「気分は悪くない、カイ? もう少し寝ていてもいいのよ」
「……僕は……?」
「火の手を収めたあと、倒れてしまったの。あれから、五刻(=五時間)ほど眠っていたわ」
「そう、なんだ……」
注意深く身体を起こし、目眩などがしないことを確かめて、カイはベッドから降りた。
日はまだ、それほど高くは昇っていない。昨夜の火事のあとを、この目で見てみたかった。カイは手を貸してくれようとしたマリスニールに大丈夫と首を振り、ゆっくりと部屋を出て階段を降りていった。
「カイ。目が覚めたのか」
裏口から、洗い桶を手にルディルが入ってきた。彼の後ろにユアニの姿が見えた。
「おはよう。……あの、僕……」
「何も言わなくてもいい」
言葉を探すカイに、ルディルはうなずきかけた。
「それより、外に出るつもりなら今はやめておいたほうがいいぞ」
「え?」
「村人達は、あのあと大騒ぎだったんだ。古代より伝わる神秘の力を使いこなす者が、ラルジェア一族以外にも存在したと」
「……」
とても複雑な気持ちだった。あのときは必死だったけれど、自分はこの地の人々にとってとても重大な領域に、軽々しく踏み込んでしまったのではないのだろうか。
『そんな顔をなさらないで、カイさん』
だが、うつむく彼にユアニが『話し』かけてくる。
『村人達は、あなたに感謝しています。おかげで冬のための蓄えを、すべて失わずにすんだのですから』
「正直、驚いたがな。俺には未だに信じられない」
「……実は、僕も」
微かに笑うと、ルディルはカイの肩に励ますように手を置いた。
「サージェンがそのうち来るだろう。あいつにでも、聞いてみればいいさ。昨日お前が使った力のことを」
「うん。そうだね」
マリスニールは、あれを『魔力』なのだと言った。過去よりあの不思議の力を行使してきた一族の一員たる彼ならば、他にも『魔力』について教えてくれるだろう。
「お、起きたのか、カイ」
聞き慣れた大らかな声に振り向いて、カイは目を瞠った。
「どうしたの、カーサ? すごい格好だよ?」
「あ? 銀の髪した偉い人はもう起きてるかって、外にいる村の連中にさんざん訊かれたんだよ」
しわくちゃになった衣服を直すカーサは、言いながらもにやにや笑いを浮かべていた。
「お前、まったくいろいろやってくれるよな」
どんな顔をしていいかわからず、とりあえずカイは曖昧な笑みを返した。
本当に、あのときは夢中だったのだ。マリスニールが導いてくれるままに、『魔力』で水を呼んで……。
(そうだ……あの声はいったい、何だったんだろう?)
水をうまく使いこなせなかった自分に、助言をくれた聞き覚えのない声のことを、カイは思い出した。
(いったい、誰が僕を助けてくれたんだろう?)
気にはなったが、カイはすぐに考えるのをやめた。考えたところで、答えはまず得られない。
「カイ、カーサ。朝食にしよう。用意はできている」
ルディルの促しと自分の腹の要求に、カイは素直に従った。
後かたづけをするために、ユアニは食器を桶に入れ初め、すぐにルディルが彼女を手伝うと名乗り出て、その桶を持って裏口から外の水場へ出て行った。それからしばらく経ってから、表の入り口が数回叩かれ、長い黒髪の予言者が静かに家に入ってきた。
「よく眠った? カイ」
「う、うん。昨日は本当に――」
「身体が大丈夫なら、これから一緒に来てほしいところがあるのだが」
言いかけるカイを遮る形で、サージェンは切り出した。そんなことは初めてで、カイは少し驚いたけれど、すぐにうなずいた。
「どこへ行くの?」
その質問には無言で微笑んだだけで、サージェンは入ってきたばかりの扉をくぐる。その後に続こうとしたカイだったが、扉を閉める直前に、カーサの呟きを拾ってしまった。
「あいつ……昨日の夜どこにいたんだ?」
思わず、動きが止まる。気配を察してか、サージェンがカイを振り返る。
「カイ?」
「ああ……うん、何でもないよ」
奇妙な感覚はないではなかったが、カイは首を横に振った。
些細なことだ。結果的に火事は収まり、自分もあの神秘の力に触れることができたのだから。
カイは先を歩いていたサージェンの横に並び、そっと彼の顔を伺った。
まず、誰もがその青い双眸にはっとするだろう。鮮やかな、強い輝きを持ちながらもどこまでも静かな彼の瞳に、カイはいつも船で見た朝焼けを想起させられる。この地を見出したあの日に生まれて初めて経験した、朝がやってくる瞬間を。鼓動が早まり、希望と期待を否応なく抱いてしまう、そんな瞬間を。
じっと見つめられているのは面映ゆかったのか、サージェンはカイを見返して困ったように微笑んだ。彼は恥ずかしくなり、目を逸らす。気を悪くした様子はなかったけれど、じっと凝視されるのは心地よくはないだろう。
「……昨晩は」
しばらく歩いてから、サージェンが口を開いた。カイは顔を上げる。
「ずっと、エーレに付き添っていた」
「エーレに?」
朱い瞳のあの人は、炎が暴れていることをどう受け止めていたのだろう。カイが黙っていると、サージェンは静かに言葉を継いだ。
「君に会いたいと、エーレは言っている。――最後に、君の持つ暁を感じたいと」
「最後って……」
その意味を悟り、カイは息をのんだ。指先が冷たくなる。
あの人は、もうすぐ逝こうとしている。
「今の君ならば、エーレと話ができるはずだ」
熱を失ったカイの手を、サージェンが包んでくれた。引かれるまま、カイは足を動かした。本当は走りたいのに、歩くことすら精一杯だった。
どうしてこんなに衝撃を受けるのか、自分でもわからない。エーレとはまだ出会って二日、それもほんの短い時間顔を合わせたに過ぎない。そして同時に、なぜエーレがこれほどに自分を気にかけるのかもわからない。
「……どうして、エーレは僕のことを……?」
心の内は無意識に口をついて出て、聞き留めたサージェンは青い目をカイに向けた。だが答えることはせず、サージェンは「行こう」と彼を促す。
「エーレが待っている」
彼はこくりと首を縦に振り、それからはどちらも何も言わずに進んでいった。
少し歩くと、目指していた場所に到着した。やがて主を失おうとしている、その家はやはりひっそりとしていた。出入り口の扉を開けて、居間を通り抜けて寝室へ入る。カイは、寝台に横たわるエーレを目にするなり、ふらふらとそのそばへ近づいた。
「……エーレ」
今度はためらいなく、カイはその手を取ってしっかり握りしめていた。小さくて細く、軽かった。泣き出しそうになったが、他ならぬエーレが笑顔を見せた―そう、確かに微笑だった―ので、彼も涙を懸命にこらえる。
「話してあげてくれないか。ユアニがしているのと同じように『精霊の言葉』を使えば、エーレにも伝わる」
サージェンは言ったが、カイは逡巡する。確かに、ユアニは口を動かさずともカイ達と意思の疎通ができていたが、昨日の夜からこの『力』に触れたばかりの自分にも、うまく使いこなせるとは思えなかった。
しかし懸命に、あのときの感覚を思い出そうとしながら、彼は意識を集中させた。たった一言でいい、エーレと話したかった。
『エーレ』
かちりと、心の中で何かがはまったような感覚があった。自分は今『魔力』を使っているのだと、カイは感じた。エーレの朱い瞳がゆっくり一度瞬き、ふわりとその表情がほどけると共に、カイの頭の中に風が吹いた。
『カイ。ああやっと、私は君の名前を呼ぶことができた』
胸が詰まるかと思った。反射的にエーレの手を握る手に力を込めてしまい、あわてたカイにエーレは『言った』。
『気にしなくていいよ。触れてくれるのは、とても嬉しいから。今まで私に触れてくれるのは、サージェンとユアニだけだった』
ラルジェアの『澱』をその身に抱いているから。
明らかにはされなかったそれを察し、カイは顔を歪めた。
どうしてなのだろう。どうしてエーレは、こんなに寂しかったのだろう。限られた相手としか会えず、触れあうこともできず、友人も得られないまま、どうしてこの人はこんなにも寂しいまま、逝かなければならないのだろう。
どうしてこの人は――それなのにこんなに静かに、笑っていられるのだろう。
『私は、とても幸せだね』
まるで輝いているようにすら思える、そんな印象で彼の『言葉』はカイに伝わってくる。
『暁のように綺麗な、君という人に会えた。君に触れてもらえた。名前を呼んでもらえた。話もできた。……それに、今こうして君が見送ってくれる』
カイはもう、涙をこらえることはできなかった。エーレは彼の泣き顔を見上げて微かに頭を揺らした。泣かないで、と直後に『声』が聞こえる。
『来てくれてありがとう。――カイ、もう一度、エーレと呼んで……』
伝わってくるエーレの意思が、どんどん遠ざかっていく。カイは嗚咽をこらえることもせず、望みのままにエーレの名前を呼んだ。何度も何度も。
「エーレ……っ!」
『エーレ』
肉の声と、神秘の言葉と。
両方を以て、銀の髪の青年はエーレの名前を繰り返した。
掌の中にある小さな手が力を失うまで、呼び続けた。