空は、青い。

 その青いものが、私の目の前でくるりくるりと回る。ううん、回りそうになって、止まる。

 掌が茶色くなっている。これだけ鉄の棒にこすっているのに、もういいかげん掌が痛いのに、私は回れない。校舎を睨みつけて、私はもう一度鉄の棒をつかんだ。

 この校舎を、一度回って見られるようになりたい。そう念じて、もう一度くるりと回ろうとする。地面を蹴って、足を高く上げて――。

「ああ、もう!」

 やっぱり、駄目。空が一度揺れて、また校舎のほうに引きずり戻される。私はもう、いやになって鉄棒から離れて、シーソーに座った。

 どうして逆上がりのテストなんてやるんだろう。逆上がりができなかったからって、何かとても困るようなことがあるんだろうか。絶対にないと思う。だって、私のお母さんは今の私と同じくらいのときからぷくぷく太っていて、運動だって得意じゃなかったけど、私のお母さんになって暮らしているもの。

 そう自分に言い聞かせるのも、もう十度目になる。でも私は、シーソーにおいてあるランドセルに手を伸ばそうという気にはなれないのだ。

 学校の周りと道路をわけている、フェンス越しには草地が広がっている。どこまでもどこまでも。交差した細い鉄線から、空が見える。昼間ほど明るくなく、夜にしてはまだまだ明るい、中途半端な空だ。風もなんだか中途半端。寒くもあったかくもない。五月って、そういう季節だな。

 中途半端――いやな言葉だ。私もそうだから。六年生で私も含めて十人が、逆上がりができない。くるりと一回、回ることができない。途中で止まって、落ちてしまう。悔しい悔しい悔しい。私たちだけが、私だけがふわっと地面から飛ぶことができない。

「暗くなっちゃうな……」

 ぼんやり呟く。真っ暗になってもこの時期はお父さんもお母さんもなにも言わない。だけどここにももういたくない。いたって悔しくて悲しいだけだ。

 のろのろと腰を上げると、私は驚いた。

「誰、あんた?」

 ジャングルジムに、男の子が座っていた。私と同じくらいの年の、見たこともない男の子だ。私の町は田舎だから、誰か越してきた人があればすぐに噂になって知れ渡る。でも、そういう話は一度も聞いていなかった。

「僕は、ラン」

 男の子は、高いところから名前を言った。君は? と聞き返してくる。

「私は元町茜。ランって女の子みたいな名前ね。男のくせに」

 意地悪い言い方になったのは、むしゃくしゃしていたからだった。彼は私が届かない空に近かった。

「藍色の藍で、ランだよ。僕は好きだな、自分の名前」

 やっぱり藍は降りてこない。なんだか腹が立った。

「降りてきなさいよ。何でそんなとこにいるの?」

「空を見てるの。君もおいでよ」

 藍は、とても大人っぽい感じがした。クラスの男子はとにかく乱暴でうるさくていつだって汚いけど、彼は違った。都会から来たのかもしれない。

「どうして空なんか見てるのよ?」

「好きだから。特に、この時間は一番好き」

 藍の言葉は本当に嬉しそうだったので、私はジャングルジムに登りたくなった。藍の長めの髪が風にさらわれてなびくのを見ているうち、私の手はジャングルジムにかかっていた。

「こんにちは」

 目の高さが合うと、藍は笑った。間近で見る彼は、優しげな顔をしていた。これも、私のクラスの男子には一人もいない。

「何で挨拶するの?」

「だって、初めて会うもの。礼儀だよ」

 ……『礼儀』なんて言う奴、初めて見た。

「もう『こんにちは』の時間じゃないよ。夜だもん」

「まだ夜じゃないよ」

「夜だよ」

 言い張る私に、藍は溜息をついた。そして、真っ直ぐに――すごく細い腕だった――頭の上を指差す。

「今はね、夜じゃないんだよ」

 つられて上を見た私は、口を開けたままなにも言えなくなってしまった。

 雲が、ゆっくり流れていた。一瞬遅れて、優しい風が吹いていることがわかる。私の前には空しかなくて、何の音も聞こえない。

 なんて深くて透明な青だろう。なんて静かで、なんて激しくて、燃えるような空だろう。どきどきする。何がそうさせるのかわからないけど、叫びたいような興奮と、泣きたいような気持ちが胸の中で混ざり合って、私の声を奪っていた。

 世界中から、音が消えたようだ。世界中が、今にも爆発しそうなエネルギーを隠しているようだ。だから、どきどきする。

「『黄昏』って言うんだよ」

 藍が小さな声で言った。それでようやく、私はどきどきしなくなる。風が耳元でそっと鳴っていた。

「物騒な静けさだよね。爆発しそうな感じ、しない?」

「……うん、する」

 私たちは顔を見合せて、くすくす笑った。すごい秘密を分け合っていた。この空はいつか、爆発してしまうかもしれないんだよ? そしたらきっと、真っ白になってしまうんじゃないかな。何もかも全部――フェンスの向こうの野原も、校舎も、鉄棒も、このジャングルジムも。

 だから、私は急いで下に降りた。

 空がまだ透明で青くて静かなうちに、蹴り上げてみたかった。

 

 

 ああ、なんて青い空。

 フェンスなんて気にせずに、緑の地平を見ることができる。空と交わる地点が、近くて遠い。

 今も私は、あの不気味に静かな空を見ている。背は伸びて、身につけているのは紺と白のセーラー服で、もうランドセルは小さくてどこかに行ってしまったけれど、激しい静寂はずっと変わらなかった。

 あの日からこの空が、いつでも私を励ましてくれた。黄昏の空の力が、見上げるといつだって私に満ちてきた。空は爆発するかわりに、私を無敵にしてくれた。

「茜」

 振り返ると、先生との話を終えてきた藍がいた。久しぶりに小学校へ行こうと言い出したのは、彼だ。もうしばらくは、来られないからと。

「帰る? 寒くなってきたよ」

「うん、でも……」

 最後まで言わなくても、彼はわかってくれた。私たちは、同じものを好きだ。

 並んで空を見上げながら、私は藍を思う。黄昏の青空みたいに、静かに静かに、けれども強く笑う人。

 視界の端が、ちかりと赤く染まり始めた。

 

 

 

押しつけきり番、8000の高松

さとり様からのリクエストでした。「日本の片田舎

に住む小学生の女の子」というテーマだったんですが

はたしてこんなのでよかったのか・……。

ふと気がつけば、某平安冒険恋愛ゲームの

登場人物と名前が同じという

二人……(^^;)。逆上がりができないのは

私の実体験だったりします。今もできません。

懐かしいのかほろ苦いのかわからない思ひ出。

高松様、ありがとうございました!

 

 

 

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