8.

 

 

 

 夜の森は、人の子にとっては脅威であろう。

夜という時間そのものが、人には恐怖なのだという。マリスニールには、夜はただ優しい存在だ。そして人が夜を恐れながらも、その腕(かいな)に慰めを得ることも彼女はまた熟知していた。

 森の中を、彼女は歩く。静寂に眠る木々の間に見え隠れする麗しい乙女の姿をもしも目にする者があれば、幻想に惑ったかもしれない。しかし彼女はただひたすらに、明確な意思を持って孤独な道をある場所を目指して進んでいた。

 迷うことはなかった。しばらく足が遠のいていたとはいえ、近しい者達を偲ぶために何度も何度も訪れたのだから。愛しい友人達が、眠る場所なのだから。

「……」

 闇の中の墓所は、ひっそりとしていて物悲しい。その扉に、彼女は躊躇いなく腕を伸ばして押し開けた。鈍く重い音が森に響き、風に運ばれるうちに静かに消えていく。

 最近外気を入れたことがあったからか、以前ほど暗い匂いは気にならなかった。無音の空間は、扉を元のように閉ざしてしまえば完全に黒一色となった。夜目のきくマリスニールでも、自らを構成する元素の力を借りなければ目指すものを見定められない。

「……カイ」

 小さな炎を中空において、ゆっくりと頭をめぐらせた彼女は、ある一点に目を留めて懐かしげにつぶやいた。死者の家の最も奥まったところに横たわる、最も古い人骨の傍に彼女は近づいた。

「カイ……」

 その名前以外は、しばらく唇から出てこようとしなかった。

「ねえ、カイ。私、わからないことがあるの」

 カイ・メルス・ドルゴールであった人骨の横たわる台座の下に座って、やがて彼女は少しずつ語り始めた。

「私はあなたたちを愛しいと思うわ。私の力の及ぶ限り―いいえ、たとえ及ばなくてもあなたから連なるあの子達を守りたいと思う。でもね、その中の一人が、それではいやだと言うの。私を『愛して』いると言うの。私が彼に、彼らに向ける気持ちとはどう違うのかしら? 考えても考えてもわからなくて、私は彼から逃げていた。わからないから……恐かったの」

 彼女の声だけが、空気に混ざって溶けていく。それがなぜだか安らかで心地よかった。安らかさに身を委ねて、彼女は目を閉じる。そうすると、ここに眠る者たちの気配が感じられるような気がした。二度と見(まみ)えることのないはずの彼らが、自分を囲んでいるように思えた。

「もう、前からこうすることは考えていたの。決めたのは、カティスとヴィンスの言葉を聞いたからよ。私は結局、答えを見つけないままで逃げることになるけれど……。そう、いつかは、いつかは彼の抱いた感情を知りたいわ。そんな日がきたら、私は戸惑うかもしれないし、胸がつぶれるほどに苦しむかもしれない。もしそうだとしても……きっと耐えられる。『愛する』ことは素晴らしいと言う人がいるから、信じようと思うの。信じたいの。そして……誰かから生まれた『愛する』気持ちがカティスの心を……癒してくれるって……」

 まどろみの中で、すさまじい風の唸りが起こったようだったが、彼女がそれを確かめることはできなかった。

 

 

 少女の腕に、力がこもった。青年は無言で抱擁を返し、少女が再び口を開くのを待った。

「―私も悪いのよね。結局私も、ただ見ているだけだった……」

 すべてを余さず見つめてきた少女は、しかし涙を流すことはなかった。その潔さを、青年は好もしいと思う反面、哀れと感じた。

 

 

 森を揺るがすほどの風をどうにか乗り切ったヴィンスは、傍らの妹を振り返って驚愕した。奔放で大らかで、強い精神力を持つ彼女が、頬を濡らしていた。

「リーンファ?」

「……っ!」

 唇を強くかんで、彼女はヴィンスにすがって嗚咽を漏らす。震える肩がとても頼りなく見えて、彼は幼いころよくそうしていたように彼女の髪をなでてやった。

「いったいどうしたんだい、リン? 風の音が恐かったわけでもないんだろう?」

「そんな……ことっ」

「落ちついたら、わけを話してくれるね?」

 彼の言葉に彼女はこくこくと小刻みに首を振ったが、それよりも早く彼はすべてを知ることになった。

「……リーンファ、ヴィンス」

 先程よりも小さな空気の流れが、兄妹の前で唐突に止まった。次いで現れた黄色の髪の少女は、ヴィンスにとっても馴染み深い相手だ。

「フィーニア。しばらくだったね。リーンファの傍にいないから喧嘩でもしたのかと……」

「今はそんなことどうでもいいわ」

 にべもなく言い捨て、少女はヴィンスの腕を強く引いた。

「早くついてきて! リーンファも、泣いてる場合じゃないのよ!」

 風の少女の剣幕はただごとではなく、二人は顔を見合わせつつ彼女の導くままに森を走った。

 終着点は、森に守られし墓所。彼らは色あせて時を留めたその場所で唯一輝くものを見出し、愕然とした。

 ぬけるような、鮮やかな青。

「……マリスニール……っ!」

 リーンファが再び泣き出す。ヴィンスはおぼつかない足取りで、膝を抱いてうずくまる乙女に近づいた。

 乙女は、眠っていた。あどけなく、愛らしい寝顔だった。ヴィンスはしばらくその表情を見つめていたが、やがておもむろに妹に呼びかけた。

「カティス様に、来ていただこう。君はここにいて」

 返事を待たずにヴィンスは外へ通じる階段を昇りかけたが、リーンファがそれを止めた。

「待って。フィーニアに送ってもらった方が早いわ。フィーニア、お願いね」

「……うん」

 フィーニアは物言いたげに視線をさまよわせていたが、契約者の願いを断ることはしなかった。ヴィンスとともに一度墓所を出て、風をぶ。

「つかまっててね」

「わかった」

 疾風に乗って、精霊の少女と青年は夜空の中を飛んだ。星ばかりが白く冷たく、月はない。双方無言のままで、気持ちばかりが焦っていた。

(……カティス様は、どんな反応をなさるだろうか)

 先刻会話をしたばかりの少年は、声を限りに泣き叫ぶのだろうか。それとも、悲しみが他のあらゆる感情を食いつぶしてしまうのだろうか。

「着いたわよ」

 抑揚を欠いたフィーニアの声が、彼の黙考を中断した。そこは、宴の催されている広間に面した庭で、テラスから中に入っていけるようになっていた。

「ありがとう。ちょっと待ってて」

 自分の頼みを聞き届けてくれるか確証はなかったが、ともかくそう言い置いてヴィンスはこっそりとテラスから広間に上がり、庭で休憩してきたというふうを装ってカティスの姿を探した。

 彼は、例の階段近くの壁によりかかっていた。その視線がどこにも向けられていないことは、一目瞭然だった。ヴィンスは不自然にならない程度の速さで彼の元へ急いだ。

「―彼女は?」

 勢い込んで訊かれると疑わなかったその質問は、ヴィンスが一瞬詰まってしまうほど静かに、カティスの口からこぼれ出た。

「……来ていただいたほうがよろしいでしょう。こちらへ」

 目立たないようにこっそりと、カティスを伴ってヴィンスは庭に戻った。フィーニアは、ちゃんとそこで待っていてくれた。

「二人一緒に運べるかい?」

「ちょっと……自信ないな」

「では、カティス様。僕はここを引き受けますから」

 カティスは小さくうなずき、フィーニアに手を差し出す。自分と同様、風に包まれて天へ昇っていく人影が見えなくなるまで、ヴィンスはそこに佇んでいた。

 

 夜が明ける前に、カティスは宮殿に戻ってきた。彼を待っていたヴィンスは、何も訊かずに整えておいた寝所に彼を案内し、自分に割り当てられている部屋で仮眠を取った。彼があの場所で何を思ったのか、妹と何かを話したのかは、時がくれば知ることもできると考えていた。

 カティスに遅れること三刻(約三十分)で、リーンファが宮殿にやってきた。一睡もしなかったのかそれとも他の理由なのか、目が赤かった。

「リン」

「兄さん」

 彼女はかすれた声で、出迎えたヴィンスに言った。

「ごめん。今は自分でも混乱してるの。あとできっと事情は説明するから……」

「ああ、いいよ。まず眠っておいで」

 リーンファをそのままジョシュアが用意していた部屋に送って、ヴィンスは帰宅した。

 くつろいだ服に着替えた彼は、まず茶を淹れることにした。たとえ一瞬でも、頭を切り替えるためにはうってつけの行為なのだ。

 よい香りを楽しみながら、彼はゆっくりとポットの茶を飲み干した。朝の女神は徐々に柔らかい衣を脱ぎ捨てようとしていた。

(僕に視えた≠フは、いつのリーンファなんだろうな)

 幻視が現実となる時が近づいていることだけは、彼にもわかっていたのだけれど。

 

 その時≠、彼は妹とともに迎えた。神々の介入があったかのように、リーンファとカティスはほぼ同時にヴィンスの家へやって来たのだ。あの夜から、すでに三月が経とうとしている、雪解けの始まりつつある日のことだった。

 カティスが、最初の語り部となった。

「……正直なところ、まだ信じられません。あの日からずっと、何をしても現実味がないんです」

 淡い緑の目は伏せられていて、彼が心の中に抱えるものまでは見て取れない。ただ、口調は寸分の揺らぎもなく、しっかりしていた。

「何を現実と思えばいいのか、まだ定めることすらできません。自分のすべきことをすら、見失いそうにもなります。彼女がひょっとしたら目を覚ましたかもしれないと思って、あそこまで行ってみることもあるんです」

 リーンファが身体を震わせるのを、ヴィンスは目の端でとらえていたが、黙っていた。ここで遮ってしまって、カティスが二度と話すことができなくなることを危惧したのだ。とはいえ、口をつぐんでしまった相手の言葉を待っている間は重苦しく、耐えがたかった。

「……ヴィンス殿」

 名前を呼ばれ、ヴィンスは戸惑いながらも答える。カティスの視線はまだ下を向いている。

「あなたがあのとき言ってくれたことが、こんなに重いものになるなんて予想もしなかった。『大切に思う相手のために、人は最善を模索する』、あなたはそう言いましたよね」

 責められるのかと、ヴィンスは心持ち身構えた。少年の声音は平坦で、感情が読み取れないのだ。もちろん、責められたとしても甘んじて受けとめる覚悟はしていた。

 またしばらく、誰も音を発しなかった。カティスは言葉を選んでいるのかうつむいたままで、リーンファは兄と少年に背を向けていた。そしてヴィンスは、あくまでも聞き手に徹するつもりでいた。

「―僕は」

 ゆるゆると、少年は顔を上げる。閉じていた瞼の奥の宝石が、露になる。

「僕は、あなたに感謝しています」

 ヴィンスを映す木漏れ日の双眸に、曇りはなかった。真っ直ぐ彼に向けられている面には、微笑みすら浮かんでいた。

「僕は彼女に自分の気持ちを押しつけるだけだったのに、おびえさせてしまったのに、彼女は僕に最善の道を示してくれた。僕の望む形ではなかったけれど、彼女は僕を愛してくれた。……そう思えるんです。ヴィンス殿、あなたの言葉は、今の僕にとってとても大切なものです」

 ―想いに言葉という形を持たせたことで、カティスは安堵できたようだった。静謐そのもののような笑顔を身につけてしまった少年が去ると、ヴィンスは背を向けたままの妹を後ろから抱きしめた。

「昔に戻ったみたいだね。泣き虫のリン?」

「ほっといてよ……」

 涙の伝う顔を覆うこともせず、声も出さずに彼女は泣いていた。その涙の理由が悲しみだけではないことに、ヴィンスは気がついていた。

 

 

 夜は優しく、残酷。

 カティスは窓から月のない空を眺め、ゆっくりと瞬きした。

「僕は……僕だって……」

 つう、と細い流れが少年の頬を伝って、落ちた。ヴィンスにはああ言ったが、そして彼自身そう思えるようになってきているのも事実だが、完全に悲しい現実を受け入れられたわけではない。

 精霊は、たとえば動物が冬眠するように、長い時間眠り続けることができる。マリスニールの”眠り”は、まさにそれだとリーンファは泣きながら説明してくれた。

(いつか、僕の子孫が君を目覚めさせるように)

 自分の勝手な気持ちのせいで、眠ることを選択した清い乙女を、今度は心からの幸福で満たせる日がくるように。彼は祈り、それを現実にするため何ができるかを考える。

「僕は、ドルゴールを守ってみせるから。君がまた目覚める日が穏やかであるように、僕は精一杯のことをするから。必ず……」

 それは贖罪かもしれない。けれど、この先彼にできるただひとつの愛し方でもあった。

 

 

 黄色の髪の少女―フィーニアは、物語を終えると途端に黙りこんでしまった。聞き役の青年も、やはり口を開くことなく彼女に硝子のコップを差し出した。よく冷えた水の中に、氷がひとつ浮かんでいる。

「ありがとう、聞いてくれて」

 フィーニアはそっとささやくように言う。そして、窓の外の月を見上げた。

「ねえ、シアン。リーンファね、死んでしまうときにこんなふうに言っていたの」

「何て?」

 月から移したフィーニアの視線の先には、黒い髪と薄い水色の目をした青年が穏やかに微笑んでいる。傍系の子孫とはいえ、かつての契約者であった女の色を、そっくり受け継いだ子供だと、見るたびに彼女は懐かしく思わずにいられない。

「『私は、どうすればよかったのかしら』って。……私、ずっと考えてる。マリスニールとカティスのこと、本当にあれでよかったのかしら? カティスはいい王になって、ドルゴールをとても豊かにしたわ。『家族』とも仲がよかったけど、本当にあの子は幸せだったのかしらって」

 シアンは、ただ静かに首を横に振る。

「僕にも、それはわからないよ。答えられるのはただ二人だし、仮に尋ねた人がいてもきっとどちらも口をつぐんだんじゃないかな」

「どう、して?」

「形は少し違うけど、その人達の『愛し方』だからだよ」

「……」

「フィーニア。リーンファさんは事件のあとどんなふうになったの?」

 釈然としないまま再び沈黙していた少女の頭を、シアンは軽くなでてきた。人間の子供のような扱いは好きではなかったけれど、それをするのが彼の手ならば、振り払う気にはならなかった。

「そうね。視えた≠烽フのことを話さなくなったわ。視え≠ネくなったわけじゃないと思うんだけど、それがずっと不思議なの」

「そう」

「でも、私はリーンファが未来のことで苦しそうにするのがいやだったから、ほっとしてた」

 リーンファが予言者であることを厭いだしたのは、弟を亡くしたときからだった。彼女は、弟の最期をあらかじめ知っていたのだと、ずっとあとになってからフィーニアに語っていた。それから未来を視る≠スびに、ひどく悲しげにしていた彼女が、あのときを堺に変わった。自分の力≠、受け入れたのだろうか。フィーニアにも、とうとうそれはわからず終いだった。

「僕達は神々ではないから、無力だよ。変えられないことはとても多いんだ」

 柔らかく優しく、シアンの声が薄闇に溶ける。

「でも、無力だからといってあきらめてしまうのは悔しいから、僕達のような存在があるのかも知れない。だから、少なくとも僕はあがくことをやめないよ。それが僕の意味だと信じているから―」

「シアン……」

「リーンファさんの問いの答えも、きっと出る日が来る。時は川のように流れているんだから、いつかきっとそんな日を迎えられる。僕は信じるよ、フィーニア」

 眠る精霊は、どんな夢をみているのだろうか。彼女を守り隠すこのドルゴールという国は、これからもこの夜のように静かで深いのだろうか。

「そうね……私も、信じて待つ。私の友達が、目覚めるのを」

 風の少女は、胸を去来する様々な思いを感じ、目を閉じた。

 

 

 


完結です。長い間

おつきあいいただきありがとうござ

いました。何度か書き直したり

したのに、まだまだ未熟で

口惜しいですが、この作品が

とても好きな気持ちは変わりません。

ねがわくば、誰かが私と

同じようにこの物語を

好きになってくれますように。

 

 

 

HOME   BACK