「カイ。ああ、みんなもいるのね」
マリスニールが、船尾のほうから走ってきた。精霊達は、もうとっくにそのことを知っていたのだろうか。彼女の表情には驚愕も落胆も見いだせなかった。
だが彼女の姿を見て、カイははっと思いついた。
「マリスニール、船が上陸するのが難しいんだ」
「ええ。わかっているわ」
「だったら、君たちの力で一人ずつでも僕らをあそこまで運ぶことはできない? 泳いでいくわけにもいかないし……でも、君たちなら」
「残念だけど、それは無理なのよ」
いとも簡単に、光明はかき消された。茫然としかけたが、かろうじて最後の気力でカイは口を動かした。
「どうして……? だって、水の精霊なら……」
「やっぱり私達にしか、感じられないのね。カイ、この大陸全体に、『魔力』が張り巡らされているの。ちょうどあなた達の使う、『網』のような形でね」
カイの後ろにいた人間達が、一斉にざわめいた。
「それは、どういう事なのだ!? 『魔力』とは何だ!?」
ユグノーががなった。マリスニールが彼に説明を始めていたが、カイの耳には入ってこない。
せっかく、ここまで来たのに。本当にすぐ近くに、目標にしてきた場所は存在しているのに。
――待っている、と、あの“声”は確かに自分に言ってくれたのに。
ふと、喧噪が遠くなった。我に返れば青銀の世界に、温かさが混ざり始めている。そして少し遠いところに、水色の長い流れが風の中に舞っている。
そう、彼女も、自分を待っているのだと――。
「ルシエ!!」
声の限り、カイはその少女を呼んでいた。背後のざわめきが、ぴたりと止んだ。
「カイ? どうしたんだ?」
「あそこに彼女がいるんだ! ルシエだよ!」
身を乗り出しかける彼を、ルディルとカーサが抑える。だが彼らもすぐに彼女を見つけたようで、視線はカイと同じ方向に据えられていた。
「船の精霊じゃねぇよな? あんな感じの可愛い娘はいなかったからな」
「どういう覚え方なんだ……。しかし、確かに俺にも見覚えがないな」
「ルシエ……!」
ルシエは、じっと佇んでいた。水の上で。彼女の細い腕がゆっくりと上がり、カイを招くようにさしのべられる。
「……彼女の所まで、船を動かせますか?」
気がつくと、カイは近くにいた船員の一人にそう尋ねていた。
「え? そりゃあの辺りまでならぎりぎりで。けどあの……」
「危険だと思いますか? でも僕は、彼女と話したんです。だから、彼女を信じたいんだ……」
あの真摯なまなざしを。言葉を。
彼女なら、自分たちを導いてくれる。
「カイ様、ですが!」
「大丈夫よ、ユグノー」
マリスニールが、一歩進み出た。
「あの子は信じられる。あの子の周りだけ、『魔力』が感じられない。『魔力』の『網』に、あそこだけ船が通り抜けられるだけの大きさの穴が空いているわ」
続いて、先ほどの船員もうなずいた。
「行きやしょう、旦那。マリスニールのねえさんは、今までずっと俺たちに協力してくれた。他の精霊達も。ねえさんの言うことなら、信じても大丈夫だと思いますぜ。それに、カイ様も」
しばらく、沈黙のまま時は流れた。やがて、ユグノーが首を縦に振る。張りつめた空気が緩むのを、カイは背中で感じた。自分自身かなり緊張していたのを、その瞬間に知る。
「もしもの場合の対策を、考えておきます」
厳しい面持ちを崩さず、ユグノーはカイを見つめた。
「カイ様も、どうか決して完全にお気を緩められませんよう。我々が自分たちの命をあなたに預けているということを、お忘れなきように」
「……わかりました」
この人がいてくれてよかったと、カイは思う。どうにも感情に流れるきらいのある自分に対して、戒めとなってくれるユグノーの存在は、やはりありがたい。
船は、程なくして再び動き出した。船首の延長上に、ルシエの姿がある。舳先に立ち、風に銀髪をなぶられるままにして、カイは距離をおいてルシエと向き合っていた。
ルシエは、動かずに船を待っていた。少しずつ距離は縮まっているが、まだ声が届くほどではない。
でも、カイは彼女に語りかけた。心から。
「僕は、君の大切な人を助けるよ。僕にとって、あの人が僕に言葉をくれたことが、とても大切で嬉しかったから」
あの朝、風に飛ばされて吹き消されてしまった言葉の続きを、今度はカイは風に託した。
ルシエが、微かにうなずいたように見えた。
彼女は、身を翻した。そのままゆっくりと、水の上を滑っていく。儚げな朝の光の中で、その様は優美で、幻想的だった。
「彼女が、お前の言っていた精霊なんだな?」
後方から、ルディルが尋ねてきたのに、振り返らずにカイは答える。
「うん。やっぱり、あれは夢じゃなかったんだ。彼女が僕に言ったことも全部」
「彼女は何を?」
「……」
ルディルにそれを話すのはもちろん容易なことだった。一言一句まで、カイはそれを覚えているのだから。しかし、まだそれを話す覚悟ができていない。彼女の悲壮な様子がどこから来るものなのかわからないうちは、軽々しく誰かに話すべきではないと思うのだ。
「ごめん。今はまだ言えない。僕自身、わからないことが多いから。それがわかった時、必ずルディルに話すから」
「――お前がそう決めたなら、待つさ。昔からお前は頑固だから、決めたことを翻させる手間を思えば、その方がずっと楽だしな」
「何だよ、それ」
別々の方向を向いたままだったが、二人は笑い合った。
船は進む。軽やかに。
ルシエは時折振り向いて、船が着いてくることを確かめている。一定の距離を保って、彼女は船を導いた。
岸壁も浅瀬も、船を阻むことはない。彼女を追って、やがて船はぐるりと方向を変え、開けた場所に出た。
「砂浜だ!」
どこかで、誰かが叫んだ。
なだらかで広い、白い浜辺がそこにあった。ルシエはすでに、その砂の上に上がっている。顔を上げ、じっとカイ達の様子をうかがっているように見えた。
「上陸するか?」
「うん。僕が行くよ」
「いけません。カイ様は安全が確認されてから船を下りてください。カーサ、まず行ってくれるか?」
「いいぜ」
強い調子で押しとどめられ、カイは引き下がるしかなかった。はやる気持ちはあるが、彼らも折れないだろう。
(待ったほうがいいのかな)
仕方なく、待っていようと思いかけたカイだったが、直後動いていた。
「おい、カイ!」
カーサを追い抜き、降ろす準備をしていたボートにカイは乗り込んだ。あっけにとられている船員達に、急いで水に降ろすように指示を出す。
「カイ! こらおっさんの話聞いてなかったのか!?」
「ごめん! でも、行かなきゃならないんだ!」
船員達がおろおろしている間に、カーサがボートに手をかけた。絶対に行くのだと船の縁にしがみついているカイに、カーサは溜息をつく。
「わかった。とにかく俺も一緒について行くからな。お前だけじゃ、船漕げねぇだろ」
亜麻色の髪の大柄な男も同行することで、ようやく船員達も安心したようだ。ボートはゆっくりと海面に近づき、着水する。
カーサが櫂を動かすたび、小さな船は前進する。銀髪の青年は、その紫の瞳でルシエの隣に佇む人物を凝視していた。砂浜の上に人影を見た瞬間、いても立ってもいられなくなったのだ。
長い黒い髪が、海風に吹かれている。ルシエが彼のそばに寄り添ったから、彼女の大切にしているのが彼なのだとわかった。同時に、自分が邂逅を望んできたその相手かもしれないと思い至り、カイは夢中でボートに飛び乗っていた。
長い黒髪の人が近づくにつれ、動悸が大きく激しくなった。
浅い場所まで来ると、もどかしくなりカイはボートから下りて、水をはねさせながら走った。カーサの声が背中にぶつかったが、気にしない。
砂に上がり、最初の言葉を探して立ちつくす彼に、精霊の娘を従えてその人は歩み寄ってきた。間近で見て、男性であることが知れる。カイよりも長身だった。
「ようこそ」
彼は、微笑んだ。その言葉は静寂そのもののような神秘的な音を纏い、カイの耳に心地よい響きを残した。しかしカイの注意は、まず彼の笑顔に釘付けになっていた。
優しくて穏やかで、温かい感情が溢れていた。待っていると言ってくれたあの“声”に内包されていたものと、同じ感情があった。
カイの頬を、涙が一筋流れ落ちた。彼は手を伸ばして指でそれをすくい取り、カイの目元をなでて、再び口を開いた。
「ようこそ、北の国の皇子。精霊と人間を導き、幸福を願う者」
そう、あの“声”は確かに、こんなふうに静かで不思議な響きを持っていた。
彼のまなざしがどこまでも鮮やかな青い色であることを、カイはそのときになってようやく見て取った。
五章にしてようやくタイトルロールが!
長かった……。カイおめでとう。