エリルはすっかりユグノーに懐いてしまい、彼の船に泊まると言い出したのでカイは困ったが、ユグノーも承諾してくれたので安心した。彼にエリルに対する敵意や害意がないのはカイの目にも明らかだったし、何よりユグノーの中にそんな気持ちが少しでもあったとしたら、初めからエリルが心を許すはずがない。この幼い水の子供は、自分へ向けられる感情に敏感だ。
水の精霊の一人に手伝ってもらい、カイが船に戻ると甲板にカーサの姿があった。
「おう、皇子様」
ぶっきらぼうに声をかけてきたが、カイは気にすることなく彼に近づいた。
「さきほどは、ありがとうございました」
「は? あんたが俺に礼なんか言う必要ねぇだろ? 俺にも礼を言われる理由はねぇ」
「……ユグノー殿を、説得してくださった」
「別に、皇子様のためにやったわけじゃねぇしな。様子を見てなんか気まずそうだったから、口と身体が勝手に動いてただけだ。それにあんたを助けてやれば、あの別嬪さんが喜ぶだろうが」
「べっぴん……?」
「ああ、皇子様はこんな言葉は知らねぇのか? 美人ってこった。―マリスニールはいい女だ。すでにお前さんのもん、ってのはほんとに惜しい」
一瞬、カーサの言葉の意味をはかりかねたカイは、少しして真っ赤になったが弁解はできなかった。そのときにはもう、カーサは話し始めていたからだ。
「美人で健気で、頭だっていいだろう。さっき、あんたとルディがユグノーの旦那の船に向かったあと、ちょっとばかし話したんだけどよ。俺好みのすっげぇいい女だもんで、精霊だのなんだってことがふっとんじまった」
めずらしく、自分に対しても饒舌なカーサが、カイには新鮮だった。乱暴で怖いと思っていた彼の口調も、不思議と心地よい。
「そんでな、つまり事はそれくれぇ簡単なことなんだって、気づいたって言うか。ユグノーの旦那は頑固だけど、きっかけさえありゃ精霊族を毛嫌いしなくなるだろうって思ったら、あとはもう動いちまってたんだよな」
黙って耳を傾けていると、やがて照れたような笑みでカーサがカイを見た。
「大事にしてやれよ。今日のあんたを見てて、なんか納得できた」
「何がですか?」
「だから、あれだけ潔く、しかも身分が下の相手に頭を下げられて、見てる方がはらはらするくらい必死に一生懸命話すあんただから、マリスニールはあんたに惚れたんだろってことだ」
「っ!? あ、あのっ、違うんです!! 精霊はそもそも、僕たちみたいなれ、恋愛とかの感情はその―!!」
「そういう区分は、問題じゃねぇよ」
ぽん、と。
不意に頭に何かが降りた。カーサの手が乗せられたのだ。こんなふうに触れられたのは初めてで、カイは戸惑ったが、同時にどこかで嬉しいとも感じていた。
温かくて。
「マリスニールが、あんたを大事にしてんのは俺にも見ててわかる。俺は彼女を気に入ってるし、今日のあれでお前さんも見込みがありそうだと思った。そういうわけだから、力を貸してやるよ」
「カーサ殿」
呼ぶと、髪をくしゃくしゃとかき混ぜられた。
「カーサでいいって。堅苦しくってしょうがねぇ」
「は、はい」
「よし。じゃ、これからがんばれよな。俺の期待を裏切るようなまねしたら、速攻見限るからな」
「……はい」
カーサの手が離れていく。何となくその動きを目で追うと、これまでの自分ならかなりの決意を必要としたであろう一言が、ごく自然にカイの唇から紡がれていた。
「では、僕のこともただのカイと呼んでください。カーサ」
再び、ぐいと頭を軽く抑えられ、乱暴に髪を混ぜられる。声を上げてカイは笑った。
翌朝の会議では、たくさんの変化があった。カイの参加はもちろんだったが、船室に入ってきた精霊達を見て、代表者達は全員驚愕を隠せなかった。
艶やかな長い青の髪を、そのまま背に流して入室してきたのは、マリスニール。そして彼女のあとから、水色の髪の女性がついてきたのだ。
「彼女は水の精霊よ。もう一艘の、精霊の船から来たわ」
つまり、代表者だ。カイは彼女の顔を知ってはいたが、それほどたくさん話したことはなかった。その精霊は、言葉を失った人間達に、とても友好的な微笑を見せた。
「初めまして、というのよね。こういうときは。私はフェナ。マリスニールから、船を進めている私達の力について説明してほしいって、頼まれたのだけど」
ここで、カイだけがさらに仰天させられた。精霊は名乗るという行為に特別な思い入れを持っていて、よほど相手を信頼しないと自ら名乗らない。まして、複数を同時に相手にした状況では。だからカイもカーサにマリスニールを紹介する時は、間接的に紹介したのだ。
何が起きつつあるのか、それとももうすでに起きているのか、混乱したままのカイを尻目に、この日の朝の会議が始まった。
とにかく、カイにとっては反省し通しの時間だった。ユグノーとマリスニール、そしてカイ達の船の責任者は、てきぱきと議題に沿って話し合いを進め、時には議論もしていた。カイはまったく彼らについていけず、せめて大切なことを聞き逃さないようにと気を張って、耳を傾けていることしかできなかったのだ。
会議が終わる頃には、カイはあまりにも無知な自分を恥じ、この数日間の行動に激しい自己嫌悪を感じていた。
本当に、何も理解していなかった。何もしていなかった。自分を諫めてくれたあの“声”を聞くことのないまま航海を続けていたら、きっと船団は内部分裂を起こしていたに違いない。最悪の場合、南ではなくレイス大陸へ引き返すことになっていたかもしれない。
それでも、後悔することばかりではなかった。
「カイ様」
甲板へ出たところで、ユグノーが声をかけてきた。意外に思いつつ振り向くと、どこか面映ゆそうな男の顔が目に飛び込んでくる。
「あの……。本当に役立たずで申し訳ありませんでした」
「は? い、いや、何も謝られるようなことは何一つございません」
ユグノーはそれからしばしの沈黙をおいて、「あの子供は」と切り出してきた。
「子供……エリルのことですか? 今日はまだ見ていませんが。そういえば、昨日は守りを代わってくださって、ありがとうございました」
「守り、ですか。うむ、確かにそうでした」
朝の数限(=数時間)だけで幾度も驚いていたカイだったが、次の瞬間に起きた出来事は本当に信じがたかった。ユグノーが、口を開けて晴れやかに笑ったのだ。
「人間の子供と数分違わなかった! 温かく、軽く、そして愛らしい。明るくよく笑う子だった」
絶句しているカイに、ユグノーは「失礼」と一呼吸分おいてから続ける。
「カイ様。そもそも、この度の南行きは、本来なら息子に命じられたものだったのです」
「命じた?」
「ええ。皇帝陛下よりの勅命が、我々職人達に伝えられました。誰か一人、腕の立つ者を使節団員として派遣せよと。組合は、しばらくの間話し合いをしていたようです」
職人達は、組合を作ってそこに所属する。そうして極端に仕事が多かったり少なかったりする職人が現れないよう、調整するのだ。
「出発の一月前に、組合から息子に、同行の命が下されました。断ることなどできませんでした。組合からの指示は厳守というのが掟ですからな」
「そんな……!」
少なからず、カイは衝撃を受けた。己の意思で集まってきた者達ばかりが船に乗ったのだと、信じて疑わなかったのだ。何の根拠もないというのに。
(本当に僕は、駄目だ……)
「息子は結婚してまだ一年目で、ようやく妻が身ごもったという頃でした。それで、私が代わりに行くと組合に頼み込み、承諾されました。二年前に息子に工房を譲りましたが、それはあいつが結婚し一人前になったと判断したからで、腕が衰えたから隠居したのではない。よって、そちらのほうは心配されずとも大丈夫ですよ」
「そうだったのですか……」
カイは唇をかみしめた。強い思いがわき上がってくる。絶対に、ユグノーは無事にレイス大陸へ帰さなければいけない。そのために自分は、果たすべき役割を完璧にやり遂げなくてはならない。
「ユグノー殿」
彼は、必要な人物だ。彼ほどの厳格さと意志の強さは、カイ自身には欠けている。これからも、彼から学ぶべきことはきっと山のように見えてくるはずだ。
「どうか、帰国のそのときまで、変わらずに力をお貸しくださいますよう。努力を怠らず、必ず皆のために役立てるようになりますから」
胸に手を当てた礼を取ると、あわてふためいたユグノーの声がカイの頭に降ってきて、潮風に流れた。
次章からがいよいよ、私が書きたいと思っていた
あたりです。タイトルロールも登場します。
カイも何とか成長の兆しを見せてきましたね。