青の安らぎ




「お茶をお持ちしました、クルト様」

 彼の声は、いつもなぜか時を止めているような印象を受ける。クルト・ナル・ドルゴールはそれを、心地よいと思っている。

「論文ですか?」

 机の上を占領し、とうとう部屋の主をティーテーブルに追いやってしまっている分厚い本の山を眺めて、不思議な声の青年は軽く目を瞠った。クルトは読み差しの本を膝に置いて、彼からいい香りのする茶を受け取った。

「論文もだが、そろそろ教授資格試験だからな。少しでも多くのことを学んでおきたい」

「色々なことを知るのが、お好きなんですね」

 少々不躾な言い方だが、この黒髪の青年ならば気にならなかった。彼が心からそう思い、またクルトに好意を向けてくれているからだとわかっているから。

 彼は全体的に、神秘的な雰囲気を醸し出している。声もそうだが、まず魅せられてしまうのが薄青の双眸だ。凪いだ湖のように静かで、とても深い。アルヴァンテス大陸の出身者で、青年の姓がラルジェアだと聞いた者ならば、彼の纏う空気に理由づけをすることができるだろう。即ち、予言者の一族なのだから、と。

 クルトについて留学してきた若き予言者は、シアンといった。彼はこの学院で薬草学を専攻し、現在は研究員として籍を置いている。休日や研究が落ち着いた時には、こうして頻繁にクルトを訪れてくれるのだった。

「学ぶのが好きというのは、シアンも同じだろう。君の友人達はすねていないか?」

「……わかりますか?」

「そのような気配が、微かにするだけだが」

 シアンは苦笑した。そんな表情なのに、柔らかくて静かで、人を安心させる。

 自分と、ごく少数の者だけが知る秘密だが、シアンは精霊術者である。精霊に愛され、守護を受けることのできる僥倖は、そうそう多くの人間の上にあるものではないが、彼は四人の精霊から寵愛を受けているという、言いようによっては信じがたい幸運の持ち主だった。二人で異境の地に渡り、既に六年が経過している。

「すねている、というか。僕が無理をしすぎると怒っているんです。でもまたアルヴァンテスでは使わないような、ある薬草の利用法を発見したので、どうしても論文としてまとめたいんです」

「気持ちはよくわかる。だが、心配してくれる者の気持ちも理解しなければ。無論私もその一人だ」

「ありがとうございます、でも、お言葉を返すようですが……」

 シアンはつと立ち上がり、クルトの額にかかる灰色の髪をかきあげて、掌で触れた。

「シアン?」

「眠っていらっしゃらないでしょう、クルト様?」

 掌から、心地よい何かが流れ込んでくる。癒しの魔術だと悟り、クルトは抵抗せず目を閉じた。確かに昨日は徹夜だったし、目の奥が熱いと思っていた。

「シアンには隠せないな」

「それはそうですよ。もう六年も、お仕えしているのですから」

 六年。静かな声で言われたそれに、クルトの胸がつきんと痛んだ。

 ラルジェア一族は、本来何者にも捕らわれず、膝を折ることもしない。アルヴァンテス大陸で最も古い血筋で、ドルゴール王国の礎を作ったという功績、そして予言の力を持っている彼らを、束縛するような権利も資格も、ドルゴール王家ですら持ち得ない。唯一の例外は、ラルジェアの者自らが王族の誰かに使えることを選択したときだ。

しかしシアンは幻のような性質の持ち主で、人一倍繊細だ。自分の傍近くにいることで本来なら無用のはずの暗い場所に引きずり込まれるようなことも、これからきっとあることだろう。最近クルトは、優しい友人がそんな状況に身を置くことになった時に、傷ついてしまうことを恐れている。

「はい、いいですよ」

 シアンの手が放れていった。温もりが引いていくのを寂しいと思い、そんな自分に当惑した。

「……魔力、か」

 故郷を離れて、あまり使うことのなくなった不思議の力。

「懐かしいな」

「そうですね。こちらでは、学生の授業で初歩の実践をするだけですから」

 シアンはクルト以上に、様々な思いのこもった口調だった。精霊を友としている彼には、魔力というものがとても身近なのだろう。

 クルトは浅葱色の瞳を曇らせ、そっと伏せた。シアンにとって今が窮屈なのだと、改めて思い知らされた気分だった。自然の色濃いアルヴァンテスと都会的なこの地――レイス大陸では、環境が違いすぎる。

(私の傍にいて、苦痛なのだろうな)

 ずるずるとこんなに長い間彼をこの異境に留まらせてしまったのは、半分以上がクルトの我が侭だ。学院で助手として勉学に没頭できる日々は魅力的で、留学の期間を今日まで延ばしてしまった。シアンの性格と彼に課せられた任務を利用して、彼を縛っている。

(最低だな、私は……)

「クルト様」

 自己嫌悪にずるずると引きずられかけていた彼を、絶好のタイミングでシアンが呼んだ。彼には読心はできないはずだが、よくこんなふうにはっとさせられるクルトは、驚くと同時に救われたように感じる。そしていつもシアンのこんなところに、すがってしまう。

「明日も、お休みですか?」

「ああ……そうだが、何か?」

「一緒に外に行きませんか? 体を動かさないでいると、返って疲れてしまうんですよ」  湖の双眸が、クルトの正面で屈託なく微笑んでいる。静謐と、慈愛が同居するこの薄青が、いつの間にかクルトの日々の支えとなっていた。

 だから、シアンの存在をかけがえのないものと思う。

 だから、利己的な理由でシアンの意志を殺してしまう。

「シアン……」

 言いたいことがまとまらないまま、クルトが重い口を開く前に、シアンは窓に駆け寄っていた。

「クルト様、レーヴィオン様とセディが見えますよ」

 シアンの座っていた位置からは、そんなものはとうてい見えない。きっと、精霊の誰かが教えたのだ。クルトも立ち上がり、窓から弟とその従者の姿を探す。彼の弟の金髪は、すぐに見つけることができた。

 レーヴィオンとセディは、乳兄弟で幼馴染みとして育ち、今では主従であるが昔と変わらず親しげだ。しっかりとした絆があるのだと、傍目にもわかる二人の姿が、ときどきクルトには羨ましい。

「羨ましい……」

 小さな声を拾って、クルトは一瞬狼狽した。無意識のうちに言葉を紡いでしまったかと思ったのだ。けれど隣の青年がぱっと口元を抑えたので、彼は浅葱の双眸を見開いた。

 尋ねてみようかと考え、クルトはすぐにうち消した。シアンはいつもの落ち着いた物腰からはめずらしく、困惑していた。

 クルトは代わりの言葉を探し、シアン、と呼びかけた。

「明日は、外に出かけてみるか」

 一瞬ののち向けられた屈託のない笑顔を、彼は心の底から嬉しいと思った。











高松さとり様の「セルフブレイカー」様に

ずいぶん前に送らせていただいた短編です。

アップすることにしたのは、「その、優しい手」

に書ききれないであろうことの補足という意味もあります。

「青の予言者」とクルトやレヴィン達の時代は

ずいぶん離れているのですが、ドルゴールの王族と

ラルジェア一族の関係は、少しずつ書いて

いきたいと思っています。






BACK