船が進むのは信じられないほど速く、また信じられないほど穏やかなのだという。カイは操船に関してはまったくの素人だし、船に乗ることすら初めてだったのでよくわからない。ただ、熟練した船乗り達が驚き、恐れるその現象が精霊達の手によってもたらされているのだということだけは確言できた。

 船でレイス大陸を出航して、もう十日になる。第一次の使節団は総勢四十人。人間と精霊族が半数ずつを占めている。船は四艘だ。カイが実際にラジェーン大陸から渡ってきた精霊達に会い、その中から再びの渡航に耐えられそうな気力と体力のある者を選んだ。人間の方はアルトスが、技術面や人格を考慮して選考した。それだけに頼りになるだろうと初対面時にカイも思ったのだが、まだ親しく言葉を交わすところまでには至っていない。彼らのほうもカイの皇子という身分のせいか、微妙に距離をおいている。

「―おっと。早いな、皇子様」

 朝、甲板に出てきたカイを見つけた男が、ぶっきらぼうに声をかけてきた。亜麻色の髪を刈り上げ、額に汗止めの布を巻いている。肩にはロープを背負い、朝食なのか小さな包みを腰に下げていた。いつ見てもくるくるとよく働いているこの体格のいい大男は、カーサといった。土木作業の技術を持っていると、最初に会ったときに誇らしげに言っていたのが印象的で、カイはこの男には密かに好感と親しみを覚えていた。が、カーサのほうはいつも最低限のことしか話さない。

「おはようございます。ええっと……順調ですか?」

「あ? 順調もくそもねぇよ。毎日毎日天気はいいわ潮の流れも快調だわ、信じられねぇぜ。ここまで調子がいいと返って薄気味悪くなるってもんだ」

「そうなんですか……?」

「そんなことより、用事がねぇならもういいか? 仕事があるんでな」

「あ……すみません」

 謝るカイの横を、早足でカーサは去っていった。気まずく思いながら、カイは邪魔にならないようなところを探した。船首がよさそうだ。

「カイ」

 足を踏み出す前に、マリスニールに呼び止められた。彼女は精霊だけがいる別な船に乗っているが、そんなことはまったく障害ではないかのように、いつもこうしてやってくる。水の精霊に頼めば、船を渡るときは協力してもらえるのだ。

「どうかした?」

「ええ、エリルがあなたに会いたいって。来てくれるかしら?」

「わかった」

 エリルは水の精霊だが、まだ幼い。生まれて間もない精霊は、人間と同じで小さく脆い印象がある。初対面の時から懐かれてしまったカイは、苦笑しながらも炎の乙女についていこうとする。

「どちらへいらっしゃるんです、カイ様?」

 その二人を、ルディルが後ろから制止した。カイが振り向いた先に、腕組みをして眉間にしわを寄せている乳兄弟の青年がいた。

「また、精霊達の船へ行くんですか?」

「……うん。小さい子がいるんだ。僕に会いたがってるって」

「じきに本日の会議が始まるのですが」

 一日の始まりに、この船にそれぞれの船の代表者が集まって、簡単だが打ち合わせをすることになっているのだ。各船で何か足りなくなった備品や物資があれば、そのときに報告して共有の物資の中から補給の胸を全員に知らせておかなければならない。余剰のあるところからわけてもらうこともできる。長い航海の間に、欠かせない大切な話し合いだ。カイは総責任者として、他の代表者達をまとめ判断を下す立場にある。

 しかしカイは、逡巡した末首を横に振った。

「その子は水の精霊なんだ。まだ小さいけど、僕達の旅を守ってくれる一人だ。放っておけないよ」

「では、我々人間は軽んじてもいいというのですか」

「そうじゃないけど……」

 精霊の力は必要なのだ。それは、出発の前に何度も説明したから、人間達もわかっているはず。カイはこう考え、マリスニールを促した。

「カイ様!」

「なるべく早く戻るから。ルディル、悪いけど君が代わりに出てくれる? あとで詳しいことを教えて」

 ルディルを畳み込んで、カイは待っていた風の精霊に頼んで、マリスニールと一緒に精霊達の乗る船に渡った。

「ルディルの言うことも正しいわ、カイ」

 だが乗り移るなりマリスニールからこう言われて、カイは紫の瞳を大きく見開き、次いで少しだけ顔を曇らせた。

「エリルが会いたがってるんだろう? あの子をあやすほうが先だよ。あの子が泣いたりしたら、水の精霊達は困る」

「そして、少しだけ船が進むのは遅くなるかもしれないわね。でも、すぐに来てもらわなくてもよかったのよ」

「……っ、じゃあ――!」

 声を荒げそうになったが、辛うじて押さえ込んだ。自分の銀の髪を一度くしゃりとかき回し、彼は黙って船室のほうに歩き出した。

(じゃあ、僕を呼びに来なければよかったじゃないか!)

 呑み込んだ言葉を、乱暴に胸の内で吐き捨てた。

 最近、ずいぶんと怒りやすくなったという自覚が彼にはあった。今さっき、マリスニールを怒鳴りつけそうになったのがその現れだ。彼女と一緒に過ごしてきた記憶の中で、こんなことは一度もなかったはずだった。

 本当は、彼は彼女と同じ船に乗りたかったのだが、彼女は異郷の同胞達にとっては拠り所であるため常に相談役として求められ、カイはカイでこれといって役に立つことはないが、調査団の人間達と少しでも友好的な空気を育まなければならなかった。そうしなければ南の大陸に着いたとき、調査活動に支障を来すからとルディルが主張したのだ。ゆえにこうして用があるときにマリスニールが訪ねてくるようになったのだが、離ればなれというのがどうしようもなく落ち着かないのだ。

(そういえば、今までほとんど離れたことなんてなかった……)

 マリスニールはいつだって近くでカイを守ってきてくれたし、カイも彼女を心から慕った。愛情をくれなかった実母を恋う気持ちが、彼女に向かっていったのかもしれない。彼女はカイにとって、大切な存在だった。

(やっぱり、南へ行くのは間違いだったのかな)

 彼女の望みを叶えたくて、彼女がこれまでしてきてくれたことに報いたくて、旅立ちを決意したけれど、海へ出てからの日々はいらだちとすれ違いばかりで、辛いばかりだ。何より、よく知らない人との関わりが彼にとっては一番わずらわしい。

 カイのものの考え方は、人間よりも精霊寄りなのだと、ルディルが評したことがあった。そのときはよくわからなかったが、今はそうかもしれないと思える。彼らと自分とのその差異が、うまくいかない原因なのだろう。

「カイ!」

 甲高い声と、勢いよく飛びついてくる小さな何か。カイはよろけそうになりながらもしっかりとそれを受け止め、優しく微笑みかけた。

「おはよう、エリル」

 水色の髪と瞳の愛らしい子供の、無邪気な笑い声がほんの少しだけ彼を癒してくれた。




「困ったもんだな、皇子様にはよ」

 会議はとりあえず終わった。気疲れでげっそりしているルディルに、ぼやきながらカーサは水筒を回してくれる。ありがたく受け取って、ルディルは慎重に少しずつ水を口の中に流した。

「大変だよな、毎度毎度。ルディ、絶対出発前よりやつれてるぜ」

「……船旅の上、食事も制限されているのだから、太るわけはないだろう」

「そうだけどよ、お前さんのは苦労痩せだ」

 自覚があるので、彼は沈黙した。先程の会議でも、やつれそうなやりとりをしてきたばかりだった。

 四艘の船のうち、人間達は二つを使っている。もう一つの船の代表者の、フェリアル・ユグノーという男が、カイの欠席を見とがめてルディルに延々と説教を垂れてきたのだった。

『カイ様は我ら全員の責任者なのだぞ! その方が精霊達ばかりにかまけ、我らをおろそかにするなど言語道断だ! 精霊族はやはり気にくわん!』

 最初から最後まで勢いよく発言し、そして終わりのほうではすっかり精霊批判を始めてしまった初老の男は、ルディルにまったく反論の隙を与えなかった。カーサが見かねてとりなしてくれなかったら、今も相手をさせられていたところだ。もっとも、精霊達の船からの代表者がその場にたまたまいなかったためのユグノーの言動だったろう。精霊側の代表として行動しているのはマリスニールだけで、彼女はちょうどその少し後にやってきた。

 ルディルはカーデで精霊達と親しくするカイをずっと傍で見てきたから、それほど神秘の種族に対して悪い感情は持っていない。マリスニールにときどききつい言葉を向けてしまうのは、彼女個人の態度を苦々しく感じているからだ。

 彼女の庇護がカイの救いであることは認めているが、だからといっていつまでも彼を柔らかく包んでいるような彼女の言動が、彼を消極的にしているのだとルディルは考えている。事実ラージャ宮殿へ戻ってからのカイはいつまでも彼女に縋り、宮廷内での自分の立場を確立することすらしないままだった。

 この旅が、カイにとって転機になるようにと、ルディルもまた密かに願っていた。しかし現実はそうはいかず、カイは宮殿にいた頃よりも心を閉ざしてしまったように彼の目には映っていた。精霊達と積極的に交流し、反面人間とは極力関わらないようにしている。まるでカーデでの暮らしを、意図的に再現しようとしているかのようだった。

 カイの行動にはいろいろと思うところがあるのは、ユグノーだけではないはずだ。この船の責任者を務める者も、会議の時に苦い表情を見せるようになっている。彼らがこの先カイに対してどういう評価を下すのか、ルディルは心配で仕方がない。

「カーサ」

「ん?」

「カイ様のことを、どう思う?」

 試しに尋ねてみると、すぐにカーサから答えが返ってきた。

「何考えてるかぜんぜんわかんねぇおどおどしたガキ」

「…………そうか」

 薄々予想していた通りの答えに、ルディルはカーサの『ガキ』発言も窘める気すら起きないほどの疲労感を覚え、同時に焦燥にぎり、と奥歯を噛みしめた。








BACK   NEXT