水の色は心地よい。親しい精霊の少年の、そして、あの日カイに大切なものをくれた誰かの色だ。その色に導かれ、自然にカイは目を覚ました。
何だろう。声を聞いた気がする。
「……ルシエ?」
つぶやいて、はっと口を押さえた。人の名前のようだが、自分はそんな名を持つ者を誰も知らない。共に旅する精霊にも、人間にも、『ルシエ』という名前はなかったような気がする。
「ルシエ……? 誰?」
わからない。けれど、なぜかその響きは懐かしく優しく、彼はもう一度「ルシエ」と唇を動かしてみた。
水がはねた。どこかで。
――どこだろう。
カイは、寝台を降りた。船旅とは思えないほどに揺れが少ないのは、同行の水の精霊達のおかげだろう。裸足のまま、カイは船室を出て船縁に近づく。海の上は風が冷たいが、特にそれを感じることはなかった。
海の音がする。子守歌のような、単調だが落ち着く音が。
一つの音と一つの色しかないようで、実はたくさんのものを内包している。そんな神秘の空間の中、カイは自分をじっと見つめるその者に、ゆっくりと微笑を向けた。
少女が大人に変化する瞬間のまま、時を止めたかのような乙女がそこにいた。波打つ癖の強い水色の髪は長く膝裏までを覆い、海を行く風に揺れている。小さな愛らしい足は水の上に浮いており、飛沫すらも彼女を少しも濡らさない。彼女を見て初めて、カイは船が動いていないことに気づいた。常に前進をと他ならぬ彼自身が乗組員と精霊達に頼んだのに、どういうわけかそれを少しも不思議とは思わなかった。彼女のためにそうしているのだと、微塵も疑わずに彼は受け入れていた。
「銀色の……朝焼けの人」
呼びかける彼女の声は聞き惚れるほどに優しくかわいらしかったが、カイには泣いているように感じられた。
「夢を見たのでしょう? あの人の声を聞いたのでしょう? あの人を、好きになったのでしょう? だったらどうか、あの人を助けて」
「あの人……?」
どうやら、あの声の持ち主のことを指しているようだ。水の乙女は悲しげな様子のまま、息を呑むカイに近づいてきた。
「約束したから、私からはあの人の名前を教えられないの。私はあの人が好き。私のただ一人なの。お願いだから、あの人を救って。私のあの人は、あなたからの救いをひたすらに望んでいるのよ」
ざあ、と風が鳴る。乙女は目を伏せた。
「もう行かなければ……。お願い、どうか私の言葉を忘れないで。朝焼けの人」
「カイ」
反射的に、彼は去ろうとする乙女に声をかけていた。驚いて顔を向ける彼女に、今度ははっきりと告げる。
「僕の名前はカイ。君の大切な人が僕の考えるのと同じ人なら、僕はその人を助けたいと思う。僕は――」
風が、再び大きく鳴った。叫びのような音に吹き飛ばされ、カイ自身にも自分の言葉の最後は聞き取れない。
彼女に届かなかった。あわてて、彼は身を乗り出す、もう一度はっきりと言いたくて。
ぐい、と腹の辺りを後ろから強く引かれた。
圧迫感に、息が止まる。
「危ねぇだろうが! 落ちても助けねぇぞこの馬鹿!」
聞き覚えのある声に怒鳴られ、カイはぼんやりと辺りを見回す。見慣れた船の、甲板。そして、自分を睨んでいる、茶色の瞳。
「……カーサ……?」
「寝ぼけてるのかよ。もう少しで海に落ちるところだったんだぞ。ったく、ルディもマリスニールもいねぇで、俺が来なかったらどうなってたか」
カーサはしきりにぼやいていた。カイは徐々に、自分の行動を思い出す。水色の髪の、恐らく水の精霊の乙女に、風にさらわれてしまった言葉の続きを言おうとして。
(夢だったのかな……?)
船にはなじみのある一定の揺れが今は足の裏から伝わってきていた。間違いなく、船は進んでいるようだ。カーサは早起きだから、つい先程のような異変があれば気づかないわけがない。
「カーサ、船はずっと進んでいたよね?」
「うん? ああ、進んでたぜ。っていうか、ずっと前進って言ったのお前なんだろ?」
「うん……」
船は前進をやめなかった。やはり、それでは先ほどの彼女は、カイの見た幻なのだろうか。
(ルシエ、っていう名前なのかな)
いつの間にかカイの記憶に刻まれていたのは、彼女の名前なのだろうか。
(彼女の大切な人っていうのが、本当にあの“声”の持ち主なら)
自分たちは、出会う運命なのかもしれない。少なくとも、彼女はそう思っている口ぶりだった。
――会えるのだろうか。
「もしそうなら、嬉しいな」
「うん? どうした、カイ? まだ寝ぼけてんのか?」
「違うよ!」
言い返したところで、カイは二回くしゃみをした。気がつけばまだ早朝で、海の上は少し肌寒いのだ。カーサはあきれ顔で、寝間着のままのカイに自分の上着を貸してくれた。
その出来事は、結局カイにしか起きなかったらしい。早朝の会議を終え、あれこれと雑用をこなして忙しくしていても、彼は水色の乙女との会話が気にかかってしかたがなかった。ただの夢とは片づけられない。
だがルシエという名前の水の精霊は、やはり船の中には存在していなかったし、精霊達ばかりか乗組員の誰も、そんな名前の持ち主を知らなかった。
「心当たりはないのですか?」
「うん……」
昼食をルディルと取っている時、彼にもカイはルシエのことを話してみた。ルディルはまず夢である可能性を示唆したが、カイの話に耳を傾けてくれたのが嬉しかった。だがカイは、幼い頃は当たり前だった二人での語らいが最近まで絶えていたのだと、そして自分はそれについて特になにも感じていなかったのだと、自覚すると同時に愕然としていた。いかに自分が、外の世界を拒絶していたのか、その一端を見せつけられたような気がして。
「カイ様は、夢ですませるのが納得できないのですね?」
ルディルは言った。
「まあね。夢だと思うには、ちょっと……。何ていうのか、現実的すぎたっていうか」
床の冷たさ、外の肌寒さは感じなかったが、彼女の声音の真剣な色はしっかりと胸に残っている。彼女の顔立ちも、声も、細かなところまで思い描くことができる。
「……不思議な“声”が、あの水の精霊の子供を通して伝えられたと、以前おっしゃっておられましたね」
「うん」
「では、やはり夢だと決めつけるのは早すぎるでしょう。何らかの力が関わっているのかもしれない」
先に食べ終えたルディルは、食器を足下に置いて顎に手を当てた。
「いずれにせよ、カイ様に対して敵意がないのならば、私は何も言いません。ですが、材料が少なすぎる今は、警戒を怠らないようにしてください。カイ様は……我々にとって必要な方なのですから」
「……わかったよ」
反論がないわけではなかったが、概ねルディルのほうが正しかったので、カイは渋々肯定の返事をした。
が、少し考えてから、カイはルディルのほうに顔だけで向き直った。黒い瞳と赤毛の幼なじみは、立って並ぶとカイより背が高いが、今は座っているから目の高さはほぼ同じだ。多少きつめだが、整った顔立ちをしている。
「カーサはルディルのこと、『ルディ』って呼ぶんだね」
「は? ええ、そうですね」
急に話題が変わって、ルディルは多少面食らっていた。
「僕は昔から『ルディル』って呼んでる。君はどっちが好き?」
「はぁ……」
ルディルの困惑の色が濃くなっていたが、カイは彼以上に戸惑っていた。自分でも、唐突だったと思わないわけではなかった。
「どちらでも、特に気にしたりはしていません。ただ、名前を短く呼ばれることは、今までありませんでした」
「じゃあ、僕は『ルディル』って呼んだほうがいいのかな?」
「いえ、ですからどちらでも……」
違う。自分が気にしているのは、ルディルの呼び方ではないのだ。それよりもずっとずっと、今になって胸に引っかかっていることがある。
「僕はね……ルディル」
今なら言える。自分はやっと、またこうしてルディルと話すことができるようになったのだから。
カイは、一度目を伏せて、再び視線をルディルの黒い双眸に据えた。唇が、自然に動いた。
「僕は、本当は小さい頃と同じように、ルディルと話がしたいんだ」
「カイ様?」
「違う。そうじゃなくて、君にも昔みたいに、僕を名前だけで呼んでほしいんだ。言葉遣いも――」
ルディルは幼なじみであり、同じ乳で育てられた乳兄弟で、誰よりも信頼できる友人だったはずだ。主と従者という関係では、今の自分はいやなのだ。
「……カイ様……」
ルディルの目に、逡巡が見えた。カイは固唾をのんで、彼が再び口を開くのを待つ。
「……あなたは昨日ユグノー殿や他の皆に、自分の身分を気にすることなく、対等に扱えとおっしゃった」
ルディルは、ゆっくりと視線を動かした。彼の黒い瞳に、硬い表情のカイが映っている。
「だったら――俺もそうしなければならないな、カイ」
「ルディル!」
思わず、カイは赤毛の青年に飛びついていた。すぐにルディルは大声で喚いてカイを離そうとしたが、もちろんカイは腕に込めた力を緩めなかった。明るく笑う彼につられて、いつしかルディルも一緒になって笑っていた。