北のレイス大陸から、移民団の長としてここアルヴァンテス大陸へやってきてから、月が二度丸くなった。その間に彼は皇子という立場が、本当に身分しかないものだと思い知らされた。友人のカーサや乳兄弟のルディルは家を建てるため、材木を運んだり設計図を書いたりできるのに、自分は足手まといなだけなのだ。
「沈んでいるね、カイ?」
名を呼ばれ、座り込んだまま顔だけを後ろへ向けたカイは、次の瞬間破顔した。ここへ来てから、何かとカイを助け励ましてくれた、綺麗な青い目を持つ人がそこにいたからだ。彼はまた、この異国にあってカイ達と同じ言葉を流暢に操れる唯一の人物でもある。
「サージェンさん。今日は、ルシエは?」
「君の連れてきた、小さな精霊と遊んでいるよ。とても仲がいい」
サージェンは、静かにカイの隣に座った。やや長めの黒い髪が流れるのを見るとはなしに目で追って、カイは心が穏やかになるのを感じていた。
サージェン・ラルジェアという人は、一言で表せば神秘的だ。彼には、時を読む力があるのだという。カイ達の言語が操れるのも、彼がその力によりカイ達がやってくる未来を知り、そのときに備え精霊達から協力してもらったためと言うが、具体的にその力というのがどんなものかカイには見当もつかない。だがそんなものは関係なく、カイはサージェンが好きだった。厳しいけれど、優しい言葉をくれる人。
「何を悩んでいたの、カイ?」
決して押しつけがましくなく、サージェンは尋ねてきた。まっすぐに、柔らかくカイを見つめてくる青い双眸に、彼は自然に口を開いていた。
「僕は……みんなの役に立てなくて。家を建てないとならないのに、材木を運べるほど力もないし、かといって建設のための知識もないし……。僕は、どうしたらいいのかわからなくて」
目の前の青が、すっと細められた。些細な変化にもどぎまぎしてしまうカイに、サージェンは短く言った。
「何でもできる者などいない。君はそんな者になろうとしているのかもしれないが、それは傲慢だよ。できないことがわかっているのなら、諦めた方がずっといい」
「だけど、それじゃ僕は――!!」
「諦めて、別なことを探せばいい」
「え……?」
「自分にできること、自分にしかできないことをすればいい、カイ」
微笑みと一緒に、思いもかけない言葉をくれた人は、カイが惚けている間に立ち上がってしまう。
何か声をかけたかったが、それより先にサージェンはどこかへ行ってしまった。
「僕にできること……」
借り受けた部屋にこもり、長いことカイは思案した。考えれば考えるほど、どれだけ自分が世間知らずか、恵まれた環境で育ってきたのかを思い知る。さしあたって必要などの仕事でも、結局役に立てそうにない。
「カイ……あまり悩まないで」
青い髪の乙女が寄り添ってきて、そっと少年の頭を抱いた。
「そんなふうに思い詰めたら、疲れるだけだわ。ゆっくり休んで、また明日考えましょう」
「うん……ありがとう、マリスニール」
小さく笑んで答えたものの、カイはまだ休むつもりにはなれなかった。横になっても、きっと悶々と悩んでしまうだろう。
「マリスニールこそ、休んでよ。今日もずっと、ここの人達との通訳をしてくれてたんだもの、疲れたでしょう?」
精霊であるマリスニールは、アルヴァンテスの者達との橋渡しを自ら買って出てくれた。他の何人かと同胞とともに、何か双方の間で問題が起きれば飛んでいき、意志の疎通を手伝う。言語の概念をありのまま受け取れる精霊でなければ、通訳は円滑には行われないだろう。それにまだ、誰もアルヴァンテスの言葉を満足に覚えていないのだ。
(いつまでも、マリスニール達に頼るわけにはいかないよね……)
カイとて、レイス大陸にある主な言語ならば一通りの教育を受けてきたのだが、ここで使われているのはそのどれとも類似性が見られない。当たり前といえば当たり前なのだが、まったく聞き慣れない言葉に移住者達は萎縮してしまい、なかなか両者の間で友好的な雰囲気が芽生える気配はない。
(せめて何か、導となるものがあればいいんだけど――あ!)
唐突にがたんと椅子を倒して立ち上がったカイに、マリスニールが驚いた目を向けた。当のカイは、頬を上気させ、紫の双眸を輝かせて虚空を見つめている。
「ど、どうしたの、カイ?」
「導だ!」
彼はマリスニールの手を取って、しばらくその言葉を繰り返した。わけがわからずに首を傾げ、茫然としている守護精霊の視線にやがて気づいて、彼は少し恥ずかしげに笑った。
「ねえ、教えて? 導って何のこと?」
「うん、あのね、今思いついたんだ。僕にできること」
「まあ、本当に? よかったわね、カイ」
「それでマリスニール、君の力を借りたいんだ」
もちろんマリスニールが断るはずはなかった。彼女はカイの「思いつき」を詳しく聞いて、早速翌日から二人はそれを実行することにしたのだった。
羊皮紙と木炭を持って、マリスニールとともに村をうろうろするカイの姿は、それから頻繁に見られるようになった。彼らは一日中村人と何か会話をして、その都度カイは羊皮紙に何かを書き記している。移住者達はもちろん、村人もカイのしたいことを理解できずに、首を傾げていた。
「いったいカイ様は、何を考えておいでなんだ」
いらだたしげにつぶやくのは、ルディル。カーサは汗止めの布を取り替えていたが、聞きとがめて手を止めた。
「また眉間にしわが寄ってるぜ、ルディ。いいじゃねぇか、村の連中と話すくらい」
「話すのならばな。羊皮紙と木炭が、なぜ必要になる?」
「さあな。けどこっちを手伝おうとして突き指したり、とげが刺さったりばてられたりするよりは、ずっとましじゃねぇか」
「……それは、そうだが」
「だろ?」
刈り上げた亜麻色の髪を撫でて、新しい布を額に巻いたカーサは、すれ違いざまにぽんとルディルの肩を叩いた。
「あんまりかりかりしなさんな。皇子様はとりあえずあの姉ちゃんが守ってるんだろ? ここにいるよりずっと安全だし、効率がいい」
それが何より問題なのだと、胸中で嘆息するルディルだった。
ルディルの忍耐は、七日で切れた。その日の作業が終わるとすぐに、彼は主のいる村長の家を尋ねていって、部屋に上がり込んだ。
「カイ様!」
カイは丈の低いテーブルの上に、たくさんの羊皮紙とアルヴァンテスで使われている草から作られた紙を置いて、何やら無心に書きつづっていた。そろそろ夕方で室内は暗く、マリスニールが用意したのだろう小さな炎の玉が中空に浮いて蝋燭の代わりを務めていた。
「ああ、ルディル。今日もお疲れさま」
(……)
半ば身分は捨てたとはいえ、従者にこの言葉はないのではなかろうか。ルディルは大きく息を吸って、ゆっくり三つほど数えた。来訪の目的は小言ではないし、くどくどとカイに説教するにはルディルの気力が足りなかった。
「カイ様……。ここ数日の行動のわけを訊きに参りました」
「わけって、そんなにおかしなことをした? 僕はただ、村の人と話をしただけだよ」
「話をするのになぜ羊皮紙と木炭が? あなたの精霊が通訳をしてくれるのでしょう?」
「そうだけど。そんなに気になる?」
「なります」
(これ以上、移住者団からの信用を失うようなことをなさらないかどうかが)
続く言葉は呑み込んで、ルディルはじっとカイの紫の双眸を見据えた。はぐらかされないぞという意思表示でもあり、納得するまでは絶対にここを動かないと決めていた。
「じゃあ、これを見て」
存外あっさり、カイは秘密を明かしてくれた。眉間にしわを寄せたまま、カイが何やらやっていた低いテーブルの上を覗き込んだルディルは、さらに険しい顔つきになった。
「……何ですか、これは?」
「やっぱり、まだわからないか」
首を回してほぐしていたカイはたいして残念そうでもなく言うと、考え考え話し始めた。
「ルディル、少しはここの人達と話せるようになった?」
「いえ。意志の疎通でしたら精霊達が手伝ってくれますし、身振りでもなんとかなるのですが」
「僕もまだできない。精霊達のおかげで困らないけどね。だけどいつまでも頼るわけにはいかないし、それだとアルヴァンテスの人達と僕らが<共存>することはできない」
だから――。カイは一枚の紙を取り上げて、ルディルに渡した。読みにくくない程度に細かな字で、何やら書き記されている。しばらく文字を目で追って、やがてルディルははっと顔を上げた。
「これはまさか……辞書、ですか?」
「そんなに大げさなものでもないけどね」
マジェス皇国では、五十年前から自国の言語と他国のそれとを比較し、言語習得の手助けとなる『辞書』の編纂・研究が進められてきていた。レイス大陸の公用語は一応レイス語であるが、外交のために王族や貴族は大陸の主な国の言葉は学ぶことになっている。そのためにも辞書は不可欠であり、近年にはかなり使いやすいものが完成していた。カイも、そういった辞書には何度も触れてきている。
「一つ一つの言葉の意味は、ちょっと分析できなかったんだけど、こういうときはこういうふうに言うんだ、っていうものを書いてまとめてみたんだ。いつかみんなに使ってもらえるように、僕なりにがんばってみたんだけど……」
ルディルが押し黙ってしまったので、カイは不安になっていた。これこそ『自分にしかできないこと』だと思って努力してきたつもりだが、やはりルディル達――移住者団にとっては不要なのだろうか。自己満足でしかなかったのだろうか。
「ルディル?」
「――カイ様」
やおらルディルはひざまずき、カイをますます困惑させた。うやうやしく差し出された紙を受け取り、カイはもう一度幼馴染みの従者を呼んだ。
「どうしたの、ルディル? そんなことしないで、立ってよ」
「私ははあなたに、お詫びしなければなりません。私は今までずっと、あなたのことを軽視していました」
いきなりの告白に、さらにカイの戸惑いが深まる。ルディルはそんな彼の手を取り、その甲に額を当てた。
「あなたのなさったことは、必ずや私達にとって助けとなりましょう。私達はいつのまにか、目先のことに囚われてしまっていた。ともにこの地に渡ってきた仲間であるはずの精霊達のことを、まるで僕のように扱ってしまっていました……」
「――そう、だね。僕も思い当たるところがある」
「カイ様、羊皮紙や紙は、まだ余分がありますか?」
尋ねられ、カイはきょとんとしたがすぐに頷いた。レイスから持ってきた羊皮紙はもう残り少なだが、紙は頼めば村長からまた分けてもらえる。
「私達も、できるだけお手伝いいたします。いえ、どうか手伝わせてください。そうして少しずつ、この地の人々と親しくなりたいと思います」
この瞬間のカイの表情を、ルディルは鮮烈に心に焼きつけた。精霊に愛された美しい青年は、心の底から沸き上がる喜びを、真っ直ぐに顕してくれた。
「ありがとう! みんなできっと、辞書を完成させよう!」
カイが呼びかけ、まとめられたその本はのちに『レイス――アルヴァンテス語会話辞書』としてまとめられたものの基礎となり、後世の言語研究に多大な貢献をすることになる。またこの辞書は、アルヴァンテス語とレイス語を比較した、世界最初のものでもあった。
半年後、カイは本の形になった自分の<辞書>を人づてに受け取った。
「なかなかよいものだと思う。研究者でも何でもない人間が作ったにしては」
運び手となった青年は、相変わらずはっきりとものを言う。それを精霊という媒介なしに、ほとんど聞き取れたことにカイは喜びを覚えた。この人の不思議な声で紡がれたこの国の言葉を、本当の意味での言葉として受け止めたいと思っていたから。
「ありがとう、サージェンさん。あなたが励ましてくれたおかげです」
「ああ、話すのも上手くなったんだね。君の言葉は聞き取りやすい――私が君を励ましたことなど、あっただろうか?」
「もちろんですよ。『自分にできること、自分にしかできないことをすればいい』って」
鮮やかな青い目の予言者は、声を立てて笑った。それがまるで、音楽の一節のように思われて、カイは聞き惚れた。
「励ましたつもりはなかった。私は事実を言っただけだったよ。君がそう受け止めただけに過ぎない」
「でも、僕にとっては嬉しい言葉でした」
再びサージェンは笑った。優しく、親しげな微笑。
「それではカイ、私達は友人になろうか」
サージェンの言い回しは不思議だったが、カイに柔らかい気持ちをくれた。サージェンはカイに向き直り、左手を心臓の上に当てた。
「心の音を、生涯分け合うことを誓う」
短い言葉とともに、彼の手はカイの左胸に置かれた。
「友情をかわすときの、古くからの慣習だ。あまりに古くて、覚えている者は少ない」
「では……僕も」
短くとも神聖なやりとりは、カイを魅了した。サージェンが自分にそうしてくれたことが、とても誇らしかった。
「僕の心の音も、生涯分け合うことを誓います」
同じように、互いの心臓から心臓へ、手を移動させる。熱い何かがこみ上げてきて、カイは正面の新しい友人を直視できなくなった。
「カイ、今から私のことは『サージェン』と呼んでほしい。ただ、名前だけでだ」
「はい……サージェン」
この人を絶対に裏切らないようにしようと、カイは決意した。サージェンが示してくれるだろう友誼の証を大切にし、一生涯それ以上の気持ちを返していこうと決めたのだった。