そうしてくれてよかったと、心から思った。その気持ちを彼に伝えたかったけれど、うまく言葉が見つからず、結局短く「ありがとう」とだけ言ったが、サージェンは深くうなずいてくれた。
家の外には出たものの歩くこともできなくて、カイは草の上に座り込んだ。膝を抱える彼のそばに、サージェンが歩み寄った。
「ありがとう、カイ」
礼の言葉にのろのろと顔を上げたカイは、背筋を伸ばし、風の中に長い黒髪を流す彼の姿を見た。いつでも、青の予言者はこうして前を見据えているのかもしれない。カイ達を受け入れるようにと、村人達に相対していたときもそうだった。風を胸に受けて、青の双眸を遠くに向けて。
「なぜエーレが君を待っていたのかと、先ほど質問したね?」
視線を動かさないまま、彼はやっと明確な答えをくれた。静寂そのもののような声で、けれど万感の思いのこもった言葉を。
「君はエーレにとっては、驚きと喜びだった。血の定めのために性別すら持たず、生まれたときから病弱で窓から見える限られたことしか知らなかったエーレには、想像もつかないところから君はやってきた。君は……エーレにはまさに暁―新しくもたらされた世界だったのだよ」
暁。その響きをかみしめている彼に、サージェンはゆっくりと目を転じてきた。その瞳の中に不思議な輝きを見出し、彼は身体を強張らせた。
見たことがある、この輝きを。『無情なる朱』を、予言したときの光だ。
「待っていたのは、私も同じだ、カイ」
胸が苦しいくらい、鼓動が早まっている。呼吸がままならない。喉が干上がる。
これもまた、彼の“予言”なのだろうか。
「この大地の暁となってほしい。凝ってしまったものは腐る。早晩流動を止めてしまうだろうこの地に、君が新しい光をもたらしてくれないか」
「ひ……かり」
「私は待っていた。長い夜だったけれど、必ず君という光が朝をくれると、信じ続けていた。君は私の暁なのだ、カイ―カイ・メルス・ロータ・マジェス」
彼の両手がカイのそれをつかみ、立ち上がらせた。同じくらいの高さに、強い青がある。目眩にも似た感覚に、カイは支配されていた。
「君に、『魔力』の使い方を教えよう」
それは、宣言だった。
「使いこなせるようになって、まずはこの村の人々、ひいてはこの大地のすべての人々を助けてほしい。そのためにまず、この地の言葉を覚えてほしい。私はそれを、カイ、君に願う」
カイは、茫然とうなずいていた。それが本当に自分の意思なのか、それともこの目眩のために思考が緩やかになっているのか、それを知ろうとしないままに、カイは目の前にいる青年に求められた通りの答えを返した。
『魔力』は、あらゆるところにその元となるものが満ちている。それはあるいは様々に形を変えて世界を動かしている。カイがあのとき水を操ったのは、『術』という『魔力』の使い方の一つなのだそうだ。
サージェンはカイに、『魔力』についての基礎的な事柄から教えてくれた。とても興味深く、カイは熱心に耳を傾けた。
「精霊との『契約』にも、やはり『魔力』は必要になる」
「え? 『契約』って、守護精霊になることを約束する、あれだよね?」
「そうだよ」
あるとき、精霊との約定について話が触れたので、カイは尋ねてみた。
「マリスニールは、僕と『契約』したいってずっと言っているけど、僕にはよくわからなかった。今みたいにただ一緒にいることと、それはどう違うの?」
その二つの違いが曖昧だったため、カイはマリスニールの『契約』を求めている気持ちを知りながら、実行に移せずにいたのだ。『契約』を境に彼女との関係が変わってしまったらと、気がかりだったからだ。
「『契約』をするときには、互いに最も大切な言葉―名前を預けあう。名前は最強の『魔法』。『魔力』を込めて呼べば、相手を支配することすらできる」
「そんな……」
それでは、『魔力』を使う者はときとして大きな脅威になり得るのではないか。身震いするカイに、サージェンは優しく続けた。
「一人の人間、あるいは精霊が名前を『術』として使おうとしても、成功しないことのほうが多い。人にも精霊にも、自分の名前を無意識に守ろうとする力がもともと備わっているためだと、私達の間では考えられているが、その理由は未だよくわからない」
「そうなんだ……」
「逆に、『契約』の時に名前が相手への力となり得るのは、それを許そうとする意志が強く働くためなのかもしれないね。『契約』でなくとも、それだけ自分に心を許した相手にならば、名前は『術』となる可能性もある」
だがそんな相手をわざわざ『魔力』で縛る必要はもとよりない、とサージェンは小さく笑った。
「つまり、精霊と名前を預けあうのは、それだけ強く互いを信じ、愛した上なのだということだ。だが精霊達は、なかなか人にそこまで心を開いてはくれない。私や君のような存在は、とても希有なのだ」
カイは幼い頃から、精霊達に好かれてきたが、それがそんなに大変なことだとはまったく思いもしなかった。多くの人間は精霊達に畏怖を覚えるから、そのために自分の存在が周囲から浮いてしまうのだと、漠然と考えていただけだった。
(じゃあ、マリスニールが僕を大切にしてくれるのは……)
彼女が自分へ向ける想いを、初めてカイは明確な形として理解することができた。そして、自分に名前を預けてくれた、たくさんの精霊達の心も、ようやく本当の意味で実感できた。胸がじわりと温かくなり、カイは自然と微笑んでいた。
いつか、青い乙女の気持ちに応えたい。自分が『魔力』を使いこなせるようになって、『契約』ができるようになったら、真っ先にそうしようとカイは決心した。