自分を探しにきてくれた、大好きな友達を見出して有香はぱっと表情を輝かせる。翼を持つ純白の馬――天馬は、有香の目の前まで降りてくるとその姿を変じた。
「まったく……今日はいつもより遠くまでお出かけですね、有香様」
金色の髪、青い瞳の青年。背には翼。小さな頃から、彼の美しさが、有香は大好きだった。そして彼の優しさはもっと好きだった。
中学生になる頃、その気持ちは少しずつ変化していた。ユーティスは兄弟でも友人でもなく、有香にとってかけがえのない存在になった。
けれど、それを彼に言おうとは思えなかった。彼は使い魔、人のような感情は持っていないかもしれない。だから、半ばあきらめていたのだ。
そして、その代わりにユーティスが自分を探しに来るようにし向けた。探しにきてくれる瞬間が幸せだった。ユーティスにとっての自分の価値を、噛みしめることができた。
「有香様」
その日も、ユーティスは彼女を捜しにきてくれた。そして二人、川沿いの道をゆっくり家まで歩いていた。学校帰りのセーラー服姿のままの有香が先を行き、数歩後ろからユーティスがついてきていた。
「あまり、知らない場所にまで行かれるのはお控えください」
いつもの小言。けれど、彼の口調はいつも優しいから、有香も甘えてしまう。確信犯の『迷子』をやめることができない。
「だって、あちこち行ってみたいんだもの。高校に入ったら、多分私も正式に<会社>に入ることになるんだろうし……今のうちに、札幌の地形くらいは覚えておかないと」
<会社>、正式名称は国際魔法擁護団体。この団体で実施される適性試験により、魔法士は子供の頃にその素質を見出され、団体に登録される。魔法士であること、並びに魔法士としての心得などは、ある程度の年齢に達してから研修という形で叩き込まれる。
有香はまだ中学生、むやみに魔法を使ってはいけないと両親に教えられ、また年端もいかない魔法士が力を抑制できずに犯罪に走ることのないようにと、研修終了まで装着を義務づけられている魔力制御の腕輪のため、攻撃的な力は使えない。もしも何かを傷つけるために魔法を使おうとする意志が働いたならば(それは、盗難などの場合にも当てはまる)、魔法が発動する際に特殊な波動が出るらしい。腕輪はそれを感知して、それを抑える働きをする。
だから、使い魔をそばに置くことはできても、使い魔に攻撃やその他の犯罪を命じることはできないのだ。もっとも、有香には最初からそんなつもりはない。ただ、ユーティスがいればよかったのだから。
<会社>を引き合いに出した有香の言い訳を、忠実な使い魔は信じたのかどうか。しばらくは、沈黙が続いていた。
「――有香様」
ややあって、口を開いたのはユーティスだった。
静かな調子に、彼女も足を止めて彼を振り向いた。彼は、凪いだように揺らがないまなざしで彼女を見ていた。
「この街のすべては、私が覚えています。私が学んでいきます。これからずっと」
「ユーティス?」
「だから、有香様」
彼は、有香との距離を縮めて、おもむろに膝をついた。有香が驚いている間に、彼は彼女の両手を自分のそれですくい上げて。
「っ!?」
「どうか、あまり危険なことはなさいませんよう」
いつもは見上げている彼の青の瞳が、低い位置にある。視線の強さと、込められた想いの真摯さに、有香はどぎまぎした。
ユーティス、と呼ばわる声すら、満足に紡げない。
対照的に、彼の言葉は流れるようだ。
「あなたが望むなら、私はあなたを見つけにどこまでも行きます。あなたのかわりに、どんな遠いところにも赴きます。だから……有香様、私は」
奇跡が、降ってきた。それはふわりと優しくて、火のように熱くて。
有香は、頬を染めて唇を振るわせ、身体を壊してしまいそうなほどに激しく駆けめぐる、強い何かと懸命に戦わなければならなかった。
けれど、彼女はそれ以上にこのとき、幸せだった。
右手の指先が、燃えていた。ユーティスが躊躇いがちに唇で触れた箇所。そこは、炎だ。しかしそれでいて、同時に氷のようでもある。熱くて、冷たい。
それが、この上なく心地よい。
「私は、あなたをお慕いしております」
この、音律が紡いだ彼の心が。
最上にして最高の、奇跡。
「あなたが大切です。何よりも――有香様」
真っ暗だった。音も聞こえなかった。有香は、そこに一人うずくまっていた。
自分はどうして、ここにいるのだろう。何が起きたのだったろう。思い出せない。思い出したくない。
「……有香」
肩に、何かが置かれた。反射だけで、有香はのろのろ顔を上げる。
目の焦点が合わず、目の前に何があるのかわからない。しばらくそうしていると、揺さぶられた。
「有香、しっかりして」
知っている、少女の声。
「と、きお……?」
「そうだよ。大丈夫? <会社>から連絡うけて飛んできたら、こんな魂抜けたみたいになって」
<会社>からの連絡。何かあったのだろうか。緊急に、有香達魔法士が動かなければならないような――。
(出かけないと……)
空洞の中に響くように、頭の中で意思が反響している。
出かけて、事件を解決しなければならない。自分は魔法士だから。
それしか、彼女は罪滅ぼしの方法を思いつけなかったから。
「ちょっ、有香!」
朱鷺緒が、腕をつかんで引いてくる。どうして邪魔をするのだろう。行かなければならないのに。
「行かなきゃ……。私は、魔法士なんだから……」
「クロスがこんな時に、どこに行こうって言うの!?」
――頭から、氷の柱を打ち込まれた。
その一言がもたらしたのは、こう表現するのがふさわしい衝撃だった。
信じがたい量の情報が、怒濤の勢いで有香に押し寄せた。有香は思い出した。自分がここにいる理由、ここに来ることになった経緯を。
「クロス……」
自分を庇って、
鱗と翼を持つ彼女の使い魔は。
「あ……ぁ……!」
倒れて、動かなくなった。冷たいアスファルトの上で。いくら呼んでも揺さぶっても返事をしなくて目を開けてくれなくて手を握り替えしてもくれず名前を呼んでくれず見つめてくれない触れてくれないもう二度と
「いや……いやああああああああああああああああああ!!」
帰ってこないまた有香は残されるあのときと同じもういやなのにもう二度とあんなことはいやだったのにどうして!!
「有香っ!!」
がくん、と頭が震えた。身体の重心が傾いて、彼女はそのまま床に転ぶ。
「しっかりして、有香! 落ち着いてちゃんと考えて!」
敷き詰められたタイルの冷たさが、ついた掌から伝わってきた。その冷たさと、打たれた頬の痛みで、有香の思考は一瞬だけ途切れた。
そして、それは幸いした。有香はようやく、泣き出しそうな顔で拳を握りしめる友人に焦点を合わせることができるようになった。
「朱鷺緒」
「そう! 朱鷺緒だよ! 有香、ちょっとはもの考えられるようになった?」
ぶっきらぼうな言い回しと、心底安心したような表情がちぐはぐだ。朱鷺緒は有香に手を伸ばして、彼女が立ち上がるのを手伝ってくれた。
「……そうだった。クロスが、わたしを庇って……」
「それで、近くの民家から<会社>に連絡がいったの。有香が取り乱してたから、心配だったんだって」
「……」
その辺りの記憶は、有香自身にはない。相当に取り乱していた事実を突きつけられ、いたたまれなくて彼女は唇を噛んだ。
けれど、今はそれより何よりも。
「クロスは? クロスはどこ?」
朱鷺緒の腕を力任せにつかんで、有香は詰め寄った。自分を庇った――守ってくれた彼がどうしているのか。
友人の少女は、顔を僅かにしかめながらも「大丈夫」とうなずいた。
「私は、それを有香に知らせにきたの」
彼女の手を外させて、朱鷺緒は有香を促した。
「ついててあげて。もうすぐ目が醒めるはずだって。魔法医の先生が有香を連れてこいっていったの」
魔法医は、魔法士はもちろん、その使い魔の治療にも携わる医師だ。有香はゆっくりと、朱鷺緒の言葉を頭の中で噛みしめる。
「魔法医の、杉村先生が……目が醒めるって、言ったのね?」
言葉の一つ一つを、確かめるように区切る。朱鷺緒も、そのたびに首をこくこくと振る。
そしてその最後には、笑顔。
「そう。だから、有香。目覚めて一番に顔を見せて、安心させてやりなよ」
クロスは、無事。生きている。ここにいる。
――生きている。
「有香!」
膝がくずおれた彼女を、朱鷺緒があわてて支えてくれた。
病室のベッドに、巨大な有翼蛇が横たわっている。有香はそのそばに座って、じっと待っていた。朱鷺緒と魔法医の杉村は、気を遣ってくれたのか部屋を出て行ってくれた。何かあっても、コールボタンを押せばすぐに駆けつけてくれるという。
「クロス……」
ようやく、有香も自分の魔力の動きを感知できるほどに冷静になることができた。自分の中から、魔力がクロスに流れ込んでいっている。クロスを癒すために。
そう。有香には、わかるはずだった。クロスがもしも死んでしまったのなら、その魔力の変化が彼女に感じられないはずはない。使い魔と主は、一心同体なのだから。
(恥ずかしい)
らしくもなく、取り乱していた。クロスが動かない、それがひたすら怖かった。
また、一人残されるのかと思うと、どうしようもなく恐しくて、どうしていいかわからなかった。
――こんな形で、一番気づきたくなかったことに気づいてしまうなんて。
どうすればいいのだろう、これから。変わらないわけにはいかない。目を背けられるほど、有香は強くない。
どうしよう。
ある日突然、あるものに対する認識がまったく変わってしまうことは、かなりたちが悪い。
「――!」
クロスの身体が、動いた。彼女は身体を浮かせて、ベッドの端に両手をついて覗き込む。
『……う……?』
「クロス」
クロスの首が、そろそろと持ち上がった。
『マスター』
間違いなく、クロスの声。聞きたいと切望した、有香の大切な使い魔の、声。
『……マスター?』
次に聞こえた彼の言葉は、どういうわけかとても近かった。有香はいつの間にか閉じていた目を開けて――絶句した。
彼女の両腕の中に、クロスがいた。額も、頬も、彼を感じていた。
『申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました。けれど、大事はありません』
「……」
彼は、使い魔だけれども現実にいる普通の蛇と同じく、鱗を持っている。だが、掌に触れる彼のそれは、決して不快ではなかった。
むしろ、ずっとこうして……。
(やっぱり、私)
考える時間すらなかった。気持ちを整理する前に、身体が、心が動いていた。もう、手遅れだ。
「クロス、私……」
瞬きすると、頬を何かが流れていった。彼女は、ますますクロスに顔を押しつけた。
涙しか出てくれない。言葉は、嗚咽に阻まれる。胸がいっぱいで、泣くことしかできない。
クロスが、こんなにも自分にとって重要なのだ。
その事実が、痛い。
「泣かないでください、マスター」
肩が、背中が。
温かくしっかりと、包み込まれた。
「クロス……」
「泣かないで、ください」
彼は、人の姿をとっていた。そうして、有香を抱き締めてくれている。
有香の胸を締めつける何かの、形が変化した。それでも、苦しくて。
有香は、またはらはらと涙を流す。
「どうして、マスターは泣かれるのですか?」
クロスが困っているようだ。でも、涙が止まらない。止められない。
彼を抱く腕に、力がこもってしまう。もう、嗚咽もこらえきれず、有香は小さな子供のように声を上げて泣いていた。
「マスター、どうか」
「ぅっ……う……」
「マスター」
優しい声。優しい手。失いたくない。そばにいてほしい。もう二度と――。
「いなくならないで……」
<彼>のように、置いて行かれてしまったら、もうきっと立ち直れない。
「……一人にしないで……」
あんな悲しい想いは、絶対に絶対に。
泣きじゃくる彼女の髪を、何かがそっとなでていった。
驚いて、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げると、クロスの目が間近にあった。
褐色の頬に、鱗が。切れ長の瞳は――。
(ああ……!)
ユーティスの双眸は、晴れた空の青だった。クロスのそれは、闇のような黒。
けれど、彼女をじっと見つめてくる視線の色は、同じ。
「好き……」
ぽろり。
有香の唇から、たった一つの言葉が落ちた。
「あなたが好きなの……」
「マスター?」
いつからかは、わからない。
でも、本当はこの気持ちは殺すつもりだった。ユーティスを、裏切るのと同じだと思ったから。ユーティスが最期の最期まで自分に向けてくれた心を、ないがしろにするのと同じだと。
(ごめんなさい)
心の中で、彼女は今はもうどこにもいない青年を想った。
(ごめんなさい、ユーティス)
だがもう、自分はこの手を放すことができない。
「マスター、私は」
クロスの右手が、有香の髪に再び触れた。何かを言いかけ、唇を閉じる。
有香は、じっと待っていた。
彼の目が、見つめてくる。強く、深く。吸い込まれそうな錯覚に、有香は瞼を閉じた。
半ば、それを予感していた。
そっとそっと、唇に降りてくる温もり。遠慮がちなところが、いかにも彼らしい。くす、と思わず笑いが漏れる。
と。それに戸惑ったのか、彼が遠ざかっていきそうになる。有香は夢中で伸び上がり、自分から彼を求めた。
何度も、繰り返していたかもしれない。
――離れないで。
――放さないで。
それだけを。