6.

 

 

 時はただ流れる。人の想いは、変わらぬと見えてもやはり流される。気づかないだけだ。

 青い髪の精霊も、永い永い時間が自分に及ぼした影響を完璧には把握していなかった。人間よりも多くの時間を与えられている種族であれば、過去を振り返ることはそうそう多くはない。それが、彼女が自身に起こった変化を自覚せぬままとなった原因だったのかもしれない。

「緑が鮮やかさを失っていくわね」

 窓越しにはらはらと落ちる葉を見やり、マリスニールはぽつりと言った。季節は秋に近づき、今は黄金の月である。収穫も始まっているが、あまり芳しくないという話をマリスニールはリーンファやジョシュアの口から聞かされていた。

「ジョシュア様も、かなり頭を痛めていらっしゃるわ。いざとなったらこの宮殿の食料庫をすべて解放するしかない。それでも、来年の収穫まで持ちこたえられるかどうかわからないの。戦の前には、食べきれないくらいの食べ物があったのにね」

「そうね……。仲間達が、とても疲労しているのが感じられるわ」

 先の戦で、精霊の協力を仰いだはいいが、傷を負った精霊はそれまで大陸中に注いでいた守護を、自分の回復のために使っている。自然は円環であるので、どの属性の精霊の守護が欠けても今までと同じわけにはいかなくなる。実りが少ないのは、そういう理由もあってのことだった。

「戦なんて、いいことがひとつもないよね。疲弊するだけ。勝っても負けても、打撃が大きい。元通りになるのにすごく時間がかかる」

「私もそう思うわ。それでも……あの十年間はアルヴァンテスを守ることだけ考えていた……」

 開戦した以上、他にどんな方法もなかったと何度も自分に言い聞かせているマリスニールだが、回想するたびに脳裏をよぎっていくのは死んでいった兵士たち、傷つく同胞、そして最後の戦いでの、炎上する敵軍の船だ。この手が命を奪った罪に染まっていると、これらの記憶が彼女を責めたてるのだ。

「マリスニール」

 リーンファが、彼女の心を読んだかのように明るい仕草で肩を叩いてくる。

「言ったでしょ、一人で何でも背負いこまないの。戦が罪なら、一緒に戦っていた私達―ううん、この国のすべての人の罪だよ。だけどその意識に苦しむだけじゃだめ。これから先の子供たちがこの罪に穢れることがないように、私達は国を浄化しなければならない」

 リーンファが強いとマリスニールが感じるのは、こういうところだ。そしてこの強さが、いつもマリスニールを救ってくれていた。

「そうね。私もがんばらないとね。守護精霊として、この大陸に住む一員として」

 きっと、ここはひとつの国になる。そうなればマリスニールの仕事はもっと増えるだろう。先のことを考えると、不安と期待が沸きあがり彼女の気分を高揚させた。

「そうそう、これはまだ決定じゃないんだけど」

 今にも落ちてきそうな葉の一枚をぼんやり眺めていたリーンファが、不意に話題を変えた。

「ジョシュア様、もう少し落ちついたら舞踏会を開くみたい。うちの一族からも、何人か出てほしいって。貴族たちの結束を固めたり、それぞれの領地の状況を知るって目的もあるんじゃないかな」

「舞踏会? まあ、素敵ね。きっと華やかなものになるわね」

 マリスニールは踊らないが、見ているだけでも舞踏会は楽しかった。シャンデリアの光でたくさんの影が生まれ、そんな不思議な空間できらびやかなドレスや宝石が舞い、笑いさざめく声や恋人たちの甘いささやきが音楽と溶け合う。彼女が好きなのは、それらから醸し出される幻想の香りだった。

「楽しみよね。たまに華やかなこともないとね」

「リーンファも来てね。絶対にドレスを着てくるのよ」

「あはは、似合わないって」

 さらに三刻(約三十分)ほどの談笑ののち、リーンファは家に戻ることにした。薬師でもある彼女は、この街にあるいくつかの診療所をときどき見て回り、薬草の知識を広めたり治療に携わったりもしているのだ。

「……リーンファ殿」

 彼女が呼びとめられたのは、さっきまでマリスニールといた中庭とは正反対の場所に位置する、古い図書館の前だった。

「あの、もしもお時間があるのでしたら、相談したいことがあるんですが」

「カティス様?」

 しばらく見ないうちに、少年の白金の髪は少し長くなっていた。頬も柔らかさがなくなっていたが不健康な印象はない。けれど一番変化したとリーンファが感じたのは、彼の瞳の光だった。彼の魅力であった柔らかい雰囲気、無邪気さがどこにもないのだ。別に、診療所めぐりは今日でなくてもかまわなかったし、カティスを取り巻く重い空気の方がよほど気にかかって、リーンファは彼に促されて図書館に入っていった。

 初代領主カイ・メルス・ドルゴールの時代からある図書館は、古書特有の匂いでいっぱいだった。本を守るために日光を遮っているので、昼でも薄暗い。中には二人の他には人の気配はしなかった。

「お話とはなんでしょうか。私でお役に立てますか?」

 水を向けるが、いっこうにカティスは話し始めようとはしない。辛抱強くリーンファは待っていたが、もともと気の長いほうではないので半刻(約五分)と経たないうちに少しいらいらしてくる。

「カティス様?」

 彼女にとっては幸いなことに、二度目の呼びかけでカティスの唇が動いた。彼も、話すと決めていたものの迷いを捨てきれてはいなかったのだろう。

「あなたのことだから、もうご存知でしょうが……僕はマリスニールのことが好きです」

「……」

 相談の第一声としては、唐突な切り出しだ。リーンファは相槌も打てなかったが、カティスはすぐに言葉を継いだ。

「離れていたせいでしょうか。僕は彼女が精霊だという実感が薄いようです。あの素晴らしい美貌、髪、すべてが彼女が異種族だという証なのに、僕にとって彼女は一人の乙女なんです」

「……」

「できれば、彼女と一生をともにしたい。与えられている時間が違いすぎても。僕はそう望んでいました。彼女のことだけが僕を占領していました」

 リーンファはここで怪訝に思い、顔を曇らせた。

「なぜ、過去形で仰るのです?」

「……さすが、鋭いですね」

 カティスは口の端を歪める。それが『自嘲』だと気づいて、彼女は愕然とした。齢十五の少年が、何不自由なく健やかに育った少年が自然に身につける表情ではない。

「もう三月ほど前になります。僕は戦のあと初めて宮殿の外に出て、民の姿を目の当たりにしました。……あんなに悲惨だなんて、僕は理解できていなかった。自分を恥じました」

 少年の語る言葉は少ないが、リーンファには伝わった。彼女が苦しむ人々をその目に映さない日はないのだから。

「一番自己嫌悪を感じたのは、逃げてしまったことです。僕は情けないことに、お金を求めて手を伸ばしてくる民に……恐怖を覚えました。どうして……恐怖など……」

「カティス様」

 戦の間宮殿からほとんど外へ出ることのなかったカティスが知らなかったのも無理はないが、マリスニールとリーンファが帰還したときにはすでに、路上には飢えた人々の姿があったのだ。凱旋した者達にそれを見せないため、ほんの一時それを隠蔽していたに過ぎない。それに、ほとんどの重臣達が思い違いをしていた。実りの季節になれば、民の飢餓は癒されると。アルヴァンテスの大地の力を、そこに注がれている精霊達の愛情を、過信していたのだ。

「あの日、あの瞬間から、僕の心を占めるものが二つになりました。彼らのために僕にできることを、考えるようになりました。でも―」

 カティスは力なく両手で顔を覆ってしまった。泣きたいのか、苦しいのか、それともど

ちらも違うのか、少年の前に立つリーンファには窺い知れない。

「マリスニールを想うと、僕は切なくて、でも幸福を感じる。逆に僕のしたいことはと考える時は、重圧感に押しつぶされる恐怖と、それより大きな使命感が僕を苛む。どちらに身を任せるのか、どちらを選ぶべきなのか答えが出せなくて、おかしくなりそうなんだ!」

 叫びであり、慟哭であった。確実なのは、一方の道が少年が歩むには険しいものということだ。

「カティス・ファーラ・ドルゴール様」

 彼の心の吐露に対して、彼女は静かな声で間接的に答えを返した。

「あなたは王になる方です。王冠を戴く権利も義務も、あなたはお持ちなのですよ。……どうか、ご自分で結論をお出しください」

 

 ジョシュアが自ら書類を持ってくること自体、おかしかったのだ。実行しようとしてもまず、家臣の誰かが止めるに違いないのだから。それがマリスニールの自室に至るまで一度もなかったのはジョシュアの様子から明らかだったから、彼女は二つの仮説を立てた。ジョシュアが書類をどこかに隠してここまできたか、家臣たちも同意の上での訪問であるのか。

 最初の説はすぐに棄却された。彼がそんなことをしても意味がないからである。

(せいぜい、ちょっとした悪戯心を満足させられるだけだわ)

 よって、彼女はこれを内密で重要な目的を持った訪問と受けとめた。

「どんな問題が起こったの?」

 二人分の茶を用意する手を止めないまま、世間話のように切り出すと、勧めた椅子に身を沈めて、どこかそわそわと窓の外に顔を向けていたジョシュアは勢いよく半身を起こし、ぽかんと口を開けた。しかしそれも一瞬のこと、立場上頭の切り替えの早い彼は、すぐに微苦笑を浮かべて肩をすくめた。

「あなたは本当に賢いな。どうやって話し始めたものかと迷っていたのだ」

「あなた、昔から隠し事は苦手だもの。挙動不審になるからすぐにわかるのよ。自分では気づいていなかったのね?」

「そうか。ではこれから注意しなければな。それで話のほうなのだが、問題というわけではないのだ。いや……『問題』と言えなくもないのかな」

 めずらしく歯切れの悪い物言いをするジョシュアの前にカップを置いて、彼女はしばらく首をかしげて彼を見つめていたが、おもむろに細い腕を伸ばして彼の褐色の髪に触れた。

「……何十年ぶりかな。こうして頭をなでられるのは」

 彼はひとつ息を吐き出すと、話を始めた。

「カティスのことなのだが、このところ様子がおかしい。悩みを抱えていることくらいは私でもわかるが、それがどのようなことなのかは見当がつかない。あれこれ想像するばかりだ」

 マリスニールは答えられない。カティスの悩みに、心当たりがあった。

「あくまでこれは想像なので、聞き流してくれてもいい。カティスは、さる女性に恋をしているらしいのだ。あれは未だ幼く、恋も初めてだから、感情を持て余しているのだろうな」

「……」

「恋をするのはいい。だがのめりこむのはいけない。カティスはいずれ王となる。王たる者が恋愛事に現を抜かすのは政治の乱れの元になる―そうであろう、マリスニール?」

 やっとのことで彼女はうなずいた。動作が不自然でなかったかどうかは自信を持てない。

「それとなく、あなたからも言い聞かせてはくれまいか? あなたの言葉なら、カティスも真剣に考えると思う」

「……わかったわ」

 ジョシュアは、他にも他愛ない話を少ししてから戻っていった。扉が閉まった音が、緊張をとく合図になった。マリスニールはよろよろと寝台に倒れこむ。

 ずっとカティスの視線が苦しかった。恐ろしかった。彼女にとって一人で部屋の外へも出られないくらいの恐怖となった彼が、傍目にもそれとわかるくらいに悩んでいるとは。

(苦しんでいたの、カティス?)

 それは純粋に驚きだった。

(カティスが私のせいで苦しいのなら、私がそれを何とかしなければ)

 だからこそ、ジョシュアは彼女に話しに来たのだろう。彼は―恐らく、リーンファあたりに聞いて―何もかも知っているのだ。

(ごめんなさい、本当にごめんなさい―)

 乙女は、きつく目を閉じた。

 

 秋の実りはそれほど多くはなかったけれど、王が国の穀物庫を解放したおかげで、いくらかは人々は満たされた。戦という名の獣が去って初めての冬が、ゆっくりと確実に大陸に迫ってきている。今年の冬は、例年になく寒く厳しいものになる。大地を守る精霊の力が、弱いからだ。春がきても、すべてがよい方向へ転じるとは断言できない。まったく見通しのきかないドルゴールの未来は、どうしても不安を呼び憂鬱が晴れない。

(何か方法は……)

 何度も何度も、思いはそこへ辿りつく。カティスは嘆息して羽根ペンを放り出した。白金のさらさらした美しい髪を惜しげもなくわしわしとかきむしり、積み上げられている書類を睨む。

「精霊の力に、こんなに頼っていたなんて……」

 唇からもれるつぶやきは、視線とは対照的に弱々しい。

 身体に負担をかけない程度にとリーンファに条件をつけられて、カティスは三ヶ月ほど前から再び政務に取り組むようになっていた。もともと国政には興味があった彼だから、今までの月日は忙しくも充実している。それに仕事に没頭している間は、もうひとつの悩みに気づかないふりができた。

(精霊たちがこんなにドルゴールによくしてくれるのも、マリスニールがカイ様とともに尽力してくれたからなんだ)

 ドルゴールの始祖カイを語るマリスニールは、心底からの幸せに輝いていた。今でも愛しく思う友なのだと、永遠の別離から百余年が経過している祖先への心を聞いたとき、はっきりとカティスは嫉妬を覚えた。いつか彼女が、同じように自分との思い出を誰かに物語するとき―耳を傾けるのは、この自分の子孫なのだろうか―どのように彼女は、自分を評するのだろうか。

 ―弟のような存在?

(それとも……『こともあろうに精霊に恋をした、愚かしい子供』?)

 今の彼女は、自分をどう思っているのかまったくわからない。明らかなのは、彼女がカティスを避けているということだけだ。

(僕のことを、嫌っているんだろうか)

 彼は、椅子の背に体重を預けて頭を逸らした。いつのまにか苦い笑いが、仮面の如く無機質に顔を覆っていることに、彼は気づかない。

(わかりきってるじゃないか。彼女にとっての僕は、もう疎ましい存在でしかないんだ)

 張りついていた仮面は、いつのまにか『苦悶』という名を得ていた。

「よろしいでしょうか?」

 控えめなノックと、低い声。カティスは急いで感情を封印し、応(いら)えを返した。

 扉のところで折り目正しく一礼し、何やら大仰な装飾を施した羊皮紙を手に入ってきたのは、父の側近の一人であるノーマンだった。父よりも年上で、先代領主から仕えている。そろそろ額が面積を広げ、鼻の下に蓄えている髭も真っ白になっているが、まだまだ矍鑠とした老臣だ。

「何の用?」

「ジョシュア様からです。まずはお読みください」

 ノーマンは、カティスが襁褓(むつき)をしていたころからずっと成長を見守ってきた。そのためか、幼児をあやすような調子が声音や仕草のちょっとしたところからも時折垣間見えて、最近カティスはむずがゆさを禁じえない。今もそれを感じながら、ざっと渡された書類に目を通していく。

「……舞踏会の招待状に見えるけど?」

「左様です。名目は戦の終了の祝賀。日時は七日後となります」

 カティスは、舞踏会などの華やかな場が苦手だ。特に、年嵩の貴婦人方にはいいようにからかわれてしまう。純朴で社交的とはお世辞にも言えない性格の自分をおもちゃにして楽しんでいるのだろうとカティスは思っているが、実際は彼に好意を持っているからこその戯れである。心身ともに幼い彼は、人の心の機微を未だよく理解できていない。

 それでも、察するべきところは心得ている。

「ノーマン、戦の祝いは『名目』って言ったね。では舞踏会の本当の目的は?」

 嬉しげに、ノーマンの目が細められる。カティスはうんざりした。

「カティス様。カティス様もすでに御年十五になられます。舞踏会には同じお年頃の姫君も大勢お集まりになられます。その中から、生涯添い遂げるにふさわしいお方を、カティス様御自身がお選びくださいますよう」

 好々爺然としていても、ノーマンの言葉には微塵の揺らぎもなかった。その強さが、これは決定事項なのだと暗に告げている。カティスに拒む権利はないのだと。

 自分の身体が椅子に座ったままなのは、奇跡に近いと彼はどこかでぼんやり思う。頭の中ではは様々な記憶や思考が去来し、心は感情の奔流が激しくて、息をするのも困難だというのに、彼の身体はわななくことすらしないのだ。

「……わかった。わかったからもう下がってくれないか。仕事がまだ残っているんだ」

 抑揚なく命じると、老臣はうやうやしく一礼し、静かに退室していった。

 カティスはしばらく微動だにしなかったが、やがてふらふらと腰を上げる。少し部屋を歩き、よく磨かれた鏡の前で不意に足を止めた。

「―!?

 真逆な世界では、透明な涙でしっとりと両の頬を濡らした少年が、驚愕のため緑の目を大きく瞠って立ち尽くしていた。

 

 

 


起承転結でいうと「転」の前半。

カティスの心の変化のきっかけになる

事件がほしいということだったので、

付け加えたのでした(前回

の分にありますね)。でも、

心理描写って難しいです。

面白いことは面白いんですけどね。

 

 

 

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