ぽたりぽたりと、雫がしたたる音。それは一定の間隔で、遠く近く響いてくる。
『カイ』
いつのまにか、水滴の音がそう聞こえるようになった。
『聞こえているね、カイ? カイ・メルス・ロータ・マジェス』
正式に名を呼ばれ、カイは目を開けた。次の瞬間、がばりとあわてて身を起こす。見慣れた狭い船室ではなく、霧に包まれた広い空間に彼は一人横たわっていた。
『声を出さないで。声を出せば、この夢は破られてしまう』
水の“声”が、叫びそうになったカイを静かに制した。その穏やかさで、彼の狼狽もいくらか収まる。口元を掌で抑え、彼は周囲を見回した。
もやもやした白い霧が立ちこめている。どれくらいの広さがあるのか、そのせいで測ることができない。“声”の持ち主がどこにいるのかも。
そんな状況だが、不思議と恐怖感はわいてこなかった。カイ自身理由はわからないが、これは忌むべき現象ではないと、自分の中の何かが感じていた。
『今から、君に“時の河”の一部を見せる。目を逸らさずに見るのだよ』
“声”が何を言わんとしているのか理解できずカイは戸惑ったが、そんな感情を吹き飛ばしてしまうほどの衝撃が直後に彼を襲った。
(何……!?)
霧ばかりだった目の前の光景が、瞬時に切り替わる。周囲には大きな石造りの建造物が建ち並び、よく見れば足元の道にも隙間なく石が敷き詰められている。いきなりそんな場所に放り出され、カイは狼狽えていた。
(マジェスじゃない……。ここはどこなんだろう?)
動くことすらできずにいた彼の頭の中に、さきほどの“声”が語りかけてきた。
『ここがラジェーン大陸、精霊の恩恵を忘れた地だよ』
(えっ!?)
同時に、再び場所が切り替わる。今度は街の中ではなく、こんもりとした森のそばだ。緑を茂らせ、木々が重たげにざわざわと唄っている。そこに、人間達が一団となって近づいていく。
先頭に立っていた、水色のローブを纏った老人が何事かを叫んだ。カイにはわからないその言葉のあと、後続の男達はいっせいに森に襲いかかった。
まさに『襲いかかった』という表現がふさわしい、悪夢のような出来事だった。人間達は斧を振りかぶり、無造作に木を切り倒し始めたのだ。どうと大きな音を立てて地面に倒された木々は、運びやすくするためなのかさらに小さく切られ、積み上げられていく。
(こんな……こんなことって、ひどすぎる!!)
『森は聖域だ』
“声”が言った。
『草木を食べる動物がいて、その動物を餌とする大きな動物がいる。そして彼らは死ぬと等しく大地に還る。生と死が常に同居し、すべてのものが巡り巡って円環となる世界。貴ぶべきものだ』
だがそれを、ここの人間達は表情一つ変えずに冒涜している。
(あっ!?)
急速に消えていく森の中から、小柄な影が飛び出してきたのを目の当たりにした途端、カイは思わず飛び出しそうになった。
茶色の髪の、少女。カイには彼女が子の森の樹木の精霊だとすぐにわかった。
少女は斧を振るう人間の一人に取りすがり、懇願する表情で何かを言いかけた。しかし、男は彼女の姿を認めるなり引きつった顔で叫び、何やら左手でおかしな仕草をした。男の周りにいた者達も同じようにし、精霊の娘は驚いた表情で茫然としている。
『ラジェーンの者達は、精霊を邪神の眷属と考えている。魅入られたら最後、永遠の幸いの国に入ることができなくなるから、彼らは邪神とその使いを恐れる』
(そんな!?)
それが大きな誤りであることは、誰よりカイがよく知っている。ここに住む人間達は、そんなばかげたことを本気で信じているというのだろうか。自分たちが“幸いの国”とやらに行きたいがために、精霊族を害するというのか。自分たちのためだけに。
(これが……『迫害』?)
ウライユの泣き出しそうな顔。アディルドの、つらそうに伏せられた目。彼らの受けた苦しみが、カイの目の前にある。
やがて、さきほどのローブの男が転びそうになりながらやって来た。華奢な少女に向かって、老人は恐ろしい形相で何事かをわめいた。意味はわからなくとも、少女が青ざめて踵を返して走り去ったことから、カイはおおよその内容を推測できた。
(許せない……一人に大勢でひどいことを……!)
唇を噛んだカイだが、ローブの老人が高々と掲げたものが何か見て取って、再び悲鳴を上げそうになる。しかし実際は立て続けに襲ってきた衝撃のために喉はからからに渇いており、ひゅうひゅうという音しか漏れなかった。声を出せば、この悪夢は終わるはずなのに、何の音すらも成ってはくれない。
老人は、小さく切り刻まれた木に火をつけていた。赤く照らし出された顔には、何かに陶酔したような不気味な笑みが浮かんでいる。カイは咄嗟に飛び出そうとしたが、足が動かせなかった。見えない枷が、彼を戒めていた。
目をそらしたいのに叶わず、見つめることしかできないカイの視線の先で、老人が放り投げた炎が弧を描き、樹木の大半を奪われた森に落ちた。
(――!?)
おそらく、彼女は叫んだのだろう。けれどカイの記憶はそこで一度ふつりと途切れ、気がついたときには膝を抱えてもとの霧の空間にうずくまっていた。
『今の出来事は、過去に本当に起きたことだ。辛いものを見せてしまったけれど、どうか受け止めてほしい』
(……)
ずっと瞬きを忘れていたせいで、目が痛い。ゆっくりと瞼を閉じて、カイは両手で顔を覆った。
おぞましい悪夢だった。忘れてしまいたい。しかし、あまりにも鮮烈すぎて、脳裏に濃く焼き付いてしまっている。
(あれが……あれが、西から来た精霊達に起きたこと……!?)
西で近年広まっているという、光と闇の神の戦いを基盤とした信仰。神を信じ、救われたいという気持ちは簡単に否定できる者ではない。人は弱いから、絶対の存在に縋りたくなる。
(でも、そのためにあんな……あんな残酷なことをしていいわけはない!!)
自分のために、他のものを踏みにじる行為を、彼ら崇める『光の神』が許し認めるとでもいうのか。
『――カイ。苦しいのはわかるが、どうか私の言葉に耳を傾けてほしい。私の願いは、君と同じところにある』
しばらくしてから、“声”がまた聞こえるようになった。カイがある程度落ち着くのを待っていてくれたのだろうか。のろのろと手を下ろし、銀髪の青年は虚ろな眼差しをどこへともなく投げた。
『これから話すことを、覚えていてほしい』
静かなのに、印象的な音律の“声”が流れる。
『君は、大切なことを未だ為さずにいる。ゆえに君の周りにいる者達は、よくない想いに支配されつつある』
(よくない……想い?)
何を言われているのか、理解できない。
『精霊族――哀れで強く弱い、美しい彼女達は君を信頼し、慕っている。そして君もまた。けれど同時に君は、君の同族達からは遠ざかりたいと願い、その心に従っている。このまま君が変わらなければ、人間達は君から離反してしまうよ、カイ』
“声”の響きが心地よく、ぼんやりとしていたカイだが、『離反』という言葉で我に返った。
(離反、だって? そんな……なぜそんなことが?)
戒めを破り、問い返したい衝動に駆られる。けれどカイが口を開くより一瞬早く、“声”は答えを教えてくれた。
『人間達へ、気を配らなかったからだ。彼らが何を欲し、君に何を求めているか。君は知ろうとしなかった。馴染みのない同族と交わるよりも、君は確実に自分を受け容れ愛してくれる精霊族を選んだ。君が彼女達のところへ、逃げてばかりいたからだよ』
語る口調は変わらず温和だったが、カイは顔を歪めて胸を押さえた。まださめやらぬ衝撃のただ中に、無遠慮に心の中に鋭い言葉を突き入れられた痛みが、何倍にもなって襲ってきた。せり上がってくる何かが塊となり喉につかえ彼の呼吸を乱した。しかし、カイはそれを飲み下すことができない。
『今私が言ったことを、どうか忘れず心に刻みつけてほしい。このまま君が変革を起こさなければ、早晩君は大きな代償を支払うことになる。だから、よく考えることだ。よい未来を手に入れるために何を成すべきか、君自身で見出すのだよ。私は忠告することしかできない。それだけで精一杯だ。けれど、君がきっと乗り越えてくれることを信じて祈っている』
痛みと息苦しさを持てあますカイにかまわず、“声”は語り続ける。語りながら、どんどん彼から離れていく。
『君の幸運を願う。君を信じているよ、カイ――』
鮮やかな青が、霧の世界を洗い流し、カイに迫ってきた。青に包まれながら、薄れていく最後の“声”を聞いた。
もう一度名前を呼ばれたその瞬間に、とうとうカイは待ってと小さく言葉を発していた。