本当に申し訳程度に彼は埋葬されていたのだと、彼女は語った。
事情を説明して、彼を村に連れ帰りたいと、彼女は頼んだのだという。いささか迷惑そうにしていたものの、聖堂の関係者たちは墓地を掘り返し、棺を引き上げてくれた。馬車も用意してくれて、彼女はそれに彼と一緒に乗り込んで、村まで帰ってきたのだという。途中道がぬかるんでいて、彼女は聖夜を呼びに来るためもあって、一足先に自分の足で家に戻ってきたらしい。
「悲しいのだと思うの。苦しいのだとも、思うの。だけどね、私はもう……」
彼女は、ゆるゆると微笑を作った。とてもとても優しげなのに、儚げな。
「きっと、どちらの感情にもあまりにも慣れすぎてしまったのだと思うの」
イネリアは、両手を持ち上げてそこにじっと視線を注いだ。
「彼が出ていってしまったとき、私は止めることができなかった。毎日泣いて泣いて、涙が出なくなってしまったあとは何も感じなくなったわ。毎日が嘘のようなの。何が起きても、私は何を思うこともなかった。彼がいない、彼がいない。そればかりが頭の中で繰り返されるの。彼が私の名前を呼んでくれない、そのことが――そのことが、とてもとても苦しいのよ」
聖夜は、はっと息を呑んだ。そして手を伸ばして、彼女を抱き締めていた。彼女はとても温かかった。
そして、細やかで、頼りなかった。
「エインの声でもう一度、私の名前を呼んでほしかった。それだけを願って、私は今まで死なずにいたの。なのに……あの人は……とうとう、本当に私を置いて行ってしまった」
彼女の声は淡々としていた。どんな感情も見出せなかった。けれど彼女は、ひょっとすると自分よりも深く深く悲しんでいるのだと、今の聖夜には感じられた。
「イネリア」
彼女の背中をなでて、彼はきつく目をつぶる。
「ごめん、イネリア」
自分だけが悲しいのだと、自分だけが彼を想っているのだと、誤解していた。
ここにも一人、同じ心の傷を負った人がいたというのに。
「ねえ聖夜、教えて?」
聖夜を抱き締め返して、彼女はかすれた声で訊いてきた。
「エインは逝ってしまう前に、私の名前を、呼んでくれた?」
聖夜は、どうしようもなく辛いあの瞬間のことを、思い出していた。エインは弱く微笑みながら、手紙を聖夜に差し出した。
今しも消えそうな声で、彼に願い事をした。
「うん」
彼は確かに言っていた。
「呼んでいた。イネリアの名前」
僕の恋人に……イネリアに。
聖夜は、ちゃんとそれを覚えていた。
抱き締めるイネリアの身体が、大きく震えた。泣き出すのかと思ったが、彼女はしばらくしたあとに身体を離した。
そして、微笑む。今までと同じく優しいのに、今までと何かが違う笑顔だった。
「ありがとう、聖夜」
その笑みのまま、彼女は聖夜の両頬を手で包み込んだ。
「私に、彼の手紙を届けてくれて。彼の言葉を、運んできてくれて」
彼の額に、彼女は唇で触れた。
「私もね、彼からあなたに預かっているものがあるのよ」
彼女は、目を瞠る聖夜の前に、懐から何かを取り出して見せた。冷たさそのもののようなそれに、彼は見覚えがあった。
「これは……俺がエインに……」
エインに贈ろうとして、叶わなかった、あの護符だった。
「エインが、しっかりと握っていたそうよ。棺に入れるときに手を組み合わせるのだけれど、そのときに手を開かせたら、これが出てきたって。……やっぱり、あなただったのね」
ドワーフの老人が気を利かせて、名前を彫ってくれたのだった。
エインへ、ホーリーナイトより。そう刻んでくれた。なのに、自分は結局彼のために何一つできなかった。
「俺はぜんぜん、エインのくれた名前の通りになれなかった」
幸せ、にも。聖なる夜にも。
「エインに、何もできなかった……」
エインは自分に、言葉で言い尽くせないとてもとても大きなものを、与え続けてくれたのに。
「泣いては駄目よ?」
イネリアは、もう一度彼の額に唇を触れさせた。何の意味のある仕草かはわからなかったけれど、それは彼に安堵感をくれた。
「この護符を彫った人は、私達の使う言葉を知っていたのね。でも……間違えただけなのかしら? それとも、わざとこうしてくれたのかしらね?」
彼女は護符を掌に載せ、文字を指でそっとなぞった。
「これは、『エインへ』と書いてあるわね。そして、これは」
彼の名前である部分に、彼女の指が移動する。
「『ホーリーナイト』、確かにそう書いてはあるけれど。聖夜、『聖なる夜』というのは、言葉が二つ組み合わさってできているの。『聖なる』は、『ホーリー』、『夜』は『ナイト』。だけど『ナイト』という音の言葉が、実はもう一つあるのよ」
たった一つの文字が加わっただけで、その意味が変わるのだと彼女は説明した。
「ほら、わかる? この文字よ」
彼女の爪が、そこを示した。『K』という形のそれを。
「この文字がある『ナイト』という言葉は、『騎士』という意味なのよ」
「『騎士』……?」
「自分のすべてを賭けて、誰かを、何かを守り抜く勇敢な者。とても気高く優しく、強い存在のことよ」
記憶の扉が、突然開いた。この護符を愛しげになでながら、エインは涙をこぼしていた。
『そうだね……確かに、とてもこれは君にふさわしい……』
『君には、もう一つの名前があったんだね……』
ふさわしい、本当に、そう思ってくれたのだろうか? 自分のことを、『騎士』というもののようだと。
『……聖夜、君に会えてよかった。君は本当に……僕の幸せだった』
――聖なる夜、ホーリーナイト、僕の黒き幸。
はらはらと、聖夜の頬を涙がこぼれ落ちた。だが胸は痛くなく、静かな気持ちが全身にしみていくようだった。
むしろ、これは歓びに近いかもしれない。聖夜がこの世で最も慕った青年はもうどこにもいないけれど、彼は聖夜に永遠に消えることのないものを残してくれていたのだ。
それが今強く強く感じられて、確かに聖夜はとても嬉しいのだ。
「エインは、ただ身体が弱って死んでしまったの」
聖夜が泣きやむのを待って、イネリアは言った。
「だから、もうあなたを追ってくる人はいないわ。隣の国では生きるのは辛いかもしれないけれど、この国では多分、あなたを傷つける人は少ないと思う」
彼女の言わんとするところが読めなくて、聖夜は首をかしげる。
「つまりね。あなたが望むなら、どこへ行ってもいいのよ、ってことよ」
目を丸くしていると、彼女が手を伸ばしてきた。聖夜の掌に、護符を落とし込む。
「彼が描いた、あなたの絵を見たわ」
たくさんのスケッチブックと、その他にイーゼルの上には、描きかけの油絵があったのだと彼女は語った。
「彼らしい、いい絵だと思った。暖かい色と、何より彼がとてもあなたを愛していたことが、一目でわかる。伝わってくる」
聖夜は、ゆっくりとイネリアの言葉を噛みしめた。目を閉じて、しばらくしてからそっと瞼を上げる。イネリアの緑の双眸と、彼は向き合った。
「――どうしたいのか、俺にもまだよくわからない」
ただ、確かなことが一つだけある。
「どこへ行っても、何をしても、俺には……俺には、消えないものがあるんだ」
胸の中にそれがあり続ける限り、きっと何があっても自分は負けはしない。
聖夜は、空を見上げた。冬の空はぬれたように鮮やかで、遠い。
その空へ、黒猫の少年は晴れやかな笑顔を向けた。
ラストは、原曲と少し変わってしまいました。
いろいろ無駄に設定をつけたせいで、別な話も
一本書けそうな勢いになってますが……
歌の二次創作は初めての経験だったので、
すごく勉強になりました。企画に参加させて
いただいて、ありがとうございました。