その瞬間を、自分はどれだけ待ちこがれてきたことだろう。
そしてとうとう、そのときはやって来たのだ。海の向こうから、曙光に包まれてしずしずと。
“運命”の相手は、青銀色の光を浴びて神々しく、サージェンは胸に沸き上がる憧憬と信仰にも似た想いをじんわりと噛みしめてから、口を開いた。
「ようこそ、北の国の皇子。精霊と人間を導き、幸福を願う者」
午前中の会議で、アルトスは早速精霊族の問題を議題とした。重臣達は当然驚き、会議はしばらく紛糾した。そのまま続きは午後に持ち越されることになったが、カイはそのときには解放されることになった。成人した皇子には会議への出席義務があるが、彼は光の精霊の世話を命じられたのだった。彼としても、難しい会議に出て長いことじっとしているよりは、ウライユと一緒にいるほうが何倍も心安らげるので、異論などなかった。
「まあ、カイ!」
中庭でたくさんの花に囲まれていた美しい娘は、カイを見ると満面の笑みを浮かべた。ふわりと抱きついてきて、早口で楽しそうにおしゃべりする彼女の様子は無邪気そのもので、カイは今朝マリスニールから耳打ちされた衝撃的な話にますます疑問を抱いた。
朝食の前に、マリスニールはカイを人気のないところへ連れていき、それをささやいたのだった。
(マリスニールは勘が鋭いけど……でもやっぱり、信じられないな)
『ウライユ、身体の中で命を守っているわ』
人間に照らし合わせると、身籠もっているということだ。ウライユから感じられる『魔力』が、微妙に普通状態のそれと違うのだとマリスニールは説明した。精霊族は、人間のような生殖行為はしないのだが、母親となる精霊の身体の中である一定の時期まで守られるのだという。精霊には、それは『魔力』の固まりのように感じられるらしい。
カイには『魔力』を感知する術がないので、自分では確かめることができない。
「ね、カイ? あそこのお花、とても綺麗ね」
「……ああ、そうだね」
レイス大陸の中でも、このあたりの地方の花咲く様は絢爛たるものだ。嬉しそうなウライユを見て、カイの心も和む。
「マリスニールはどこ?」
しばらく花に夢中だったウライユは、一刻(約十分)ほどすると知り合ったばかりの同族のことを気にし始めた。尋ねられても、カイも今日は朝以来彼女の姿を見かけていない。アルトスが彼女の意見も参考にしたいと言い出して、午前の会議終了と同時に呼びつけたのだった。
「マリスニールはね、今日は用事があって忙しいんだよ。僕と一緒じゃやっぱりつまらないかな?」
「そんなことないわ! 私カイのこと好きよ。もっともっと、いっぱいお話ししたいわ」
「じゃあ、昨日の東屋に行こうか」
カイが手を差し出すと、ウライユはいっそう嬉しげに微笑んだ。
アルトスは眉間のしわを深くして、目の前の美女を見据えていた。午後の会議を終えてからずっと、彼はマリスニールと延々話し合いを続けている。その間に執務室の空気はますます重くなるばかりで、気が滅入った。
「―というわけなの。嘘をついたのは悪いと思うけれど、どちらも私には必要なことなの。それにあなただって、『損をする』ことはないのでしょう?」
「……確かに、な。あなたの話を大義名分とすれば、やり方によっては他の国も納得させられるだろうし、うまくすれば我が国の利益となる。我々は、精霊族について本当に無知だからな。……それにしてもあなたは、人間と同じように駆け引きというものに通じているな」
「ここへ来てから身に着けたのよ」
気の強い笑みを、マリスニールは浮かべて見せた。
昨日、息子と精霊の乙女を下がらせてから考え続け、彼はすでに南へ部下の誰かを派遣することを決定していた。現在同じレイス大陸にある近隣諸国とは良好な関係を築いているが、この先何年もそれが続くとは断言できない。レイス大陸の六つの国家は、長い間争いの歴史を紡いできた。自分の治世の間は何としても和平を保ってみせる心づもりでいたが、いずれ皇位を継ぐヴェアルの代で何がどう変わるか、少なくとも楽観することはできない。
南に人の住む大陸があることは、数年前に密かに派遣した調査団から報告を受けていた。極秘事項なので彼以外にそれを知る者は少ないが、まとめられた書類によると南の大陸は広大で、大地のほとんどを森に覆われているが、気候は温暖で実りの豊かなところだということだった。何よりもアルトスの興味を引いたのは、そこには国のすべてを統治する存在がいないという記述だった。
アルトスの胸の中で、南の大陸を自国の領土にする計画だけは、漠然とだがずっと以前からあった。マリスニールは、正確にそれを見抜いてきたのである。
「だが、本当に大丈夫なのだろうな?」
何度考えてみても、自分の計画にマリスニールの提案を混ぜ込むのは困難だという結論しか出ず、アルトスは精霊の乙女に念を押さずにはいられない。すでにもう、こんなやりとりが三度続いていた。そして返される彼女の答えもまったく同じだ。
「あなたの子供のことが、信じられないの? それに何があっても、私はあの子を守るわ。私の大切な子ですもの」
そうでなければ、協力しない。彼女の黒い瞳は暗にそう告げていた。
「……しかたがないのだな」
アルトスの計画のためには、どうしても彼女の言葉と存在が不可欠だ。とうとう、皇帝は妥協することを決める。
「では、カイをここへ呼ぼう」
卓上の呼び鈴を鳴らし、衛兵にその旨を伝えると、彼の口からふと溜息が漏れた。
「どうしたの?」
「うむ……あの子には、結局何一つ父として与えてやることができなかったと思ってな」
カイ本人は覚えていないだろう。彼が五歳のとき、周りにたくさんの精霊を集め楽しげにはしゃぐ彼の様子を目の当たりにした皇后が、狂乱して騒ぎとなった。皇后はいくらか落ち着くとすぐアルトスに向かって、カイをどこかに遠ざけてほしいと懇願してきた。
『あんな不気味な子は、妾の子ではありませぬ! あのように精霊族を従わせるなど、そのうちよからぬことを企むに決まっております!』
精霊族は、大部分の人間にとって未知の種族だ。皇妃はその恐怖心を、カイへの嫌悪感に換えてしまったのだ。彼を宮殿の外に置かなければ、誰よりも皇妃が取り返しのつかないことをしてしまいそうで、アルトスは幼い息子を皇都から遠い直轄領のカーデへやるしかなかった。
アルトス自身とて、精霊族には恐怖を覚える。こうしてマリスニールと二人きりでいるのも、実はひどい緊張を強いられるのだ。
しかし、母に疎まれた不憫な息子を長い間愛し見守ってくれた点に関しては、彼はマリスニールに深く感謝していた。他ならぬ彼女の口から、彼のためと言われてしまえば引き下がるしかない。自分は、すでに彼の父たる資格を失っているのだから。
「マリスニール」
祈りにも似た気持ちで、彼は乙女を真っ直ぐに見つめた。
「どうかカイを―息子を頼む」
「ええ、必ず守るわ。約束する」
ほどなくして、外から扉を叩く音と、彼の息子の声が聞こえてきた。
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