鎮魂歌
……少しの間こうさせて、と。
いつも陽気に振る舞っていた美しい女が、自分によりかかって涙を流すのを、彼はただみていることしかできなかった。
彼女はきっと、暖かい抱擁を望んでいたのだろうけれど。
たいして高級でもないが、それなりにいい雰囲気の酒場の隅の席で、探していた人物を見つけた。彼が静かに店に入っていくと、ざわめきが一瞬で消え失せた。
新月の夜の如く深い漆黒の髪と、砂漠の非常な太陽を彷彿とさせる金の双眸、それらに彩られた人ならざる美貌の青年に、誰もが否応無しに目を奪われていた。加えて、彼には人を惹きつける独特の雰囲気もある。本人がどう思おうと、注目を集めてしまうのは当然のことだった。
しかし彼は、自分に向けられる様々な感情のこもった視線をことごとく無視して、真っ直ぐに目的の人物のところへ向かった。うつぶせているその肩にそっと触れて、名前を呼ぶ。
「ナーサディア」
「う……ん」
むくり、と表現するにふさわしい様子で、突っ伏していた顔を上げたのは、長く波打つ亜麻色の髪をした女だった。さらさらと落ちてくるそれをうっとおしげにかきあげて、彼女は茫とした視線を彼に据えた。
「大丈夫か? かなり飲んでいるんだろう」
ナーサディアは、またテーブルに身体を預けてしまう。身をかがめて視線を合わせ、青年はさらに言葉を続けた。
「もう帰ろう。今日の宿はどこに――」
彼は、唐突に声を詰まらせた。背中に触れているほっそりしたナーサディアの腕に、力がこもる。
「ナーサディア」
「……――ル」
耳元でささやかれたひとつの単語で、彼は彼女を振り払うことができなくなる。
「ラスエル……!」
それは、彼女が愛した者の名前。今でもなお、想い続けている白い翼の天使。
「違う。俺は彼じゃない」
躊躇いはあったが、彼はきっぱりと言った。
「わかるか? アレクスだ」
引き剥がすと、ようやく彼女の目の焦点がはっきりした。何度か瞬きして、あわてたように起きあがった。
「あ、アレクス……」
「起きたか?」
彼は笑った。本当は少し、胸が痛かったが。
「私、何か変なことしなかった? 最近、記憶が曖昧で」
「いいや。それより、記憶が曖昧ってどういうことだ?」
憂鬱に曇る彼女の瞳から、おおよその答えは見当がついていたが、彼はあえて尋ねた。彼女の口から答えが得られなければ、ずっと同じところを巡るのだとわかっていた。
けれど彼女はなかなか話そうとしない。好奇心を丸出しにして近づいてきた店員に強い酒を頼んでからも彼は待っていたが、沈黙は破られないままだった。しかたなく、彼のほうから水を向ける。
「ラスエルのことか?」
「……」
彼女の憂鬱の色が深まった。そうして、とうとう彼女は重い口を開いた。
「そうよ。……あなたになら話したほうがいいのかもしれないわね。私の他に彼を知っているのは、あなただけだもの」
寂しく微笑んで、彼女はアレクスを見つめた。
「私ね、目が覚めたらまず彼のことを考えるの。もう一度会いたいって思って、気づくのよ。……もう、彼は……どこにもいないんだって」
声が震えていたが、彼女の目は乾いていた。乾きすぎて、どこも見えてはいなかった。
「馬鹿よね。私……この目で彼の最後を……この手で彼に触れたのに……」
「もう、わかった。すまない。もういいから、ナーサディア」
アレクスは、彼女が何に苦しんでいるのかを知りたかった。それがわかりさえすれば、彼女を救えると考えていた。しかし、完全にそれは思いあがりだった。
(俺じゃ、役不足だ)
彼女が求めているのはただ一人で、その存在はもうどこにもいはしない。
自分に何ができるのか、彼は必死に探した。
ナーサディアはうつぶせの状態で、目を閉じていた。なにも頭には浮かばず、暗闇しかなかった。柔らかく話しかけていた金瞳の天使の声も、いつのまにか聞こえなくなっていた。
そばにいてほしいのは彼ではない。常に捜し求めていたのはただ一人だった。今も、それは変わっていない。もうその人はいないのに。それでも、今はアレクスの声を聞いていたかったのだ。
(とんでもないわがままね……)
自覚はしていても、心を抑えることはできない。ナーサディアは、目を開けようとはせずにずっとそうしていた。いっそ眠りが訪れてくれればいいと思ったが、変に意識が冴えている以上、無理なようだった。
「……?」
耳に、何かが飛びこんできた。澄んだ、高い音。
(何……?)
思わず半身を起こし、彼女は見た。そして聴いた。
「アレクス?」
つぶやいた声はかすれていて、流れてきた旋律に容易にかき消されてしまう。
この店には小さなステージがあって、彼女も何時間か前にそこで踊った。隅のほうに無造作に置いてあった粗末なピアノにももちろん気づいていたが、それがまだ歌うことができるのだとは想像しなかった。
ピアノを蘇らせたのは、ともに唄っているのは、太陽の瞳の天使であった。酒と甲高い声の他愛ない話に興じていた客が、いっせいに動きを止めてその歌に聞き入っている。どんな歌なのか、理解できてはいないだろうに、彼らは陶酔していた。
「どうして……?」
彼の歌声は、繊細で優しくて、心に気持ちよく染みわたってきた。その言葉は遠い過去のもので、意味を解することはもう不可能だ。ナーサディアをのぞいては。
「これって……鎮魂の歌?」
何百年も前の言葉で紡がれる、死者のための歌だった。安らいだ眠りを願う、祈りによって生まれた歌は、決して悲しみを内包してはいなかった。ただ純粋で、清らかで、暖かい。
手の甲に何かが落ちてきて、彼女ははっとした。なめらかな手には、一滴の水があった。あとからあとから、暖かい雨が降る。
自分の目からそれがあふれていることに彼女が気づいたのは、少し経ってからだった。
月は丸く銀色だったが、雲が多かった。すぐにあえかな光は遮られてしまう。
ナーサディアは無言で歩き、続くアレクスも沈黙を守っていた。草を踏む音だけが静かに響く。
街の灯を見渡せる場所で、ナーサディアは足を止めた。
「アレクス」
振り向いた先で、アレクスは翼を現して佇んでいた。翼の銀色は刃を思わせるが、鋭い印象はない。凛としていて、強いだけだ。
それを悲しいと、彼女は初めて思った。その心のままに、彼女は腕を伸ばしていた。
「……ナーサディア」
「少しの間だけ」
あのときと同じことを彼女は言ったが、気持ちはまったく違っていた。あのときはただ悲しくて立っていることすらできなかったけれど、今こうして彼に寄り添っているのは……。
「私はもう大丈夫よ。ちゃんと気のすむまで泣いたから」
戦うためには涙を封じようと思ってしまったから、切ない想いが動けなくなってしまっていたのだ。アレクスの歌がそれを気づかせてくれ、溶かしてくれた。だから彼女は、また歩いていける。
(そう、私は平気だけど……)
「あなたも、もう泣くべきだわ」
「――」
息を呑む音が聞こえたが、彼はナーサディアをふりほどこうとはしなかった。ナーサディアが彼の秘めていたものを見つけてしまったことを、察したのだ。
本当は、ナーサディアにはずっと前からわかっていた。彼が恋をしていること。それがとてもつらいこと。おそらくは、かなわないものなのだろう。
焦がれつづけることの苦しさを誰よりも長く味わってきた彼女だから、彼の気持ちに自分を重ねることができた。
(泣いて、気持ちを解放してしまいなさい。私には、受け止めることしかできないけれど)
おずおずと、彼が腕を回してくるのを感じた。彼女は目を閉じる。
――ずっと与えられなかった、抱きしめる腕の温もりを。
――指の間をすり抜けていく、柔らかい髪に残る百合の香を。
束の間の抱擁の中に、互いにそれぞれの夢を求めた。
3333Hitの白桜様からのリクエストで、アレクス
の話ということでしたが……。ナーサディアとなぜか
カップルっぽくなってしまいました……。な
ぜだろう? うー、以前から、この二人って
お似合いかなーとは思っていたんですけどね。カッ
プルの予定は全然なかったんです。キャラクター、大爆走
です(笑)。
ま、それはいいですけど。白桜様どう
もありがとうございました!