「カイ。明日の会議で正式に南への視察団派遣を提案する。おそらく承認されるであろう」
マジェス皇国は議会を持つが、最終決定権は皇帝の手にある。ゆえによほど強い反対にあわない限りは、皇帝の思いのままの政策をとれる。アルトスがこういう言い方をするということは、南行きはすでに決定事項というのと同義だった。
「可能な限り迅速に、第一次の視察団を結成する。それにあたり、お前にも参加してもらいたいのだ」
「……何ですって?」
茫然と、カイは問い返した。質問のほうが、無意識に口をついて出た感じだった。頭のほうは、まだ皇帝の言葉を理解しきれていない。
「第一次視察団が、帰還したのちでもかまわない。精霊を伴い、南の大陸へ行ってほしいのだ、カイ」
ようやく、思考が追いついた。その時点で彼が思ったのは、「また厄介払いだ」ということだった。
(結局、父上は僕を邪魔にしているんだ!)
宮殿へ戻った日に挨拶して回った母や兄弟姉妹達がどこかよそよそしかったのも、すべて父のせいなのだ。
「―明日までに、答えを出すがいい。ご苦労だったな」
うつむいて黙り込むカイに、静かに皇帝はそう言っただけだった。カイは皇帝を見ないまま、ほとんど飛び出す勢いで執務室をあとにした。
月は昨日塗りつぶされてしまったばかりで、今夜は星だけが強く輝いている。明かりをつけず、寝台の傍の窓から夜空を眺めて、カイは今日のことを考えていた。
逃げてきた精霊達。哀れだと思う。何もできない自分が情けない。彼らの悲しみを、こんなにも痛いほどに感じているのに。
身籠もっているというウライユのことも気にかかる。精霊と人間では子を成す方法が違うと聞いたが、伴侶たる者がいなければ新たに命を生み出すことができない点は同様だったはずだ。ウライユの場合は、あの寡黙な闇の青年がその相手であろうことは、容易に察しがついた。彼女達のためにも、早く安住の地を確保してやりたい。
「でも僕は……僕にできることなんてないよ」
父に疎まれ、長く宮殿から遠ざけられていた。政治的な知識も経験も乏しく、故にカイには重要な会議においても、意見を出すことはおろか、内容や状況を理解することも未だに難しい。自分は、政治に携わる者として不可欠な、物事を判断する能力を持っていないと思う。だから、とうとう皇帝は自分を見限って、あんなことを……。
「カイ」
何一つ音を立てず、マリスニールが歩み寄ってきた。寝台に腰かけ、横になっているカイの銀の髪を優しく撫でながら、彼女はもう一度彼を呼んだ。
「カイ? 眠っているの?」
「ううん。ずっと起きてたよ。どうしたの?」
「お願いしたいことがあるのよ。あのね、カイ――」
あまりにも静かに彼女がそれを口にしたので、カイは何も考えずに承諾してしまうところだった。彼女の言葉の意味が完全に頭に入っていくと、彼は半身を起こしてまじまじと彼女を凝視した。あえかな星明かりの下でも、彼女の希なる美しさは冴え冴えと彼の瞳に焼きついた。
「精霊達を連れて、一緒に南へ行きましょう、カイ」
彼女はもう一度、そう繰り返した。驚きが去ったあと、カイが感じたのは戸惑いだった。なぜ自分がと思った。
「ど……うして、僕が? 僕がそれをするって……」
「あなたにしか頼めないの。南の地には、人間もいるでしょう? 精霊だけでは、人間と話し合わなければならないときにできないことも出てくるわ」
「でも……でも……!」
ここにはいたくない、けれど、自分が南へ行ったとして、いったい何ができるというのだろう? 床へ降り、窓に背中をつけた彼を、マリスニールの視線だけが追っていく。
「それは……早くしないと、レイス大陸が危険なのはわかるよ。だけど僕は―」
「嘘よ」
「……え?」
「私がアルトスに説明した、この地が爆発するっていう話は嘘なのよ」
今度こそ、頭が真っ白になった。カイは意味をなさない言葉をぶつぶつと発し、そうしているうちに少しずつ混乱は沈静化していった。彼女はずっと、彼が話を聞けるようになるまで待っていた。
「あれは、私達が安全に南へ行くために必要な嘘。人間は、『大義名分』って言うのかしら? この嘘で、この国が南へ調査の船を出しても、周りの国はとりあえず抑えられるとアルトスは言ったわ」
カイはもはや、相づちを打つこともできなかった。いったいいつの間に、たおやかな精霊の乙女は皇帝と対等に政治的な会話ができるまでになっていたのだろうか。
「南はとても美しいところですって。温かくて、豊かで。きっと、精霊族も精霊族を受け入れてくれる人間もたくさんいるんだわ。だって、精霊と人間が仲良くしなければ、大地がそんなに優しくなることなんてないもの」
精霊の加護する地。彼女の言葉どおりに、精霊が人間に親しみを感じ、そのために恩恵を授けているようなところなら、きっと素晴らしい場所なのだろう。カーデのように、柔らかな空気に満たされているのだろう。
(そんなことはない。カーデよりいいところなんて、絶対にない)
傾きかける心を、カイは元に戻そうとする。マリスニールは、知ってか知らずか彼の心の天秤にさらに錘を置いていく。
「あなたがいれば、西から来た精霊達も安心すると思う。カーデであなたに会いに来た精霊達は、みんなあなたを好きになったわ。あなたは私達が愛しく思うものを持っている。そして、あなたは私達を心から好きになってくれる人よ」
「……」
「人間のほとんどは精霊に対して、畏れるか怖がるかなのに。みんな嬉しかったのよ、カイ。あなたならきっと、何があっても精霊達を見捨てないと信じているから、お願いするの」
精霊族は、自らの属性の力を自在に操る。人間にとって、それは恐怖なのだという。アルトスが精霊を警戒するのも、そこに原因があるのだとカイはなんとなくだが感じていた。カイにとっては、そんな恐れは理解できない感情だ。
「だって……君達は僕に優しくしてくれたもの……」
口にしてから、はっとした。神秘の種族を徒に警戒するだけの人間に、彼らを守ろうなどという意思が芽生えるかどうか。自分が拒否して、父が代わりに任じた視察団の責任者は、彼らにも自分たちと同じような心の揺らぎがあるなどと、考えるだろうか。
『私ね、大切な宝物を守っているのよ』
東屋で、ひそひそと心底幸せそうにうち明けてくれた光の乙女。
『私の中に、新しい命がいるのよ。私と、外のいろいろなものから力をわけてもらって、そのうち私に会いに来るの。―私と彼と同じで、でも違う精霊。すごく楽しみだから、そのときをずっとずっと待ってるのよ、カイ』
あどけない彼女の笑顔を、彼女の待ち望む幸福な日々を、叶えてあげたい。こんな自分を、彼女とアディルドは頼ってきてくれたのだ。
天秤は、ゆらゆらと大きく揺れている。心の内に目を凝らす彼を、炎の乙女が柔らかく抱き締めた。
「あなたは何が怖いの?」
マリスニールは、しばしの沈黙のあとそんな問いかけをしてきた。
「怖い? 僕が……?」
「ここへ来てからずっと、カイは怖がっているように見えるわ。そう、例えば−変わることを」
「……」
(そう、かもしれない)
安らかな淡い緑色の日々は、突然奪われた。放り出された先は、冷たくよそよそしいこの宮殿。優しい時間が二度と来ないと悟ってからは、これ以上ひどくならないようにと願うだけだった。
(でも、それなら)
ならば、ここから出てもいいのかもしれない。マリスニールと、他のたくさんの精霊達と一緒に、海の向こうへ行く。カーデには戻れないなら、南の大陸で新たにカーデのような温もりを探してみるのも、一つの選択肢なのかもしれない。
「……それに私は、ここで悲しそうにしているあなたを、これ以上見ていたくはないのよ……」
彼女の声で、彼の意識は思い出の中の明るい緑色の草原から、硬質な部屋に戻ってきた。
「ここで幸福が見つけられないのなら、逃げ出しましょう。そして、見つかるまで逃げ続ければいいわ。私には、ずっとあなたについていくことしかできないけれど……」
彼のことを悲しそうと表現した彼女自身のほうが、よほどつらそうに見えた。彼女がどれだけ自分のことを考えていてくれるのか、言葉の一つ一つから強く伝わってきた。
(ああ、そうか)
カイを守ろうとして、彼女はアルトスに何度も様々なことを掛け合ってきてくれたのだろう。そう、今回のように。その一心で、醜い水面下での戦いも彼女は覚えてしまったのだろう。それは、精霊達が最も嫌う人間の性質だったはずなのに、だ。
自分がどれだけ彼女に甘え、傷つけてきたのかもカイは思い知らされた。
もう、彼女を悲しませてはいけない。自分を愛してくれている優しい乙女を、今度はこの手で守らなければならない。
(ごめんね、マリスニール。今度は僕が、君のためにがんばるよ)
一度しっかりと彼女を抱擁し、腕を解いた時には、彼の紫の瞳はもう不安に揺らいではいなかった。
「行こう」
彼女の手を取って、彼は微笑んだ。宮殿にやってきてから、初めての心からの笑みだった。
「僕は、君達と一緒に行くよ」
『―マジェス皇国暦一〇四年光月、二月あまりを経て、南の大陸への視察団が結成された。これは、年々増加する国内人口への対策の一環であり、生産力の増大と近い将来の移住政策を視野に入れていた。第一次の視察団には皇帝の第二子カイ・メルス・ロータ・マジェスが加わっていた』
―エル・ルーマン著・『マジェス皇国の歴史』より一部抜粋
まだまだ後ろ向きです……。まあ、彼のキーワードは、
「恋は人を変える」(?)ですからね。
第三章は船旅編です。