3.
十余年という長すぎる戦の日々は、人の心を荒んだものにし、暮らしを殺伐とさせていたが、やはり領主の住む場所であるためか、この館の中庭の美しさは少しも損なわれていなかった。この場所を心から愛していたマリスニールはそれを喜び、軽やかに淡い光の舞う庭へと降りた。繚乱という月の名にふさわしく、花は色彩の鮮やかさを誇り、咲き乱れていた。
一本の大樹に小鳥たちを見つけ、彼女は細く白い腕を真っ直ぐに上げる。たちまち小さな生き物たちは宿る場所をそこへと移し、腕だけではなく彼女の青い髪や肩にも舞い降りた。もちろん、彼女の何物にも傷一つつけぬよう、彼らは細心の注意を払っていた。
世界そのものを親とする神秘の娘は、愛らしい翼持つ者達の一挙一動にくすくすと笑い、指先から彼らを何度か空へ帰した。
ばたばたばたっ!
そうして無邪気に戯れていた彼女を、突然のあわただしい足音が遮った。
「きゃ……!」
小鳥達は驚いていっせいに羽ばたく。首をすくめていた彼女は、静かになった瞬間に勢いよく足音のした方向を睨んだ。
「あ……ご、ごめんなさい……」
春の日差しの中では銀色にも見える白金の髪と、若草色の瞳の少年がそこにいた。少年は困惑顔で立ち尽くしていて、一生懸命次の言葉を探しているようだった。
マリスニールはそんな少年の様子を見て、少しだけ目つきを和らげる。そして、彼の顔を改めて見直して、小さく「あ」と呟いた。
少年の面差しは、非常に美しく整っていた。髪も瞳も、精霊に祝福された証である独特の色彩を持っている。その色を認識したとき、彼女は目の前の少年の名前を無意識に呼んでいた。
「……カティス?」
その瞬間、少年の表情がぱっと明るくなる。まだ幼さの残る笑顔が、彼女の記憶の中の小さな子供のそれと重なった。
「やっぱり、カティスなのね? ああ、ずいぶん大きくなったのね。わからなかったわ」
「お久しぶりです、マリスニール! 僕、あなたがお戻りになると聞いてからずっと、この日を指折り数えて待っていたんですよ!」
カティス―カティス・ファーラ・ドルゴールは、ジョシュアの長男である。つまり、じきに王太子に据えられるかもしれない少年だ。しかし、今マリスニールとの再会に素直に感激している彼からは、そんな大層な将来は微塵も感じられない。
「私が戦に赴いたとき、あなたはいくつだったかしら、カティス?」
柔らかな草の上に並んで座り、彼女は懐かしい思いに目を細めてカティスを見上げた、そうして視線を上げなければならないほどに少年が成長したことに、嬉しさと寂しさを覚えながら。
「ええと、五歳くらいでしたね。よくあなたについて歩いていました。あなたはいつも微笑んで僕を抱き上げてくださって……」
「ねえ、カティス」
弾んだ声で話す彼を、彼女は遮った。きょとんとする彼に、わざとすねた口調で彼女は言う。
「ジョシュアも同じことをしたわよ。まあ、あなたはまだ小さかったから、しかたがないのかもしれないけれど。覚えておいてね? 私達精霊は、今のあなたのような話し方は好きではないの。人間のように、他者と自分の間を隔たせたくはないのよ」
「あ、そう言えば聞いたことがある気がしま……気がする。ごめんなさい、これからは注意するから」
くすくすと、彼女は笑った。何がおかしかったのかわからず、カティスは首を傾げる。
「あの、マリスニール?」
「なに?」
まっずぐに顔を向けて微笑みかけると、彼はなぜか目を大きく瞠って、視線を逸らした。彼女は、少し怪訝に思ったものの、彼のそんな様子にはかまうことなく、優しく彼にあれこれ質問した。彼は、問われるままに答えた。この十年の間にあったことを、いいことも悪いことも。
その一つ、特に彼女を悲しませたのは、カティスの祖父、先代領主であったジョシュア一世の死だった。彼はかなり昔に息子に地位を譲って穏やかに暮らしていた。マリスニールが前線に向かうときにはまだ矍鑠とした動作の持ち主であったのだが、幾度も冬を越すたびに、病魔に冒され衰弱していったのだ。彼が息を引き取ったのは五年前のことだという。
「……そうなの……。すぐにでも会いに行って、たくさん話したいことがあったのに……」
温厚で徳高い人柄であったジョシュア一世を彼女が好いていたことは、幼かったカティスも感じていた。愚痴を聞いてもらったことも、楽しい話しを聞かせてもらったことも、一度や二度ではなかったと、涙ぐむ彼女は語った。
「マリスニール」
カティスは、俯く彼女の手にそっと触れた。彼女自身の青い髪が帳となり、表情を隠してしまっているので、彼女が泣いていないかどうか確認することができない。
「祖父は、君に『ありがとう』と伝えてほしいと仰っていたよ」
「……どうして?」
「あなたといると、姉や、妹や、時には娘と話しているようだったと。幸せな時間をくれたこと、いつも見守ってくれていたこと、本当に感謝している、と」
「そんな、そんなこと……。嬉しかったのは私のほうよ……!」
彼女は、両手で顔を覆ってしまった。振り払われる形となってしまった自分の指が、なぜか急に温度が低くなったようで、カティスは狼狽する。
しばらく、それぞれがそれぞれの感情の中に浸っていた。どちらもそれから進んで抜けようとはしなかった。干渉しあって変化させることなど、思いもよらなかった。
淡い陽光の中、風すらもいつもの軽快なステップを憚っていたかのようだった。飛び去った鳥たちは、優しい青の娘の様を、木々をすかして見守っている。
カティスがようやく口を開けたのは、長くそうしてマリスニールを眺めていた末だった。
「マリスニール」
声が空しく、空気に呑まれていった。それでも彼は、言葉紡ぐことをやめなかった。
「祖父の墓に……行くかい?」
「……」
のろのろとマリスニールが面を上げ、濡れた双眸で彼を見つめた。頬にもまた、涙が光っている。美しいが痛々しい二筋の川を直視できず、カティスは急いで隠しからハンカチを取り出して彼女の手に握らせた。
「行くのなら僕が案内する。あ、今日でなくてもかまわないよ」
「いいえ……行きたいわ。連れていって、カティス」
近いうちに王家の墓所と呼ばれるようになるかもしれない死者の家は、世界の渦とは完全に切り離されているのだ。埃や黴などの混じった匂いの漂うひやりとした闇の中で、カティスはそんなことをふと思う。
宮殿から馬を飛ばし、森の奥に隠されるようにして存在するこの場所にやってきた。それを望んだマリスニールは、一番新しい骨の納められた石棺の前に膝を折ってを垂れていた。その華奢な彼女の手から、一輪の百合が捧げられる。宮殿の庭から手折ってきた花の白は、死がまどろむこの場所にあって眩しく輝いてすらいるように錯覚してしまう。いや、実際にそうなのだろう。花は、瑞々しく生きているのだ。
生と死が束の間同居する空間で、精霊は何を祈っているのだろう。時折かすかに唇が動くが、彼にその言葉は聞き取れない。
(マリスニール……)
彼が彼女の姿から思い出せるのは、温かで広い腕だった。その腕に抱きしめられるのが好きだった。十数年を経て帰ってきた彼女に、さすがにそれを願うことは考えていなかったが、彼女の温もりにわずかなりとも触れることができればと、淡い期待を抱いていたのは事実だった。
(この人は、こんなにほっそりしていたんだ)
自分が成長したのだろうか。それとも、長い戦が彼女を痩せ細らせたのだろうか。どちらにせよ、どうでもいいことではあった。
(おじい様)
白金の少年は、死者の王ヴェーティラに守られている祖父に語りかけた。
(
僕は、この人を姉のように想っています。あなたが娘と愛しんだこの人を、僕は支えていきたい)彼女は精霊。開国からずっとこの大地に生き、歴史を見つめてきたゆえの聡明さも老練さも持ち合わせていることだろう。けれど、幼い少年はこのとき一途に心を決めたのだ。青の乙女は長い間の憧憬の対象であり、彼女を守ることは少年の中に芽生え始めていた自尊心を、満足させるに足るものだった。
―これが始まり。拙く未熟ではあるが、このようなものが多くの場合の始めかもしれない。
恋の序曲であるのかもしれない。
マリスニールの奇策により、ドルゴール軍が大勝をおさめた戦いは、のちにアイーズの海戦≠ニ名づけられた。この戦いを機に、ドルゴール側はマジェス皇国からの講和条約を受け入れた。アイーズの海戦≠ヘマジェス皇国側に精神的な打撃を与えたが、このまま戦を続けていけばまず間違いなくドルゴールの情勢は敗北へと転落していく。ジョシュア二世は民を預かる者として申し分ない明敏な知性と時を読む目を兼ね備えており、それは見事に功を奏し皇国側から有利な条件を勝ち取った。これから幾度かの会議を経て、彼は完全な独立をこの国にもたらすのだが、それはもう少し先のことである。
「ほんと実際すごい人だよね、ジョシュア様は」
「そうね。でも気になるわ。あの人がかなり無理をしているのがわかるの。カティスもジョシュアを手伝って、綺麗な目の下にくまができてこのところずっとひどい顔をしているの」
自分の役目はこの国を直接的な外敵から守ること、と決めていたマリスニールは、王や重臣たちの仕事に手を出す気はなかった。それは長く政治というものを肌で感じてきた末に彼女が出した結論であるが、さすがにジョシュアをはじめとする重鎮たちの憔悴ぶりには、胸を痛めずにはいられなかった。特に、その中の最年少であるカティスが、睡眠時間を削っていることが気にかかっている。彼はまだ成長段階で、本来たくさんの食事と十分な睡眠が必要なのだ。
久しぶりに友人を訪ねた予言者の女は、悶々としていたマリスニールの相談を受けるのにはまさに適役だった。
長く留守にしていたにもかかわらず、丁寧に掃除がされていたマリスニールの部屋で、二人の女は話し合っている。普段はゆったりしたローブを好むリーンファも、さすがに宮殿に来るときはそれ相応の衣装を身に着けている。長い黒髪も、きちんと梳られ結い上げられていた。
「ジョシュア様も、その他の側近の方々も、そりゃ今が一番忙しいし、忙しくしなけりゃならないよ。カティス様はお優しいから、お父上の苦労を少しでも軽減して差し上げたかったんだろうね。まあでも、確かにそこまですることはないわ。カティス様が参ってしまわれたら、それこそお父上は悲しまれるものね」
供された茶で唇を湿らせつつ、リーンファは困ったように肩をすくめてマリスニールを見つめた。マリスニールもやはり、なめらかな眉間にしわを寄せている。
「ええ。リーンファからもそれとなく言ってほしいの。私が直接言うのも口幅ったい気がして……もうあの子は、小さくないんですもの」
「あらまぁ。いいわ。そういうことなら、まかせておいてよ」
軽やかに立ち上がり、リーンファはすぐに部屋を出て、淡い色彩を持つ少年を探し始めた。マリスニールは彼女の大切な友人であり、彼女が開祖の子孫たちに寄せる想いに共感できるだけに、少しでもその憂いを取り払ってやりたかった。
(しかし、頑固よね。心の中では手伝いたくてしかたがないのに)
彼女がどれだけこの国を愛しているかは、周知の事実である。その彼女が人の行う社会の営みには極力干渉しないようにしていることは、相当の忍耐力と意思の強さの賜物だ。彼女自身が、自身が執政に関わることでどのような影響を及ぼすかを熟知しているからこその判断なのであった。
(私の一族も似たようなもんか。だから気が合うのかしらね?)
リーンファは女性にしては長身である。おまけに顔立ちもアルヴァンテス古来の特徴を濃く受け継いでおり、北から渡ってきた者の子孫達の多い宮殿の中では人目をひかざるを得ない。今回はそれが幸いした。
「リーンファ殿?」
羊皮紙を山と抱えた少年が、庭に面した長い列柱廊の向こうで彼女を見つけて声をかけてきた。
「お久しぶりですね、カティス様。でも残念」
貴人に対するには少々砕けた口調で言うリーンファを気にした風もなく――かつて、ラルジェア一族から領主の妃が選ばれたことも働いているのかもしれないが、概してこの一族は権力者に対しても媚びることはしない――しかし言葉の内容には疑問を感じたらしいカティスは、首を傾げた。
「何が残念なんですか?」
「カティス様のお顔」
「か、顔?」
見上げてくる少年の両頬を挟んで、リーンファはうなずく。
「カティス様、最近あまり眠っていらっしゃいませんね? それにお食事も三度三度、決まった時間にとっていらっしゃらないでしょう。ひどくやつれた顔ですよ」
「そ、そうですか?」
「ええ」
まったくそのとおりだった。今の彼からは十代前半の少年特有の、溌剌とした印象が削げ落ちている。彼女の掌が触れている肌はがさがさしていて、淡緑色の目の下にはマリスニールの言ったように濃い隈が刻まれていた。
「あなたがそのようなご様子では、宮殿のみなが心配します。無論、民もですわ」
「でも、リーンファ殿。ドルゴールを独立させるために、今は―」
「きちんと健康を管理するのも、人をまとめる者の努めです」
断言すると、カティスは弱々しく「はい」と答えた。リーンファはそこですかさず、彼の腕から書類を奪い取る。
「これは誰かに適当に割り振りますので、カティス様は今すぐに十分な休養をお取りください。そうね……四日間は仕事厳禁です」
「四日もですか
!?」「はい。これは薬師としての忠告ですので、必ずお守りくださいますよう」
ラルジェア一族の知識は、医学にまで広く及ぶ。領主を何度かその手腕で救ったことのある彼女にかかっては、カティスも折れるしかなかった。
「あ、そうそう」
しかたなく寝室へ向かおうとした彼を、リーンファは呼びとめた。彼を一番気に留めているのが誰なのか、教えておこうと思ったのだ。具体的な対象がいるのといないのとでは、気をつけようと思う気持ちはずいぶん異なる。
「マリスニールに、あまり心配をかけないであげてくださいね。あなたのお身体を気遣って私に教えてくれたのは、彼女なんです」
「マリスニールが?」
―それは、印象的な変化だった。
生気というものが欠如していたカティスの頬が、薔薇色に染まった。まだ子供らしさの残る唇には、一言で形容できない何とも柔らかな微笑みが浮かぶ。
(あら?)
踵を返して再び歩き出した彼の背中を、予言者の女は目を丸くして見送った。
(今の顔って、もしかして……)
「……っ
!?」回廊を曲がった細い後ろ姿が、突然大きく膨れ上がった。
鼓動が早くなる。呼吸も同時に早くなる。自分の不規則な荒い呼気を耳でとらえながらも、リーンファは微動だにしなかった。できなかった。瞬きを拒んだ薄青の双眸に、鮮烈な映像が次々と押しつけられる。まばゆくて痛いのに、彼女は受け止めることをやめられない。その選択しかできない、許されていない、それが時を読む者=\予言者なのだ。
(い……や……! 見たくない
!! 知りたくなんてないっ!!)過去を読み、未来を読み、得た知識を伝えるのが予言者。もともとは『与言者』だったのが転じた。しかし、ときには絶望の岩に分かたれる時間の川の流れを、彼女は見たくなどなかった。
「やめて!」
力の限り叫ぶと、頭の中ではじける音がした。それが効いたのか、時の川から彼女は遠ざかることができた。
「……」
彼女は、回廊の真中に立ち尽くしていた。カティスと別れてから半刻(約五分)と経過していなかったのは、影の位置からわかった。
「今のは……マリスニール……」
リーンファはじっとりと汗にまみれた額を、冷たい石壁に押し当てた。熱が引いていくのが心地よく、安堵をくれる。
「カティス様……?」
心に突き刺さった幻は、彼女のよく知る者達の姿をしていた。
「優しいものならよかったのにね……」
時を読む力があるのに、彼女たちはそれを自由に選び取ることはできない。
恋愛って、書くのが難しいです。
形がいろいろあるから、悩むんですよね。
でも、だから書きたいのかもしれないです。
カティスは苦労知らず世間知らずの
坊ちゃんですが、マリスニールを好きになることで
成長も変化もしたと思います。
あー……書くことがない……。
HOME BACK NEXT