「素敵なおチビさん」

 出会い頭にそんな風に呼ばれては、彼は思いきり顔をしかめるしかなかった。馬鹿にされているとしか思えない。何という言いぐさだろう、何が『素敵なおチビさん』だ。確かに、彼は小柄で身体も細いが、こんな呼び方をされる筋合いはない。

「ああ、気を悪くしたかな。ごめんね、でも僕は君の名前を知らないものだから」

 相手の青年は微笑んで、中断していた動作を再開した。彼の右足の怪我に、ハンカチの包帯を巻いているのだ。とても酔狂としか思えない。あるいは、彼のことを知らないよそ者というだけなのか。

 微かに表通りから差し込む灯りの下で、変わった青年は黙々と彼を手当てしている。彼が見分けることのできる人間の年齢は、子供と大人というくらいの区別だったが、青年がまだとても若いというくらいは見て取れた。茶色の髪に、瞳も同じ色だろうか。

「あんた、よそ者だろう?」

 口をきく気になったのは、なぜだったのだろう。自分の素性を告げることで、この青年を追い払いたかったのかもしれない。

「うん、そうだよ。この街には、二月前にきたばかりだ」

「二月」

 二月も、この街にいて気づかなかったとでも言うのだろうか。彼は毎日街の至る所で、住人たちとつまらない小競り合いを繰り返しているのに。

「俺のことを、知らないわけじゃないんだろう?」

 試しに尋ねてみると。

「うん、知ってる。君は『黒の猫族』というんだってね」

「そこまで知っていて」

 唇が歪む。頬にある三日前の傷が少し引きつれた。

 この街には、人間以外の異種族もすんでいる。小人、妖精、ドワーフ、そんな個体数の多い種族から、少数のものもだ。しかしその中にあっても、彼だけは例外だった。彼は黒の猫族、尖った耳と長い尾、俊敏な動きを得意とするために小柄な者が多いのが種族の特徴だが、他にも、彼らには特別な能力があった。それを人間たちは、あやかしの悪い力を行使するとして、彼らを不吉と忌み嫌う。両親はいない。物心ついてから彼はずっと一人だった。

 彼を見かけると、街の者達は必ず騒ぐ。罵声を浴びせられ、石を投げられるのはもうずっと昔から彼にとっての日常になっていた。もちろん、自分を守る方法も――それはほとんどいつも攻撃だったのだけれど――彼はちゃんと身に着けていた。

 だが、街のすべての者を相手にしていては、怪我もやはり覚悟しなければならない当たり前のことで。

 今日も、彼は石を投げられた。大半は避けたし、投げてきた者にはしっかりそれなりの報復もしたのだが、その石のうち一つが、彼の足を傷つけた。その足を庇い、街の中にいくつも用意している隠れ家の一つに身を潜めようとしてここまで走ってきて、細い路地裏で少し休んでいたところで、彼はこの変わり者と遭遇してしまったのだった。

「なぜあんたは、手当なんかする?」

「え?」

 彼にとっては、本当に当たり前の疑問からの問いだったのだが、尋ねた次の瞬間、彼は目を丸く見開いた。そんな表情をすると、まだ若いであろう彼はもっと幼く見えた。

「だって、怪我をしているんだから、手当てしないと」

「……はぁ?」

 彼も、青年も、このとき思ったことはまったく同じだったのかもしれない。『何を当たり前のことを』。声の中に読みとれる感情は、どちらもそんな色を帯びていた。

 だが彼にとっては、青年の言ったことはたちの悪い冗談にしか聞こえなかった。

「何言ってんだ、あんた。俺は黒の猫族だぞ?」

「うん」

「じゃあこっちはどうだ? 黒の猫族は不思議な力を持っていて、周囲に災いをもたらす。街の奴ら、あんたに話さなかったのか?」

「いや、それも聞いたよ」

 今度こそ。

 彼は言葉を失った。そして、断定する。

 ――こいつは、馬鹿だ。

「いつっ!?」

 彼の爪に鋭く引っかかれ、青年は、小さく悲鳴を上げた。その隙に彼は素早く立ち上がって、走り出す。

「じゃあな、お気楽な馬鹿野郎!」

 黒の猫族は、とても身軽だ。家や塀くらいは易々と飛び越えることができる。

 屋根の上を、彼は走った。ここなら街の人間たちもそう簡単に彼に何をすることもできない。ただ、目立ってしまうのが問題だ。実際下の方で叫び声が続けざまに上がっている。頃合いを見て屋根から降りて、闇に紛れつつ隠れ家へ向かわなければならない。

 彼はさらに少し走ってから、灯りのない路地の中へふわりと降りたった。適当に短く切った黒髪の先が、さらりとゆれた。

 髪もやや切れ長の瞳も、そして長い鍵尾もすべてが黒い。纏う服も意図的に黒を選んでいた。この方が闇に紛れることができて、生きていくのに都合がよかったからだ。

 しかし、今は。

「ん?」

 右足に、浮かび上がるような異質の色を見つけて、彼は視線を落とし――眉根を寄せた。

 白いハンカチ。あの風変わりなよそ者が、勝手にまいたもの。

 彼の怪我を、手当するためにと。

「……ばかばかしい」

 黒の猫族である自分のことを、あれだけ詳しく知っていて。

こんなことをしたのはきっと、自分がどれだけ優しく善良な人間であるのかと、自分に酔うために決まっている。街中から忌み嫌われる黒の猫族を、憐れむことで。

 ――ばかばかしい。こんなものはいらない。

「……」

 そう、思うのに。

 彼は結局ハンカチには手を触れずに歩き出した。




 鍵尾を水平にして、わざと見せびらかすようにするのは、喧嘩を売りたい気分の時だ。街にいるすべての者は、彼の敵。石を投げて暴力を振るう。ただ黙ってやられるのは我慢できないから、彼は時折こうして自ら敵を挑発する。

「あ! 黒猫だ!」

 妙な青年との出会いから、数日後の昼間のことだった。

彼がそうやって鍵尾の存在を強調しつつ大通りを歩いていると、舌っ足らずな甲高い声が、一番最初に彼の誘いに乗ってきた。人間の子供だ。彼は、にやりとする。たいした力もないくせに、大喜びで石を投げてくる子供を逆に攻撃するのが、彼は大好きだ。

「黒い猫は死ねー!」

「あっち行けー!」

 思った通り、二人の子供の手から石が飛んでくる。直接的に、殴りかかってくるのではなくて。

(臆病者が)

 飛んできた石の一つを、彼は難なく交わして、足下に落ちたそれを拾い上げて、投げ返した。

 ごつ、と、石は子供の一人の額に当たり、子供は一瞬何が起きたのかわからなかったのか瞬きを繰り返していたが、

「う、うわあぁぁぁぁぁん!!」

 大きな声で泣き出した。

「なんだ!」

「またあいつか! あの汚らわしい黒猫!!」

「やっちまえ!!」

 周囲の人間たちが、子供の泣き声にいっせいにこちらに注目し、そしてばらばらと手近にあった武器になるものを取り、彼を取り囲んだ。

 子供など、取るに足らない。本番はこれからだ。ここにいる人間の大人たちを殴って、傷つけて、できれば……殺してやる。

 彼は、己の内に意識を集中した。

「な、こいつまた!」

「変な力を使うぞ! その前に捕まえろ!」

 黒の猫族は、不思議の力を生まれつき備えている。思い一つで、自分の肉体を強化することができるのだ。そのとき彼の姿は白金に輝く。

 一人が、おたけびをあげてつっこんできた。彼は鋭く笑んで振り下ろされた棒をかわし、代わりに容赦のない強さでよろめいた男の背中と腹に同時にひじとひざを叩き込んだ。ぐぼうともぐげえもつかないうめき声が聞こえ、それは彼を心底喜ばせた。

「こいつ!!」

「気をつけろ! 何人かでいっぺんにかかれ!」

 それからは、混乱と罵声と、痛みと愉悦と。

 彼はたくさんの人間を傷つけ、地に倒したが、それ以上に何倍も血を流した。白金色の力が満ちている間は痛みも疲れも感じないが、力はいつか消えてしまう。再び使えるようになるまで少しの時間を要するのだ。程なくして彼は、元の真っ黒な姿に戻ってしまっていた。

 それでも、彼は手足を動かすのをやめなかった。人間の血を流させることを、やめようとは思わなかった。

 腕を引かれたときも、だから彼はすぐに攻撃しようとしたのだ。

「待って! 落ち着いて!」

 わけのわからない言葉が聞こえる。焦ったような、途方に暮れたような。

 どこかで、聞いたことがあるような。

「……な!?」

 そこで彼は、ようやく我に返った。周りには誰もいなくて、彼はどこかの道を走っていた。しかも自分の足でではなく、抱きかかえられて、だ。

「大丈夫? こんなに怪我して、急いでちゃんと手当てしないと」

 茶色の髪。明るい中で見ると、なんてそれは柔らかい。

 また、『手当』なんて言葉を口にする。このわけのわからない青年は。

「あんた、馬鹿だろ?」

 自分を抱いて走る青年の、頬や額には小さな切り傷がたくさんあって、髪の毛だってぼさぼさだ。どうして青年がこんな姿になっているのか、自分のこの状況から容易に想像できてしまう。

「何で、俺にかまうんだ?」

 怪我をしてまで、自分を助けるなんて。

 身体中が痛い。それに、何か違和感がある。怪我は絶えたことがないが、こんな感覚は初めてだ。彼のすべてを、そのおかしな感覚が包んでいる。

「変な奴だって、思われてるのかもしれないけどね」

 それは今更だ。そう返すのも、億劫になってしまうような気持ちだった。

「僕と君は、似てると思ったんだ」

 だから放っておけなくて。

 青年は笑ったようだったが、彼にはもうそれすら曖昧だった。

 慣れないその感覚の中で、彼は意識を失った。



 目が覚めると、どこかの天井が見えて、背中は柔らかい何かに触れていた。

「よかった、気がついたね。何か食べられる?」

 話しかけられて、彼は顔をそちらへ向けようとして、同時にずきりと首が痛んで彼はうめき声を懸命にこらえた。

「安心して、ここは僕の家だよ。怪我はひどかったけど……でも、できるだけのことはしたから」

 茶色の髪の青年が、彼を見下ろして言う。自分が柔らかいものの上に横になっているのがわかって、少し彼は狼狽した。いつも彼は冷たい地面か硬い石の上に寝ていたから、こんな感触は落ち着かない。

「そういえば、名前も聞いていないね。僕はエイン。君は?」

 名前。思い出そうとして、彼はその努力を放棄した。本当に小さな頃は、何か特別な音で呼ばれていた気がするのだけれど、もうそれもすっかり忘れてしまった。

「……覚えていない」

 ぽつりとつぶやく。彼にとっては、それはもう当たり前のことだったのに、エインのほうが辛そうに顔を歪めたので驚いた。

「どうしたんだ?」

「だって……」

 エインはそこで唐突に言葉を切って、口を閉じた。何を言おうとしたのか知らないが、それが同情に満ちたものであることは彼にもわかった。

(同情なんかいらない)

 誰かの自己満足のために、利用されるなんてまっぴらだ。今こうして生きているのは、彼が望んだことなのだ。

 痛む身体にいらつきながらも、彼はゆっくりと身体を半分起こした。止めようとするエインの腕は、乱暴に振り払う。

「俺にかまってると、ろくな事にならないぞ。実際殴られただろう? 黒の猫族は災いを呼ぶ、まさにその通りじゃないか」

「だけど」

 彼はエインを無視して、今度は足に力を入れようとする。打撲だろうか、鈍い痛みが走ったが、我慢できないほどではない。一番近い隠れ家まで気をつけて移動していけば、きっと見つからずに行けるはずだ。

「!?」

 そう考えていた矢先に、不意に彼はまたあの奇妙な感覚に包まれた。

「まだ動いちゃ駄目だよ。君は僕よりずっと怪我をしたんだし、それにまだ外では街の人が君を捜してる」

 背中が、腕が、髪が、頬が。身体のすべてが、包まれているのだ、エインに。

「動けるようになるまで、ここにいるといいよ。君がよければ、ずっと一緒に暮らしてくれると嬉しい。僕も、ひとりぼっちだから」

 ひとりぼっち。

 なぜだろう、そのたった一つの言葉が、ひどく彼の心を騒がせた。

 痛くて冷たくて、苦しい。心が締めつけられるようで、彼はぐっと拳を握った。

「ふざけるな」

 そして、拳をほどくやいなや、自分を抱き締めるエインの腕に、強く爪を立てた。衣服が傷を付けることは防いだけれど、痛みと何より驚きにエインは腕をほどき、彼はすぐさま駆けだした。

 扉を開けて、ひやりとした夜の空気をかぐ。ここはどうやらアパートのようだ。下に続く階段と、屋根。今は、屋根を走ることはできない。

 音を立てないように注意しても、怪我がそれを不可能にした。鉄の階段をできる限り急いで降りて、彼は走った。

 逃げなければ。そんな気がしていた。何から、そんなことはわからない。ただ怖かった。あの得体の知れない感覚、エインが自分に与えたあの感覚が、どうしてか怖かった。人間たちと殴り合うときには一度も、恐怖など感じたことはないのに。

 怖くて、走って。怖くて怖くて、必死に走ったつもりだった。

「待って!」

 なのにエインはたやすく追いついてきて、彼の手を掴んだのだ。その拍子に、膝ががくりと崩れた。怪我をしていて、もともと限界だったのだ。

「大丈夫? しっかりして。やっぱり、しばらくは僕の部屋にいたほうがいいよ」

 エインは、ひょいと彼を抱き上げる。ぞくりと鳥肌が立って……彼はようやく、自分が寒かったのだと自覚した。

 そして、同時に。

(ああ……)

 エインから感じるのが、寒さと正反対のもの――温かさ、なのだと知った。

 思えば、初めて会ったときと今の状況は、何と似ていることか。あのときも程度の差はあっても自分は怪我をしていて、エインが手当をしてくれて、なのに自分は、彼に爪を立てて逃げ出した。

 違うのはつかまってしまったことと、他ならぬ彼自身が、それを望んだことだ。

 寒くて痛くて、そんな状態がこんなにも苦しいことだと、わかってしまった。エインのぬくもりのせいで、優しさのせいで、気づいてしまった。

「あんたは、最悪だ……」

 自分などにかまって、そして。

 もう自分は、一人きりではいられなくなってしまったではないか。

「一緒に暮らすなら、名前があったほうがいいよね」

 しっかりと彼を抱いて階段を上りつつ、エインは優しく言った。

「そうだね……。『黒き幸』というのはどうかな?」

 幸せ。

 それがどんなものか、彼は知らなかったけれど、ひどく優しい響きだと思った。

「僕は隣の国からきた。僕達の言葉では、それをこう言うんだよ」

 エインは部屋の扉を開けて中に入り、元のように彼を寝かせながら、それを紡いだ。

 彼の新しい名前を、呼んでくれた。

「君は今日から、『ホーリーナイト』だ。聖なる夜、というもう一つの意味もあるんだよ」

 忌み嫌われてきた過去が、周囲を憎み厭ってきたこれまでの自分が、エインのくれたたった一つの特別な言葉で、すべて洗い流されていくようだった。

「これからよろしくね、聖夜」

 うなずくのを躊躇っているうち、聖夜の目から涙が静かにこぼれ落ちた。




 怪我が治るのは早かったけれど、聖夜はそれからずっとエインの部屋にいた。エインは絵描きを目指していると言って、毎日ほとんどの時間を部屋の中で絵を描いて過ごしていた。君には三つも名前があるね、そういって微笑んで、絵筆を走らせる合間に何度も何度も、すべての名前で聖夜を呼んだ。

 『ホーリーナイト』は、彼の故郷に伝わる古い古い言葉。『黒き幸』は、この国の言葉。それら二つを内包する、『聖夜』という名前は、呼ばれるたびにくすぐったくも暖かい気持ちを聖夜にもたらしてくれた。口に出しては言わないし、態度にも出すことはしなかったけれど、聖夜はエインの声で紡がれる、自分の名前が好きだった。

 半年が過ぎても、聖夜はエインと一緒にいた。エインは何も言わずに彼を受け入れてくれて、聖夜もそのうち新しい暮らしの中に、自分のすべてを解放することができた。

 エインはときどき、街に絵を売りに行く。あまり金が手に入らないことは、聖夜にも見て取れた。聖夜に見えないところで――彼は知っていたが――溜息をついて暗く沈んでいるエインを見かねて、彼は一度街のパン屋からパンを盗んできたことがあったが、それは逆にエインを悲しませることになっただけだった。

『人からものを盗んじゃ駄目だよ。盗まれた人はとても怒るし、悲しい。それに僕だって。君が僕のためにしてくれたのならなおさらだよ。君が街の人に怒られる原因が、僕にあるってことなんだから。僕は……君に、こんな事をさせてしまうなんて……』

 そのパンは結局エインが店に返しに行き、家に戻ってきたときには、彼の頬は赤く晴れていた。自分がしたことを、そしてエインの言葉と気持ちを、聖夜はそのとき理解したのだった。

 だからそれ以来、聖夜はあまり外に出ていない。窓から街の風景を眺めるだけだった。そして、そんな彼の姿をエインはいつもスケッチブックに映していた。

「俺の絵なんか描いたって、売れないだろ?」

 冬が近くなったある日、聖夜はエインに言ってみた。

「俺は不吉なんだから。もっと売れそうなもの描けよ」

「そうだね。でもね、僕は別に売るために君を描いてるわけじゃないから」

 エインは、笑ってそう答えた。その間に、また一枚聖夜の絵が増えた。



「聖夜!」

 雪が降り始めた夜、遅くなってから帰ってきたエインは、ドアを閉めるなり大声で聖夜を呼んだ。いつもの彼らしくなくて、驚いて出迎えた聖夜の目の前に。

「メリークリスマス!」

 そんな言葉と一緒に、真っ白な花束が差し出された。

「……なんだ、これ……?」

「僕の国でも、僕の故郷の村でだけなんだけど、今日はお祝いをする日なんだ。みんなで友達や家族や恋人に贈り物をするんだよ。だからこれ、はい」

 茫然と受け取った白い小さな花は、不思議なことに葉は緑ではなく黒だった。闇夜に浮かぶ、月を思い出させるような花だった。

「『メリークリスマス』って言葉の意味も、どうして今日がお祝いなのかも、もう誰も知らないけれどね。でも僕は、毎年今日がとても楽しみだったよ」

 <失われた文明>だ。唐突に、聖夜はそんなことを思い出した。人間よりは彼に危害を加えない異種族の、ドワーフの老人が話してくれたことだった。

 聖夜も、エインも、そのドワーフも生まれるずっとずっと前には、世界はもっと別の形をしていたのだという。それが滅んで、今のようになった。そして前の世界にはドワーフたちも存在していなかったが、世界が一度滅んだあとに現れた、人間ではない種族たちを、人間たちはその世界にあった神話をもとに名づけたのだという。その世界にあったものを受け継いでいる場所や者達がいて、そういうものを<失われた文明>と呼ぶのだという。エインの村というのも、その一つなのだ。

「祝いなら、俺じゃなくて恋人にでもやればいいだろう」

 とてもとても嬉しかったけれど、聖夜はわざとぶっきらぼうにつぶやいた。生まれて初めての贈り物だった。彼に与えられていたのはいつも、罵声や暴力だったから。

「恋人か……」

 その一言を口にしたとき、エインの顔が一瞬だけ翳った。けれどすぐに、彼はいつものように微笑んだ。

「君にあげたかったんだよ。君は僕の友達だもの」

 ――友達。

 不思議な響きの言葉。『幸せ』とはまた違った、優しい感じがする。

「今日のこの夜を、『聖夜』というんだよ」

 エインは、腕を回して彼を抱擁して、ささやいた。

「聖なる夜、ホーリーナイト。僕の黒き幸。君に祝福を」

 泣き出しそうになって、あわてて彼はそれをこらえなければならなかった。

 嬉しくて、胸が苦しくて。どうしていいかわからなかった。こんな気持ちを『幸せ』と呼ぶのだと知らないままに、彼はエインを――友達を、抱き締め返した。

 その背中があまりに細く弱々しいことにも、彼は気づくことができなかった。




 冬は春の前に姿を消し、春は力を増して夏になり、それが衰えると秋へと変わった。その移り変わりの間も、聖夜はずっとエインと一緒だった。話をして、笑って、ときどき聖夜がエインに我が儘を言って彼を困らせたりして、そしてエインは聖夜の絵を描き続けた。スケッチブックは、いつの間にか二冊三冊と増えていったが、その白い紙の上に姿を留め置かれるのは、聖夜だけの特権だった。

「また俺だ」

 エインの後ろからスケッチブックを覗き込んで、聖夜は笑った。

「間抜けな顔だな」

 彼が今眺めていたのは、眠っているときの聖夜の姿だった。日当たりのいい床にうずくまって、聖夜はよく昼寝をする。いかにも気持ちよさげで、無防備な表情が気恥ずかしかった。

「そんなことないよ。とても可愛いよ」

 彼は言って腕を伸ばし、スケッチブックを取り上げようとする聖夜からその絵を遠く引き離した。

「僕は君を描くのが好きだもの。君は面白いから、描いていて楽しい」

「……それ、誉めてるのかけなしてるのか、どっちだ?」

 どうやってもスケッチブックを取ることはできず、あきらめて聖夜はエインの背中に寄りかかった。重いよ、と言われても聞こえないふりをする。

「けなしてるわけないじゃないか。本当に僕は、君を描いているとき幸せなんだよ」

 エインが空いている方の腕をずらして、聖夜の黒髪をさらさらとなでてくれる。筆を操り、自在に世界を創り出すその手は、何をするにもとても繊細で、聖夜が好きなものの一つだ。

「君のしっぽはとてもよく動くし、他の動作の一つ一つも、予想がつかなくて。つい、じっと見てしまうんだ」

 エインは、膝に戻したスケッチブックの新しいページをぱらりとめくった。どこかに視線を向けている、自分の姿が現れる。

 自分は、エインにはこんな風に見えているのか。聖夜は不思議な気持ちになった。

 やや切れ長の瞳、癖のない黒い髪はエインと出会ったときよりも少し伸びて、肩に掛かりそうになっている。頬はふわりとした曲線で描かれて、先の尖った耳がその先にある。気が強そうだけれど、鋭さや激しさという印象はどこにもない。

「これ、俺じゃない」

「君だよ」

「違う」

「違わないよ」

 エインはそっと、指で絵をなぞった。大切そうに。

「君はずいぶん変わったよ、聖夜。本当に、黒き幸そのものみたいだ」

 聖夜は、目をすがめた。ずっとエインと過ごしてきたから、もう彼は知っている。今、エインの言葉の中にあるのは『優しさ』というものだと。

 それもまた、彼の好きなものだ。




 一年前、黒と白の花を彼は聖夜にくれた。その夜がまたやってきた。それがとても嬉しかったことを忘れられなかったから、聖夜は自分も彼のために何か贈り物をしようと思った。最近、彼がこっそりと溜息をつく姿を見る。大柄で怖い女がいつもやってきて彼を怒鳴りつけ、彼はそのたび深く頭を下げているのだ。彼を元気づける何かがほしかった。

 久しぶりに街に出て、大きな布で姿を隠して尾を隠して、慎重に彼は贈り物にふさわしい何かを探した。ものを手に入れるには金がいる。そんなもの、当然聖夜は持っていない。今までは盗むことでほしいものを得ていたけれど、もうそんなことはできない。だから、金がなくても手に入るものを聖夜は捜した。

 そうなると、人間は当てにできない。彼は、異種族達がよく集まる界隈に足を伸ばした。

 エルフ、ドワーフ、コボルト、ゴブリン。そんな種族たちを追い越し、すれ違い、彼は真っ直ぐある場所を目指した。

「じい」

 傾きかけた、古い古い小さな家。いや、ほとんど家とは呼べない。今目の前で壊れてもおかしくない、そんな暗い家の中でとんかんちんかんと金属同士が打ち合う音がする。声をかけると、一時それが止んだ。

「じい、頼みがある」

「……久しぶりに顔出したと思ったら、挨拶もなしか。チビ猫が」

 無愛想なしわがれた声には答えず、聖夜はすたすたと中へ入っていった。暗がりも、黒の猫族の彼には気にならない。彼には相手の姿がはっきり見える。彼よりさらに小さくずんぐりとした、岩のような体つきの者。ドワーフだ。

「失敗作でいいから、細工を分けてほしいんだ」

「は。失礼な上にぶしつけだな、チビ猫」

 ドワーフの老人は、毒づきながらも彼の<失敗作>の山をあさる聖夜を止めることはせず、また自分の仕事に戻った。彼は手先が器用だ。彼の語る昔話によると、前の世界ではドワーフという種族は何かを作ることを得意とし、岩のようにごつごつと小柄な体つきをしているといわれていて、だから彼らの種族はそう呼ばれるようになったのだという。

「……ほんとに失敗作だな」

 ぽいぽいと、山の中のものを見ては放り投げていく彼に、さすがに背後から「片づけろよ」と声がかけられたが、それも無視した。今はそれどころではない。

 ドワーフの老人が作るのは、金属の細工物。指輪や、首飾りの頭の部分、腕輪、そんなものだ。エインには何が似合うだろう。何を贈るのがいいだろう。考えながら、彼は次々と冷たい手触りの金属をどけていく。

「これは……?」

 ふと手に触れたのは、何の変哲もない平たい鉄の板だった。だが、その中央に不思議なものが彫られている。

「じい、これは?」

「うん? ああ、そりゃ俺達の護符だ。久しぶりに作ったもんだから、うまくいかんかった」

 彼は言うが、聖夜はそれをためつすがめつ眺めた。そこに彫刻された、翼の生えた丸い印象の何かが、妙に気に入った。

「そりゃ、翼猫だ」

「翼猫?」

 自分の種族名と関係があるのだろうか、首をかしげると、老人は続けた。

「この街……この国じゃ、猫は特に嫌われておるからな。わしらにとっちゃ、翼猫は種族の守り神だが、人間には悪の使者らしい。だからだろうな、お前さんが奴らに憎まれるのも」

 そんな話は初耳だ。聖夜を気にして、今まで老人は話さずにいてくれたのだろうか。聖夜もまた、自分が人間たちから嫌われる理由など、考えもしなかったが。暴力を振るわれるから、その何倍も攻撃を返す。その次は、自分から人間たちを傷つける。その繰り返しが当たり前になっていた。

「なあ、じい」

 それが、当たり前でなくなったのは。聖夜は護符をきゅっと握りしめた。

「これ、くれないか? これがほしい」

「む? そりゃまあ、ほしけりゃもってけばいいけどな」

「この国じゃないところでは、猫は悪い奴じゃないんだろう?」

 エインは、隣の国から来たと言っていた。だったら、彼は気にしない。それになにより、黒の猫族の自分を、友達と呼んでくれた彼なのだから。

「名前も彫れるか? ここに、『エイン』って彫ってほしいんだ」

 護符の上の部分を示すと、老人は鼻を鳴らした。

「人の名前か? 大事な娘でも見つけたか」

「そうじゃない。いいから彫れよ」

 老人の近くの地面に座って膝を抱え、彼はもう一言付け足した。

「友達、なんだ」

 再び、老人が鼻を鳴らす。

「ほー。そりゃまたえらい変化があったもんだ」

「俺に名前をくれたんだ」

 とんかんちんかん、鳴り始めていた音が止んだ。

「俺のことを、『聖なる夜』って……『黒き幸』って、呼んでくれるんだ」

「……聖なる夜?」

「エインの国の言葉では『ホーリーナイト』って言うらしい」

 反応がなくて、不思議に思って聖夜が顔を上げると、老人が何やらいかめしい顔をさらに険しくしていた。

「じい?」

「そりゃ、<失われた文明>だな」

「そうみたいだな」

 老人はもう少しの間考えているようなそぶりをしていたが、やがて作業を再開した。

 とんかんちんかん。絶え間ない音を聞きながら、聖夜は待っていた。エインを守ってくれる『猫』を。

 自分は本当に何もできなくて、エインのそばにいるだけで、けれど自分の代わりに自分と同じ『猫』が、彼を守ってくれればと思うのだ。いつだってそばにいたい、それに今は駄目でも、いつかは自分にもできることが見つかるかもしれない。

 エインの故郷へ行ってもいい。どこか違う場所でも、自分という存在を受け入れてくれる違うところへ行くことができれば、それも可能かもしれない。

「できたぞ、チビ猫」

 一見無造作に、でもちゃんと聖夜が受け止められるように、老人は護符を投げてくる。掌で受けて、聖夜はじっと護符を見た。

 聖夜は文字が読めない。首をかしげていると、老人がそばまでやってきた。大儀そうに身体を揺すりつつ、護符の上にある文字を指さす。

「これが『エインへ』だ。そしてこっちは」

 続いて、護符の下にある文字を。

「『ホーリーナイトより』そう読む」

 ――エインへ。ホーリーナイトより。

 はっと顔を上げる聖夜に、老人は厚い唇のはしを歪めてみせる。これは、彼独特の笑いの表情だ。

「わしはちょっと学があってな。<失われた文明>の、そのエインとやらが使う言葉は知っとるんだ。昔隣の国にいたときに、少し見たことがあって、覚えた」

「じい……」

 何を言えばいいのか、言葉を必死で捜す聖夜の肩を、老人は乱暴に叩いた。

「用が済んだらさっさと行け。まだまだ仕事がたまってるんだ」

 聖夜が痛みをこらえている間に、老人はまた元のように、金属細工を始めてしまう。聖夜はしばらくそこに留まっていたが、立ち上がって入ってきた出入り口まで歩いていった。

「じい」

 出ていく寸前、彼は顔だけで振り返る。

「ありがとう」

 言うやいなや、彼は走り出した。ずっと握っていた護符は、温かくなりつつある。

 早くこれを、エインに見せたい。彼は驚くだろうか。そして、喜んでくれるだろうか。

 逸る気持ちをそのままに、でも周囲への警戒は怠らず、聖夜は家まで走った。空は赤くなっている。もうすぐ夜が来る。聖なる夜が。

「エイン!」

 ドアを開けるのと一緒に、聖夜は叫んだ。かぶっていた布を取るのももどかしく、エインの名前を連呼しながら、部屋の奥へと進んでいって。

「――!?」

 それを目にした途端、彼は立ちつくした。

 薄暗い部屋の中、しんと冷たい空気の中、信じられない光景がそこにあった。

「エイン……エイン!?」

 闇の中でも、彼には見える。彼の最も大切な人が、床に倒れ伏しているのが。

 その床が、真紅に染まっている様が。











BUMP OF CHICKENというバンドの「K」という

曲を元に、二次創作をしようという企画に参加させていただいて

書いたものです。歌自体が物語なので、かなり設定を

変な感じにしてしまいました。歌を知っている方も知らない方も

楽しんでいただければ嬉しいです。しかしすでに原型がない……。




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