少年は、その日から精霊の乙女に会うことのないよう努めた。めったになかったが、佳人の軽やかな足音を聞けば今来た道をまた戻り、その玲瓏とした声の響きが耳朶を打てばすべての音を自分から遠ざけ、彼女の麗姿が目に入れば光が届かぬ場所を求めてその場から逃げ出した。
ゆくゆくは大陸をまとめる定めを持つ少年のこれら一連の行動を、宮殿に出入りする人々は単純によいものと解釈した。彼らはみな、少年の抱く幼いがゆえに見境のない恋を、国を傾ける兆しだと憂いていたのである。
青き炎の佳人も安寧の回帰を信じたのか、宮殿の至るところで寛ぐ様子が多く見られるようになった。不思議の乙女を目にした者は、誰しも自らの僥倖を神々に感謝した。
けれども真実は、物事の外側にいる者には、決してつかめぬようになっている。
シャンデリア、香水、談笑、宝石、色彩の円舞―。
世の中の幼く愛らしい乙女達の、描いた夢のとおりの舞踏会が、今宵現実のものとなった。未だ恋を知らぬ姫君たちはこの夜を指折り数えて待ちわび、貴公子たちのささやきに幻惑され甘美な陶酔に浸っていたが、そんな姫君たちの親は娘にふさわしい相手を求めて、影で様々な駆け引きに熱心だ。この夜では、その『相手』とはカティスのことであり、万が一娘がカティスの目にかなわなかった場合のことも抜け目なく考えている者もいた。何しろ、着飾った娘をお披露目する絶好の場である舞踏会が開かれたのは、久方ぶりなのである。親たちのそんな気配は数人の姫君たちにも伝わっていて、宴が華やかなぶんだけ、その裏にある欲望という影もまた色濃くなっていくのだった。
幸運なことに、そのような暗い部分とはまったく無縁の場所で、純粋に宴を楽しめる立場にあるリーンファは舞踏会が始まってからずっと壁の花に徹していた。
「踊らないの?」
飲み物を取りにいっていた兄ヴィンスが、両手に軽い果実酒を持って戻ってきた。彼もラルジェア一族の例に漏れず黒い髪の持ち主だが、瞳の色は鳶の羽根のそれだ。そのためではないだろうが、一族の中で最も奇抜な思考を持ち、昔から伝えられてきた薬の知識にまったく見向きもせず、好きなことばかりしてきた。一族の老人たちからは眉をひそめて見られるこの兄とリーンファは、九人いる兄弟姉妹の中で年が近いせいもあってか、子供のころから仲がいい。
「踊ってもしかたないでしょ? 私たちの招待自体、形式みたいなものなんだからね。この舞踏会の目的が何か、兄さんだって知ってるんでしょ?」
一見穏やかな印象を人に与えるヴィンスは、何の含みもない笑顔で「まさか」と言う。
「僕は政治とかよくわからないもの。やんごとなき方々が娘と将来の王との婚姻で権力手に入れようと画策しているとか、そのためにどことどこの家が手を組んでいるとか、どことどこの派閥が特に火花散らしてるとか、そういう生臭くてどろどろした関係図にはぜんぜん興味もないしね」
「………」
この兄は、昔からこうなのだ。第一印象のおっとりのんびりさに、騙されない者はそうはいなかった。彼自身そういうところをよく心得ていて、これを利用して領主ジョシュア二世の元でとある仕事についている。
「それより、兄さん。カティス様は?」
ヴィンスはマリスニールとカティスのことを知っている。そもそも彼にすべてを相談するために、リーンファがジョシュアに頼んで、辺境にいた彼を呼び出してもらったのだ。ジョシュアも父として、統治者として二人のことを憂いていただけに、帰還命令の発布は非常に迅速だった。彼は黄金の月の中ごろに妹と久しぶりの再会を果たしたのだ。
「バルコニーにいらっしゃるよ。ひどく塞いでおられる」
「……やっぱり」
心配が的中して、リーンファは首を横にふった。
ここ数ヶ月の出来事は少年を急成長させたようだが、それでもまだ彼は少年だ。恋という感情を初めて知って、戸惑いの方が大きいだろう彼に、自らの立場と心の妥協点を見極めろと言う方が無理な注文だ。
「……兄さん。私たちの力って、何のためにあるのかしら」
「うん?」
彼にすべてを話してから少し気が楽になったリーンファだったが、問題は何も解決していない。彼女はすがるようなまなざしを兄に向けた。
「変えられない未来をただ視る≠セけの力なんて、必要ない。一族の他の人のことは知らないけれど、私はこの力をずっと疎ましく思っている」
兄に弱音をこぼしたのは、初めてのことだった。この虚飾の入り混じる広間の雰囲気に酔ったのだと,リーンファは思うことにした。
「みんな流れていくだけなのに。大きな川に小石を放り投げるのと同じで、流れを変えることもできないのに、どうして私たちは川の流れの先を見ることができるの? マリスニールもカティス様も、苦しむことがわかっているのに私には何一つできないなんて……!」
もっと昔にも、彼女には変えてしまいたかった未来≠ェあった。変えられると信じていた。信じたかった。それなのに先を見る目を持ちながら、川下で待ち構え準備をすることもできていながら、結局時の川面に浮かんだ葉の船を、掬いあげることはできなかった。
手にした硝子の器の中に映る自分を、やるせない思いで睨みつける彼女の肩を、ヴィンスの手は気軽に叩いただけだった。
「僕たちは視る≠アとだけしか許されていない。さらに未来を変える力まで持っていたら、『神』になってしまうじゃないか。それは思いあがりだよリーンファ」
「……そう、かもしれないけど……でも私は」
「でもね、こう考えたらどうだい?」
ヴィンスの声はどこまでも明るくて気楽な響きで耳に届いたけれど、彼女は言葉の中の真摯さを見失わなうことなく受けとめた。
「たとえ小さな石を投げこんだだけでも、水飛沫は上がるだろう? だって川も水なんだからさ。完全に流れを変えることはできなくても、何らかの影響は出るはずだよ」
彼が言い終るか終わらないかのうちに、広間はどよめきに包まれた。人々は踊るのをやめ、楽団すらもいっとき演奏を忘れた。それを咎める声もない。
「おでましだね。やはりとても美しいな。この地で最高の美女だ」
どんな時も感情を揺らめかせない、飄々とした兄の声を聞き流しながら、リーンファは他のすべての人々同様、目を見開いて硬直していた。
彼女たちのすぐ右側には、吹き抜けになっている広間と二階をつなぐ階段がある。黒を基調とした清楚な衣装を身に纏った、青い髪の佳人が静かに降りてくる様は、まさに夢幻であった。彼女の衣装は恐らく、この場の誰よりも飾り気がなかった。宝石の類も一切その身を彩ってはいなかった。にもかかわらず彼女を輝かせているのは、神秘の種族の特徴である美貌と、永い時の中彼女が見つめてきたすべての憂い、喜び―心の豊かさだ。黒々とした瞳は透明で、真っ直ぐにこの視線で射抜かれると、わずかでも疚しい思いを胸に隠すものは、慄いて彼女の足元にひざまずきたくなるに違いない。
しかし、神秘的なこの乙女が屈託ない微笑を惜しげもなく人々に向けた途端、広間を覆っていたある種の緊張感は霧散してしまった。彼女の笑顔は無垢な幼子のようでもあり、アルヴァンテスで信仰されているリーザ十四神の、母なる女神ドーラを思わせる慈愛をも内包していた。
「……まあ、あの方が」
「……我らの守護者殿。なんと美しい」
「……わたくしたちは真に幸運ですわ。守護精霊様にお目にかかれるなんて」
徐々に、ささやき声が広がっていく。それが、リーンファの強張りをといてくれるきっかけとなった。
(マリスニールなんて、見慣れてるはずなのに……)
十年間戦場でともに寝起きした戦友で、つい最近も彼女のところに遊びにいってちょっとしたことを話したばかりだ。逆に言えば、彼女に近しいはずのリーンファでさえ息を呑むほどに、今宵の彼女は凄艶なのだ。
(いえ、それだけじゃない)
何かがリーンファの中で引っかかった。マリスニールはいつもと変わりなく笑っているのに、そのはずなのに、違和感が拭えない。
「リーンファ」
ヴィンスの声は静かだったのに、妙にはっきりと彼女の耳に届く。
「……受け入れられるかい? いや、たとえ今はできなくても、いつか理解することができるかい?」
「兄さん―」
自分よりも、ヴィンスの力≠ヘ強い。直接口にはしないけれど、自分よりもずっと前に彼はこのことを知っていたのだと、リーンファは直感した。
「兄さん、知ってたんでしょ? マリスニールとカティス様がどうなるのか、私より先に視え≠トいたんでしょ?」
少なくとも、糾弾したかったのではない。だがどうしたかったのかと問われても、リーンファは明確な答えを持たなかった。あるいは、単に兄に甘えたかったのだろうか。
「お前が視た≠烽フが何か、僕は知らないし知ろうとも思わない。だけど多分僕たちは別々の場所から、川の流れを見たんだよ」
意外な返答に面食らう妹に、ヴィンスはおどけた調子で片目をつぶって見せた。露なままの鳶色は、どこまでも深く優しい。
「僕にはお前が視え≠スんだから」
我先にと挨拶にくる貴族たちに、マリスニールは平等に言葉をかけ、微笑みかけた。彼らはみな好意的だったが、疲れを感じないでもなかった。
人が途切れたところで、彼女は自ら飲み物を求めてテーブルに歩み寄った。
くるくると、ひっきりなしに人が舞う。音楽は止まらない。
彼女はその中に、ある色を探して視線を飛ばした。もうずっと目にしていなかった色だ。白金と木漏れ日の緑……。
(カティス)
ジョシュアから聞いた。この宴でカティスは、生涯の伴侶を探さなければならない。今夜それがかなわなくとも、この先必ず選ばなくてはならない。
(私のせいで、カティスはそれをできないかもしれない)
人は、ただ一人を深く『愛』していると、他の何ものも必要ではなくなってしまう。あるいはそう錯覚してしまうものだと、ヴィンスという青年は語った。彼はジョシュアの命で国中を旅して、各地方の情報を集めてくる領主の『目』とも呼ぶべき存在で、二日前に宮殿に帰還したのだった。ラルジェアに名を連ねる者であり、リーンファと仲のよい兄であると聞いて、親近感を抱いた。そして、年齢に似合わず聡明な彼に尋ねたのだ。人の『愛』の形を。
ジョシュアやリーンファから、先に事情を聞かされていたのかもしれない。ヴィンスはマリスニールの求めるところを的確に察して、答えをくれた。戦の爪痕に傷ついた国のため、カティスの頭上に王冠が必要なのだとも言った。
(カイと私たちが、慈しんだこの大地のために、カティスの力が必要)
今でも大切な朋友であるカイが目を細めてその手でなでた砂浜、彼女に惜しみないぬくもりをくれたジョシュア一世が好んだ森、その子供であるジョシュア二世がどこまでも駆けていく果てのない草原、それから―。
(カティス)
優しい少年。彼の迷いを彼女は知っている。彼が何をしたいのかを、知っている。彼の力になりたかった。その方法は、まだ彼女には見えてはいなかったけれど。
「あら」
さまよわせる目が、探していたのとは別の人物を捕らえた。大好きな相手には違いなかったので、彼女は話しかけながら近づいた。
「リーンファ、そんなところで何をしているの?」
普段の豪快さを衣装の中にすっかり隠してしまった黒髪の友人は、曖昧に笑っただけだった。
「さっきまでは兄さんと話してたの。相変わらずの性格で安心した」
「ふふふ、ヴィンスが言ってたわよ。あなたたち、昔からとても仲がいいんですってね」
「年が近いからかな。兄弟も姉妹もたくさんいるんだけど、ヴィンス兄さんと一番気が合うんだ」
言葉は気さくなものだが、リーンファにはやはり気がかりがあるらしかった。
「どうしたの? 元気がないわよ。体調が悪いなら、私の部屋で休むといいわ」
「ううん。平気。気にしないで」
「でも……。熱はあるの?」
「大丈夫だってば!」
リーンファの額に伸ばしかけたマリスニールの手を、彼女は強い言葉と同時に払いのけた。力はこもっていなかったが、面食らったマリスニールが一歩下がった拍子に、もう片方の手に持っていた飲み物がこぼれ、彼女の黒い衣装にかかった。
「あ……、ごめん。ごめんねマリスニール。私……」
「いいのよ。汗をかいたから、そろそろ着替えようと思っていたところだったし」
実際そうだったし、今夜のためにジョシュアや貴族たちから山ほど美しい衣装が贈られていたが、友人の行為に衝撃を受けないではなかった。それが外にもれないうちにと、マリスニールは気にしないでともう一度リーンファにうなずいて、素早く身を翻した。
階段を二、三段昇ったところでマリスニールが足を止めてしまったのは、思わぬ声を拾ってしまったからだった。
「……どうしても、できないと?」
「……ええ」
青年と、まだ未発達の少年の声。それらに名前を与えるのは、彼女には容易なことだった。どちらもよく見知った人物だったし、片方は探していた相手だった。
(ヴィンスと、カティス?)
階段の手すりに寄りかかり、衣装の裾を直すふりをしながら、彼女は階段の下から聞こえる会話に耳をそばだてた。
「……愛らしい姫君ばかりとお見受けしますが」
「そうですね。でも、彼女がいるから僕には他の誰も見えはしないんだ」
「本当に、一途でいらっしゃる」
胸が痛い。カティスが自分のことで真剣に悩んでいるのは、少年の声音からにじみ出る感情で推し量れる。これが、『愛』の苦しみというものなのだろうか。
「誰もが眉をひそめます。口にしないだけで、僕を視線だけで咎めます。あなたも、僕の想いを罪と言うのですか? 僕は守護精霊であり不可侵の存在のはずの彼女を好きだから、愛しているから、罪だと言うのですか?」
「いいえ」
吐き捨てるような少年の声は、一瞬だけ止まった。ヴィンスは誰に対しても変わることのない、穏やかな調子で言葉を継ぐ。
「僭越かもしれませんが、愛に罪などないと私は信じておりますので。罪は人間が作るものです。今は罪でも、過去には祝福されることだったかもしれない。そうして、今は推奨される行いも、未来においてはまったく逆かもしれませんから」
「……先を知る者だから、そう思うのですか?」
「さあ。そういうふうに考えたことはありません」
しばし、沈黙が降りた。音楽も踊りも続いているが、階段の下の小さな空間はそれらからは切り離されていた。
「ただカティス様、あなたが許してくださるのなら、告げたいことがあります」
「何ですか ヴィンス殿?」
見えはしないはずなのに、マリスニールにはこのときのヴィンスが微笑しているように思えた。温和で、とてもとても静かに。
「誰かを愛する形は、ひとつではありません。なぜなら、大切に思う相手のために、人は最善を模索するからです。ときには必ずしもそれが相手を幸せにするとはかぎりませんが、私はそれを尊いと感じずにはいられない。たとえどんな悲しい結末を迎えた愛でも、それは変わりません」
「ヴィンス殿……」
「なんて、口幅ったいですね」
今度ははっきりと、照れて笑うヴィンスの声が聞こえた。
マリスニールはわずかの間動きを止めて顔を伏せていたが、ゆっくりと、音を立てずに二階へ上がっていった。
ずっと迷っていた心が、定まった瞬間だった。
宴も最高潮に盛りあがったころ、ジョシュアはラルジェアの兄妹とカティスを密かに呼び出した。この夜のもう一人の主役と言ってもいい美しい精霊の姿が、宮殿のどこにもなくなっていたのだ。
「カティス!」
話を聞くなり飛び出そうとした息子を、ジョシュアは鋭く制した。
「彼女は神秘の種族の一人。炎の加護もあり、獣たちは彼女を同胞と見なしている。危険はない」
「わかりませんよ、そんなことは! 彼女は女性なんです!」
カティスが心配している事態―女性としての危機も、マリスニールに限っては絶対ないのだと、横合いからリーンファが断言した。
「彼女がどれほど強いかは、戦友である私が一番よく知っています。大丈夫ですよ、カティス様」
「しかし!」
「それに、あなたにはどうしてもやっていただかなくてはならないことがあります」
妹に続いて、ヴィンスが口を開く。
「マリスニールがいなくなったと、招待客の間に広まっては騒ぎになるでしょう。そのときに備えていていただきたいのです」
「……あなた方が彼女を見つけ出すまで、時間稼ぎをしろと?」
「そうです。お願いいたします、カティス様」
ヴィンスの物腰は先ほどとまったく変わっておらず、彼の言葉がどこまで真摯なものかとカティスは眉根を寄せたが、その不変な態度に救われた部分があるのも確かだった。
「……絶対に、彼女を見つけてください。無事な姿で、彼女と一緒にここに帰ってきてください」
うなずいて領主の執務室を出ていく二人を、彼は見送らなかった。うつむいたまま、じっと不安をもみ消そうとしていた。
自分の願いは叶わないのだと、心の中から嘲笑が聞こえる。声なき声は、奇妙な確信と神の託宣めいた抗えない強さを持って、彼を脅かす。
ヴィンス兄さんは、実は
当初予定にないキャラクター
でした。出て来てみたらなかなか
楽しい御方でした。