それが変わったのは、十三歳の時――
セディ・サシュフォードは、豊穣の月の第十二日に生を受けた。一緒に暮らす少年は、その一日前。いつもセディが少年を引っ張っていく。どこかへ行くときも、何かをするときも。
この日もそうだった。
「レヴィン! 早くってば!」
セディの、赤みがかった金茶の髪は母譲りだ。セディはなかなかついてこない少年を振り返り、早く早くとせかす。
「セディ、そんなに急ぐのではないの。レーヴィオン、気をつけていくのよ」
「はい、ユークお母さん」
簡素だがきっちりまとめて髪を結い上げた母ユークが、手に袋を持って出てきた。そのスカートの影から、まばゆい金色が現れる。セディは物心つくときから見ているからそれほど感銘は受けないが、近くの村の女達は老若問わずに羨望のまなざしを向ける髪だ。細く、つややかで美しいと。
それだけではない。その持ち主である少年の顔立ちも、女達は褒めそやす。セディはまるで女の子のようだとこっそり思っているが、本当に彼は愛らしい。蒼の双眸は柔らかく穏やかで、笑えば急にぱっと光が射したようになる。
だが、この月の半ばで十一になる少年達にとって、もちろんそれは重要ではなく、今二人はこれから向かう森とそこでの予定についてわくわくと思いを膨らませていた。
ユークから受け取った袋には、彼女の手製のお弁当が入っているはずだ。きっと水筒も。多少重くないでもなかったが、二人の少年は元気よく森の中を進んでいた。
「今日は木の実がいっぱい見つかるといいな、レヴィン」
レヴィンというのは、セディだけが呼ぶ愛称だ。レーヴィオンという少年の本名が長いからと、ある日セディが考えついた。今でもそれは続いていて、少年もレヴィンと呼ばれることを気に入っている。
「そうだね。そしたらユークお母さんのジャム、たくさんできるね。きっとお祭りで大人気だよ」
色づき始めた木々と、さくさくと足下で鳴る草の音。二人はそれが好きだ。
少年達とその母ユークは、森にほど近いところにある屋敷で暮らしている。屋敷といってもそう大きいものではなく、三人で住まうには少々寂しい、という規模だ。それでも三人では手の回らないところもあるので家のことを手伝う者が数人いるが、彼らも朝に来て夕方次の日のための仕込みをすれば帰ってしまう。夜は、本当に三人だけなのだった。ささやかで穏やかな生活を、彼らは三年近くずっと続けていた。
そんな暮らしの中で、もっとも楽しみなのが近くの村で行われる祭りだ。毎年の豊穣の月に開かれる祭りはにぎやかで、甘い菓子もたくさん出る。ユークはその日のためにジャムやキルト、そのほか細かなものを作って祭りで売る。そうして得た金で子供達のために生誕の贈り物をくれるのだ。一日違いで祝いの日を迎える彼らには、何よりも嬉しいユークの気遣いだった。
「ねえ、セディ」
「うん?」
手をつなぎ、さくさくと落ち葉や下草を踏んで進むうち、ぽつりとレヴィンはセディを呼んだ。
「今年は僕たちからも、ユークお母さんに何か贈り物をしようよ」
「母さんに?」
思わず聞き返したのは、驚いたからだった。レヴィンから何かを――それもこんなにはっきりした言い方で――提案してくることは、滅多になかったからだ。だが、セディは別にそれを不思議とは思わず、大きくうなずいた。
「いいな、それ。僕も贈り物したい。で、なにがいいかな?」
「……よくわかんないや。だから、これから探そうと思って」
「なぁんだ。でもいいか。母さん、喜ぶかな」
「うん。……きっと、喜んでくれるよ」
レヴィンの声音がどんな色を帯びていたか、セディは目の前の楽しみのことで頭がいっぱいで気づくことができなかった。
「これは……どういうことですか」
「見たとおりですわ。これがわたくしたちの家です」
ユークは微笑んでいたが、目の前の男は苦虫をかみつぶしたような顔で、恐らく必死に冷静になろうとしていた。
「なぜです? あの方から十分な援助は受けておられるはず。なのにこのような見窄らしい――」
「三人で住むには充分ですわ。それにしても、そのような物言いは失礼ではありませんの? ここは私の遠縁の者が昔住んでいた屋敷ですのよ」
男は沈黙する。だが心の中ではユークに対するあらゆる想いが渦巻いているのだろう。
(外見だけで判断することこそ愚かしいと、知る機会はなかったのかしら)
ユークは、こっそりと嘆息する。同時に、この男が主になんと報告するのかを想像し頭が痛くなった。
(まあ、あのお方のことだもの、すべてを鵜呑みになさることはないはずだけれど)
自分は、主の心に背くことはしていないはずだ。
レヴィンがどことなく沈んでいると思ったのは、昼食を終えて少し休んでいるときだった。いくら話しかけても、レヴィンから帰ってくる返事がいつものように弾んでいないので、ようやくセディは異変に気づいたのだった。
「どうかした?」
「ううん……何でもないよ」
何でもないわけはない。少なからず、セディは傷ついた。
レヴィンは、ユークの乳でセディと共に育てられた。その後五歳の時に一度離れたが、八歳の時にまた三人で暮らすことになった。本当に小さい頃の思い出はほとんど無かったが、兄弟ができたようで嬉しく、すぐに二人は仲良くなった。
どんな悩みも、レヴィンはセディには打ち明けてくれた。セディもまた同じ。夜遅く、同じ寝台の中でずっとこそこそと話をしたこともあった。血のつながりはなくとも、何か特別な絆のようなものがあると思っていたのは、セディだけだったのだろうか。
「僕は、レヴィンのお兄さんだし、……生まれた順番では弟なんだよ?」
「セディ……」
「何で隠すんだよ」
言いようのない気持ちで、セディはさっさと荷物を片付け、立ち上がった。そのまま一人で森の中を進む。
レヴィンの声が追いかけてきたが、立ち止まりも振り返りもしなかった。
(何で隠すんだよ、レヴィン)
同じ言葉を、心の中だけで繰り返す。
レヴィンは優しくて、セディが気づかないような細やかなところにも心を配れる少年だ。セディと違って滅多に怒らないし、勉強も好きで難しいこともたくさん知っている。けれど時々とても頼りなく思えて、何かとセディは彼の先に立って行動して、いつの間にかそれが当たり前になっていた。
家族だと、思っていた。
(家族にはなれないのかな、やっぱり……)
本当の家族のように暮らしながら、レヴィンはいつまでも母を『ユークお母さん』と呼ぶ。その理由をセディも以前聞かされたが、どこかでいつかそれが変わるようにと願っていた。
寂しい気持ちで目を上げて、そこでセディは青ざめて歩を止めた。
色鮮やかな豊穣の城は、今や迷宮と化していた。
レヴィンは、ユークの主に面差しがとてもよく似ている。
成長と共にそれは顕著になり、ユークに少しずつ決意を促した。いつかは、あの子を元の場所に返さなくてはならないと。
だが、自分の乳を与え育てたレヴィンは、我が子と同じくらい愛おしかった。賢く優しい彼の性質を垣間見るたび喜びに包まれたのは、健やかに育つように心を砕いたのは、主のためだけではなかった。心底、あの子供を愛していたからだ。
「ですが……今はまだ早いのではないでしょうか? まだ御年十一。聡明な方ではありますが、すべてを割り切れと言うのはいささか酷というものでしょう」
「例のご婦人が、発言力を持ち始めております。これ以上、あちら方を増長させるのは得策ではありません。やはり最初と二番目の御子があちら方というのが大きいのでしょう」
「レーヴィオン様を政治の道具にされるおつもりか!」
つい、ユークの語気が荒くなった。彼女が手にした扇子がめしりと鳴ったのに気圧されたか、男はあたふたと言い訳めいた言葉を並べた。
「い、いえ、そうではないのです。ただ、あちら方をこのままにしておけば、こちら側への干渉も激しくなる。それはあのお方のためにも避けなければ……それに」
同じではないか、と言いそうになっていたユークをとどめたのは、次の男の言葉だった。
「あのお方のご容体が最近すぐれず……」
「ライラ様が!?」
腰を浮かせ、血相を変えたユークは叫んだ。ますます男は腰が引けている。
「どのようなご様子なのですか!? それほどに、病は篤くていらっしゃるのですか!?」
「いえ……と、とにかく落ち着かれよユーク殿」
「落ち着いてなどいられません。ライラ様が……そんなにお悪くていらっしゃったとは……!」
ライラはユークが昔は侍女として、今はその息子の乳母として仕えている主。レヴィンの、母親だ。
「ですから、すぐにでも。レーヴィオン様と、レーヴィオン様を守っている彼女がいれば、きっとライラ様も」
「……そう……そうですね……。彼女はレーヴィオン様と一緒でなければきっと都へは帰らない……」
ぐったりと椅子に沈み込み、ユークはつぶやく。
二人の少年が――子供達が帰ったら、すべてを話さなければならない。気は重かったが、もとよりいつまでも避けてはいられないことだったのだ。
森は道を教えてくれる、とレヴィンは言っていた。そういえば一緒に森を歩いているときはどんなに奥へ入っても迷わずに家に帰ることができた。
おなかがすいていた。しかしセディには何もできない。食べられる木の実もこのあたりにはなさそうだった。かといってさらに進むのは怖かったし、何より体力がもう残っていない。
(レヴィン……)
もう森から出ただろうか。セディがいないことを、母に知らせたかもしれない。そうすれば助けは来る。
(助かったら、母さんに怒られるだろうな……。レヴィンは、泣くかもしれない)
そう考えてみても、恐怖と虚脱感と疲労は消えてくれない。膝を抱えて、セディはぎりっと奥歯をかみしめた。
迷ったと気づいてから随分経ったような気がするが、実際はそれほどでもないのかもしれない。とにかくしばらく歩いてみて、やがてセディはここに座り込んでしまった。
一人になると、暗い考えばかりが浮かんできた。
(ここでの生活が好きだったのは、僕だけだったのかもしれない)
ユークの方針で、セディもレヴィンも自分のことは自分ですることを徹底的に教えられて育ってきた。掃除も洗濯も、部屋の整頓もだ。唯一料理は手伝いに来ている村人がしてくれるが、後かたづけは二人とも手伝うことになっていた。――レヴィンは、本来ならその仕事のどれもしなくていい立場にある。
セディも、知っていた。レヴィンの真の名前も、それの持つ意味も。どうしてここで暮らすことになったのかも。
(だけど、僕は好きだったんだ)
大好きだった。ここでの生活。レヴィンと一緒に遊ぶこと。レヴィン自身。大事な<乳兄弟>。
「レヴィンは……僕のことも母さんのことも、好きじゃなかったのか……」
「そんなことないよっ!」
いきなり、頭上から大量の落ち葉とそんな声が降ってきた。
「うわあああっ!?」
驚いた勢いで、セディは横に跳ぶことができた。間一髪、そこに何か大きなものが落ちてくる。
「レーヴィオン!」
が。
誰かの叫びと同時に大きなものは、地面すれすれのところでふわりと止まった。金の髪にたくさんの枯れ葉をつけた少年は、紛れもなくセディの幼なじみ。
「レヴィン……何で」
「何でって、セディが急にいなくなるからだよっ。手伝ってもらわなかったら、見つけられなかったよ。こんなに遠くまで入って……!」
セディが訊きたかったのは『何で浮いているのか』だったのだが、中空から着地したレヴィンはばさばさと髪についた葉や小枝を払いながら、頬を膨らませた。
「僕だって、話を聞いてもらいたかったんだよ。でも、セディはもしかして知らないかもしれなかったから……。僕の、母上のこと」
「……!」
レヴィンが『母上』と呼ぶ女性のことも、もちろんセディは知っている。レヴィンがたまたま居合わせなかったとき、一度だけ母に連れられて会ったことがあった。レヴィンとよく似た、とてもとても儚げで綺麗な人。
「知ってるよ……。それに、ライラ様のことだけじゃなくて、レヴィンのほんとの名前だって知ってる……」
「……そうだったんだ……」
レヴィンはうつむく。表情は見えなくなったけれど、彼もやはり悩んで苦しかったのだと、セディは悟った。
「母上が、ご病気なんだ」
「え?」
意を決したように、固い声でレヴィンの告げたことを、理解するのに少し時間がかかった。
「僕に会いたがっているって。僕もお会いしたい。何回か、母上のことは聞いていたんだけど、聞くたびにどんどんご病気が悪くなっていて……」
「ちょっと待って、レヴィン」
思考力が戻ってきたセディは、一カ所おかしな点を聞きとがめてレヴィンを遮った。
「聞いたって、誰に? あ、そういえばさっきふわってなったのも何でか訊いてない! 何がどうなってるのさ?」
「……ええと……?」
「かまわないわ。私、この子もきっと好きになるわ」
どこからともなく明るい少女の声が響き、セディは思わずレヴィンにしがみついた。
くすくすと笑い声が聞こえ、足下の枯れ葉が舞い上がる。
「ええ!?」
ざあ、と音が鳴る。一瞬で木の葉が舞いあげられて、はらはらとゆっくり落ちてくる。その木の葉の向こうに、いつの間にか人影が現れていた。華奢な、長い髪の少女。その色は、まさに秋の木の葉。
「はじめましてね。こんにちは、セディ」
「レスティリス、急に出てこなくても」
セディがびっくりしてるよ、というレヴィンの言葉も、セディの耳には入っていない。
彼女のような存在を、セディは一応知識としては知っていた。
「でも……滅多に姿を現さないって……」
人間の前にほとんど現れず、気に入った者とは契約を望み様々な恩恵を与えるという、世界の理に通じる力を持つ神秘の種族。
「精霊族……!?」
「人間はそう呼ぶのね。だったら、そうだわ」
セディの驚愕をよそにあっさりうなずく少女は、話に違わずずば抜けた美貌の持ち主だった。
レスティリスは、もともとはライラの一族を守っていた。ライラが王家に嫁してからは彼女のそばで守護者となり、彼女の頼みでレヴィンがここへ来てから彼を影から見守っていたのだという。けれどやはり彼女のことも心配で、短い時間だけ彼女の所を訪れていたのだと精霊は語った。
その話が終わる頃、家に帰り着く。すべてが計画されてでもいたかのように、家の玄関の前に見知らない男とユークが立っていることに、もはやセディは驚かなかった。今日一日で、いろいろなことが起きすぎた。
「レーヴィオン様」
男とユークは、レヴィンの前に頭を垂れた。レヴィンは戸惑っていたが、黙って大人達の次の言葉を待っていた。セディとレスティリスは、少し離れたところからそれを傍観することしかできない。
「お初にお目にかかります、レーヴィオン殿下。ドルゴール王国国王陛下より第二王妃ライラ・スフェル様付き親衛隊長を拝命いたしております、ダゴート・ラッツベーデスと申します」
「……母上の元へ、帰ります」
親衛隊長の名乗りのあと、レヴィンはぽつりとつぶやいただけだったが、ユークもダゴートもあっけにとられて絶句した。驚かれるか、帰りたくないと言われると思いこんでいたのだろうか。
レヴィンの声は、終始静かだった。それがセディの胸を締め付けた。
「そのためにいらしたのでしょう。母上のことは……レスティリスから聞いていました。だから、心の準備はできています」
「レーヴィオン様……」
そのとき、レヴィンは微笑んでいたのだという。彼の背後にいたセディには見えなかったが、ユークは確かに後にそう語った。けれど、彼が泣きたくとも泣けなかったのだということが、セディにはもちろんわかっていた。
レーヴィオン・セイ・ドルゴール。
レヴィンの本当の名前だ。彼は国の名前を背負う者――末の王子。
ドルゴール王国は、複数の妻を持つことが許されている。レヴィンの母ライラ・スフェル・ケイ・ドルゴールは、『ケイ』――二番目という意味の称号を持つ妃、つまり第二王妃だ。第一王妃エリザベスは健在だが、美しい上に優しく慎み深い性質を愛されたライラに激しい妬心を抱いていた。すでに第一王妃は第一、第二王子を生み宮廷での地位をしっかりと築いていたが、王の心が自分より家格の低い家出身の第二王妃に移っていくのが、どうにも耐え難い屈辱であったらしい。
女の嫉妬は、ある一つの方向へ流れていく。エリザベスもその典型だった。何があったのか明らかにされなかったが、様々な不穏な出来事が第二妃の周辺で起きたという。ライラの病の原因も、エリザベスからの度重なる嫌がらせだったと言っても過言ではない。繊細な彼女は心労のあまり倒れてしまった。
そして、彼女は恐れたのだ。幼いただ独りの息子にも、同じような仕打ちをされるのではないかと。
果たして、悪い予感は的中した。それまで健康だったレーヴィオン第三王子は、ある日突然高熱を出して何日も生死の境を彷徨った。幸い命に別状はなく、子供特有の強い生命力も手伝って熱が下がってからは回復も早かったが、ライラはひどく衝撃を受けた。
彼女は、腹心の侍女に密やかに相談を持ちかけた。息子をどこか遠い地で育ててほしいと。エリザベス妃に干渉されないように。侍女はそれを承諾し、王子の乳兄弟でもある自分の息子と共に郷里へ帰った。
それから八年。レーヴィオン王子はレヴィンとして、健やかに成長した。
これまでの暮らしの背景にあった一部始終を、セディはその夜長い時間を掛けて母から聞いた。うすうす感じてはいたけれど、改めてはっきりと説明されると胸が苦しかった。今まで当たり前のように片時も離れなかった存在が、いなくなってしまう喪失感から来る痛みだと、まだ理解できるほどにセディは大きくはなかったが。
「レーヴィオン様は、これからライラ様とご自身を守って生きていかなくてはならないの。そのために私は、強くなられるようにと願ってお育てしてきた。この三年、ずっと……」
ユークはとても静かな表情をしていた。この日をずっと予想してきたのだ。セディ一人を置いて、誰も彼も納得している。
「僕たちは、これからどうするの?」
「さあ……。このままこの地で暮らすのもいいでしょう。私はすでに宮廷を辞した身だし。ただね、セディ」
母は急に真顔になり、息子をひたと見据える。彼女の緑の瞳と、セディの青のそれが交わる。
「あなた自身のことは、あなたが決めなさい。いつも言ってきたように。自分がどうしたいのか、わかっている?」
セディは、力無く首を横に振る。
では考えなさい、とユークは言い、そのまま寝室へ下がっていった。
セディも眠かったが、寝室には行きたくなかった。レヴィンと同じ部屋だからだ。今顔を合わせても、きっと何も話せない。一番に伝えたいことは、最も口に出してはいけないこと、それがわかっているからきっと。
しかし、金髪の少年は自ら居間のセディの所へやってきたのだ。
「セディ」
扉の隙間から顔だけをのぞかせ、彼を見ているレヴィンの顔は、どこかぎこちなかった。セディはやはり、応じることすらできない。いつもいつも、繰り返してきた他愛ない挨拶さえも口から出てきてくれない。
「……」
「もう寝る?」
「……うん」
「じゃあ、部屋に行こう」
口数少なく、少年達は寝室へ向かった。連れだって歩いているのに、会話はない。レヴィンは何かを話しかけるのだが、セディがうまく答えられないのだ。重苦しい空気を背負ったまま、寝室へ着いてしまう。
「……セディ」
部屋の中には、すでにまとめられたレヴィンの荷物があった。部屋の隅にあるのに、なぜかセディはとてもその存在を大きく感じてしまう。やはり沈黙したまま自分の寝台に座ると、レヴィンが彼を呼んだ。その声が、頼りない。
「僕は……ここでの生活がとても楽しかった。大好きだったよ」
すでに過去のものとして、レヴィンが語っている。むしゃくしゃした。
「いつかは元の場所へ帰るってわかっていたけど、やっぱりそのときになったら……怖いし寂しい」
――それなら、ここにいればいい。今までと同じに。
紡ぐことを禁じられた言葉を、唇を弾き結びセディは閉じこめる。急いで寝支度を整え、掛布にくるまった。間違って転がり出てしまっても、レヴィンに聞こえないように。
ややくぐもってはいるが、そうしていてもレヴィンの声は対照的にはっきり聞こえてくる。
「今まで楽しかった。セディといられて、嬉しかった。ずっと僕は、セディを一番の友達だって思ってるよ」
それきり、しばらく静かになった。レヴィンが動く気配もしない。彼がどうしているのか知りたくなったが、セディはそのまま潜っていた。
「――!」
ある言葉を、耳がとらえる。勢いよく起きあがったセディの隣、すでにレヴィンは寝台に横になっていた。話しかけてみようかと一瞬思ったが、ずっと彼に相づちすら打たなかった手前、逡巡する。
結局、セディは心を残しながらも再び横たわったのだった。
別れの言葉もやはり少なくどこか上の空で、レヴィンはダゴートの馬車に乗り込んだ。がらがらと遠ざかる馬車を、セディも無言のまま見送った。
すっかり馬車が見えなくなってから、ユークが彼の肩に手を置いた。
「セディ、昨日の質問の答えを聞いていいかしら」
「……昨日の?」
「あなたはどうしたいのか、その答え」
そんなものは、決まっている。実行できないだけだ。
「……できないよ、そんなの……」
それだけをようやく言った。ユークはしばし沈黙し、手をセディの髪に移動させた。彼女と同じ色の髪をなでながら、静かに続ける。
「できるかできないかは、問題ではないの。したいという意思があるかどうかよ」
「母さん……」
意思は、ある。けれど。
「私はあなたを、貴族としての心構えの元に育てたわ。だから……そうね、少し自制心がありすぎるのかも。少しあなたは現実的すぎる」
母の手は、セディの両頬を温かく包み、上向かせた。かがみ込んで視線の高さを合わせ、ユークは優しく微笑する。
「どうしたいの、セディ? 心のままに、今ここで言ってごらんなさい」
「母さん……」
セディの青い目が、大きく揺れた。
「僕……」
願いは、たった一つだ。
「僕、ずっとレヴィンと一緒にいたい」
流れていく日々が変わっても、それは同じだ。友として、悩みを打ち明けたり一緒に笑ったり悲しんだりできる自分でいたい。
「わかったわ。よく言ったわね、セディ」
ユークの笑みが深まる。いや、正確にはいたずらっぽいものになった。
「馬を!」
高らかに、彼女は命じた。すぐに数人の青年達が、馬を一頭引いてやってくる。青年達は村人だから、恐らく朝からずっと待機させていたのだろう。
「か、母さん?」
「よかったわ。もしもこのままあなたが帰るって言ったら、無理矢理にでも行かせるつもりだったけれど、やっぱり自分の意思で決めるのが一番だから」
「何を……?」
「しっかりつかまっていなさい」
青年の一人に手伝ってもらって、ユークは軽やかにドレスをからげ、葦毛の馬にまたがった。セディもすぐに馬上に引き上げられ、あっという間に馬は駆け出す。
セディは知らないことだったが、ユークは騎馬の名手だった。女性の乗馬はたしなみとしては貴族の中に浸透しているが、彼女のように疾駆させることのできる者は少ない。宮廷にいた頃、ユークは愛らしい容貌とこの風変わりな特技で貴公子達の注目を集めていたのだった。
彼女は久しぶりに馬に乗れて楽しげだったが、初めての馬にすっかりセディはおびえてしまっていた。言われたとおり夢中で母にしがみつき、きつく目を閉じていたセディだが、しばらく駆けたところで馬はようやく足をゆるめた。
「ダゴート殿!」
馬を操りながら、ユークは怒鳴った。驚いて、セディは目を開ける。眼前には、馬車。レヴィンが乗っている。
「止めてください、ダゴート殿!」
母は何度も叫んでいるが、車輪が邪魔して聞こえないのだろうか。馬車は速度を落とさない。思わずセディも声を上げていた。
「止めてください! 馬車を止めて!」
「止めなさい、ダゴート殿!」
馬車は進むばかり、次第に遠のきさえしているようだった。セディが焦燥を覚えてなおも声を張り上げようとしたとき、馬車の天上にふわりと何かが降り立った。長い朽ち葉色の髪。
「レスティリス!」
精霊の少女は、車を引く馬の上に軽やかに移動した。すぐに、馬車の速度や緩やかになる。彼女が手を貸してくれたのだ。
車輪の音がやや小さくなったことでようやく二人分の大声が聞いたのか、疾走していた馬車は徐々に徐々にゆるゆると進むようになり、やがて止まった。
「レヴィン!」
すぐさまユークとセディは馬を下り、馬車に駆け寄って外から扉を開いた。ここからが、本当に声を大きくしなければならないところ。伝えなければならない想いが、今はセディの中に明確な言葉としてあるのだから。
「セディ……。それにユークお母さん」
「な、何事ですかな? 何か忘れたものでも?」
馬車をあけるなり視界に飛び込んできたのは、驚きを隠せないレヴィンの表情だった。ダゴートの問いには答えずにまっすぐにレヴィンだけを見て、セディは身を乗り出してしっかりと彼の腕を掴んだ。
「な、なにを!?」
「セディ?」
「僕、一緒に行くから」
告げる。やっと言えたと思った。
昨日は、形を取らずにいた気持ち。でも、それが何かはわかっていた。
「一緒に行くよ。それでずっと、レヴィンのことレヴィンって呼ぶ」
「……本当に?」
「うん!」
昨夜、寝室でレヴィンが最後につぶやいた言葉。それがしこりとなっていた。
『もう誰も、僕をレヴィンって呼ばないんだね……』
レヴィンは、レーヴィオンになる。王子としての彼しか求められなくなる。それが怖いとレヴィンは言ったのだ。屈託なく笑えた日々が、永遠に遠ざかるのを彼は悲しんでいた。
セディは、そんな日々を守りたい。今まで在った日々、そしてこれから続く日々どちらもだ。
「な、そのようなこと、急に言われましても」
「従者は必要でしょう? セディはレーヴィオン様の乳兄弟、これ以上の適格者はいないと思いますが?」
「しかし――」
馬車の外、いつのまにか連れ出されていたダゴートとユークが何やら言い争っていたようだが、二人の少年達は心からの安らぎを感じ、しっかりと手を握りあっていた。
はじめのうち、宮廷には敵ばかりと覚悟していたセディだったが、思いの外第二妃には支持者が多かった。彼女の人となりがそうさせるのだと、改めてライラに挨拶をして実感したセディだった。それに第一王妃エリザベスの二人の息子、つまりレヴィンの異母兄達も帰還した弟に親切だった。レヴィンは兄たちとすぐにうち解け、エリザベスからの干渉は事実上これで防いだ形になった。
もう森に木の実を拾いに行くことはない。王宮にすむようになってから五年、やはり少しずつ二人の関係は変化せざるを得なかったが、大切なものはずっとそのままだ。
「レヴィン様?」
赤みがかった金茶の髪、不思議な色彩を持つ青年が主を捜している。彼の声を耳に留めた人々は、自然に温かい微笑みを浮かべている。
王宮の人々はたいてい、彼の忠実さを好もしく語る。どんなときも、彼は主を一途に思っていると。
青年からの忠誠を一身にうけるのは、ドルゴール王国第三王子レーヴィオン・セイ・ドルゴール。母王妃によく似た輝くばかりの美貌と才知を高く評価されているが、第二王子共々王太子であるラース王子をよく補佐し、決して自分は表舞台に立とうとはしない。
彼はよく、緑の濃い王宮の中庭でくつろいでいる。彼を捜す従者の青年は、そんなとき必ず「レヴィン様」と呼ぶ。
それは、何より大切なことなのだ。