その次に彼は、精霊の言葉を知っているか、と切り出したのだった。
「精霊達は、彼女達だけの言葉を持っている。君は聞いたことがない?」
「そんなこと、知らなかった。考えたこともなかったよ。当たり前だと思っていたから」
「そう。――彼女達は、独自の言葉を持っている。けれどそれは、私達の使うどの言葉とも違わないものなのだよ。彼女達は無意識に、自分たちに備わっているそれを使って話している。それが、精霊の言葉だ」
「『魔力』、というものですか?」
「そうだよ。太古の昔、この地の人々はそれを自由に使うことができた。今は、私の一族しか『魔力』の使い方を知らない。カイ、私は、精霊達と同じ方法で君と話している。だからこうして、意思の疎通が可能なのだ」
その話が本当なら、これほど抵抗なく会話ができるのは納得できる。もちろんカイは、素直にサージェンの話を信じていた。
「僕にもできるようになりますか?」
「君ならば、必ず。けれど君はまず、この地の人間の言葉を覚えなければならないよ」
木の根が大きく地面に横たわっているところで、サージェンはカイに手を差し出した。
「この木は、根が大きすぎて動けなかったのだね。さあ、つかまってカイ」
「あ、はい」
女性に対するような扱いに戸惑わないではなかったが、彼はその手を取った。温かい手だ。
「言葉について話していたね。君達は、ここで暮らしていくのだから、同じ言葉を使える方が、ここの人々にはより受け入れられやすい」
「確かに、そうですね」
森の終わりが見えてきた。カイはかなり息が上がっていたが、他の者達はほとんど何も言わずに黙々と先頭の彼らについてくる。
木々がさわさわと唄っている。その中に紛れて、くすくす笑う少女達の声を、カイは聞いたと思った。
『サージェン』
『サージェンが嬉しそうだわ』
『あの、朝焼けの人が来たからだわ』
ルシエも、自分をそう呼んだ。幻のようにあえかなそれを探して視線を上の方に彷徨わせる彼の手を、サージェンがそっと引いた。
「サージェン」
「彼女達の声を聞いたの?」
「やっぱり、精霊がいるんですか?」
「いるよ。私達を、この森に入った時から見ている。そのうちきっと、彼女達のほうから君に会いにも来るだろう」
彼女達の言葉は、真実なのだろうか。
それならば自分も本当に幸福だと、カイの胸は熱を持つ。
「森を抜けるよ」
さわさわという葉擦れの音と、少女達の声が遠ざかっていく。踏みしめる地面の感触が柔らかいそれから、硬く乾いたものに変わる。
煙が見えた。
細くたなびくその下に、小さな家がいくつかある。人々の営みの集まりだ。
「あれが、村なのか?」
森を出て、ルディルがようやく口を開いた。サージェンは彼のほうを見、うなずく。
「村人は、君達に何もしないよ。むしろ温かく迎えてくれるだろう。警戒することはない」
「だから、その根拠は何かを訊きたい」
相変わらずルディルの声は固く、カイははらはらと見守っていたのだが、サージェンは彼の纏う静かな空気を微塵も揺らさなかった。
「私がいるから。そして……私が君達の来訪を予言していたからだ」
「予言だって?」
今度は、カーサが身を乗り出す。カイも驚いていた。知識としては聞いたことがあったが、予言などという言葉を実際に耳にするのは、初めてだった。
「私はラルジェア一族の一員。ラルジェアは大陸で恐らく最も古い一族で、時を読む能力を持っている。大陸の民は昔から、一族を大切にしてきた。……崇拝と言っても過言ではない」
(予言者の一族……?)
信じがたいことではあったが、サージェンから感じられる神秘的な空気に、その呼び名は何よりふさわしいように思えた。
「イーウ・サージェン!」
甲高い、少女の声が固い沈黙を切り裂いた。元気のいいそれは心地よく、カイは振り向いた先にその声にふさわしい快活そうな少女を見つけた。
「イニル」
とても小柄で、年の頃は十四、五歳だろうか。その少女は茶色の髪を二つに分けて、頭の上で結っていた。サージェンに勢いよく飛びつき、まだ幼い顔をほんのりと薄紅色に染めて、早口で何かをまくし立てている。彼女に話しかけるサージェンは、対照的にやはりあくまでも穏やかだ。
彼の言葉が、途端にカイにはわからなくなる。恐らく、この地の言葉で話しているからだ。話の内容がわからなくて、カイは微かに不安を覚えた。
「彼女はイニル。あの村に住む少女だ」
彼はイニルを紹介しようとしたが、彼女はサージェンの陰に隠れ、顔の半分だけをのぞかせていた。露わな片方の目に浮かんでいるのは、どう見ても警戒だ。
その彼女に、何かをサージェンがささやいた。すると、彼女はさっと顔色を変え、はじかれたように身を翻し、来た時と同じように一目散に駆けていった。その先には、村がある。
「何を言った?」
ますます険しい語調で、ルディルが鋭く尋ねる。サージェンはそんな彼に微笑んだが、さらに赤毛の青年の表情をこわばらせるだけだった。
「村に先触れを頼んだ。私が予言した者達が来たのだと。行ってみればわかるよ。ルディル」
「気安く呼ぶな」
ルディルは唸ったが、サージェンは臆することなく続けた。まっすぐに、強いまなざしで。
「ルディル。私は君の主に決して危害は加えない。誓おう」
一瞬ルディルがひるんだ。その間に、サージェンは踵を返す。
――予言者の青年の言葉が真実だったことは、すぐに証明された。
村の入り口で、カイ達は茫然と村人達を眺めた。村人達は誰も、深く頭を下げて彼らを出迎えていたのだ。村人達の様子から見出せるのは敬意で、それがサージェンに向けられているのは明らかだった。
「これで、信じてもらえただろうか?」
主にルディルに向けて、彼は尋ねた。
「……いちおうは。だが、まだ断定はできない」
「ルディル」
「カイは黙っていろ」
サージェンは、なぜかルディルの言動の一つ一つに、好意を感じているようだった。
「では、しばらくここを観察するといい。君が安全だと判断すれば、船に残っていた者達も安心できる。君はとても頭のいい人だから」
「何を……!」
かっとなったルディルの腕を、カイは懸命に引いた。
青の予言者は、未だに頭を下げていた村人達に向き直った。背筋を伸ばし、話し始める。
朗々と流れていく異境の言葉は、あたかも歌のようだった。そしてそれを紡ぐサージェンの横顔は、神秘的で侵しがたい印象をカイの中に焼きつけた。
黒い髪を背に流し、青い双眸を如何なる迷いもなく前に向けて。
(サージェン・ラルジェア……予言者)
彼を知りたいという想いが、またしても大きくなる。それは急速にふくれあがり、カイを翻弄する。鼓動が激しい。倒れてしまいそうだ。
サージェンの言葉が止まる。そのあとしばらくは村人達のざわめきが混ざり合って解け合って、カイ達を取り巻いていた。それを分かったのは、茶色の髪の少女が踏み出した、小さな一歩だった。
「イニル……?」
先ほどの、小さな娘だった。イニルはサージェンではなく、真っ直ぐに彼のほうに近づいてくる。カイは目を見開いた。
手を伸ばせば触れられる距離まで、彼女はやって来て足を止めた。そうしてみると、彼女はカイの胸のあたりまでの身長しかなかった。頭を上げて、幾分和らいだが、変わらず緊張をにじませた瞳で自分を見ている様子が、とても愛らしい。
「カァ・イ」
イニルは、小さくそれだけ言った。どうやら自分の名前らしいとカイが思い当たったのは、彼女の手が彼のそれをつかんだときだった。
「イニル?」
彼の手を、両手でとったイニルは、立ったまま上体だけをわずかに倒した。彼の手の甲に、彼女の茶の前髪と額が当たった。
親愛を表す挨拶。サージェンが、昨日自分にしてくれたのと同じ仕草だった。
「よかったね、イニルは君を受け入れた」
サージェンの言葉が終わらないうちに、イニルはルディルにも同じことをしていた。ルディルは普段から考えられないほど狼狽えて、顔を真っ赤にして硬直している。カイは我慢できなくて、くすくすと笑い声をもらした。そして、イニルの挨拶を受けたすべての者に、その行動の持つ意味を説明した。
「この村の長が、家を用意してくれると言っている。とりあえずはそこに落ち着いて、これからのことを相談するといい」
村長らしい老人を連れ、サージェンがカイの隣に立った。カイは、高揚した気持ちのまま、彼を見上げる。
「はい。あの、サージェン」
「なんだい?」
目をそらすことなく、カイはその言葉を口にすることができた。
「どうも、ありがとう」
――その瞬間を、カイは生涯忘れることはなかった。
銀色に輝く早朝の夏の海を彷彿とさせる、鮮烈で静かなサージェンの笑顔を、その生涯の中ことあるごとにカイは思い出していた。
しまいました(なぜ)。ルディルとカーサ、保護者パワー
全開(笑)。サージェンもカイにベタアマだし……。
あんまり甘やかさないでくださいね……。