外はまだ完全に太陽が昇りきっておらず、船の上でも何かしているものはほとんど見られなかった。カイは船縁にもたれ、ほの暗い海をぼんやり眺める。波をかきわける音を聞くとはなしに聞いているうち、あの夢の中の水音が蘇った。
エリルは、昨日ずっとカイから離れようとせず、自分の船まで連れてきて一緒に眠ったのだった。水の精霊である彼がそばにいたから、水から始まったあんな夢を見たのだろうか。
(でも、あの“声”はエリルじゃない。僕の知ってる誰のものでもなかった気がする)
恐ろしく、苦しい夢だった。ルディルはカイに対してほとんど歯に衣着せないが、あれほど心に鋭く突き刺さる物言いはしたことがない。あの“声”で紡がれた言葉はカイにのしかかって消えてくれない。
できればあの森の出来事は、ただの夢として片づけてすっかり忘れてしまいたかったが、なぜか覚えていなければならないという気がしていた。何より傷ついてはいたものの、あの“声”の不思議な音律は本当に心地よかった。
(どうしてかな……? けっこうひどいこと言われたし、本当に全部夢なのかもしれないのに)
「カイ、早いのね」
ふわりと、隣に降り立つ青い影。海風に長い髪をなびかせて、マリスニールが美しく微笑みかけてきた。
「おはよう、マリスニール」
「おはよう、カイ」
エリルを迎えに来たのだろう。子供のほうは相反する属性からかやや彼女に対して尻込みしている感があったが、彼女は屈託なくエリルを可愛がっているようだった。
「どうかしたの? 顔が暗いわ」
「うん……変な夢を見たせいだよ。何ともないよ」
「変な夢?」
マリスニールは、カイの様子が少しでもおかしければ気にかける。時には過剰ではないかと思わないでもなかったが、今は素直に嬉しかった。
「身体は健康だよ。そんなに心配しないで」
「ええ……」
うなずきはしたものの、なおも何か言いたげな彼女は、大きな影が急に横に現れたのに驚いて口をつぐんだ。
「よう。今日はまたずいぶん早いじゃねぇか」
「あ、はい……。おはようございます」
早いというが、カーサはもっと早い。いったいいつ起き出しているのか、少しだけ気になったが、カイは結局挨拶しか口にできない。もともと人間相手に話をするのは苦手な上に、彼の大きな身体と、聞き慣れない乱暴な言葉遣いに萎縮してしまう。彼はこうして毎日話しかけてくれるから、できることならもっと親しくなりたいとは思うのだが、いつも一歩を踏み出すことができない。
「この綺麗なねぇちゃんが、精霊なのか?」
「は、はい。彼女はマリスニールです」
「よろしく。お話しできて嬉しいわ」
彼女の笑顔を目にして、カーサは複雑な表情をしたが、すぐに手を差しだした。彼女は人間の挨拶には馴染んでいたから、躊躇いなくその手を取った。
(いいな……)
自分も、これくらい自然に彼と接することができたら。
マリスニールに気取られないよう、カイはそっと溜息をつく。人間と仲良くなるのは、なぜ難しいのだろう。相手が精霊のときは、こんなに悩んだり苦労した覚えはないのに。カイが話しかけていったら、精霊達は優しく気さくに答えてくれた。そうして、すぐにうちとけられた。
「じゃ、俺はもう行くぜ」
「さよなら、カーサ」
「……それじゃあ」
ぎこちなくカーサを見送り、カイは再び海のほうに視線を転じた。そろそろ明るくなってきた空と同じ色に染まりつつある。今日もいい天気なのだろうか。
「カイ様! ……ああ、マリスニール」
赤毛の乳兄弟が小走りに近づいてきたが、あからさまに不機嫌な声でマリスニールを呼ぶのを聞いて、カイは眉根を寄せた。彼の様子には頓着せず、ルディルは彼女に話しかける。
「また何か、精霊族が問題を?」
「いいえ。大丈夫。挨拶に来ただけよ。それから、エリルを迎えにね」
その返事を聞いても、ルディルの表情は無愛想なままだった。
「だったら、会議が始まる前に一度戻ったほうがいいのではないですか? ずいぶんとあなたは、精霊達に頼りにされているようですから」
「ルディル、ちょっと―」
「そうね。じゃあ、あとでね、カイ」
ルディルの態度をさして気にするふうでもなく、マリスニールはそのまま去っていったが、カイは一言言ってやらなければ気がすまなかった。ルディルの腕をつかんで、カイにしては厳しい調子で責めた。
「どうしてあんな言い方をしたんだい? 確かに、マリスニールは精霊達に慕われて、必要とされてる。でも、追い返すみたいにしなくたっていいじゃないか」
「……気づいておられないのですね」
彼の手をはずし、ルディルはますます顔つきを険しくした。なんのことかわからず、とにかく抗議を続けようとカイは口を開きかけるが、ルディルに遮られた。
「ご自分のお役目を、理解していらっしゃいますか?」
「役目って―」
「それよりまず……お話ししなければならないことが」
「何?」
深刻な顔と重い声で、ルディルは淡々と告げた。
「何……だって?」
思わず問い返してしまう。驚きのために言葉の意味が浸透するのは遅かったが、カイは一瞬後に蒼白になった。救いを求めてルディルを見返すが、彼は下を向いて首を振る。
『ユージェニー号の代表者、フェリアル・ユグノーがカイと精霊達への不満を公言して憚らず、それに賛同する者もどんどん増えている』
間違いなく、ルディルはそう言った。
「そんな……どうして……?」
「あなたはこの調査団の総責任者です。全員の状態に気を配り、良好な関係を築いていく義務がある。なのにあなたは、船が出てから精霊達の様子ばかり見に行っている。ユグノーは、それが不満だと」
カイは、言葉を失った。反論したかったが、この十日あまりを思い返してみると、ルディルに指摘された通りの行動しかしていなかった。
まず、二日目に初めてマリスニールに呼び出され、急に不安を訴えだしたというまだ幼い水の精霊を、マリスニールと一緒になだめた。次は五日目。そのときは確か、水の属性の精霊達に航海が順調に進むようにあらためて協力を頼みに行ったのだが、それを口実にそのままそちらの船で一日を過ごした。他にも、挙げればきりがない。
(じゃあ、ユグノー……は)
『君は確実に自分を受け容れ、愛してくれる精霊族を選んだ』
夢で聞いた言葉が、脳裏をよぎった。誰のものかは謎のままだが、あの“声”は正しかったのだ。“声”の言わんとしていたことが、やっとはっきりわかった。
このままではいずれユグノーによって、『離反』という出来事が、本当になるかもしれない。混乱しつつある頭で、カイは必死に考える。
(何かが起こるとしたら、どんなふうになる?)
もしもそれが現実になるとしたら、槍玉に挙げられるのは、カイと―精霊達だ。
人間達は、精霊を畏れている。その感情が怒りによって、攻撃性に変じてしまうかもしれない。もし今それを免れても、この船団の人間達が精霊族に抱いたしこりが解消されず、目的地にたどり着いたあとも引きずられることになれば、いつか二つの種族の対立が起きてしまう可能性を常に危惧していなければならないことになる。最悪の場合、ラジェーン大陸と―あの森と―同じ道を辿ることになってしまう。
(精霊達への迫害……。エリルや、マリスニールが……!?)
蒼白の顔で、カイはもう一度ルディルの腕をつかんだ。自然に、手に力が入る。
「カイ様?」
「ルディル、僕は……僕は取り返しのつかない失敗をした? 人間達と親しくなる努力をしなかったから、もうやり直せない?」
あの “声”は、他に何と言っていたか。
『君が彼女達のところへ、逃げてばかりいたからだよ』
逃げていた、だろうか? 自問自答して、すぐに内側から『そうだ』と聞こえてきた。
(『馴染みのない同族と交わるよりも―』)
そう。その通りだ。未知である相手に近づくのが怖くて、カイは逃げていたのだ。絶対に自分を嫌わないし拒まないとわかっている、精霊達のところへ。
「カイ様、どうなさったのです?」
「僕は……『代償』を支払わなければならない……?」
いったいどれほどのものを、カイは求められるのだろう。何を犠牲にしなければならないのだろう。
(僕のせいで……僕のせいであんなことが……!? いやだ……いやだいやだいやだ――!?)
自身が崩れ落ちていくかのような恐怖感に、カイはがくりと膝を折る。引きずられ、一緒に座り込んだルディルが忙しく口を動かしているのが見えるが、耳鳴りがひどくて何も聞こえなかった。
カイを部屋へ連れていき、休ませた。ルディルはそのまま部屋の外で見張りをすることに決め、壁によりかかった。
少し警告するだけのつもりだったが、ルディルの予想以上にカイは動揺していた。長い付き合いだが、あそこまで彼が取り乱した様は見たことがない。
(何かに怯えていたような……)
大きく見開かれた、紫の双眸を思い出し、ルディルは自分の赤い髪をかきむしった。あんな顔をさせたいわけではなかった。ただ、じっくりと考えてほしかっただけだ。
ユグノーは、間違いなくカイに不信を抱いている。それが形を取らないうちに、改めてほしいと思ったから、自分のことを彼が煙たがるのを覚悟の上で忠告した。嫌われても、彼が傷つくよりはましだと。
(カイ様―カイ)
昔の呼び方で、声には出さず話しかける。今の自分たちは主従で、関係を変えなくてはならなかったけれど、ルディルがカイを大切な乳兄弟と思う気持ちは同じままだ。
(俺は、できることはすべてやるつもりだ。お前がしたいことを、全力で手伝ってやる。でもな、お前にしかできないことはどうしようもないんだ)
ユグノーのことは、まさにそれだ。ルディルには、カイを信じて見守っていることしかできない。宮殿で暮らした二年の間そんなことがほとんどで、もどかしさからついカイにきつく当たってしまっていた。
(がんばってくれ。すまない、カイ……)
「ルディ、ルディ! おっ、ここにいたのか、ルディ!」
ばたばたと騒々しい足音に、彼は何事かと顔を向けた。やけにあわてた様子のカーサが、何度も彼の名を連呼しながら駆け寄ってくる。
「どうしたんだ、カーサ?」
「き、聞いて驚くなよ!? とにかく大変なんだ!」
「だから、何がだ?」
カーサは二回ほど大変だと繰り返してから、ごくりと唾を飲み込み、言った。
「ユグノーのおっさんが、今さっきこっちに乗り込んできてよ。皇子様の命令はもうきかねぇって怒鳴ってやがるんだ!」
キャラが出るとすごい気合い入れて描写してたんだなーと
あとで見てもわかってしまいます(笑)。個人的に『李欧』
(高村薫氏)現象と呼んでおります。