4.
終日、中庭で過ごすことが多い。十年前から、いや、ここに宮殿を建てたときから、マリスニールはここが好きだった。巡る季節の彩りに触れることができるからだ。
早くも繚乱の月が終わりに近づき、広い庭の植物は緑葉の月のために少しずつ衣を替え始めていた。目に淡い緑ではなく、生命の喜びをそのまま色彩とした鮮やかな翠に。
「一月も経ったのね」
呟く彼女の声は、感慨深げだった。いつも緊張していなければならなかった日々の中にあった身にしてみれば、この緩やかな時の移ろいはまだ信じられなかった。世界の喜びの中に長くいたいと思うのは、それを実感したいからに他ならない。
「あ」
軽い驚きと、面映い嬉しさの混じった誰かの声とともに、軽快な足音が彼女に近づいてきた。
「マリスニール」
「カティス。よかった、ようやく健康に見えるようになったわ」
以前リーンファから注意されたのが効いたのか、カティスはしばらく難しい政務にはまったく関わっていない。そのおかげで、再び彼には明るい雰囲気が戻ってきていた。
彼の快活さは、周囲にも好影響を及ぼす。目が回るように多忙な宮殿に笑い声が絶えないのは、彼の存在によるものなのだとマリスニールは感づいていた。
(この子はそれを、まったく意識していないけれど)
稀有なことだと、彼女は思う。人の気持ちを和ませることは、誰にでも容易にできるわけではない。
「ここに座っていい?」
「ええ」
はにかんだ笑みを浮かべて、カティスはそっと精霊の乙女の傍らに腰を下ろした。その一挙一動を、彼女は目を細めて見つめた。カティスが、揺籃の中でむずかっていた日のことが、まざまざと回想される。世界に存在しはじめて間もない赤子は、どこも見えていないはずの眼差しをしっかりと彼女に据えていた。その瞳を彼女は、淡い春の木漏れ日の色だと思った。
(いやね。『年をとった』みたいだわ)
彼女には理解できなかったが、すぐに過去に浸ることを人間たちが『年をとった』と言ってからかいあうのを知っていた。彼女はすぐに赤子の思い出を胸の奥にしまいなおし、立派に成長した現実の少年に話しかける。
「なんだか不満そうね、カティス?」
「そう見える?」
「ええ。そんなに仕事ができないのがいやなの? あなたくらいの年頃だと、男の子はすぐに外に飛び出していくわよ」
「僕は、政治のことをもっと勉強したいから。すごく面白いんだよ」
「何かに興味を持つのはいいことね。でも無理は決してしないでちょうだい。身体を壊してしまったら、何にもならないわ」
「うん、わかった。ごめんね心配かけて」
ほころんだカティスの顔は年相応のもので、マリスニールの気持ちはようやく晴れた。少し気にかけすぎと自覚しないでもなかったが、やはり案じずにはいられない。
「まったく。外で駆け回って怪我が絶えないのも、部屋にこもってばかりなのも困るわね」
「怪我? もしかして、父のことを言ってる?」
「わかった?」
笑いながら、マリスニールは続けた。彼女の口から語られる自分の知らない父の姿に、カティスはいつの間にか身を乗り出して聞き入っていた。
「本当にジョシュアは、じっとしていられない子だったわ。きちんと領主としてこの地を守れるのかって、大きいジョシュアが心配していたのよ」
「へえ、父上ってそんなに元気よかったんだ。シェイファみたいだ。そう言えば今も朝の遠乗りは欠かしていないものね」
「ええ、本当にシェイファはジョシュアの小さなころによく似ているわね。今のジョシュアだって、我慢しているだけよ。きっとドルゴールが正式に国として独立すれば、真っ先に馬に乗ってもっと遠い場所にでも行ってしまうんだから」
乙女と少年は笑い合う。少年は遠い過去のこと、とりわけ祖先のことについて知りたがった。請われるままに乙女は思い出の封印を解き、終いには先ほどしまったばかりの赤子のことをも唇に乗せた。
「……あなたは生まれたばかりだったのに、私のことをじっと見ていたわ。まだ光すら認識できるかわからないころなのに、不思議ね。あなたの瞳、そのころと変わらないわね」
「それは、僕がまだまだ赤ん坊だってこと?」
「違うわよ」
むくれるカティスの髪を愛しげになでて、マリスニールはじっと目の前の双眸を覗きこんだ。
「澄んでいるのに、途方もない何かを隠していそうな、不思議な目。私はカイの紫の瞳も、大きいジョシュアのハシバミ色の目も、もちろんジョシュアの緑も好きだけれど、あなたのこの木漏れ日の色は私を安心させてくれるわ。本当に、優しいこと……」
彼女は自分の言葉を紡ぐのに夢中で、カティスの瞳に秘められているものに気づくことができなかった。気づいていても、それに何という名前が付けられているのかを、言い当てることはできなかったであろう。彼女は長い時を生きてきてはいたが、精霊族の中にあってはまだまだ幼かった。無垢であり無邪気であり、無知でもあった。
「マリスニール」
「なに?」
カティスの声が少し硬くなったことを訝しくは思ったが、彼女はそのことに言及しなかった。
「あなたは、僕の遠い祖の誰かと……その、想い合ったことは……?」
「想い合ったこと?」
彼女は小首をかしげる。彼が何を言いたいのか、理解できない。
(想い合うって、どういうことなのかしら?)
「だから……つまり……好き、になったこと」
少年は耳までを赤く染め、尋ねる声が消えそうになるのを懸命に抑えているようだった。
「好きになったこと? まあ、何を言うの? 私はいつも、あなたたちが大好きよ」
「そうじゃなくて!」
彼らしくもなく強く怒鳴ったものの、そのあとに何も続けずに、カティスは勢いよく立ち上がった。
「もういい。ごめん、忘れて」
「カティス?」
顔の赤いのもそのままに駆け出していった彼を追おうとして、マリスニールは結局足を止めた。
(どうしたのかしら? あんな思いつめた顔をするなんて?)
悩み事を抱えているときの、そんな切なさがかすかだがうかがえた。屈託のない気性の少年は、何に心を痛めているのだろう。
(またリーンファに聞いてもらおうかしら? いいえ、今度は私が直接話しましょう。彼女にばかり頼るのはいけないわ)
それに何より、かけがえのない者の憂鬱を自分の手で払ってやりたかった。
彼女はひとつうなずいて、とりあえずは自室へ戻ることにした。時間をおいたほうが彼も話をしやすいだろうと考えたからだった。
「あら?」
廊下の途中で、自室の扉の前にいるリーンファを見つけた。いつものように気軽に声をかけようとして、彼女を取り巻く重い空気を察した。カティスといい彼女といい、どうして急に様子がおかしくなってしまったのだろうと、マリスニールは眉を寄せる。
「リーンファ、どうしたの?」
「……ちょっと話したくて。入ってもいい?」
「それはもちろんかまわないわよ。さ、どうぞ」
前後して部屋に入り、友人のために茶を用意しながら、マリスニールは何気なく話を振った。
「カティスにちゃんと言ってくれたのね。彼ちゃんと休んでいるわ。どうもありがとう」
「……ううん」
やはり、リーンファの声には翳りがあった。陽気な彼女の心を悩ませているものが何なのかマリスニールは気にかかった。
「何か心配なことでもあるの? ねえ、差し支えなかったら話してみて」
「……うん」
頷きはしたものの、彼女はそれ以上口を開こうとはしなかった。マリスニールがそっと置いた茶にも手をつけず、良い香りのする湯気を凝視しているようだった。
(どうしたのかしら?)
精霊の乙女は、言葉を切り出す機会をうかがいながらも、リーンファの唇が動くのをじっと待った。
「ねえ、マリスニール」
すっかりカップが冷たくなった頃になって、ようやくリーンファは顔を上げた。
「あくまで、興味本意なんだけど。精霊と人間って、その、恋をすることって……あるの?」
「精霊と人間が?」
ぽかんと反芻して、マリスニールは目を瞬いた。リーンファの表情は答えを知りたがっているようにも見えるが、その逆のようでもありとらえどころがなくて、彼女の本心をそこから伺うことはできない。
(それにしてもカティスもリーンファも、どうして同じようなことを訊くのかしら?)
訝りながらも、彼女は慎重に言葉を選びながら話した。
「そうねぇ。私はあまり聞いたことがないわ。だって、違うことが多すぎるわよ。そんなことがあるとしても、とてもめずらしいのではないかしら」
子孫を残すための営みは、精霊も人間もほとんど同じである。ただ、やはり両種族の相違点が起因するのか、二種族の間に子を成すようなことはすまいと、暗黙の掟が互いの間にあるようだった。だがマリスニールはそこまでは知らない。
「そっか……。うん、そうだよね。私もフィーニアからはそういう話聞かなかったし」
「好きになると、つらいのではないかしら? ただ離れるのも苦しいのに、まして死に無理やり連れていかれるなんて」
そういった時、マリスニールの胸中に優しい老人の面影が浮かび、静かに溶けた。彼に聞いてほしいことは、とてもたくさんあったのに。
(死は、明日につなげたいことをすべて奪ってしまう……)
不意に、リーンファが立ちあがった。
「ごめん。私もう帰る。話聞いてくれてありがとう」
「え? でもまだ何も―」
「もういいんだってば。じゃ、急ぐから」
あわただしく出ていく後ろ姿を見送るマリスニールの眼差しは、まだ幼くあどけない。黒い二つの宝石の輝きが深みを増すのは、まだまだ先のことであった。
「それで、そのまま帰ってきちゃったの?」
相棒の呆れ声を、リーンファは甘んじて受けとめた。
「あなたが力≠嫌ってることは知ってるわよ。でも、わかってるなら変えることだってできるでしょ? ねぇ、リーンファ。なんだったらあたしが行ってくるわよ。何が視え≠スのか、ちゃんと教えてよ」
「……無理よ。変えられない」
「リーンファ!」
「だめだよ。カティス様の心は一途で強いから、私が何を言ったところで変わらない。マリスニールはまだ何も知らない子供のようなだし、第一まだ何も起こってないのよ。私の言葉じゃどうすることもできない」
「やってみなきゃわからないじゃない! どうしてそう言うこというの? ぜんぜんリーンファらしくない!」
風の少女は、憤慨してすいと虚空に消えてしまった。もしかすると同胞のところへ帰ってしまうのかもしれないと思ったが、リーンファに止める気はなかった。
(変わるかもしれない。変わらないかもしれない)
リーンファとて、このまま自分の<視た>とおりの未来が現実になるのは避けたかった。今までもずっと、そう願ってきた。
(どうして視え≠驍セけなの?)
答えの得られない、迷宮のごとき問いかけを、彼女はずっと抱えてきたのだ。
シェイファは今年で十歳になる、腕白盛りの少年で、五歳になったばかりのアリエルは何にでも興味を抱く。たまに一緒に遊ぶのはいいが、それは翌日まで続く身体中の痛みを覚悟の上でなければならない。
ジョシュアがそうこぼすのを何度となく聞かされてきたマリスニールは、一生懸命に小さな弟妹を追いかけるカティスを微苦笑を浮かべて眺めていた。
「カティス、疲れているのではない?」
「え? あ、うん。そうだけど……ってアリエル! 本を散らかすんじゃない!」
妹が床に散らした分厚い本をあたふたと拾い上げているカティスの横で、今度はシェイファが花瓶を落とす。
「シェイファ!」
景気よく陶器が割れる音に、振りかえりざまカティスは怒鳴る。沈黙が一瞬だけ降りて、
「うわぁーん!」
「ああーん
!!」花瓶を割ってしまい驚いていたところを怒鳴りつけれたシェイファが泣き出し、それにつられてアリエルも大きな声で泣いてしまう。
「あっ、あっ、ごめんよ。僕が悪かった。ね、泣かないで二人とも」
弟妹を交互に見やりつつ、なんとか宥めようとしているが、すでに二人には兄の声は聞こえていないようだった。とうとう見かねて、マリスニールは椅子から立ちあがる。
「シェイファ、アリエル」
腕を伸ばし、子供たちの柔らかく温かい頬にそれぞれ触れてやると、まるでそれが魔法だったかのように大きな泣き声がやんでしまう。目に涙をためたままの幼子を、彼女はそっと抱き寄せた。
「いいのよ、大丈夫だから。驚いてしまっただけよね、アリエル?」
「……ふぁい」
「シェイファも、泣かなくてもいいのよ。カティスはあなたがわざと花瓶を割ったのではないことを、ちゃんと知っているんだから」
やはりそのことを気にしていたらしいシェイファは、マリスニールの腕の中から上目使いに兄を見た。
「……兄ちゃま、怒ってない?」
どちらかというとマリスニールの視線に負けたと読み取れる表情で、カティスは頷いた。
「怒ってない。でも、今度からは気をつけるんだよ。いいね」
それだけで、シェイファとアリエルはもとの元気を取り戻した。窮屈げに身じろぎして精霊の抱擁から逃れると、二人の子供は何事もなかった顔で部屋を飛び出して行ってしまった。たちまち静寂が戻ってきた部屋の中、カティスとマリスニールは自然見詰め合う形となった。
「ごめん。君の部屋の花瓶、割ってしまったね」
「いいのよ。もともと使っていなかったのだし」
彼女は、花壇に咲く花を茎の途中で切るのを好まなかった。埃をかぶっていただけの花瓶は砕けただけで、当然絨毯に被害はない。彼女が帰ってきた日には、誰が生けたのか種類の違うたくさんの白い花が花瓶からあふれんばかりに咲いていたのだが、好意だけを受け取ることにして翌日彼女はこっそりそれらの花を大地の精霊に返していた。
「二人とも、君にすっかり懐いているね。その点は安心したよ」
「そうね。二人が生まれる前に、私は戦場に行ってしまったから、正直言うと少し不安だったの。あの子たちに好かれるかどうか」
「君を嫌いになる人なんて、いるわけないよ」
「そうだといいわね」
カティスの口調が微妙な変化を帯びたことに、彼女は気づけなかった。
「絶対にそうだよ。君はとても優しいし、綺麗だし。僕は……君が好きだ」
「ありがとう。私もあなたたちが大好きよ。いつまでもいつまでも、守っていきたいわ」
あどけなく笑顔を見せる彼女は、あまりにも無防備すぎた。幼すぎた。
思いの他しっかりとして強い二本の腕に抱きすくめられたことを、彼女はすぐには認識できなかった。まして、彼の胸中などは。
「カティス? まあどうしたの? あなたもあの子達のように、抱きしめてほしいの?」
甘えん坊さんね、と続けようとしたのを、カティスが荒々しく遮った。
「抱きしめてほしいよ。でも僕ら一族の守護者としてではなく、姉としてでも母としてでもなく―僕だけを愛してくれる女性として」
「……カティス?」
何かが違うと、ようやく彼女は悟った。ここにいるカティスは、自分を捕らえている少年は、いつもの繊細で愛らしい少年ではない。
「ねえ、放して。放してちょうだい」
「君は本当に、恋に落ちたことはないの? 誰かただ一人を、愛しく想ったことはないの?」
愛しい存在など、数多いる。もうマリスニールの心の中でしか微笑んでくれない一族の者達、現在ここにいるジョシュアの家族、そしてこれから生まれるまだ顔も知らない子供達―。
「僕は君が好きだ。君がすごく大切で、いつも傍にいたくて、胸が苦しいんだよ」
「わからない、わからないわカティス……!」
「どうして
!?」彼女をしめつけていた腕が、解かれた瞬間。
「こんなに、愛しているのに―っ!」
肩を、押さえられている。額が、触れ合っている? 唇も……。
「いやっ
!!」半ば無意識だった。彼女は魔力でカティスを自分から引き離し、廊下に飛び出していた。
開けたままの扉から、執拗にカティスの視線が追いかけてくるようで、彼女は必死で駆けた。そのうち肺と足が限界を迎えたことを身体が心より先に察知し、彼女を無理やりくずおれさせた。
走るのをやめて初めて呼吸がせわしないことに気づき、彼女は手近なものにもたれかかって息を整えた。
落ち着きを取り戻して周囲に視線を巡らせて、ここが大好きな庭であることを知る。カティスと再会した、色々なことを話し合った場所だ。
「どうして……カティス……!」
黒い瞳から、涙が湧き上がってきた。嗚咽の合間に、彼女はただ「どうして」と繰り返した。頭が混乱している。なぜかはわからないが、どうしようもない恐怖感が彼女を苛んでいた。
理解できなかった。彼は愛してほしいと言ったが、自分が彼に注ぐこの気持ちでは何がいけないのか。これは人間のいう『愛する』心なのだと、カイは教えてくれたのに。大きいジョシュアも肯定してくれたのに。
―カティスはいったい、この自分に何を求めているのだろう。
翌日、割れてしまった花瓶の代わりをカティスが人を介して届けてきた。青き精霊の乙女は、複雑な眼差しでそれを一瞥したあと、無言で戸棚の奥にしまいこんだ。
けっこうこのへんは
力を入れて書いたんですが……。
恋愛感情の描写は
難しいですね。
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