いのちの歌
にじむ緑。どこか不透明な青空。その色の中に包まれて、吟遊詩人の少年が唄っている。
マイアは静かに彼の傍に舞い降りて、歌声に耳を傾けた。
「あっ、天使様! 来ていらしたんですか? すみません、気づかなくて……」
彼があたふたと顔を赤くして彼女に詫びたのは、しばらく時が流れた後のことだった。いつまでも素直で愛らしいその様子に、彼女は少しだけ唇の端を持ち上げて見せる。
「気にすることはない、フェリミ。私がお前の歌を聞きたくて、黙っていただけだ」
それからは、いつものように他愛のない会話と、天使からの贈り物。けれど別れ際になって、ひとつの変化が生じる。
「フェリミ。さっきお前が唄っていたのは、なんという歌なんだ?」
「え……」
フェリミは驚いていた。きつめの印象のある女天使は、今まで一度も彼の歌になど関心を示したことがなかったのだ。
でも、その質問が嬉しくて、少年は最初の一説を竪琴で爪弾いた。
「僕の故郷に古くからあった曲です。言い回しが少し難しいですが、優しい歌です」
「そうだな」
小さく、その歌を口ずさんでみる。少年の声は澄んでいて伸びやかで、しんとした森の中にゆるりと流れていく……。
その上に、もう一つの声が重なった。甘くていくぶん低めの、女の歌声。
「天使様……」
思わず、彼は音楽をとめてマイアの美しい面をまじまじと見つめてしまった。すぐに、そんな自分の反応を悔やむ。マイアはなんともやるせない表情で、唇を覆ってしまった。
「あ、あの、すみません」
「なぜ謝る?」
そう問われ、今度こそ少年は言葉を失った。
「……もう戻る。それではな」
豪奢な金の巻き下が翻る。空色の翼が彼女を天へつれて行ってしまうのを為す術もなく見送りながら、フェリミは彼女の歌声を耳の中に蘇らせていた。
女性としてはやや低めだったが、心地よい甘さと柔らかさがあった。そして、どこまでも飛べる力強さがあった。
もう一度、もう一度彼女の歌が聞きたいと、彼は願った。
二度と唄うまいと誓ったはずだった。
マイアは自分の喉を抑え、きつく眉を寄せた。
(私の声など、とるに足らないものだ)
だから、もう歌うことはすまいと思った。あの、至上の歌声を耳にしてしまっては、唄えないと思ったのだ。
天界には、神のために聖歌を納める天使たちがいる。光へと回帰するまでの一生を、歌に捧げるのだ。マイアもかつてはその聖歌隊の一員であった。けれど、彼女より少し遅れて入隊してきた乙女が、彼女の道を変えるきっかけとなった。
彼女とて、一流の歌い手であることは間違いのない事実であったが、その乙女はそんな次元を超越した存在だった。彼女は歌そのもので、聞く者はどこに属するものですら膝を降り、心を揺さぶられ涙せずにはいられない、そんな圧倒的な力があった。
そんな歌を前にして、彼女はもう唄い続けることができなかった。
「失礼します、天使様」
「お茶をお持ちしましたよ!」
補佐の妖精二人が部屋に入ってきて、マイアはぎこちなく目をあけた。彼女達には、自分の中でせめぎあうものを悟られたくなかった。
「ありがとう。では、少し休もうか」
「そうですよ天使様。あまり根を詰められると絶対に身体によくないんですから。ほら、このお菓子は私が作ったんですよ!」
「シェリー、少し静かにしなさい。申し訳ありません、天使様」
どこまでも礼儀正しいローザに、マイアは苦笑してしまう。今の彼女には、シェリーの底抜けの明るさがありがたかった。
「そうそう天使様ご存知ですか? もうすぐフェリミ様のお誕生日なんですよ」
「え?」
フェリミの名前を聞いてどきりとしたマイアだったが、シェリーはまったく気づかずに執務机の後ろにはってあるカレンダーの日付を指差す。
「この日なんですけど。お祝いしてあげたら、きっとフェリミ様喜びますよ。ね、天使様?」
「ああ……」
つい彼の前でしてしまったことはまだ気にかかっていたが、彼が自分にとって大切な友であることは同じである。それに、彼はつらいことに直面している。励ますためにも、何か気分が変わることがあったほうがいいのかもしれない。
「え? 僕の誕生日……ですか?」
久しぶりに自分に会いに来た美しい乙女の口から、まさかそんな言葉が飛び出してくるとは微塵も思わなかったので、フェリミはきょとんと問い返すことになった。
「何か、望むことはあるか? 人は何を喜ぶのか、どうしてもわからなかった」
生真面目な彼女のことだから、きっと今まで真剣に悩んでいたのだろう。そんな彼女の様子を想像して、かわいらしいと思う反面フェリミは嬉しくもあった。
「僕は……天使様の歌が聞きたいです」
マイアは大きくアイスブルーの目を見開いた。小さな唇が何か言葉を紡ごうとしてわなないていたが、フェリミは話すのを止めなかった。どうしても、今この場で彼女に言いたいことがある。
「天使様は、唄いたいのでしょう? そうじゃなかったら、あんな顔はなさらないはずです」
悲しそうな、やるせない表情。本当は声の枯れ果てるまで歌いつづけたいのに、なにかの理由で自らそれを封じているのだと、彼は直感的に悟っていた。歌を伝え、音楽を生き様とする吟遊詩人たる彼だからこそわかったのかもしれない。
「お願いします天使様。唄ってください。これ以上天使様の歌を苦しめないでください」
「私の、歌?」
「そうです、僕の望むのは、天使様の歌です。お願いです」
フェリミの声は、ただ話しているだけでも音楽を忘れていないとマイアは思っていた。唄うために生まれてきたかのような、そんな存在の少年。
「お前にはわからない」
マイア自身も驚くほど、冷酷な口調だった。瞠目して、告いで悲しそうに顔を歪める彼を横目で見つつも、彼女は沈黙のまま空へ帰っていった。
落ち着いてきたことを自覚したのは、日が落ちようとしたときだった。
マイアは昨日と寸分違わぬ夕日を見つめ、フェリミとのやりとりを苦く回想していた。
彼はひたむきで純粋で、優しく繊細な心を持っている。人の痛みを我が物とすることのできる稀少な人間だ。その彼が、ただ自分の欲求のためだけに何かを願うことなどありえないではないか。
(彼は本当に、わかっていたのかもしれない)
いや、わかっていたはずだ。歌を愛し、それを何よりも大切に思う彼ならば、同じ気持ちを抱えた彼女のことを理解できないわけはない。マイアの、時を経るごとに大きくなる歌への思慕を、彼は唯一共有し得るのだ。
彼女は静かに立ちあがり、珊瑚の唇は小さく呪文を紡いだ。
ヘブロン王国には、一足早く夜が訪れていた。街の明かりは温かく彼女の瞳に映ったが、中でもひときわ輝く不可視の光を、見逃すことはなかった。
質素な宿屋の一室で、琴の調律に一心に取り組んでいるフェリミに気配を悟られないよう、細心の注意を払って空色の天使は建物の屋根に降り立つ。
フェリミは言葉がわからないといったが、神の眷属である彼女の知識を持ってすれば、百年ほど前の人の言葉はたやすく意味を読み取ることができた。
マイアは自然に唄っていた。最初は躊躇いがちに、すぐに迸る勢いをもって。
それは、悲しいほどに優しい歌だった。その昔、鎮魂歌としても人々に親しまれていたものだ。命は流れていくものだと、だからたとえ自分が半身とも思う誰かを亡くしたのだとしても悲しむことはないのだと、調べの中の言葉は祈る。この歌を口ずさみ、耳にして人々は生きてきた。寂寥と喪失感を乗り越える力としてきた。
天使の乙女の祈りは、夜の闇の安らぎの中をひそやかに流れ、満たしていく。
――フェリミは我知らず涙を流し、妙なる調べに聞き入っていた。
(天使様……)
彼女の歌は、彼が教えたもの。それなのにまったく質が違ってしまう。彼女はやはり、聖なる歌姫であったのだ。
この歌がどんな意味を持っているのか、今だ彼は知らない。けれど、心が強くなっていくのを感じる。これで生きていけると信じられる。
今日、天使と別れてすぐに、彼は姉からの手紙を受け取った。自分のところに戻ってきてほしいという姉からの申し出だったが、むごたらしい殺戮を繰り返す姉を間近では見たくなかった。何度言葉をつくしても姉は虐殺と侵略を止めようとはせず、フェリミはそんな彼女の姿に傷つき、疲れ果てていた。
(でも、僕はもう大丈夫です、天使様。ありがとうございます――)
天使の祈りが、力をくれた。
明日もきっと、歩いていける。
2626Hitの朔月様へのプレゼントで、
フェリミの誕生日の話です。マイアと他の勇者の
組み合わせはあまり書いたことなかったので新鮮でした。
なんか、姉弟のようですね。
「FF\」の歌である「Melodies Of
Life」を聞きながら書いたんです。あの歌の
爽やかさが表現できてるかというと自信ないんですが……。
朔月様、ありがとうございました!
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