| 妖精の夜に BY 羅々
我が愛する者よ、我が麗しき者よ、 立って出てきなさい。 岩の裂け目、がけの隠れ場におる我が鳩よ、 貴女の顔を見せなさい。 貴女の声を聞かせなさい。 貴女の声は愛らしく、貴女の顔は美しい。 ――『雅歌』
夏の満月が輝いていた。艶なる薔薇色を帯びたそれは、天上の女帝さながらにもろ星を従え、あまねく大地を典雅なる神秘の金箔で塗り込めている。その影はとりもなおさず、摩訶不思議なもののけや野の獣たちの跳梁の時に彩りを添えているのだった。 地上界インフォスでは、こうした宵は、「妖精の夜」と呼ばれていた。真昼の覇者たる太陽よりも柔らかな月読の光を愛して、そのもとに宴を楽しむ足取り軽やかな妖精たちにちなんでのことである。その月下の饗宴に、夢うつつに勇者候補のフェリミ・マクディルが誘い込まれ、一晩中、琴奏と歌唱もて奉仕したのはまた別の物語である。 ともあれ、その夜、とある丘陵地帯に集った小さな神々は、一瞬、頭上を駆け抜けた箒星にも似た緑銀の光に、蜜菓子よりもミルクよりも大好きな舞踏を止めた。彼らにとって、それが異質な存在であると悟ったためである。 妖精たちは、短い沈黙ののち、自分たちの気高い支配者、麗しの女王ティタニアに祈りを捧げると、何事もなかったかのように手を打ち鳴らし、横笛と大小の囃子太鼓、シンバルによる騒々しい楽奏を再開した。花の香が大気を染め上げ、美酒が汲まれ、あやかしが舞い狂い、睦言が交わされる。そしてそれは曙光の射しそめるまで小止みなく続けられるのだった。 …だがそれは、今このときに空を渡っている緑銀の翼の男天使の預かり知るところではない。その深い碧瑠璃の瞳には穏やかな理知の光が宿され、豊かな瀝青色の髪、透き通るような肌。ため息をつくほどに優美なこの天使の名は、アル・ハディルといった。 (この間のようなことにならないよう、気をつけねばならないな) 目的地が近づいてきたため、飛翔速度を落としながら、彼は自らに言い聞かせる。 (何もなければ、それで好いのだ。……) 彼は微笑んだ。調略は元来、お手のものだったし、一地上界の守護ごとき、チェスゲームの感覚で十分のはずだった。却って、入れ揚げ、のめり込んでしまった場合の不都合、危険を知悉していれば、なおさらのこと。 (だが、どうやら、そればかりでは割り切れなくなってきているらしいが…) ものに動じぬ冷徹さが身上ではあったが、それは決して情愛を覚えないことを意味しはしない。 彼は小さくため息をつくと、浅い森の外れに位置する、城壁を巡らせた街に向けてゆっくりと降下し始めた。そこには現在、彼の管理勇者の一人が逗留しているのである。
少女は夢を見ていた。懐かしい父領主の城の中庭で、愛する兄が手一杯に果実をかかえて優しく微笑んでいる。李に杏、オレンジ、いちじく、柘榴、葡萄…どれも妹の好むものばかりだった。彼は妹とともに厨房へ行き、パイを作る手伝いをしてくれた。妹はそれが嬉しくて、兄に午後から踊りの練習に付き合ってくれるようねだる。兄は苦笑しながらも、承知してくれた。 幼い頃は、無邪気に、将来は兄の奥方になるのだと思い込んでいた。それが不可能だと分かっても幸せな日々が翳ることはなく、神とその御使いに素直に感謝の祈りを捧げていたのだ。 けれど、妹が兄に寄りかかってステップを踏もうとすると、彼は動こうとはしてくれず、不審に思って兄の顔を見上げると… (兄様っっ!!!) 少女は飛び起きた。 (……また…!) また、同じ夢、同じあの瞬間…。何度、繰り返し見たか知れぬ悪夢…。 少女は肩で息をしながら、宿屋の一室で休息を取るために寝台に横になっていたのに思い至った。 (…痛い…) 左肩の傷に疼痛が走った。 (兄様、兄様、兄様…!) なぜ自分は天使の勇者など引き受けたのだろう。兄の狂気と暴走に対して、神は沈黙しているだけだったというのに。以前、少女を気遣って、「良い夢を」と言ってくれた緑の天使に、まるで面当てのように挑戦的に、「ええ。良い夢を見ながら、ゆっくり眠りたいです」という言葉を投げつけてしまった。神や天使の存在に不信と懐疑の念を抱いているのを悟られてしまったに違いない。けれど、あの天使の導きがなければ、自分が何の力もない一介の小娘に過ぎないこともまた確かなのだ。 「ユリアナ…」 遠慮がちな呼びかけに、少女ははっと顔を上げた。 「天使…様…。こんな時間に…」 少女は窓辺に凭れている、緑銀の翼、草色の瞳、優雅な物腰の天使アル・ハディルに、やや不機嫌な口調で答えた。実際は、泥沼化を免れないであろう物思いを断ってくれた安堵を決まり悪く隠していただけだったのだが。 「このような深夜にお訪ねしたのは、お詫びします、ユリアナ。ただ、今宵は『妖精の夜』ですのでね。変身を司る月の力がいや増すことでもあるので、お伺いしたのです」 「…月の力?」 「そう。ある地上界の哲学者がね、初対面の人間に、このように言ったそうです。『さあ、何でもいいから、話をしてください。それによって、私は貴方に出会います』とね。そうした意味では…私は貴女にまだまみえてはいません、美しいユリアナ。そして、この月影うるわしい夜には、貴女のお心も優しく変化してくれるのではないかとね、甘い見通しをもってこちらに参ったのですよ」 「……」 ユリアナは無表情に緑の天使を見つめた。天使は小さく微笑んだ。 「…先日の失礼は、心から申し訳なく思っています。そのお赦しもいただかないまま、このような時刻にお伺いするべきではなかったのかもしれませんね…」 天使が、数日前、着替えの最中に現れたことを言っているのだと気づくのに、少女はしばらくかかった。 「赦すなんて…私、何とも思っていませんから」 少女は我知らず速くなっていく動悸への困惑に口篭もった。 「そのお言葉をいただけただけでも、思いきって女性である貴女にこのような失礼をしてしまった甲斐がありました、美しく怜悧なユリアナ」 「……」 「…ではユリアナ、今宵は本当に申し訳ありませんでした。また参ります。優しい夢が貴女に訪れますように…」 不思議な澄んだ声音。言いながら、天使は踵を返し、緑銀の翼を広げようとした。勇者は思わず寝台から飛び降り、口を開いていた。 「あ、あの…天使様! 話し相手が欲しいと思っていたところなんです。もう少し、いてくださいませんか?」 緑の天使はゆっくりと振り向き、舞うような仕草で片膝をついた。 「喜んで、美しいユリアナ。『妖精の夜』の邂逅に感謝いたしましょう。こうして貴女に出会えたことをね」 そうして寝乱れた亜麻色の髪をした勇者と緑の天使は、互いに手探り状態ではあったが、思いを込めた対話をはじめたのだった。 少女はどこか夢心地で、物語でもするかのように言葉を紡いだ。果物が好きなこと。無数の果樹園の恵みを受けた故郷とその収穫祭がいかに素晴らしいか、修行中は絶対に邪魔をして欲しくないこと、星空が好きで、自分だけの星座がいくつもあること、薔薇の花が咲き誇るさまに見とれずにはいられないこと…などなど。緑の天使は終始、微笑みながら相槌を打ち、意見を述べ、また天界での自分の位置やアルスアカデミアでの専攻分野、卒論のテーマや今後の研究課題、それに伴って全く新しい言語体系を創案中であること、学生時代の奇談、負け知らずのチェスの腕前について話して聞かせた。 それはどこか官能的な時間で、芳醇な果実酒のような効果を少女に及ぼした。そして少女はこのとき、まだ笑う術を忘れていない自分に気づくことができたのだった。
(一歩前進かな…) 緑の天使は、碧瑠璃の瞳を細めた。気ままな空中遊泳に身を任せながら、掌中に熊のぬいぐるみを弄んでいる。それはたったいま彼がその傍らを去ってきた女勇者からの贈り物であった。寝室に飾ろうか、それとも妖精たちも出入りする執務室に置こうかと楽しく思案していると、 「ご機嫌だことね、ハディル」 ふいに背後から声をかけられた。 「ティタニア…どうなさったのです?」 見ると、妖精界の堂々たる女王が月光に彩られた大いなるかげろうの羽を背に、数多の妖精たちを従えて、宙に佇んでいる。青絹の豊かな髪と翡翠の目、柳さながらのしなやかな腰をもち全身を豪奢な衣装と芳しい香煙につつまれた貴婦人に、緑の天使アル・ハディルは丁寧に頭を下げ、その白い手の甲に接吻した。 「どうって、今夜は『妖精の夜』よ。女王のわたくしが、いて悪いこともないでしょう」 女王が嫣然と笑う。 緑の天使は微笑みながら、 「かようないぶせき地上界にご直々のご降臨とは、いささか勿体無きことと、麗しの奥方様。ただいまは金の猫目の天使をご寵愛とのことでございましたので、近頃ご機嫌伺いに参じますのも控えさせていただいておりましたが…」 女王は肩をすくめた。 「彼は今、大天使イスラーフィールの愛弟子を追い掛け回してるわ。暇になったものでね」 女王は妖精たちを下がらせると――彼らは突風のように姿を消した。いずれかの丘や泉のほとりで繰り広げられている宴に加わるためである――天使の手にしている熊のぬいぐるみを指差した。 「それは、何?」 「気高い女王がお心に止められるほどのものではございません」 「そんなことは訊いていないわ」 「…熊のぬいぐるみです。人間たちの玩具ですよ」 「愛らしいこと。この間、手に入れた取り替えっ子と同じくらい」 天使は苦笑した。 「…果報者ですね、そのようなお言葉をいただけるとは」 「それが欲しいわ。その子をわたくしに譲ってくれないこと? 綺麗な花冠をわたくしが手ずから作ってあげましょう。わたくしのしとねの枕辺に連れて行きましょう。朝には目覚めの、晩には子守唄を歌ってあげるわ。食事時には、わたくしの傍らに席をしつらえさせましょう。きっとその子は、わたくしの無聊を慰めてくれることでしょう」 「…それは、承服いたしかねます」 「なぜ?」 緑の天使はそれには答えなかった。 「今宵より七日七晩、寸時の暇もなく貴女様の奴隷となりましょう。このアル・ハディルが身も心も、貴女様のお気に召すままでございます」 (逸らしたわね…) 女王は魔性の瞳に揶揄を宿し、 「一年と一日ならば承知してよ」 アル・ハディルは困ったように大げさに首を振った。 「おお、美の女王よ。貴女のお慈悲とご寛恕を請い願います。守護天使がそれでは、この地上界が喪われてしまうやもしれませぬ」 「では、その子をわたくしにお譲りなさい」 「……困りましたね」 天使は天を仰いだ。 (平和度は200。数ヶ月先までの敵出現は割り出し済みだ…が…) 西斜した満月の光輝が群雲のかつぎにやや翳る。刻々変化するその絶え間より鈴生りの星々が、さやかに天上の楽の音を奏でていた。 「さあ、どうなの?」 妖精女王の麗々しいが鋭い声音に、緑の天使は丁寧に目礼した。 「お心のままに、女王の中の女王よ。一年と一日、わが身は貴女様の僕にございます」 天使は微笑し、小さく歌を呟いた。
もし我が、我がつとめとして彼女に腰を屈めたとしても もし彼女が、我が挨拶に答えてくれないとしても 我に何の不平があろうか? 美しいひとには何の責任もない…
妖精界の女主人の甘美な抱擁と口づけを受けながら、緑の天使は目を閉じた。 (叱責か、特別ボーナスか、微妙なところでしょうね、大天使ガブリエル…)
まだ夜の明けきらぬうちに、フォータ離宮からベテル宮へ女王ティタニア直属の妖精が使者として遣わされてきた。そうしてもたらされた天使アル・ハディルの手紙を読んで、ペンギンと鹿の姿を模した二人の妖精は仰天した。今後一年と一日の間、妖精女王へのご奉仕のために、守護天使としてのつとめはもとより、ベテル宮に帰還することもできなくなってしまった。どうかその間、自分なしで堪えて欲しい。詳しい事情はいずれ打ち明けようが、これは何としようもないので、申し訳ないが頑張ってくれ。なお、熊のぬいぐるみを一緒にそちらに送ったが、手数ではあるけれども、これは自分の私室の一番良い場所に飾っておいてもらいたい…。 「ティタニア様…」 妖精ローザは頭をかかえた。おそらく、緑の天使は、つい最近終幕を迎えたばかりの妖精女王と金の猫目の天使の恋の側杖を食ってしまったのだ。 「ロ〜ザ〜、ロ〜ザ〜、どうしよう〜〜〜。天使様ぁ〜」 ローザはおろおろしながら執務室中を飛び回るフロリンダに、 「…落ち着きなさい、フロリンダ。ティタニア様のマイペースは、今に始まったことじゃないわ。それに私たちの天使様は、無責任にこんなことをなさるかたじゃないわよ」 ローザはフロリンダに、今後数ヶ月先まで索敵済みの混乱地にはそれぞれこれこれの勇者に依頼し、どちらの妖精がいついつ同行し、どの武器をどの時点でいずれの勇者に贈るべきか等の、天使からの詳細な行動の指示が記された別紙を示して見せた。 「ローザ…」 涙目で妖精フロリンダはローザを見つめた。 「ティタニア様も天使様も、私たちの大切なご主人様よ。やってみましょう。私たちだけでできるだけのことを。それで、どうしようもなくなったら、ガブリエル様にご相談に行けばいいわ」 「うん…そうだね」 フロリンダは涙を拭って、頷いた。 実際、天使と妖精は常に友好関係にあったわけではない。過去に幾度も凄惨な争いにしのぎを削り、覇を競い合うこともしばしばであった。けれど現在はとりあえずの和睦の成った証に、女王ティタニアが天界に居住し、妖精たちは天使の事業に協力し、時には使役される憂き目にも耐えなければならなかった。緑の天使は、そうした鬱屈のあおりも承知の上でこうした事態を受け入れたのだろう。 「天使様…頑張ってください」 ローザとフロリンダは遠いフォータ離宮に向けて頭を下げた。
翌朝早くペンギンの着ぐるみに身をつつんだ妖精は、こっそり勇者ユリアナを訪れた。少女はまだ深い眠りのうちにいたが、その安らかな様子を見て妖精はにっこりと笑んだ。少女は柔らかに微笑み、優しい夢のうちに遊んでいるかのようだ。そして緑銀の羽根がひとひら、口づけるがごとくに少女の頬に寄り添っている。 (よかったですぅ〜) 「妖精の夜」に休暇をもらってインフォスに降りた妖精は、何気なく羽を休めに立ち寄った軒下で、うわ言を繰り返しながらうなされていた少女を目にし、矢も盾もたまらなくなって、同僚には内緒で緑の天使に助けを求めてしまった。 (天使様、天使様、ユリアナ様がとってもとっても苦しそうなんですう。何とかしてあげてくださいぃ〜) (大丈夫ですよ、フロリンダ。私に任せて。安心して、『妖精の夜』を楽しんでおいでなさい。私にできないことなどないのですから) (お願いしますう〜) その代償が今回の天使の長期の不在であるということには、彼女は思いも及ばなかったが。 (天使様にできないことは、ないんですう。ちゃんとしっかり、インフォスのことだって考えてらっしゃるに違いないんですからぁ! …あ! いけない、忘れるところでしたあ!) 妖精は、かかえてきた自分の体の何倍もの大きさの籠を四苦八苦しながら寝台脇の卓に置いた。それは大小の青を除く色さまざまの薔薇の生けられた美しい花籠であった。 (綺麗ですねぇ〜) 妖精界より勇者のために選りすぐられたいまだ蕾んだものから大輪に咲き誇るそれまで、棘は丹念に取り去られ、天鵞絨さながらの花弁は夜露に濡れたまま。芳情したたる花々は鮮やかな蔦蔓の緑と木の実にかしずかれ、受け取る者の感覚と魂に最上の慰めと喜びがもたらされるべく配され整えられていた。美を解する者には仙境に憩う陶然と恍惚を思うよすがともなろう。 (よいしょっ、です) 妖精は最後の仕上げに、花籠に添えられていた翡翠色のカードの傾きを直した。 (じゃあ、ユリアナ様、フロリンこれで失礼しますう。天使様はしばらく来れませんけど、フロリンもローザも頑張りますからぁ!)
寝返りを打った勇者にぺこりと頭を下げると、妖精はふよふよと旋回を繰り返しながら曙光の彼方へ飛び去った。 …やがて勇者ユリアナは休息を終えて、素晴らしい贈り物を目にするだろう。そしてどこか意味深な天使のメッセージに、はにかんだ笑みを浮かべるのだ。 『妖精の夜』の記念に この薔薇が貴女に届きますように アル・ハディル
FIN |
羅々様からいただきました、天使アル・ハディル君と
ユリアナちゃんのお話です。ハディル君、素敵ですよね。
ユリアナのお話ってあまり見かけないので、
とても楽しく読ませていただきました。そしてなにより、
ティタニア様最強……(^^;)。羅々様
どうもありがとうございました!