彼の目の青は、まさにあの夢でカイを包んだ空気と同じ色だった。気持ちが大きく膨らみ、言葉を詰まらせている彼の頬を、青い目の青年は優しくなでてくれた。
「カイ」
青年が自分の名前を呼ぶ。それだけで、カイの胸はいっぱいになった。何と心地よく、優しく響くのだろう、彼の声は。それを纏った、自分の名前は。
「あなたは……僕に夢を送ってくれた人ですね……!」
こんな声の持ち主は、絶対に二人といない。果たして彼は、カイの懸命に紡いだ問いに、肯定のうなずきを返してくれた。
逢いたかった。どんなにか、この瞬間が現実になるのを望んだだろう。待っていたことだろう。
彼を呼びたいと切に思ったが、自分がまだ彼の名前すら知らないことに、カイはこのときになって初めて気づいた。
―知りたい。この人の名前を。
だが、カイが尋ねるよりも早く、太い声が警戒も露わに割り込んできた。
「あんた、何モンだ? 何で俺たちと同じ言葉をしゃべれるんだ?」
「カーサ……!?」
大柄な青年は、カイを背後に押しやり二人の間に身体をねじ込んできた。
「カイ、ここはマジェス皇国じゃない。何でこいつの言ってることが、俺たちにわかるんだ?」
「あ……!」
カーサの警戒の理由を、カイは理解した。青年の言葉はあまりにも流暢で、カイ達のようにマジェス皇国の言葉を母国語としてきたと言われても、すんなりと納得できるほどだ。だが、そんなはずはない。
(この地から、人がやってきた記録はマジェス皇国の記録にはなかったはず)
また、この地へマジェス皇国の人間がやってくるのは、これが初めてだ。皇国の言語を解する者が、いるはずはないのに。
「私を警戒するのは、とてもいいことだね。カイはいささか、無防備に過ぎる」
青年は、静かに言った。そこに柔らかな笑いが混じっているのにカーサはさらに身体をこわばらせ、カイは当惑した。
「けれど私は、君たちに対して敵意も害意も持っていない。もしもそんな意志が少しでもあったなら、彼女に焼き尽くされてしまっているよ」
「マリスニール!」
カイとカーサは同時に叫んだ。いつの間にかもう一艘ボートが降ろされて、ルディルとマリスニールが来ていたのだ。
彼女はカイの肩にそっと白い手を置いて一度微笑み、次いで青年のほうをまっすぐに見た。
「彼女のほうが、ルシエよりも強い。もちろん私よりも。それがわかりきっているのに、わざわざ自分たちを危険にさらすようなことはしない」
「……そうね」
マリスニールが、やや間をおいてから答えた。それを聞いて、カーサも緊張を少しだけゆるめた。ルディルはカーサと並んで、カイを背中に庇ったままでいるので、彼がどんな顔をしているのかカイにはわからない。
「近くに村がある。そこへ来るといいだろう」
彼らに向かって、青年はやはりもの静かな調子を崩さないまま、続けた。
「生活の場所を、できるだけ早く得たいだろう。そこまで案内する。私が君たちのそばにいれば、村の者達は君たちを襲うようなことはしない。約束しよう」
「……かなりの自信だな。その根拠を教えてもらいたいものだ」
「それになんだって、わざわざよそ者の俺たちに親切なことをしてくれるんだ?」
皮肉げにルディルとカーサが言い放つと、先に立って歩き出そうとした青年は、顔だけで彼らを振り向いた。
「私は、この地の者達にとって重要な血を持つ一人だから」
そのときの彼は、何もかもが透明で。
カイは、胸にずきずきとした痛みを覚えた。
信用などできない、というのが大方の意見だった。
一度船に戻り、青年のことを全員に報告した。ユグノーをはじめとして、ほとんどの者が青年を訝しんだ。精霊を通して、自分たちを導くようなことをしたのには、どんな目的があるのか。そもそも、自分たちがやってくるのを、以前から知っていたような節があるのはなぜなのか。そして、なぜマジェスの言葉を話すことができるのか。船の人々が青年を不審がって口にした彼への疑問点は、他にも挙げれば切りがないほどだった。
しかしそんな人間達をよそに、精霊達は心躍らせている様子だった。彼女達はひっきりなしにざわめいて落ち着きがなく、一刻も早く船からあの大地に降りていきたいと思っているのが一目瞭然だった。
彼女達があれほどに喜んでいて無防備ならば、きっと危険はないのだろうとカイは考える。あの青年の言うように、彼が二心を抱いていたとしたら、人よりも何倍も敏感な彼女達が気づかないわけがないのだ。
(でも僕には、そのことをうまく説明できないから……)
カイにとってはごく当たり前でも、他の人間達にとって、精霊のそういった感覚は理解しにくいに違いない。彼らが精霊と交わるようになって、まだまだそれほど時間が経っているわけではないのだ。特にユグノーは、理性を重視する傾向があり、感覚的なことにはあまり信を置いていないように見える。
(もっと話したいのに。あの人と)
とうとう名前は聞けないままだった。彼はカイを知っていたのに。カイを呼んでくれたのに。
「彼が気になるのね、カイ?」
傍らにマリスニールが寄り添い、カイの手に自分の手を重ねてきた。それを握り返し、彼は美しい炎の乙女の黒い瞳を見つめ返した。
「あのとき、『魔力』というので言葉を届けてくれたのが、彼なんだ」
彼女もその場にいて、彼の声を聞いていた。彼女は、視線を海辺に佇んでいる青年に向けた。
「そうね。あの水の石と同質の『魔力』を、彼からは感じたわ。彼は、とても気持ちのいい空気を纏っている。そして、今心から喜んでいるように見えるわ」
「喜んで?」
「あなたに逢えたから、彼はとても嬉しいと……幸せだと感じている。あなたも、それは同じなのね」
「――うん」
今までに、こんなに胸が震えたことはない。こんなにも誰かを、何かを求めたことはない。彼の言葉がカイ達を分裂の危機から救ってくれたという事実を差し引いても、どうしようもなくカイの心はあの青年に惹きつけられる。彼の瞳の鮮やかな青が、脳裏に刻まれて離れていかない。
「彼を好きなのね」
「うん。……きっと、心からね」
いつしかカイも、青年だけを視界に入れていた。隣でマリスニールが笑いを漏らした。
「なんだか、悔しいわ。私よりもあの人が好きなのね、カイは」
「……そんなことは」
カイが狼狽えるのに対し、マリスニールはまたくすくすと笑う。カイは頬を染めた。
「話したいのでしょう?」
彼女は、繋いでいた手を引いた。
「一緒に行きましょう。私がいれば、みんなも安心するでしょうし」
「でも、マリスニール」
「大丈夫。ほら、あの子も迎えに来てくれた」
もう片方の手を前触れもなく取られて、驚くカイの目に入ってきたのは、波打つ水色の髪のルシエだった。やはり彼女は悲しそうだったが、それもどこか和らいだように見えて、カイは我知らず微笑みかけた。
「彼の名前、聞いてあげて」
マリスニールと二人で、ゆっくりと船からカイを降ろしながら、ルシエはささやいてきた。彼女の意思に応えて、海の水が一部分だけ持ち上がり、カイの足元を支えた。
「彼も、あなたの名前をあなたの口から聞きたいと願っている。ずっと、長い間。どうか、そうしてあげて」
「……うん。もちろんだよ。ねえ、君の名前は、ルシエだよね?」
「ええ」
彼女の名前を、直接その口から聞いた覚えはなかった。なのに自分の心がそれを知っていたのは、きっと彼女の想いの表れなのだ。
――精霊が自分の名前を預けるのは、信頼の証なのだから。
「僕に名前を教えてくれてありがとう、ルシエ。僕も、僕のすべての名前にかけて、君の大事な人を助けるって、約束するよ。僕は――」
改めて正しく名乗ろうとするカイを、ルシエは首を振ることでとどめた。
「私よりも、彼に。彼のあとに、私に教えて」
ルシエは、きびすを返してカイから遠ざかってしまう。いつの間にか砂浜に彼は足をつけていて、五歩ほどの距離だけをおいて、青年がいた。優しい微笑をたたえて。
「僕は、あなたに逢いたかった」
一歩、カイは踏み出した。考え考え、言葉を形にする。
「あなたのくれた言葉が、とても嬉しかった。『待っている』と言ってくれたから、僕は必ず逢いにいこうと思った。あなたに逢いたくて、勇気を出すことができた」
ユグノーと話すのが、あのときまでとても怖かった。背中を押してくれたのは、この人の言葉だった。
「ありがとうと、ずっと言いたかった。僕は今……すごくすごく、幸せです」
あと二歩の距離で、カイは足を止めた。うつむき加減だった顔を、上向ける。近くなった青年の表情は、やはり笑顔だった。
「僕の名前は、カイ・メルス・ロータ・マジェスです」
ゆっくり、言葉を句切りながらカイは自分のすべての名を口にした。万感の想いを込めて。
それを受け取った青年は、一度うなずいてさらに笑みを深くした。
「私はサージェン」
彼が、言った。彼の名前を。不思議な音律。
「サージェン・ラルジェアという。君の名前を預けてもらうことができて、私は今とても幸福だ、カイ」
サージェンは、彼らの間にあった二歩の距離を、両手を差しのべることで埋めた。自分の手を包む彼のそれが温かく、カイは唇をわななかせた。
「私達の、親愛を表す挨拶だ。どうか、受け取ってほしい」
サージェンは、上体を倒した。押し頂くようにしたカイの両手の甲に、彼の黒髪と額がそっと当てられた。
「私もずっと心待ちにしていたよ。カイ――君にこうして触れることを。言葉を交わすことを。そして、私の名を君に告げる瞬間を」
呼んでほしい、と顔を上げて彼は言った。求められるまま、カイは彼の名に音をまつわらせた。
「サージェン」
再び、どっと涙が溢れてきて、視界が歪んだ。手を引かれるまま、カイはサージェンの肩に顔を埋めて泣いた。