ユーティスは、有香を好きだと言ってくれた。

 有香も、ユーティスを好きだった。

 それは真実だ。この先も絶対に変わることはない。

 そのために起きてしまった、あの悲しい出来事も、それは同じなのだとしても。

 有香の家の庭、その片隅に小さな小さな墓がある。中学生だった彼女が、自分の手だけで作ったもの。だが、葬られるべきものは、ない。

(ユーティス)

 あの日は、まだ夏だった。

 ――ユーティス!

 自分は、彼を呼んで。



「ユーティス」

 札幌の中心部を、有香とユーティスは歩いていた。特に目的があったわけではない。彼と一緒に歩けることが、とにかく嬉しかったのだ。

「ねえ、次はあっち側に行ってみようよ」

 人の姿になったユーティスの袖を引いて、有香は道路の向こうを指さした。ここは大通公園。平日でも天気のいい日にはたくさんの人が集まる。

 有香とユーティスは、学校が終わると真っ直ぐに公園にきたのだった。デートがしたいと、有香が望んだからだ。とにかくそのときの彼女は、幸福に有頂天になっていた。

 大通公園は、道路をいくつもまたがっている。ゆっくりと、公園の端から端までを散策すると、かなりの距離を歩くことになる。有香達はそうして歩いてきて、いくつ目かの横断歩道を渡ろうとしていた。

 勢いよく、ユーティスが顔を上げたのは、信号が青に変わる関わらないかのときだった。

「ユーティス?」

 目を見開いて、彼女は彼を見上げ。

 直後、身体が持ち上げられた。

「うわああ!?」

「なんだ、あれは!?」

「警察だ、警察を呼べ!!」

 そんな喧噪が、一瞬遅れて有香の耳に届く。彼女はユーティスに抱きかかえられて、もといた位置からかなり離れたところに移動させられていた。

「何……? 何が起きたの?」

「魔法士です、有香様」

 緊迫した口調で、ユーティスはささやいてますます有香を深く抱き込んだ。

 悲鳴が聞こえる。ユーティスの身体に目隠しされて、何が起きているのか彼女には見えなかった。それが怖くて、しっかりと彼にしがみついていた。

「大丈夫です、有香様」

 背中を、なでられる。

「あなたは、私がお守りします」

「……うん」

 それだけで、不安が跡形もなく消えた。彼がいれば何があっても大丈夫、そう思った。

 腕の中の彼女を、彼は見下ろして微笑んでくれた。同じ表情を返そうとしたが、彼が大きく震えたのが伝わってきて、彼女ははっとした。

「どうしたの、ユーティス……?」

「大丈夫です」

 間髪おかず、彼は応えた。そして、ますます深く有香を抱き込む。

 不吉な予感を覚えた。

「ユーティス、ねえ、放して」

「駄目です。今、そこで男が暴れていて……危険です」

 そのときもまだ、確かに悲鳴と怒鳴り声は続いていた。何を言っているのかはわからないが、緊急事態なのは充分わかる。だからこそ、何が起きているのかを有香は知りたかったのだ。

 ユーティスが、心配で。

「放して、お願いだから!」

「駄目です」

 懇願するほど、ユーティスの腕の力は強まっていく。次第に、痛いほどになった。

 それでも、彼は有香を解放してくれようとはしなかった。

 怖くて、不安で、有香はとうとうもがいた。何かが起きている。直感でそう悟っていた。この場にではなく、ユーティスにだ。

「ユーティス! ねえ、さっき何かあったんでしょ? お願いだから、放して!」

「いけません――っ、有香様!」

 くん、と。

 視界が、揺れた。すぐにひどい目眩がやってきて、有香の身体から急激に力が抜けた。

「お許しください……ですが、私はあなたを……」

 わんわんと、頭の中でひどい反響がしていた。その中にとぎれとぎれに、大好きな人の声が混ざる。必死で、彼女は頭を持ち上げた。

 刹那、周囲が遠ざかった。

「あなたは、必ず私がお守りします」

 彼の笑顔は、これまで見てきた中で一番綺麗で、優しかった。

 彼の声は、これまで聞いた中で一番温かく――切なかった。

 心の一点から、冷たい感情が一気に指先まで広がった。

 それが『哀しみ』だったのだと、知るよりも先に彼女は気を失っていた。

 ――目覚めると、病院だった。それからわずか数分後に、有香はそのとき何が起きていたのかを教えられた。そして、大きなものを失ったことも。

心のえぐり取られた部分を補ったのは、憎しみだった。



「これが……<彼>ですか?」

 音を立てず、クロスが歩み寄ってきた。振り返らずに、有香はうなずいた。

「ユーティス……私を守って、死んでしまった人」

 あの日、有香達を襲った事件。魔法士による大規模なテロ行為の一つとして記録されている、通称<大通り7.3>。犯人の男が一人だったこと、<会社>の対応が早く、けが人も全員軽傷で死者がいなかったことで、魔法士に対する社会の反感はそれほど高まらなかった。

 確かに、『死んだ人間』はいなかった。喪失に泣いたのは、有香だけだった。憎しみに眠れない夜を過ごしたのも、やり場のない怒りに突き動かされて、夜の街を力の続く限り駆けるしかなかったのも。

 有香だけ、だった。

 ユーティスは、死んだ。有香を庇って、犯人が撃った魔法の攻撃に当たったのだ。異変を察知した有香を、それでも微笑んで、抱きすくめて。

 最期の最期まで。

「ユーティスは、私を守りきってくれた……」

 有香が失神してしまったのは、怪我をしたユーティスが一気に有香から魔力を吸収したためだ。だが、彼はその力を自らの治療ではなく、犯人が力尽きるか、或いは取り押さえられるまで彼女の盾となるために使うことを選んだ。

 犯人が、<会社>の魔法士達によって捕縛された直後、彼は消滅したらしい。現場に駆けつけた魔法士の一人から、有香はそのときの様子を聞かされた。

 ――この人を頼む。――

 その言葉を最期に、彼は消滅したのだという。使い魔は、命が終わるとき塵のようになって消えるのだ。

使い魔は、もともと魔法士が創り出す存在。生殺与奪は、主である者が一切を司る。ゆえに、魔法士の一部と見なされる。

 つまり、たとえ彼らを傷つけても、罪には問われない。

 ユーティスの死を突きつけられ、半狂乱になった有香に、事情を説明してくれた魔法士は静かにそう言った。

 ユーティスにしたことを罪として、あの男を裁くことはできない――。

 ぎり、と奥歯を噛みしめる。あのときの憤りは、悔しさは、憎しみは、きっと一生忘れることなどできない。

 だが。

「……忘れることはできなくても」

 ゆっくりと、有香は温かいものに包まれた。

「どうか、思い詰めることはなさらないでください。これからは、私が」

 身体の前にある、大きな手に有香は自分のそれを重ねた。

「私が、お傍におります。ずっと。お約束します」

「……うん」

 ユーティスを死に至らしめた、あの男が許せなかった。

 その男を裁くことができないという、その事実が許せなかった。

 けれど一番許せなかったのは、彼を犠牲にしてしまった自分。

 有香は、高校合格の通知を受け取ると同時に、正式な<会社>所属の魔法士となった。魔法に関することは無理でも、体力作りはあの日からずっと続けていた。<会社>に入ってからは、死にものぐるいで魔法の理論・実践に取り組んだ。そして、犯罪を犯す魔法士達を、無我夢中で捕縛した。

 それが、ユーティスへの罪滅ぼしになると思ったから。

 有香が<会社>の仕事をするのは、彼のためと、自分への罰だった。

 クロスを使い魔として生み出したのは、<会社>に入って半年後のことだった。

「クロス」

「はい」

「私、あなたに謝らなきゃ」

そっとクロスの手を外させて、有香は彼のほうに向き直った。一度深く深呼吸して、彼女はきっぱりと口を開いた。

「私、あなたをずっと、道具みたいに思ってた」

彼は、まったく反応を示さなかった。瞬きすらしない。揺れる瞳を、有香は彼から逸らさないように懸命だった。

使い魔がいなければ、広範囲での犯人探索は困難だった。そのことを痛感させられた有香は、かなり迷った末に使い魔を生み出すことを決めた。だが、新たに誕生した使い魔の姿を見て、愕然とした。

青い瞳の天馬、だった。

すぐに、有香はその使い魔を……別の形に変化させた。

しかし、何度変化を繰り返させても、必ず使い魔の身体から消えないものがあった。

翼。

「あなたの……コウモリの羽根を持った蛇であるあなたの姿になったとき、もういいかなって思ったの。天馬の翼は白鳥のものだけど、あなたのはコウモリで……消せないのなら、しかたないけど、コウモリならって、無理矢理納得することにした」

 人の姿になったその使い魔は、ユーティスとは似ても似つかなくて、それも有香を安堵させていた。

 ユーティスはどこにもいない。ならば、彼ではない使い魔は必要ない。そう思いながらも結局使い魔がいなければ魔法士として思うように働けない自分に苛立ち、ますます彼女は訓練と仕事に打ち込んだ。

 そして、一年。

 やはり自分は、一生ユーティスを背負っていくのだろうと、思い知らされた。

「私は……あなたを好きなんじゃない。あなたにユーティスを重ねてるだけ。だから、あなたが死んでしまうのは耐えられない……そういうことなんだって、わかったの」

 一歩、彼女はクロスから後ずさった。足下にある、ユーティスのための墓石に、視線を転じる。

「ごめんなさい」

気を抜くと、泣き出しそうだ。

「やっぱり私、あなたを生んじゃいけなかった。彼を通してしかあなたのことを考えられないなら、あなたを使い魔としてそばに置いちゃいけなかった……」  ユーティスを思い出したくなくて、冷たく接した。ユーティスでないのならば、いらない。そう、自分に言い聞かせ続けてきた。

 この使い魔は、道具。自分はユーティスを裏切っていない。

 そうやって、自分を安心させるために。

「謝ってすむ事じゃない。今更こんな事言ったって、どうにもならない。……だけど……私は、あなたに謝ることしかできない……」

 ごめんなさい。

 深く頭を下げて、彼女は言葉を絞り出した。

 欺瞞でしかないと、嘲笑う声が自分のうちから聞こえてくる。

 落とした視界の中で、クロスの足が動いた。

 反射的に強張った有香の肩を。

「――っ!?」

「思い詰めないでくださいと、言ったばかりです」

 クロスが、有香の腕を引いて、抱き込んでいた。

 驚いて、無意識にそこから逃れようとする有香の上に、クロスの声はゆっくり降りてくる。

「あなたが何を想い、私を生み出してくれたのか。少し前ならば、知ることで狼狽えたかもしれません。けれど、今は違います」

「クロス……放して」

「私は、あなたを大切に想っています」

 呼吸が、

 鼓動が、

 思考が、

 ――止まった。

「あなたが大切です。あなたは、私のすべて。あなたが私をどう思っていようと、……私を、誰かの身代わりにしていたとしても、私の心は変わらない」

 一度、クロスの身体が離れ、すぐに。

 彼の唇は、有香の額にそっと触れた。

 信じがたいほど優しく、驚くほど熱く。

「マスター」

 口づけが、額から頬に降りてきて、

 有香は耳朶に触れるささやきに身を震わせた。

 熱い。

「あなたを愛しています、マスター――有香様」

 呼ばれる名前の響き。

 それは、もういないあの人とまったく同じだったのに。

(――違う)

 わき上がってくる想いの色が。もたらされる感情が。

 あの人とは、違う。

「クロス……!」

 彼の名を口にするより早く、有香の唇は、彼のそれにしっとりと覆われていた。

 唇を重ね合う歓びは、有香が知らなかったもの。あの人が、教えてくれなかったもの。

 有香は、泣いていた。

「あなたを愛していくことを、お許しくださいますか?」

 目に涙を一杯にためた彼女が、答えるより早く彼は言葉を続けた。

「それだけで充分です。ですから、有香様」

 こぼれる涙は、クロスの唇が吸っていく。

「……私、ずっとユーティスを忘れられない」

「はい」

「何年経っても、あなたに応えられないかもしれない」

「はい」

「……それでも?」

 問いかけには、口づけが返された。

「あなたの望むままに。ずっと、おそばにおります」

 抱擁。

 有香は、おずおずと腕を持ち上げて、クロスを抱き返した。




「ねー。有香あんた私になんか隠してるでしょ?」

セーラー服の袖をまくり上げて、下敷きでばたばたと顔を扇ぎつつ、購買のパンを食べていた朱鷺緒が、いきなりそんなことを言い出して有香は思わず箸を止めた。

「何、藪から棒に」

「彼氏できたでしょ」

 ……ここで、箸を落とさなかったのはよくやったと自分でも思った。

「根拠は?」

「最近綺麗になった。雰囲気が柔らかくなった。あと、コスメとかにも気を遣ってる。その他」

 朱鷺緒は、観察力が異様に鋭い。しかも、余計なことによく気づく。

「あんたの考えすぎ。化粧品とかは、もうすぐ夏なんだからしかたないじゃない。日焼けしたらあとで大変なんだし」

「……ほら、やっぱり」

「何が?」

「『日焼けしたら大変』なんて。去年の有香は、まったくそんなこと気にしなかった」

「……」

 本当に、余計なことにばかり記憶力が働く。どうにかして切り抜けないと、彼女はきっと満足幾回答を得られない限りしつこくしつこくしつこくしつこく追求してくるだろう。伊達に一年以上同僚はやっていない。

「さー有香。正直に白状しちゃいなさい! 彼氏できたでしょ!?」

「できてない」

「隠すとためにならないよ〜。なんだかんだ言っても身体は正直なんだから〜」

「わけわかんないよ」

「ねーねーってば、有香〜」

朱鷺緒は、筋金入りのしつこい性格の持ち主だった。

 どうしたものかと、有香は髪の毛をかき回す。

『マスター』

 ――絶妙なタイミングで、朱鷺緒と有香の間にその影が割って入ってきた。

「クロス」

「ちょっ、どうしたの!?」

 今いいところなのにーと喚く朱鷺緒に、巨大な翼蛇は優雅とさえ表現できる仕草で一礼した。

 そして、すぐに有香を振り返る。

『<会社>より連絡です。できるだけ速やかに、マスターにお越しいただきたいと』

「わかった。今から行く」

「ええー!」

 最後の声は、もちろん朱鷺緒。

「なんで有香だけ!? 私も一緒に行くよ!」

「授業始まるでしょ。それに心当たりあるから、一人で行ってくる」

「何それー!?」

「先生に説明よろしくね、朱鷺緒」

 有無を言わせない勢いで、有香は一方的に指を突きつけ、朱鷺緒を置いて教室を走り出る。少し後ろには、クロスがついてきている。

「ありがとう、助かった」

『いいえ』

 振り返らないで、短く交わす言葉は、今は特別で大切だ。

 愛していると言われてから、もう半月。しかしクロスとの関係が変化したことを、まだ公にするのは気恥ずかしい有香だった。クロスに、人前では「マスター」と呼ばせるのもそのせい。

「ところで、本当に<会社>から呼び出しがあるの?」

 廊下の、人気のないところで、有香は足を止めた。巨大な蛇は、すでに青年の姿に変わっている。

「有香様がいらっしゃるのでしたら、私はお供いたします」

 確信犯の笑みを、二人は交わし合う。

 ――数分後、青い空を横切る巨大な翼持つ蛇の影が、力強く飛び立った。

 その背に、最も大切な存在を乗せて。











予想以上に長くなってしまったものでした。

そもそも、紅月さんとの相互リンク記念で、

リクエストいただいて書いたものでした。

ラブラブバカップル……どうだったのでしょう……。

紅月さん、地元が実は近い同士

よろしくお願いします。





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