彼は自分の待ち望む『朝』がいつやってくるのかはわからなかったが、間違いなくそれをこの場所で迎えるということは、とうの昔に知っていた。
「ルシエ」
彼の傍らで、朝の光で銀色に輝く海を眺めていた水色の髪の乙女は、名前を呼ばれて振り返る。彼女に一度だけ視線を向け、彼はまた海を見た。鮮やかに青い瞳は、海ではなくさらにその向こうにあるものを捜し求めているようだ。
「私の『運命』は、あの海を越えてやってくるのだよ」
「……サージェン」
黒い髪を潮風に流し、青年は微笑んだ。
巻き込まれてしまえば、二度と逃れることの出来ない強い力。サージェンは、その“運命”をずっとずっと遠い昔から知っていた。そして、待ち望んでもいた。
自分が死ぬことも知っている。悩まないわけではなかったし、逃れられる可能性を見出そうと努力したこともあった。受け入れようと決めたのは、その“運命”がどんな姿をしているのか、明確に『見る』ことが出来るようになった時。
銀の髪と、紫の瞳の美しい青年だった。笑顔は柔らかで、未来の幻影の中に彼を見た瞬間、何とも言えない優しい気持ちに包み込まれた。精霊に愛され、精霊族のために願い、人間達のために身を粉にする彼に、いつしか心を奪われていた。
彼の望むことが現実になるのなら、そのために自分の犠牲が必要ならば、喜んで命を差し出そうと思えるまで、そう時間はかからなかった。サージェンがどんなに求めても実現できないことを、彼ならば成就してくれる、そんな確信が芽生えた。
今の今まで、一族と自分自身を嫌悪して、死を迎えるときは自分の生きた痕跡を根こそぎ死の国の神の御許へ持っていこうと決めていたサージェンに訪れた、劇的な変化だった。やはり“運命”は自分を求めているのだと、彼は悟った。けれどそれは、とても誇らしいことだった。
自分が死ぬとき、銀の青年はきっと泣くだろう。そうして自分は、いつまでも彼の中に残ることが出来るだろう。自分がこの世に残す唯一のものは、青年の心に刻まれる傷跡だ。それはこの上なく甘美で、幸福なことではないか?
春には花が咲き乱れる庭園も、近づく初夏の香りにすっかり色濃い緑に染め変えられつつある。とりどりの色を楽しむことはできなくなったが、生命の勢いを最も強く感じられるこの時期が、マジェス皇国の民にとって嬉しい季節であることに変わりはない。その強さに時には打ちのめされるが、人々は自然の伸びやかさに励まされ、背中を押されるように感じるのだ。
だが今庭園を走っている赤毛の青年は、生命の激しいまでの美しさを堪能している余裕を持たなかった。太陽の熱と走り回っているせいで上がる一方の体温のため、だらだらとひっきりなしに額や背中を流れていく汗に忌々しげに舌打ちしつつ、ある人物を捜して声を張り上げていた。
「カイ様! まったく……不真面目と怠惰にもほどがある。探し回るこっちの身にもなってほしいものだ」
愚痴をこぼし、青年は東屋のあるあたりをぐるりと巡った。そして、再び舌打ちをして走り去る。
「行ってしまったわよ。ルディルは本当に怒りっぽいわね」
完全に青年が見えなくなってから、東屋の中で女性の笑い声が響いた。直後東屋の周囲を陽炎が取り巻き、空気の歪みが戻ったあとの東屋に、一組の男女が現れた。
「ごめんね。くらましの力を使ってもらって」
「かまわないわ」
穏やかに言う女性の華やかなその声は、鈴の音の如き涼やかさもあって、聞く者を恍惚とさせずにはおかない。美しい音楽のような声を紡ぎ出した唇は優しい薄紅色で、小さくふっくらとしていて愛らしい。白皙の肌を縁取る長い髪は鮮やかな青、瞳は夜よりも深い黒で、彼女の凛とした強さと深い慈愛の心を表し静かに輝いている。
しかし続いてゆっくりと身を起こした青年にとって、彼女の声もその美貌もすでに馴染み深いものであった。彼女は、彼がほんの子供の時からずっと傍にいて、見守ってきてくれた存在だ。
「……ルディルが怒るのは、しかたないよ。僕がこうやっていなくなるんだから」
「自覚しているのなら、なぜ改めないの?」
「……」
彼は口をつぐみ、頬にかかる細い銀髪をさらりとかきあげた。その紫の瞳に憂いが浮かんでいるのを認め、長い青い髪の乙女は軽く嘆息した。
「カイ、ルディルが嫌いになったの?」
「っ、違うよ。そうじゃない。そうじゃなくて、僕は……」
反論しかけたが、結局カイは言葉を呑み込み、乙女の膝に頭をもたせかけた。今年で十八になる彼が、このような振る舞いをするところを人に見られては普通は騒ぎになるが、カイが改めることなく今に至るために、ごく一部を除いて誰も何も言わなくなってしまった。宮廷という世界で毎日抑圧を感じている彼には、優しく頭をなでてくれる彼女の手と温もりが何よりの癒しなのだった。
「マリスニール」
カイは乙女を呼び、彼女の空いているほうの手を握りしめた。母よりもずっと、彼はマリスニールを慕っている。彼女の存在だけが自分の世界であればと願う。
「……どうして僕は、ここにいなければならないんだろうね」
「カイ?」
「皇位継承権は第二位だ。兄上はお身体も健康で、武術の腕も素晴らしいし聡明な方だ。なのにどうして、僕もここにいる必要があるんだろう……」
「カイ、それは―」
「いいんだ。本当は僕にだってわかってるから」
頭では理解できるが、納得しようという気が起きないのだった。そもそも、二年前までカイは皇帝の直轄領である辺境の地カーデで、何に縛られることもなく穏やかに日々を過ごしていたのだ。
(最初に僕を遠ざけたのは、父上のほうなのに)
彼が十にも満たないうちに、父皇帝は彼を辺境へ移した。彼の母は皇后で、カイが間違いなく嫡出の子供であるにも拘わらず、皇帝がカイを疎んじたのにはある理由があった。
「僕は、ずっとカーデで暮らしたかった。君達とずっと一緒にいたかったのに」
森が広がり、なだらかな緑の丘陵がどこまでも続いていく、あの場所へ帰りたい。
ラージャ宮殿に住むようになった日から、カイはずっとそればかりを考えて過ごしていた。
「ようやく見つけましたよ、カイ様」
険悪な声が頭上から降ってきて、カイはゆるゆると目を上げた。赤い髪をざんばらに乱して、怒りの形相でルディルが東屋の入り口に立っていた。
「ルディル」
「またそのようなことを! マリスニールも、いつまでもカイ様を子供のように扱わないでいただきたい!」
「そうね、ごめんなさい」
幼馴染みという気安さも手伝って、カイの行動に唯一厳しく注意をするのがルディルである。素直にマリスニールは謝罪し、半身を起こしたカイは反論する。
「マリスニールは悪くない。彼女を責めないでよ」
「ならばあなた自身、もっとご自分の行動に責任を持つことです」
ルディルの言葉は正鵠を射ていて、カイはうつむいて唇を噛むしかなかった。ルディルはそんな彼を険しい表情で凝視したまま、抑揚のない口調で告げる。
「陛下がお呼びです。可能な限りお急ぎください。カイ様を捜すのに、ずいぶん無駄な時間を使ってしまったんですから」
「……わかった」
カイがのろのろと腰を上げるのを、ルディルはせかした。ほとんどルディルに引きずられて行く銀髪の青年を、残されたマリスニールは心配げに見送った。
(わかってはいるのだけれどね……)
ルディルの指摘どおり、少しカイを甘やかしすぎているのだろうという自覚は彼女にもあった。それでもつい手を差し伸べてしまうのは、長い間の習慣のようなものだった。マリスニールはもう何年もカイのそばにいて、ルディルもまた彼女がカイを庇護する様をずっと見てきているから、きっともどかしいのだろう。ルディルはカイの幼馴染みであるのと同時に、同じ乳で育った乳兄弟でもあるのだ。
マリスニールは、炎の力を持つ精霊である。精霊族は鮮やかな色彩と奇跡の如き美しさ、人の持ち得ない力を有する種族で、あまり人間の前に姿を現すことはない。だが、気に入った人間を見つけ互いに好意を抱いたときは、名前に『魔力』という力を込めて呼び合うことで契約し、その人間に愛と様々な力を与える。彼女がカイと出会ったのは彼が六歳になったばかりのころだったため未だ契約はなされていないが、彼が物事の分別をわきまえるようになったら彼の意思でそうしてほしいと彼女は思ってきた。
もうそろそろ、彼にもその判断ができる年頃だと彼女は考えているのだが、宮廷に戻ってからの彼を見ていると、なかなかそんなことは切り出せない。カーデで暮らしていたときとは別人のように、彼は無気力に沈み元気がない。笑顔もなかなか見せなくなった。
「私は、急ぎすぎたのかもしれないわね……」
人との関係の築き方を学ぶ前に、カイは精霊とあまりにも親しくなりすぎた。二年も経つのに父親や兄弟姉妹達とも、カイはなじめずにいる。さらに、あんなに仲良く育ったルディルとの間すら、宮殿に来てからこじれていく一方なのだ。
「カイ……」
黒い瞳を伏せ、美しい乙女は東屋の中でじっと物思いに沈んでいた。