5.

 

 

 

 

 マリスニールがカティスを避けていること、そしてカティスのほうは切ない視線で彼女の姿を求め続けていることに、まず感づいたのは恐らく彼女であろう。

 あれから、呼びかけてもいっこうに現れなくなった風の娘を探すという名目で、リーンファは宮殿を訪れていた。といっても、ここにもフィーニアがいないことは、彼女自身が一番よくわかっていた。契約を交わした精霊と人間の間には、強い絆が生まれる。それは例え遠く離れていても、互いのことを教えてくれる。

 それにしても……と、リーンファは誰もいない回廊で痛ましい思いに眉を寄せた。数日前、自分が視た£ハりの未来が展開されているのが、口惜しく悲しい。知っているのに何もできない自分の無力さに嫌悪を覚える時である。

(結局……二人は苦しんでいる)

 白金の少年は、少年であるがゆえに一途であり、子供のころから抱いてきたマリスニールへの憧憬が恋に変わってしまうのに十分なほど成長していた。離れていた時間があったのが、それに拍車をかけてしまったかもしれない。

(せめてマリスニールも、同じ気持ちでいてくれればよかったのに)

 だがあの乙女にとって、カティスは永い間見守ってきた契約者の一族に連なる者というだけの存在。それ以上にもそれ以下にもなり得ないことは、あのときの会話ではっきりしていた。

(どうしたらいいんだろう。二人のために最良なのはなんだろう?)

 マリスニールは友人だし、カティスも将来の指導者としてずっと仕えていきたいと思っている。精霊と人の子の恋などと、軽々しく他人に打ち明けることもできない悩みを、リーンファはずっと彼女なりに考えてきたのだ。

「いっそ相談できれば……!」

 緩く波を打つ黒髪を乱暴にかきむしっていたリーンファの手が、はたと止まった。言葉にしてみて、ようやく光明が見出せたような気さえしてくる。

「そうだよ! あの人に相談すればいいんだ!」

 突然高らかにどこか遠くを見つめて叫んだ彼女の後ろで、運悪くそこを通りかかった給仕の少年が、茶の入ったポットを盆ごと落としそうになってあわてふためいているが、天から降って沸いたひらめきにのみ頭を占領されていたリーンファは哀れな少年を完全に無視して、全力で廊下を疾走したのだった。

 もうそれは、賭けに等しかった。

 

 

 木漏れ日の瞳は、安らぎをくれることはなくなった。あの淡い緑色が、底のない沼のようにどこまでも自分を引きずりこむ錯覚に襲われ、視線を合わせるのは恐怖でしかなかった。

 マリスニールは、終日を自分の部屋で過ごすことが多くなっていた。一歩でも外へ出れば、カティスに見つかってしまう。彼が宮殿内を自分を探して徘徊していることを、女官たちの噂話から彼女は知っていた。どうしてそこまで執着するのか理解できない。どうすればいいのかわからない。わからないから尚更、カティスは彼女にとって恐ろしい存在になってしまっていた。柔和な性格の優しい彼を好いていただけに、その事実は何よりもつらかった。

(カティスは、私に何をしてほしいのかしら?)

 童話の本を膝に置き、彼女は窓から外を見やった。葉ずれの音は、玻璃を通してでも彼女の耳に届く。カティスに会いたくなくて、もうずっと庭にすら出ていない。

「こんな時、あなたならどんな答えをくれるかしら、大きいジョシュア?」

 何でも知っていた人。彼女の話を目を細めて聞いてくれた穏やかな人。彼女は精霊であるから知ることはないが、彼女が大きなジョシュアに向ける想いは、『父親』を慕うそれと似通っていた。

 扉が軽く叩かれる。彼女はわずかに身を強張らせたが、すぐに聞こえてきたくぐもった女の声に頬をほころばせる。

「マリスニール。リーンファだけど、今いい?」

 返事をする前に彼女は扉を開け放ち、その向こうにいた友人に飛びついた。

「あらあら、ずいぶん熱烈な歓迎ね。でも、思ってたより元気そう」

 微笑んだリーンファだが、部屋の中に自分とマリスニールだけになった途端にそれを消した。

「ここ数日、部屋から一歩も出てないんだって? ジョシュア様が大層心配なさってたよ」

「リーンファ……」

 マリスニールもまた、表情を一変させていた。ちょっとしたことでもすぐに泣き出してしまいそうな顔で、カティスが自分にしたことをすべて吐き出した。

 あの行為が『口づけ』というのはあとで知ったが、相変わらずカティスの心だけが不明瞭で不安なのだと。誰に話そうにも、適当と思われる者がいなかったので、今までずっと心にためこんでいたのだ。

「私もう、どうしていいかわからないの! 恐いのよ、あの子に会うのが! でもその気持ちがどこから来るのか、それすらも私わからないのよ。ねえリーンファ、私、私……!」

 声を荒げる自分の姿を、苦痛のにじむ瞳でリーンファが映しているのを、彼女は見出すことができなかった。想いをすべて吐露してしまうことに夢中だった。

「マリスニール」

 ややしばらくして、薄青の瞳の予言者は静かに彼女の名前を呼んだ。

「ごめんね。私にできることは何もない。私は視る≠セけの存在。変えることができないんだ」

 だけどね、と、やるせない口調でリーンファが続ける。

「あんた達が苦しんでいるのは、本当につらいよ。どうすれば私は……悪あがきをしてみたけれど、たぶん……」

「リーンファ?」

「ごめんね、無力で」

 気丈な黒髪の女が、ひどく儚い様子になるのを、そして静かに涙を流すのを、マリスニールはこのとき初めて目にしたのだった。

「ねえ、泣かないで」

 自分の方が泣きたい気持ちだったことも忘れ、マリスニールは友人の肩を抱いた。

「あなたが苦しんでいるの、私わかるわ」

「……」

 リーンファが力≠ノ悩む元凶となった出来事も、マリスニールは知っていた。でも今はそんなことは関係なくて、何か自分たちの未来のことで苦しんでいるリーンファが痛ましかった。

「……もう帰るわ。ごめんね、みっともないとこ見せちゃって」

 気のすむまで泣いたあと、目の周りを赤く染めたまま少し笑ったリーンファの顔は、やっといつもの彼女らしくなったようだった。

「また来てね、リーンファ」

「ええ、近いうちに」

 廊下で軽い別れの挨拶を交わし、リーンファは歩き出したが、ふと踵を返した。

「ねえ。私が視た≠アとなんだけど……」

 切り出しかけた彼女を、マリスニールは首を横に振ることで制した。

「私は大丈夫よ。それより、今度はフィーニアと一緒に来てね。喧嘩でもしたの? 最近あの子と会ってないんでしょう?」

「ああ……うん、ちょっと言い争いをね」

 ―マリスニールが、リーンファのことを心から慮ったゆえの言葉だったのだが、あるいはこれが時の川≠フ流れを分かつ運命の岩≠セったのかもしれない。

 

 

 宮殿にいるとどうしてもひとつのことしか考えられなくなっていたから、気晴らしのつもりで遠出したのだが、街の中を馬で行くうち、カティスはいかに自分の行動が軽率で浅はかであったのかを思い知らされた。

 戦。いやでもその言葉が脳裏に浮かぶ。彼の住む宮殿も戦の間はあわただしく暗く、それなりに質素だと感じていたものだが、それはあくまでカティスの基準でのことだったのだ。現に、もう戦は終わったというのに街の人々は貴族たちほどに明るい顔をしていない。めまぐるしく動いてはいる。さっき通りかかった市場は、ものすごい喧騒で活気があった。けれど、誰もが前しか見ていない。見られないのだろう。

 今いるこの通りには、対照的にまったく音がなかった。人はたくさんいるが、みな虚ろに目を開いたまま地面を凝視している。兵士のための食料を運ぶ馬車が、何度も何度も往復した道を。

(そう言えば、作物も十分に市場に流れていないんだ)

 十年間も男手を戦いに注ぎこんでいたせいで、農作業が捗らなかったと、各地方から報告が届いている。加えてずっと海の上にいた人口が一気に大陸中に流れこんだのだ。ただでさえ少ない食料がどんどん消費されており、社会のどの方面にも深刻な影響が出ている。

 つん、と服の裾を引かれた。見下ろすと、弟と同じくらいの年齢の少女が、物ほしそうに佇んでいた。小さな手の中に、彼の服がおさまっている。

「……お腹、空いてるの?」

 少女は頷く。声が出ないのだろうか。カティスは少女の前にかがんで、ゆっくりと言葉を選んで話す。

「ごめんね、今食べ物は持っていないんだ。お金なら少しあるから、これで何か買うといい」

 少女の、服をつかんでいないほうの手を取って、躊躇いがちに銅貨を数枚握らせてやると、彼の目の前にもう一本の細い腕が突き出された。少女の後ろから、もう少し年齢が上と見られる少年が、睨みつけるような鋭い眼差しでカティスに手を出していた。自分にもくれというのだろうと、彼は少女に渡したのと同じだけの銅貨を財布から取り出した。

 だが。

「え?」

 財布に目を向けていた数瞬の間に、腕は何本も増えていた。子供だけでなく、老人も大人も女も男も、道の端に座りこんでいた人間がほとんど、彼の周囲に群がっていた。我先にと痩せ細り乾いた手を差し出し、自分の前にいる者を押しのけようとし、押しのけられた者はすぐに起きあがってまた手を伸ばす。

 どの顔も、生きた者のそれとはカティスには到底思えなかった。薄汚れたぼさぼさの髪、落ち窪みやにのたまった目、そして異臭。

 すべての口が叫んでいた。すべての目が物語っていた。

 ―金を、食べるものを!!

 ―この刹那だけでもいい、命をつなぐための糧を!

「う……うああああああああああ!?

 カティスは財布を放り出していた。かちゃりとそれが道に当たる音を聞く前に、彼は馬にまたがり必死で鞭をふるっていた。

 振り返らなくともわかる。あの財布を巡ってひと騒動が起こっているのだろう。その様を見ないよう、聞こえないように彼は瞼を硬く閉ざし、耳は横を通りすぎていく風の音にだけ集中させた。

 だから、どこをどう走っていたのか、まったく記憶にない。恐る恐る目を開けて見まわした場所は、森だった。

「ここは……墓所のある森?」

 馬が、本能から自然の色濃い場所を選んだのだろうか。ともかくカティスは、今度は自分の意志で馬の手綱を操った。

 墓所は、前に訪れた時と同様、静寂とともに眠りを楽しんでいた。中へ入ろうとはせず、カティスは入り口の前でひざまずいた。

「おじい様」

 さわさわと、木々が歌う。今日は空が青いのに、今となってはそれすらも幻影のように見えてくる。

「おじい様、僕は……僕は何ができるのでしょう。僕は……」

 答えは、ない。

 

 

 

 


私って、森を書くのが

好きなんだろうかと思いました。

 

 

 

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