自分は、確かにここにいて、何かをすることができる。その気持ちは、自身も気づかないうちに彼を積極的にしていった。
ある朝、マリスニールは会議のあと一度精霊達の船に戻り、カイとルディルは二人だけで遅めの朝食を取っていた。
「けっこう慣れてきた? 昔の言葉遣い」
まだ二年間の癖が抜けず、ふとした拍子にカイの名前を様付けで呼ぶことの多いルディルに、からかい混じりに彼は尋ねる。ルディルは憮然とし、「すぐに戻るさ」と答えた。
「もともと、最初のうちはお前を様付けでなんて呼ぶの、かなり抵抗があったんだぞ。元に戻ったら、お前後悔するかもな」
「後悔なんかしないよ。やっぱり撲、このほうが安心する。ルディルらしいしね」
「……引っかかるな、それ」
こんな穏やかに、二人の間で時が流れるなんて、しばらく想像することすらできなくなっていた。けれど今、彼らはできるだけ多く一緒にいて、そんな時間を共有したいと思っている。昔のように。
「おい、二人とも! なんだまだ飯食ってたのか?」
どたどたと、大きな足音が聞こえてきて、静かな空気は吹き飛ばされた。カーサが何やらあわてた様子で、船室のほうから走ってきたのだ。
「どうしたの、何かあったの?」
「すげぇことになったんだよ! ユグノーのおっさんが、大至急ってカイを捜してたぜ。っと、ルディルも行っといたほうがいいと思う」
「ユグノー殿が?」
何かまた失敗しただろうかと考えてしまうあたり、自分を情けなく思いつつ、カイはルディルと一緒にカーサのあとをついて行った。ユグノーは彼の船へ物資を補給する必要があったため、今朝からこちらにいて仕事をしていたのだった。
「そっちじゃない」
てっきり船室に行くのだと思っていたカイだが、カーサは彼とルディルを船首のほうに連れて行こうとする。
「何が……?」
「早く来いって!」
ぐずぐずしていると、カーサはとうとうカイの腕を掴んで、ぐいぐいと引きずった。ルディルが抗議しかけるのも間に合わず、三人はもつれるようにして船首にたどり着いた。
船首にいたのは、ユグノーだけではなかった。ほとんどの乗組員が、集まっていたのではないだろうか。その人数に、カイは目を丸くする。
「カイ様!」
ユグノーが、彼に似合わず冷静さを欠いた声でカイを呼んだ。カイは不安を覚える。何かよくない事態だろうか。
「何があったのですか? みんなも……」
「とにかく、あれをご覧ください」
言いながらユグノーが差し出したのは、望遠鏡だった。最近になって発明されたもので、遠くのものを見る時に使う。念のために持ってきていたそれを受け取って、わけがわからないままにカイはそれを片目にあてがって、ユグノーの指し示す方向に向けてみた。
最初は微妙に方向を間違えて、海原ばかりが、丸い形にくり抜かれて見えていた。だが、少し視界を左右に動かしたあと、カイは望遠鏡を取り落としそうになった。
「あれは……まさか、あれは!?」
「カイ?」
咄嗟に望遠鏡を持つ手を支えてくれたルディルが尋ねてくるのに、カイは先ほどのユグノーと同じく望遠鏡を渡すことで答えた。ルディルにも同じ方向を見せ、彼も同じ反応をしてきた時、ようやくカイは少し落ち着きを取り戻していた。
「あれは……!?」
「陸に、見えた? 君にも、そう見えたんだね!」
叫ぶと同時に、カイを支配する感情は驚きから喜びへと変わる。衝動のまま、カイは赤毛の幼なじみに抱きついて、その身体を揺さぶった。
「陸地……。やはり、陸地なのか……」
ルディルのほうは、じわじわと嬉しさがせり上がってきたらしい。しばらくしてから、彼もカイの背中を抱き締め返した。
そんな二人を見ていて、周りの者達にも喜びが伝染したようだった。めいめい、近くにいた者達と肩を叩き合ったり抱擁し合ったりしながら、ほぼ全員が大きな歓声を上げた。
彼らは目的地の、南の大陸にようやくたどり着いたのだ。
程なくして、その知らせはすべての船に伝えられた。最も喜んだのは、水の精霊達だったとマリスニールを通してカイは聞いた。彼女達のこれまでの仕事を考えて、彼は心から感謝の念がこみ上げるのを禁じ得なかった。こんなに早くあの大地を見出せたのも、彼女達の協力のおかげなのだ。
(そして、船を動かしてくれた船員達)
彼らもやはり、カイが驚くほどに喜びを身体全体で表していた。彼らは毎日、この瞬間をどれだけ心待ちにしていたことだろう。
夜、熱気の漂う甲板でカイとルディル、カーサ、マリスニール、そして各船を見回っていたユグノーは、カイの船室に集まっていた。別に招集をかけたわけではなく、自然にここに来ていたのだ。
緩やかな雰囲気の中、彼らはぽつりぽつりと話をした。胸がいっぱいで、言葉が出てこなかったのだが、それでも充分だった。
「あの大陸についたら、みんなで宴を開こうね」
しばらくしてカイの零した言葉にマリスニールは優しくうなずき、ルディルは微笑んだ。カーサは彼らしい大きな仕草で賛成の意を示した。
「そうですな。それがいいでしょう」
ユグノーの表情も、とても柔らかだった。
その日の出来事はカイにとって素晴らしくよいことばかりで、幸せだった。すべての者が同じ気持ちであることが、カイは本当に嬉しかったのだ。
「カイ! おら早く起きろ!」
やわやわとしたまどろみから、カイは急に引き戻された。がばっと半身を起こし、激しく叩かれるドアを見やる。叩いているのが誰かは、考えるまでもなかった。
「カーサ……どうしたの? まだ日も昇ってないじゃないか……」
寝過ごしたのかと一瞬思ってあわてたのだが、外に出てみると真っ暗だった。眠気の覚めない頭で、ぼんやりと抗議してみたが、カーサはそんな彼をやおら担ぎ上げたのだ。
「カーサっ!? 何するんだよ!」
「お前がぐだぐだ言うからだろうが! もうすぐおっさんも来るから、急げ!」
「そんな……ユグノー殿が来るんだったら、なおさらこんな恰好じゃ駄目じゃないか! 離せったら、カーサ!」
「……お前、だんだん強気になってきたな」
結局、カーサはカイを降ろそうとはせず、寝間着のままで彼は船首に連れて行かれたのだった。
集まった面々も、夜の担当の船員以外は一様にカイのような姿だったので彼はわずかに目を瞠ったが、一歩前に出た船員の一人の言葉で、一気にそんなことなどどうでもよくなった。
「何だって……?」
「夜目の利く奴の言うことなんですがね。もう少ししたら日が出てくるんで、もっとはっきりすると思いやす」
それで、急いで主な者達が呼び出されたのか。カイは納得する。
「でも、事情くらい説明してくれてもいいのに」
それにしても急だったと、軽くカーサに抗議してみると、
「あ? そんなめんどくさいことするより、来た方が早ぇっての」
悪びれないカーサの答えに、カイは苦笑する。彼もやはり急いで、連絡のために飛び起きて駆け回ってくれたのだろう。
「あ、明るくなってきやした!」
海と空との境目に、光の線が現れる。すぐにそれはカイ達に迫ってきて、空全体を薔薇色に染め上げた。
生まれて初めて目にする、世界に朝が満ちる瞬間だったが、カイには感動に浸る時間も与えられていなかった。カイは、他の者達と同じように、前方だけに目をこらしていた。
淡い薔薇色から、光は青銀色に変わっていく。この場にいる全員の危惧を、それは瞬時に照らし出してしまった。
「これは……」
急に脱力感と絶望に襲われて、ふらふらとカイは膝をついた。いつの間にかそばにいたルディルが、そっと彼の肩に触れる。その温かさが、少しだけカイを慰めてくれた。
「これじゃあ、上陸できそうにねぇな……」
カーサの呟きは、全員の胸中を表していた。
目指してきた大地は、彼らを拒絶していた。