1.

 

 

 

 今宵は、月が実に見事であった。

 窓際に寄せた椅子に腰かけ、銀の柔らかな光を全身に浴び、少女は向かいに座る青年を愛しげな眼差しで見つめた。穏やかな面差しの華奢な体つきの青年は、無邪気な微笑みでそれを受ける。

「彼女と同じ色ね、あなたは」

 少女は立ちあがり、青年の横に寄り添ってそっとその頭を抱きしめた。太陽の下の草の匂いがする。

「ねえ、聞いてくれる? 久しぶりに思い出したの。彼女はね、あなたと同じ黒い髪と、湖の色の目をしていたのよ」

 青年の返事も待たず、少女は語り始める。

 それは、今となっては過去の出来事。時間という川の、ほんのひとすくいの水。

 




 アルバート暦二百二十七年、世界最南の大陸アルヴァンテスは、戦乱の直中にあった。

(まったく、正式に統治権を与えたはずなのに今になって奪い取ろうだなんて!)

 陣頭に立ち、自在に紅蓮の炎を操りながら、マリスニールは心の中で舌打ちしていた。眼下には深く蒼い海が広がっている。炎の娘である彼女にとって最も苦手なものだ。それでも、後退するという選択肢を彼女は選ぶことはできなかった。それは、味方の敗北を意味する。

(早く、決着をつけなければ……!)

 アルヴァンテス大陸は、彼女がかつて契約していた者が拓いた国、その子孫たちと同胞が生きていくための場所なのだ。



 世界の中心部に位置する、最大の広さを持つレイス大陸を統治するマジェス皇国は同時に世界最大の農業国でもあり、農作物を他国に多く輸出しても、なお国民を養えるほどに収穫できる場所であった。それを揺るがしたのは、レイスの西にあるラジェーン大陸から多数の精霊が海を渡ってきた事件であった。

 ラジェーン大陸では光の神エルネイスを唯一と崇めるエルネイス教がこの年正式に国教と認められ――これ以後、太陽暦のアルバート暦が用いられるようになり、この年をアルバート暦の一年とした――、光の神と対立する闇の邪神ネルフィードの眷族とされた精霊族は、人間たちが突然掌を返したように声高に自分たちを貶め、敵視することに耐えられなくなり、それまで生きてきた大地から逃げ出したのだった。

 彼女たちは人間より遥かに高い魔力と長い寿命、美しい容姿を有しているが、性質はどちらかというと優雅で繊細で、何より感じやすい心を持っている者が多数であった。さらに、精霊族を罵る人間達の中には、彼ら彼女らが寵愛した者の血を引く存在も多くいた。

 時のマジェス皇帝は、西からきた精霊達と国内の精霊達とにかく質が怒ることを危惧したためと、領土拡大という名目で、増加しつつあった国民の一部と大陸にいる精霊の半数を別の土地に連れて行くという決断を下した。その勅命は、彼の第二皇子カイ・メルス・ロータ・マジェスに課せられ、皇子は精霊と人間の先頭に立ち、南へ渡っていったのだった。




 船の上で、闇の訪れと光の洗礼を目にするのは、もう幾度目のことなのかもわからなかった。もちろん、夜が更けてから眠ることもある。昨日がそうだったマリスニールは、太陽が中天に届くころに仮眠室から出て、見張りの一人に戦況を尋ねた。そばかすのある褐色の髪の若い兵士は、彼女の美貌にやや顔を赤らめて手短に答えを返した。

「朝からの霧のため、膠着状態が続いています。攻められることはありませんが、こちらからも仕掛けられないのが口惜しいです」

「何を言うの。仮に奇襲を仕掛けたとしても、人数では明らかに不利なのよ。もう私の同族の力には頼れないのだから、慎重にならなければ」

「は、はい。わかりましたマリスニール」

「ねえ」

 彼女はそこで口調を変え、若者の手を取った。精霊にとってごく当たり前の仕草も、彼には狼狽と困惑を導く行為であり、彼は哀れなほど赤面してしまった。彼女は少しだけ首をかしげ、けれど気に留めず柔らかい調子で言った。

「あなたも少し休んだら? 昨日の真夜中にも、ここで見張りをしていたわよね?」

「え、あ、はいっ。ででで、でもっ、前線の同志たちの疲労を思えば、これくらい」

「だめよ。あなたも疲れているのは事実なのだし、倒れたりすれば大事だわ」

「そ、そうですよね。僕もいつ、戦わなければならないかわかりませんし……」

「そうではなくて」

 静かな中にも、いたわりと真摯さのこめられた乙女の言葉は、すっかり舞い上がっていた青年の心を沈静化させ、彼女の瞳を真っ直ぐに見返すだけのゆとりも与えた。その黒い宝石の輝きに、伝わってくる心情の温かさを彼は見出す。

 こんなに美しいものは初めて見たと、彼は思った。

「あなたは、最初から剣を取り戦うことを望んだ人ではないのでしょう? 国のことを考えて、そして決意して集まってくれたのでしょう?」

「はい。兵に志願するまでは田舎の村で、農耕をしていました」

「そこに、残してきた仕事や、家族がいるのでしょう?」

「ええ、軍に志願した時は確か種をまく時期で、それを隣のアリィ……幼なじみに頼んできて……」

「だったら、帰ってその仕事を引き取らなければね。その人にも、お礼をしなければ」

 白い頬に微笑を浮かべたマリスニールは、青年の額に口づけた。

「生きるのよ。命を捨てて戦おうなどと、少しでも考えたのならばそんなことはおやめなさい。男の人は、どうしてすぐにそう思うのかしらね? 剣の前で死ぬよりも、長く生きて土をおこすほうがどれほど尊く気高いことか」

「マリスニール……」

 青年は、一筋涙を流した。彼女の口づけは、祈りと祝福のようで、何より尊く感じられた。

「そのために、今はお眠りなさい。いいわね」

「……はい」

 彼は正規の軍人のとる、かしこまった敬礼は知らなかったけれど、晴れやかな顔で大きくうなずいて踵を返した。

 ――マリスニールは安堵して、去っていく背中を見送りながらもう一度笑顔になったが、すぐにその頬に憂いがとってかわって表れた。彼女が見据えているのは、白濁した霧の向こうに待機している、敵軍の艦隊だ。人では見通せぬ帳の向こうの存在も、彼女の五感をもってすればはっきりととらえられた。

「早く、なんとかしなくてはね」

 何度も何度も呟いたことを、彼女はそっと口にした。

 現在、彼女たちが戦っている相手は、マジェス皇国の海軍である。発端は、彼(か)の国を襲った飢饉だった。

 そもそも、マジェス皇国の第二皇子であったにもかかわらずカイ・メルス・ロータ・マジェスにその役が任せられたのは、彼にある特別な素質が備わっていたからだった。彼は世界にほんのわずかしか存在しない、精霊たちに愛される人間だったのである。そして特に彼が幼い頃から彼を愛し守っていた精霊の乙女こそが、マリスニールだった。

 二人は、アルヴァンテスの精霊たち、人間たちと理解し合い、共に暮らしていくために力を尽くした。その努力が報われ、カイが連れてきた精霊たちと人間が、新たな住人だとアルヴァンテスのすべての者達に認められたとき、マジェス皇帝はこの南の大陸をマジェス皇国の領土とし、カイにドルゴールの名を与えて初代の領主に任じたのである。

 それが、今から百二十年ほど前のことだが、そのあとにマジェス皇国を含むレイス大陸全土に、徐々に気候の変動が起こったのだ。

 気候というものは天気の状態だけでなく、自然の子供である精霊の存在にも大きく左右される。精霊と人間が共生しているならば、その地は温暖な気候と豊穣を約される。反対に両者の関係が穏やかなものでなければ、住んでいる人間たちは神秘の種族と自然界からの恩恵を受けにくくなる。大地が存在する位置に相応しい恵みだけで生きなければならないのだ。知恵と工夫をこらせば生活は可能であるが、つらい環境なのは否めない。

 少しの期間だがレイス大陸が平常でいられたのは、残った精霊たちの力に支えられていたからだ。レイスでは共生とはいかぬまでも、互いの存在を互いに認めていた。それが壊れたのは、新たに即位したシャルロット一世が、女帝となってすぐに行った、宗教に関する大々的な改変が原因だった。

 もっとも、百二十年もの間それがなかったことが奇跡なのかもしれなかった。レイス大陸はもともと多数の国があり、それぞれ独自に文化を築き、発展した。故に宗教も多く、大陸が統一されてもその風潮は変わらずに続いてきた。その教えの多くが、精霊族に繋がるものであったから、信仰を統一する必要がなかったのかもしれない。アルバート暦三年に国教としてエルネイス教がマジェス皇国内で定められたが、信じる神を強制するようなことはしなかった。

 その均衡を、野心的な女帝が崩したのだった。彼女は完全なる国民の心の統一を宗教によって実現せんとし、これまで親しい隣人であった神秘の種族は、女帝の発した厳しい法令により一転して邪神の眷属となった。西の大陸のようにあからさまな迫害はなかったものの、人々は精霊族の存在を自分たちの生活から切り離した。

 そうなると自然に、彼女たちは人が足を踏み入れない場所に身を隠したり、またあるいは新たな住処を求めて故郷を去っていき、自然の子らから人間のために与えられてきた力は大陸から徐々に薄れていった。そうして、とうとう大陸は冷たい夏を迎えたのであった。



(もとはといえば、自業自得でしょうに。何故こちらに矛先を向けたのかしら?)

 美しい精霊は、ますます眉をひそめた。彼女はこの質問を、カイの直系の子孫であり現在のアルヴァンテス領主、ジョシュア・ラドク・ドルゴールにしたことがあった。

『国内の不満を、外に向けて逸らすためだ。国民はドルゴールのことはもちろん知っているが、ここの軍の規模がどれほどのものなのかはおそらく知らない。もしも、マジェス皇国のそれより遥かに小さな軍だということを理解しているのなら、この遠征が迅速に行われることはなかっただろう。民の不信を抑え出征の準備を整えるために、少なからず手間取ったであろうから』

 彼女は知らなかったが、マジェス側はアルヴァンテスへの侵攻に宗教的な意味をも持たせていた。精霊――すなわち邪神の眷族が住む地を聖なる光神エルネイスの名の下に解放するための聖戦と、シャルロット一世は民に対して宣言していた。エルネイス教を国内に確実に浸透させるためにも、今回の戦は格好の口実だったことだろう。とにかく領主の言葉を聞いたことで、マリスニールは彼の反対を押し切って戦場に立つ決意を固めたのだった。

 アルヴァンテスは、実りの豊かなである。本国との繋がりがなくとも生きていけるほどに。それを恐れてか本国は、刃向かうことのないようにと、毎年視察官が送られてきて郡の規模なども詳しく調べていく。ジョシュアはそれに特に異論を差し挟むことはないが、どんな事態にも備えられるように領内の成人男子たちに自警団を作らせ、戦闘の訓練なども行っていた。それが、今こうして役に立っているが、ジョシュア自身もそれを望んでいたわけではない。もちろんその人数を加えても、とうてい皇国の軍人たちにかなうはずがなかった。

(それでも、十年間持ちこたえてきた)

 アルヴァンテスの大地は、一度もマジェスの者達に侵されたことがなかった。それは、マリスニールが呼びかけ、それにすべてとはいかなかったが同胞達が答えてくれたおかげだった。精霊の力は森羅万象に通じるもの。荒ぶる風を呼び、炎の柱を打ち建て、海は渦を巻き、岩が空を飛んだ。人間たちも、果敢に戦った。

 けれども、そうやってきた十年の間で、やはりこちらの犠牲のほうが多かった。なにしろマジェス軍は本国からぞくぞく増援を送り続けてくるし、とりわけ戦いに不慣れな精霊達の被害は深刻だった。彼女達とて、不死でも万能でもない。マリスニールはそれに深い責任を感じ、傷ついた同胞を血の匂いのする海から遠ざけたのである。

 早期の決着を、と彼女が望むのは、こういう事情からだった。

「一人で考えこまないで」

 華奢な彼女の肩を、女の手が軽く叩いた。彼女が振り向いた視線の先には、黒髪を霧のためしっとりと濡らした女が、薄青の目を笑みの形に細めて立っていた。身に着けているのは軍服でもマリスニールのような普段着でもなく、赤を基調としたローブだ。

「悪い癖よ。それとも、このリーンファさんが信用できないとでも言うのかしら?」

「そんなことはないわよ」

 リーンファは、今度は豪快に声を上げて笑った。

「うそうそ。でも、そういう暗い顔しないの。美人はどんな顔でも美人だけど、やっぱり笑ってるのが一番なんだからね」

「何を言っているの、まったく」

 つられてマリスニールも笑う。リーンファという女性は、とにかくいつでも明るくてさばさばしている。十年間、こんなふうにマリスニールを支え、元気づけてくれたのはたいてい彼女だった。

「ま、確かにこのままだと完全にこっちの負けだけど。それを全部自分のせいだなんて考えないでよ。悪いのはあいつらなんだから」

 マリスニールの隣に移動して、リーンファはさらりと言った。声が大きいので、マリスニールは気圧されてしまう。

「大丈夫よ。勝つための手段なんていくらでもあるわ。ちょっと目をつぶればね」

「それって、汚い方法ということ?」

「だから、目をつぶってってば」

 やはり、汚い手段のようだ。マリスニールはそっと溜息をつく。

「あまり気は進まないけれど……それを選ぶしかないのかもしれないわね」

「そーゆーこと。数に対抗するには作戦よー」

 豊満な胸を張り、堂々と宣言する彼女に苦笑して、マリスニールはかねてから訊いてみたかった疑問を唇に乗せた。

「ねえ。あなたには視(み)え≠トいるの? この戦いの行方、大陸の未来を、あなたは初めから――」

「マリスニール」

 声音は変わらなかったが、リーンファの瞳から楽しげな色が消えていた。マリスニールははっと口を抑え、小さく謝罪する。

「ごめんなさい……。あなたに甘えてしまったわ……」

「ま、それはしかたないんだけど。でも知ってても言わないわよ。予言者の力は生誕の時視(ときみ)≠ニその他失せもの探しに使ってれば十分なの」

「ええ、そうね。それがあなたの主義ですものね」

「あ、皮肉?」

「違うわよ。本当に悪いと思っているわ。ごめんなさい」

 重ねて彼女が謝ると、リーンファはそれ以上なにも言わず、顔を霧に向けて黙ってしまった。

 リーンファは恐らく、アルヴァンテスで最も古い血筋の者である。時を読み、人間の持つ潜在的な力や素質を視る一族ラルジェアは、マリスニールとカイ達が海を渡ってくるずっと以前から、大陸の長(おさ)的な存在として血を絶やさずにきた。彼らが率先して動いてくれたからこそ、カイとマリスニールを初めとする、よそからきた者達が受け入れられたといっても過言ではない。彼らがうなずき、異国の皇子の手を取ったことで、大陸の民は新たな仲間と認めてくれたのだ。その一族の一員であるリーンファにも当然、時を読む力が先天的に備わっていたが、彼女はそれをあまり使いたがらない。

(そうね、彼女の力に甘えてはいけないわ)

 彼女と同じように、マリスニールも霧の彼方を凝視する。

 この霧が晴れたときが、最後かもしれない。マリスニールはふとそう考えて、あわてて首を振ってそれを打ち消した。そんなふうに思ってしまっては、どんな可能性も見出せずに終わってしまう。

「いいこと教えてあげようか?」

 気分屋な黒髪の女は、唐突に明るくマリスニールに話しかけた。かえってマリスニールのほうが面くらい、きょとんと瞬きを繰り返す。

「昔読んだ書物にね、いいこと書いてあったんだ。ちょっと耳貸して」

 時折くすくす笑い声を交えながら、予言者がささやいてきたことは、炎の乙女を唖然とさせた。

 

 

 

 


ええと、某懸賞に応募して

落ちた作品です。ああこれ以上

書くことがない(汗)。落ちはしましたが

私は個人的にこの話が

とても気に入っています。とても長いですが

皆様に読んでいただけたら

嬉しいです。因みにこの話の設定は、

「金の王子様」と同じなんです。時代は

違いますけどね。

 

 

 

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