錯乱がおさまるにつれ、あの夢の“声”がますます鮮明に思い出されるようになる。カイはベッドに座って床を凝視したまま、長いことじっとしていた。
(僕に、求められたこと……)
フェリアル・ユグノーという男を筆頭に、カイに対する反発が強まっている。カイへの不満は、精霊達にも向けられる危険性がある。それなのに彼は、肝心のユグノーの顔を思い出せないのだ。
(いや、『思い出せない』んじゃなくて、『知らない』んだ)
別な船とはいえ、一度も顔を合わせていないわけはない。カイがユグノーを覚えようとしなかっただけのことだ。毎朝の会議の時にきちんと参加していれば、そんなことはなかったはずなのだ。
自分の立場と役目の重要さを、カイはまったく自覚していなかった。理解していると思っていたのも錯覚に過ぎない。一つの文章を丸暗記するように、ただの言葉の羅列として頭の中にとどめていただけだったのだと、このときやっとカイは認めたのだった。
(でも、もう遅いよね――)
ユグノーと同じことを考えている者は多いとルディルは言っていた。彼らはもう、カイを視察団の総責任者とは見なしていまい。
(ごめん……)
胸の内だけで呟いたはずだった言葉が、唇からもこぼれた。
「ごめん、マリスニール……ごめんね、エリル……。僕のせいで、君達が傷ついてしまうかもしれない……。今度こそ、今度こそ僕は……マリスニール、君を守りたかったのに……」
「その気持ちだけで充分だわ。ありがとう、カイ」
不意に柔らかく肩に腕を回されて、彼は顔を上げた。間近に、彼に最も安らぎを与えてくれる美しい乙女の黒い双眸があった。
「……マリスニール……?」
「聞こえなかった? ノックもしたし、何度も呼んだのよ?」
「うん……ごめんね。でも、どうしてここに?」
「エリルから預かったものを渡しに来たのだけれど、大変なことになっているようね。ユグノーという男の人が、この船に来ているわ」
「本当に!?」
恐れていたことが起きてしまったのか。一瞬にして蒼白になったカイだが、マリスニールは彼を安心させるように穏やかに微笑みかけた。
「ユグノーはあなたと話をしたいと言っていたのだけれど、ルディルが彼と話して、とりあえず戻ってもらったわ。でも夕方になったら改めて会いに来るって」
「夕方」
マリスニールが傍にいるからか、冷静に思考を働かせることができるようになる。話をしに来るということは少なくとも、ユグノーは完全にカイを見限ったわけではなさそうだ。ならば、夕方までの数刻の間に、ユグノーにどう対応するのが最善なのか、その答えを見出さなければならない。
(何とかしないと。何とかできなかったら、また精霊達が不安な思いで旅をしなければならなくなる)
ラジェーン大陸で迫害され、逃げてきた精霊達。この旅に同行している精霊族は、皆それを体験してきている。逃げてきたのに、また同じ目に遭わせるようなことはしたくない。生まれてくる光と闇を受け継いだ子供を、安らかな場所に連れていきたい。自分は旅立ちを決めるとき、そう強く願ったのだ。
(そして、もうあの森の少女のような目に遭う精霊を、出したくない)
「カイ、これを」
傍らのマリスニールから、黙考していたカイの掌に小さな石が落とし込まれた。
「エリルからよ。あの子の言っていたことは、私にはよくわからなかったのだけれど」
「綺麗な石だね。水色で……」
言い終わらないうちに、何の前触れもなくその石が光を放った。
―鮮烈な青が、川の流れの涼やかさを以て広がり、カイの周りを包み込んだ。
(この青は――!)
夢の中で一瞬だけ、感じ取った色彩。どこまでも遠くへ抜けていきそうな強くて自由な印象の美しい青。
『君の幸運を願う。君を信じているよ、カイ――』
青い色から、“声”へと変化する。紡がれたのは、夢の最後にカイが聞いた、真摯で優しい言葉だった。
誰なのだろう。誰が、カイにこの夢を届けてくれたのだろう。
『夢が破られたから、もう私は君に干渉できない』
さらに“声”がして、カイははっとした。
『水の子供に、あと少しだけ私の声を残してもらう。……カイ、君が目指す大地は、必ず君に応えるだろう。君が大地に降りる日を、私は待っている』
待っている、という一言を最後に、青は完全に空気に溶けた。
「……『魔力』だわ」
茫然と一連の出来事を見守っていたマリスニールが、驚愕の余韻を感じさせる声で呟いた。
「『魔力』? 君達の使う、不思議な力のこと?」
「ええ。でも今のは、私達とは少し違う……」
引っかかるものを覚えないわけではなかったが、カイにとって今の現象がどういうものなのかということはさしあたっては問題にはならなかった。ただ嬉しくて、心が温かかった。
信じている。
待っている。
人から向けられる想いの中に、こんなに胸を熱くするものがあったとは、知らなかった。マリスニールはカイを愛し守ってきてくれたけれど、今になって考えてみると、カイは庇護される立場に甘えていた。彼女の影に、ずっと隠れていた。
だが、もう自分の力を使ってみなければならないときなのかもしれない。歩き出すべき時期なのかもしれない。何よりもカイ自身、そうしたい。あの“声”の主は水の子供を通して、カイまで想いを届けてくれた。それに応えたい。
「カイ?」
無言で立ち上がったカイを、わずかに不安を滲ませた声で炎の乙女が呼んだ。そんな彼女の頭を彼は抱き寄せる。
「心配しないで、ここで待っていて。僕は、君達をきっと南の大陸に送り届けるから。平和に暮らせるように、できることをするよ」
そしてきっと、 “声”の持ち主に会いに行く。ありがとうと伝えるために。
彼女の額にそっと口づけて、カイは扉を開けた。壁にもたれていたルディルとカーサが、驚いた顔で見返してくる。
「ユグノーのところへ行くよ」
告げた途端、大きく黒い目を見開いたルディルに、毅然とカイはうなずきかけた。
「非は僕にある。僕が出向くべきだ。……できたら、ついてきてくれるかな、ルディル?」
最後のほうだけいつもの弱気が出てしまったが、乳兄弟の青年はもちろんと強く答えたあと、昔を彷彿とさせる屈託のない笑みをカイに向けたのだった。
銀髪の青年のことを、正直この瞬間までカーサは軽視していた。いったい何が起きたのか、蒼白な顔で部屋に運び込まれたはずのカイは、別人かと疑うほどにしっかりとものを言い、明確な意志を紫の瞳に宿していた。
ルディルを伴い、カーサに軽く礼をして歩み去っていく背中を眺め、彼は息を吐いた。
「あれが……皇族の威厳って奴かねぇ」
「どうなのかしらね? 私にはよくわからないわ」
独り言だったつもりの呟きに生真面目な答えを返され、少々面食らったカーサは、反射的に声のしたほうを振り向いてもっと驚いた。
「あんた……確かマリスニール?」
「ええ」
「皇子様と一緒に行かなくていいのか?」
とりあえず、咄嗟に思い浮かんだことを訊いてみる。その直後に彼女が精霊であることを思い出したが、こうしている以上はあまり関係がないように思えた。言葉は通じるし、それにいつも彼女を見かけるたびに、極上の美人だと密かに感動していた。
頭の切り替えが早いカーサは、すぐにこの状況を簡潔に割り切った。自分は今、いつもあのひ弱な皇子様にべったりで近寄りがった、憧れの美しい女性と話している。それだけのことだ。
長い青い髪のその女性は、物怖じしない目でカーサを見つめてきた。
「私が行けば、ユグノーは心を乱されるでしょう? 精霊族を嫌っているもの。カイの話も、冷静には聞いてくれないと思うわ」
「……そうかもな」
話すことも、筋が通っている。
「カイも、だからここで待っているようにって言ったんだわ。……あんなに強いカイは、初めて見たかもしれない」
マリスニールは微笑んでいたが、黒い瞳は寂しげだった。
(ふぅん)
カーサは勘のいいほうだ。マリスニールがカイにどんな思いを寄せているか、カイが彼女をどう思っているか、おおよその見当がついてしまった。
マリスニールは、カイを愛しているのだろう。それも恋愛と一言で表せるものではない、何か深い気持ちを抱(いだ)いて彼のそばにいたのだろう。
(精霊ってのは、こんなに複雑なもんなのかねぇ)
ふと、興味を抱いた。
「なぁ、少ししたら様子を見に行ってみようぜ」
「え?」
心底意外そうな顔で見つめられ、カーサはかえって面食らった。
「いや、だって心配だろ? 俺もそうだし」
しばし考えていた精霊の乙女は、やがてはっきりと頷いた。