カイはそう考えたのだが、翌日の未明、その推測は現実となった。細身の人影が、朝靄を割って近づいてくるのを、カイは村の広場でじっと動かずに待っていた。
「サージェン」
「私を殺す覚悟はできただろうか? さもなくば、私はこの手で君を殺すよ」
サージェンの青い目は、微塵の迷いもたたえていなかった。青の予言者は、すでに心を決めている。そのために、三年の年月を費やしたのだから。
精霊の想いを裏切ったことから生じる苦痛に、耐えているのだろうから。
「君は三年の間、この地を旅して回っていたんだね。そして、エーレのことや僕達海を越えてやってきた人間と精霊達のことを、伝えていた」
「そうだ。――ルシエが、それを?」
「違うよ」
カイが静かに、しかし強く否定の答えを口にした瞬間、初めてサージェンは微かに表情を動かした。畳みかけるように、カイは続ける。
「この地に住む精霊達が、僕に教えてくれた。君の三年間のことを。君が髪を切った理由も、それから……僕と出会う前の、君のことも」
カイはそこで、背後を振り返って大きくうなずきかけた。そこここの物陰から、ぞろぞろと人が出てくる。ルディル、カーサ、マリスニール、そしてルシエを先頭に、村人達が彼らから少し離れた場所に集まった。
「僕は、全部彼らに話したよ。君が長い間願ってきたことも、すべて。一晩しか時間がなかったけどね」
どれだけのことを、自分の言葉で伝え切れただろう? いや、結局サージェンの想いは、彼にしか真実として形にすることはできないのかもしれない。しかし、たとえ彼らにわかってもらえなかったとしても、この自分は彼の心を確かに知っていると断言できる。
「……私達一族以外で、不思議の力を行使できる者が現れたことは、この地の民にとって衝撃が大きすぎた」
カイにというよりは、ほとんど独り言のように、サージェンの唇から言葉がこぼれ落ちた。
「最初の一年は徒に彼らを混乱させただけで終わり、次の一年はもう少しゆっくりと、何度も何度も同じ話を広めて回った。――そして、最後の一年は」
まったく、予備動作はなかった。
サージェンは、強い空気の固まりをカイめがけて放っていた。反応できず、痛みを覚悟した彼を、ふわりと別な力が包む。マリスニールの力だと、直後に悟った。
「最後の一年には、大半の者が私の話を信じ、受け入れ、ラルジェア一族の絶対性を疑い始めた。もう少しで、“変革”は訪れる」
「そのために、君は僕に殺されようとしているのか!?」
サージェンからの答えは、再びの風の力だった。
背後の村人達から、悲鳴が上がった。マリスニールが彼らを護ってはいるが、いつまでも防戦一方というわけにはいかない。サージェンは――どんな形であれ、力尽きるまで攻撃し続ける。
(たとえ僕がまったく攻撃せずにいても、彼は命までも『魔力』として使い続ける!)
だが、やはりサージェンは、カイよりずっと『魔力』を使い慣れていた。連続で強い力をぶつけてきているのに、攻撃の意志を風として具現化するまでの時間が本当に短いのだ。
(これじゃあ……彼を思い留まらせることなんて……)
どれだけそうしたいと思っても、今の状態では動くことすらできず、さらにカイは未だにルシエにも約束した『サージェンを救う方法』を見出せていない。
(ルシエは、『名前』の約定に逆らってまで、僕に大切なことを伝えてくれたのに)
誰より愛し信頼する証である、『名前』を交わし合ったサージェンのために。
(サージェン……)
彼の名前を、彼自身から聞いたあの瞬間のことを、今でもはっきりと覚えている。あれほど嬉しく誇らしかったことはない。カイもまた、『名前』の重要性と名乗りの行為の意味を知っていたから。
(……サージェン……!)
攻撃が、止んだ。サージェンが少し後退する。カイはそっと身体を起こし、真っ直ぐ背筋を伸ばして立ち上がった。
――一人の人間、あるいは精霊が名前を『術』として使おうとしても、成功しないことのほうが多い。人にも精霊にも、自分の名前を無意識に守ろうとする力がもともと備わっているためだと、私達の間では考えられているが、その理由は未だよくわからない。
覚えている。この話を聞いたとき、本当に感動したから。
――『契約』でなくとも、それだけ自分に心を許した相手にならば、名前は『術』となる可能性もある……。
サージェンが、周りに風を集め始めていた。これで終わりにする気なのかもしれない、これまでで最大規模の『魔力』が、風と変じて今しもカイ達に襲いかかろうとしていた。直撃されれば、本当にこの場にいる全員の命が危ない。
「……もしも、君が」
うまくいかないかもしれない。精霊と人間の場合は可能でも、人間同士では無理なのかもしれない。
しかし、カイはこの一つの言葉に、強い願いを込めた。『魔力』に換えた、祈りを。
そして、気づく。思い返せばあの夜、彼は答えをくれないまま姿を消してしまったのだ。
「君が僕を友人として好いていてくれるのなら、もうやめてくれ――サージェン・ラルジェア!」
時が止まったのかと、錯覚してしまうほどに唐突に、すべては静止して……収束した。
どれくらい、無音の時間が過ぎていっただろう。やがて柔らかな風が躊躇いがちに戻ってきて、彼らの周りを取り巻いた。サージェンの短くなった黒髪が、目に見えない流れに揺られていた。彼が髪を切った理由を、カイは知っていた。
この地では、髪は力と心を宿すものと考えられている。サージェンは、三年前のあの日エーレの墓に切った髪を供えたのだと、ルシエが言っていた。どんな想いを込めて彼がエーレに髪を捧げたのか、カイには考えも及ばない。
それほどまでに、サージェンには叶えたい願いがあった。カイは、それを受け止めることを自分に課した。
「僕は、この地を護るよ」
一歩一歩、サージェンに歩み寄りながら、カイは口を開いた。サージェンは動かない。それが先ほど『魔力』を込めて彼の名を呼んだためか、別な理由からなのか、カイにはよくわからない。どちらでもかまわない。
「ラルジェア一族は、もう解放され始めているよ。君が三年かけてやったことと、それから」
カイはそこで一度足を止め、顔だけでルディルを振り向いた。赤毛の幼なじみは憮然としていたが、それが照れ隠しであることは見ればすぐにわかる。彼は、胸にしっかりと白い髪の娘を抱き寄せていた。
「ユアニは、ルディルと一緒になるんだ。前に言っていたよね? ラルジェア一族は同族内でしか結婚しないって。でもほら、ね?」
反応を示さない彼に懸命に語りかけて、カイは逡巡した後手を伸ばした。サージェンの両手をとって、正面からその青い双眸を見返す。
「少しずつでも、“変革”はやってくる。きっと僕達がここへ来たときから、始まっていたんだよ、サージェン」
「……」
「僕はもともと、皇帝である父上の命令で、この地を調べに来た。父上はきっと、ここをマジェス皇国の領土にするおつもりだったんだろうけど……でも」
知らず、彼の手を握る力が強まってしまう。はっとしたカイは、しかしすぐに言葉を続けた。急がなければ、伝えきれないような気がして。
「でも僕は、そんなことはさせない。させたくない。君の願いのようにこの地が変わっていくのを、僕がずっと護るから」
サージェンは、瞬きもせずにカイを凝視していた。緊張の中、奥歯を噛みしめて強い視線を受け止めていたカイは、次の瞬間泣き出してしまいそうになる。
「君は本当に……何という人だろう」
この笑顔を、ずっと見たいと思っていた。優しくて、どこまでも透き通っていて、そしてどこか悲しげなサージェンの微笑を。
「私は長い間、待っていたのに。長いこと迷って、ようやく君による死であればと、心を決めることができたのに」
サージェン、と呼びかけることもできなかった。喉が名前のわからない感情でせき止められて、唇はわななくばかりだった。
青い瞳の青年は、カイが心の底から大切に想う人は、これまでカイの知る中で最も綺麗で印象的に微笑んでいた。微笑みの中を……一筋の涙が流れていた。
「君は、私を殺すよりも困難の大きな道を選んでしまったのだね、カイ」
サージェンの右手が、するりとカイのそれから抜け出して、カイの頬に触れた。髪を、指で梳かれる。優しく。
「大変なことが、これから君を苦しめる。言葉では表せないほどの苦しみが、常に君に襲いかかる。それでも、君は」
「もう決めたんだ。そして、サージェンに約束もしたよ」
強く笑って、カイはうなずいた。サージェンの手を離して、彼はもう一度後ろに顔を向け、カーサを手招いた。
「そのナイフ、貸して」
「いいけどよ、何に使うんだ?」
首をかしげながらも、カーサは彼に作業用ナイフを渡してくれた。彼は片手でナイフを握り、もう片方の手で自分の銀色の髪を一房つかみ、おもむろに刃を払った。
「うわ、えっらい切れてるぞ」
「もともと長くないからね。――サージェン」
思いの外ばっさり切れてしまった一房の髪を、彼はサージェンの前に差し出した。
「……ありがとう」
押し頂くようにして、サージェンはそれを受け取って、大切に大切に懐へ入れた。そして同じように、自分のナイフで髪を切り、彼にくれる。
指に触れる黒髪は、やや冷たくて柔らかだった。カイはそれをしっかりと握りしめ、目の前のサージェンにもう一度微笑みかけた。
返ってきた微笑が、最後。
サージェンは、踵を返した。彼を愛する水の乙女が、寄り添ってその後に従う。カイは追おうとは思わなかった。きっと、彼はそれを望んでいるから。
だから、カイは静かに口を開き、ただ一言だけを彼に送った。彼が生まれた、この大地の言葉で、この先ずっと変わらない想いを紡いだ。
「サージェン。君はいつだって、僕の大切な友人だ」
サージェンは歩みを止めたが、やはり前を向いたままだった。ルシエははっとカイを振り返り、それからサージェンを見た。
沈黙は、しばらく続いた。けれどカイには、それは重くはなかった。優しく風が吹き、自分と、大切な友人との間を流れていくのを、むしろ心地よく感じていた。
「――私は」
目に見えない流れの中、静謐そのもののような彼の声が、確かにカイの耳にまで届いた。
「私は本当に、君を好いているよ、カイ」
聞くたびいつも、不思議な感覚を呼び起こしたその声音。そこに今は、様々な名前を持つ温かさが込められていた。
抱き締めたいほど、カイはそれを愛しく大切だと、思った。
青の予言者の姿は、それ以来人々の前から消えてしまった。精霊達に尋ねても、カイは彼の消息を知ることはできなかった。
カイは時折叫びだしたいほど強く、彼に逢いたいと願う。
その術を持たない暁の青年は、そんなときには風の中に立ち、あの日の言葉を繰り返す。
――君はいつだって、僕の大切な友人だ。
自分の言葉を、想いを、彼の愛したこの地のすべてに託すのだ。
『マジェス皇国暦一〇九年水月、南方の大陸をアルヴァンテスと命名、正式にこれを皇国の領土とする。一一三年緑月、毎年の収穫高の三割、及び本国よりの軍人・文官合わせて数十名の派遣を条件に、アルヴァンテスを自治領とする。初代領主はカイ・メルス・ロータ・マジェス。尚領主就任の後、カイ・メルス・ドルゴールと改名。アルヴァンテス並びにドルゴールの名称は、彼の地の古い言葉から取られたもので、前者は“常春”、後者は“王者”を表すという。――』
――エル・ルーマン著・『マジェス皇国の歴史』より一部抜粋
完成まで、こんなに時間がかかって、こんなに
思い入れ深いものになった物語は、今までにありませんでした。
そして、こんなにも書けてよかったと思う物語も
ありません。まだまだ私が未熟者だから、
皆さんに伝えきれなかった部分もあります。それでも
ここまでおつきあいくださって、本当にありがとうございました。
この物語のことを、記憶の片隅にでも留めて頂ければ
何よりの喜びです。