思わずつぶやいてしまい、彼女に自分の言葉はわからないのだと気づいたが、マリスニールがすぐに伝え直してくれた。
娘は、笑顔のままはっきりとうなずき、そして――。
『そうです。私はユアニ。ユアニ・ラルジェアと言います。サージェンは、私の兄です』
これには、カーサばかりかルディルまでが口を開けたまま硬直してしまっていた。彼女の言ったことははっきりと理解できたが、彼女はただの少しもその口を動かしてはいなかったのだ。
『驚かれましたか。ですが、お許しくださいね。私、肉の言葉では話せないのです。こうして精霊達のまねごとをしても、長いことは言えませんし』
ユアニは首をかしげ、身振りで家の中に入ろうと促した。半ば茫然としたまま、彼らは彼女について家に入った。
「あれ?」
テーブルの上を見て、急にカーサが我に返った。
「おいカイ。食べたんならちゃんと片づけておけよ」
「え?」
何を言われたのかわからずにいるカイに、ルディルが溜息をつきつつ説明する。
「今までやったことがないから仕方ないかもしれないが、使った食器はちゃんと洗っておかなければならない。それでなくても、洗い桶に入れておくくらいはしておけ。これからは気をつけろよ、カイ」
「あ……うん」
赤面して、彼はうつむいた。
食後の食器のことなど、確かに今まで考えたこともなかった。船旅の間も料理は当番制だったが、カイは当然といえば当然なことに、一度もその仕事をしたことがなかった。とても恥ずかしく、縮こまっている彼の脇を、緩やかに空気が流れた。
「ユアニ……さん?」
戸惑いつつ彼女を呼ぶルディルに微笑みかけ、彼女は食器を持って台所に入っていった。カイがついていくと、彼女は食器を入れた大きな洗い桶を抱えて、裏口から外に出て行こうとしていた。
「そんなこといいって。あいつ……サージェンに会いに来たんだろ? 今病人が出てそっちに行ってるけど、そのうち戻ってくるだろうから黙って待ってろよ――あ」
カーサは言ってから口を押さえたが、ユアニは、明らかに内容を理解した表情で緩く首を振った。サージェンのように、彼女も『魔力』を行使して、話すだけではなく完全にこちらと意思の疎通ができるようだ。
彼もそれを見て取って、それでも少しゆっくりと続きを口にした。
「もともと俺たちが使った食器なんだから、俺たちが洗うって。カイはこういう事まるっきり役に立たねぇけど、俺はできるから大丈夫だ」
まるっきり役に立たないと言われカイはさらに落ち込み、ユアニのほうは、今度は困ったような色を顔に浮かべた。そして、再びあの不可思議な声が聞こえてくる。
『でも、私は兄からあなた方のお世話を頼まれているんです。身の回りの細かなことをお手伝いするようにと。だからしなくていいと言われると、私はとても困ってしまいます』
「サージェンが?」
ルディルが反応した。
「彼が、我々を手伝えと、そうあなたに?」
ユアニは黙ってうなずいた。
「ルディル?」
傍らでみるみるこわばっていく幼なじみの表情が、カイの目に入ってくる。思わずその腕に触れると、ひどく驚いた様子で彼が振り向いてきた。
(本当に、どうしたんだろう? 昨日から様子が変だ)
その間に、ユアニは桶を抱えて静かに出ていった。食器を洗うやりかたを見るためにも彼女を追いかけたい気持ちもあったが、今は赤毛の友人のそばにいようと、カイは彼の腕をつかむ手に心持ち力を込めた。
その日の夕食は、ユアニが作ってくれた。やはりダーを使ったものだったが、昨日の料理とは少し違っていた。水の量を少なめにすると、ダーは少し固く炊きあがるのだとサージェンが説明してくれた。
「ダージウは、病人食にもなる。水分の補給もできるしね。ユアニ、あとでドーウラの家に行って、子供の様子を見てきてくれるだろうか。薬草は置いてきたけれど、容態が変わっているようだったら知らせてほしい」
兄の言葉に、ユアニはやはり無言で承諾の意を示し、カイ達に会釈するとそのまま出ていった。
「妹、いたんだな」
彼女が扉を閉める音を聞いてから、食事を続けながらカーサが言うと、サージェンは苦笑した。
「どうやら、伝えるのを忘れていたようだね。ユアニも、私が昔から何度も君達のことを話していたものだから、君達がすでに了承済みだとばかり思っていたと」
「予言の力とやらで、このことを知ることはできなかったのか?」
突然、冷ややかなその一言が場を凍りつかせた。
カイは、自分が青ざめるのを感じた。カーサも食器を動かす手を止め、あっけにとられた顔でカイと同じところを見ていた。ルディルを。
ルディルは当初からサージェンには友好的とはいえない態度を取ってきていたが、今の言葉は、明らかに彼への皮肉だった。
「ルディル!」
「予言者だというなら、すべて以前からわかっていたはずだろう? 自分が彼女に俺たちのことを伝え忘れること、それだけではなく、あの男の家の病人が快方に向かうか否か、その結果も。いや、そもそも今朝、あの男がお前を捜していたことを、知らなかったのはおかしいのではないか? 未来を見ることができるなら、これらの行き違いは生じなかったはずだ」
カイの制止は耳に届いてはいない様子で、ルディルはまくし立てた。カーサが止めようとするのも、ルディルは聞かない。カイは幼なじみの腕を引きつつ、横目でサージェンを伺った。彼は常と変わらず穏やかだったが、彼の心がわからず、カイは不安を覚える。
「そろそろ本当のところを言ってもらおうか。何のために、俺たちをこの村に連れてきた? なぜカイのことを知っていた? 何を企んで、俺たちに関わろうとする!?」 「ルディル!」
「妹をよこしたのは、彼女に俺たちを監視させるためなのか? さあ、答えろ!!」
「ルディル、やめてよ!」
興奮のためにとうとう立ち上がり、サージェンを見下ろして一方的にルディルはまくしたてる。彼を止めようと腰を浮かせ、今度はしがみついたカイだったが、いとも簡単に振りほどかれた。勢いあまって、カイは椅子にぶつかって、がたんと椅子が倒れた。
その音が、はからずも合図となったのか。
「――君達は、『それが運命だから』というたった一言では、納得しないのだね」
サージェンは、ゆっくりと静かに言葉を紡いだ。激していたルディルを沈静させるほど穏やかで、それでいて彼の声音の中には抗いがたい威厳のようなものが含まれていた。
「やはり、君は私が思った通りの人だった。私の言葉には左右されない。様々なことを考え、判断する力を君は持っている、ルディル」
そっと、彼は目を伏せた。そして、呑まれたように押し黙る三人に、告げたのだった。
「明日、会ってほしい人がいる。それからルディル、君に信じてもらうために、一つここで予言をしておこう」
再び露わになった彼の目の青は、力そのものだった。カイは思わず、呼吸を止めた。
青い瞳はまっすぐ前に据えられ、この空間にある何ものも映してはいなかった。予言者の青年が未来に見たことを伝えようとしているのはこの場の誰でもなく、それでいてすべての者に向けて彼は語りかけていた。
「近い未来、それがやってくる」
抑揚なく、ただ事実が音を纏っただけのような、声。
それが、ゆるゆると形を成していく。
――民を生かすもの、それらすべてが、無情なる朱に滅される。――