Happy Birthday

 

 

 今日は、どうしても早く帰らなければならないのに、そういうときに限って妨害が後を絶たないものである。

 ヤルルは、今日は同じインフォス学園の高等部に通う姉よりもずっと早く帰って(いつも早いが)、いろいろとしなければならないことがあった。しかし、

「あ、ねえねえヤルル君、昨日のテレビ見た?」

「おい! お前掃除当番だろ?」

「ちょっと君、悪いがこのプリントを五十枚コピーして……」

 以下省略。

 こんなふうに、どうやら当初の計画通りにはいかないようなことになってしまった。

(うう……どうしよう。お姉ちゃんが家に帰っちゃう前に、どうしても……)

 しゃこんしゃこんと、コピーされたプリントが次々出てくるのを目で追いつつ、ヤルルは一生懸命に考えた。

「そうだ!」

 追い詰められたせいか、すぐにいいアイディアが浮かんだ。彼はしばらく放っておいてもプリントの印刷が終わらないことを確かめてから、小等部の校舎を飛び出した。目指すは大学部である。

(まだこの時間だったら、学校にいるはず)

 何度も足を運ぶのでつい馴染みになってしまった大学部校舎をかけまわり、彼がたどり着いたのはサークル棟だった。目当ての人物は、ここのロシア語研究会にいるはずなのである。

「アレクスさん!」

「ん? ヤルルか、どうした?」

 無造作に鋏を入れたらしいやや長めの黒髪、金の強い双眸、いつでも享楽的に笑う青年は、運よく一人で部屋にいた。

「あのあのっ、お願いがあるんです。実は、お姉ちゃんのことなんですけど」

「アーシェがどうかしたのか?」

 ヤルルの姉アーシェとアレクスは、同じバイトをしている。馬が合うようで彼女はよく家にアレクスを呼んで、ヤルルと三人で食事をすることがあった。しかし、彼女のほうにそれ以上の気持ちがあることはヤルルにもわかっていた。

「今日、僕どうしても早く帰らないとならないのに、仕事がたくさんあるんです。だから、お姉ちゃんの足止めしててくれませんか?」

「足止めって……」

「お願いします!」

「まあ、かまわないぞ。こういうときのために、暇なサークルに入ってるんだしな」

 そうなのか、と突っ込みたい衝動にかられたが、ヤルルは結局何も言うことなく元来た方向へ走り出した。

 

 一緒に帰らないか、と誘われて、正直とても嬉しかったのだが、アーシェの意地っ張りな性格はそれを素直に彼に伝えることを許さなかった。

「別にいいわよ」

 そっけなく答えたのに、アレクスは笑った。そのことだけで、なんだかどぎまぎしてしまう。

「なあ、アーシェ。これから暇か?」

「え? うん、まあ特に用事はないけど」

「それならちょっと付き合ってくれないか? アーシェに手伝ってもらいたいんだ」

「……うん、いいわよ」

 赤くなったのを気づかれたくなかった。

 いつからかはわからないけど、アーシェはアレクスが好きだった。でも、面と向かって彼にそのことを告げる勇気はない。頑固さも邪魔をして、彼の前だと必要以上にとがってしまう。本当は、素直に彼のそばにいたいのに。

「行こうか、アーシェ」

 だから、今日はせめて、いつもよりも自分の心に正直になろうと思った。

 

 

 小麦粉と卵は間に合ったが、肝心のいちごがない。買出しに行ってさらにタイムロス。予想タイムリミットまであと一時間。

 

 

 アレクスに連れられてアーシェが向かったのは、デパートだった。そこの地下にある食料品売り場で、何やら食材を手当たり次第に籠に放りこんでいるアレクスに、アーシェは冷たい視線を向けるだけだった。

(ったく、何かと思ったら)

 なんだって女の子を買出しに付き合わせるのだろうと、すでに彼女の怒りメーターは振りきれそうになっている。それでも帰ってしまわないのは、彼の買い物の仕方に非常にはらはらするからだった。

「それだめよ。向こうのほうが安いわ」

「賞味期限ちゃんと見て。まだ食中毒には注意しなきゃ」

「そこのたまねぎ、危ないわよ。ちゃんと全部チェックしなきゃだめじゃない」

 終いにはアーシェが彼の買い物リストを聞いて、すべてそろえてしまった。会計をすませて食材を袋に詰め終わるころ、彼女がぐったりしてしまったのは当然のことだろう。

「……なんであたしを誘ったか、わかったわ……」

「悪かったな。アーシェは弟と二人暮しだし、こういうことは得意そうだったから」

「まあね。もう慣れちゃったもの」

 冷たいジュースを手渡され、彼女は彼に少し笑ってみせた。疲れてはいたけれど、不思議と心は弾んでいた。

「あ。しまった。もう一つ買うものがあったんだった」

 突然、アレクスがこんなことを言い出さなければ、楽しい気持ちはもっと長く続いたはずであった。

「何を忘れたのよ!?

「ああ、ちょっと……急いで行ってくるから、アーシェは休んでてくれ」

「あたりまえよ。もう」

 今度こそ帰りたかったが、アーシェはしばらく考えて待つことにした。家に帰っても弟が待っているだけ。それはいつもと同じことだ。でもアレクスと一緒に買い物(食料品のみだが)をした今は、またいつ同じ機会に恵まれるかわからない貴重なこと。

「だめだなぁ、あたし……」

 自分でもどうにもコントロールできない思いを冷やしたくて、彼女はジュースの残りを一気に飲み干した。

 

 

 とうとう完成。後は何が必要か考えて、重大な過ちに気がついた。料理がないのだ。しかも、もう買い物に行ったり支度をしたりする時間もない。完全にタイムアップだ。

 せっかく今日のためにレシピを調べたり、飾り付けのためにいろいろ作ったのにと思うと、悲しくなった。すべて内緒で進めて驚かそうと思ったのに、もうだめだ。

「ただいまー」

「あ……」

 反射的に、できあがったそれの前に立って背中で隠す。

「ヤルル、何してんのそんなところで。あ、アレクス送ってくれてありがとう」

「お、お姉ちゃん、アレクスさん……」

 しょげているヤルルの様子には気づいていないようで、アーシェは制服を素早く着替えてくるといつものように台所へ入ろうとする。

「あっ、だめだよお姉ちゃん!」

「ちょっと、邪魔よ。さっさと夕ご飯作らないと……って、何よこれ!?

 ヤルルが隠したかったのは、背中の後ろのものだけではない。オーバーではなく戦場の後のような台所の散らかりようもだ。床はもちろん、なぜか天井までが汚れてしまっている。

「あんた何やってたのよ!?  お腹空いたんなら冷蔵庫の物でも食べてればよかったでしょ!?  もう、どうしてくれるのよ!」

「落ちつけ、アーシェ」

 激昂するアーシェとおろおろするヤルルの間に、アレクスが割って入った。そして彼は、ヤルルに向かって静かにこう言ったのだ。

「隠すことないだろ? 見せてやれよ」

「で、でも僕……」

「お前はよくやったよ。なかなかいい出来だぞ?」

 それで少し元気が出て、ヤルルは一歩横に移動した。

 アーシェの目が、大きく見開かれる。

「これ……」

「今日、お姉ちゃんのお誕生日だから、内緒で作ってびっくりさせようと思って……」

 少し傾いているけれど、歪んでもいたけれど、それにはちゃんとチョコレートで字も書いてあった。

「『Happy Birthday』……。ヤルルが、一人で作ったの?」

「うん。でも、ごめんなさい。台所、こんなになっちゃった」

 うつむく弟を、彼女は力いっぱい抱きしめた。

「あたしこそごめんね。ヤルルが一生懸命ケーキ作ってくれたのに、怒鳴ったりして」

 幸せな姉弟を見守っていたアレクスは、そっと台所に入っていった。

(こりゃ掃除が大変だな)

 ヤルルの急ぎの用事が、姉の誕生パーティのための準備だとは薄々感づいてはいたが。

(食材買い込んできて正解だった)

 こうなることも、彼は予想していた。そもそもヤルルはまだ小学生で、家事も洗い物担当だと前に話していたことがあったから、料理を作ると惨劇が起こるのは必至だった。だから、せっかくの今日に水を差さないように、すぐに何か作れるようにいろいろ買ってきたのだ。

(掃除の手伝いもしてやらないとな)

「よし」

 不意に腕まくりをはじめたアレクスを、姉弟は怪訝そうに見つめる。

「何してんの、アレクス?」

「何って、まず洗い場と床ぐらいは拭いておかないとな。それから、俺が何か作ってやるよ」

「ええっ!?

 悲鳴を上げたのはアーシェ。

「大丈夫なの!? ちゃんと人間の食べるもの作れるの?」

「おいおい……こう見えても一人暮しは長いんだぞ」

 そもそも、さっき買い物で手間取ったのもわざとなのだ。料理のほうもすでに人に出せるほどには上達している彼である。

「あ、僕もお掃除します」

「あたしも」

 ヤルルのあとに一歩踏み出そうとしたアーシェは、四本の腕に無理やり居間に送り出された。

「いいから、向こうで待っててよ」

「すぐにできるから、こっちに来るなよ」

 

 そして、よほど根性を入れたのか惨状は三十分ほどで綺麗に片付き、アーシェの誕生パーティは静かだが楽しく進んだ。

 八時ごろアレクスは暇を告げ、アーシェはアパートの門まで彼を見送ることにした。

「今日はありがとう。掃除までさせちゃってごめんね」

「いや、たまにはいいさ。家に帰っても一人だしな。俺も楽しかった」

 部屋から門まではすぐだ。アーシェがゆっくり歩くので、アレクスもそれに合わせてくれる。でも、それは彼がアーシェの気持ちを知っているからではなく、ただ優しいからなのだ。

「ああ、そうだ。うっかりしてたな」

「アレクス?」

 立ち止まってバッグを探り出した彼を、アーシェは振りかえる。その目の前に、リボンのついた小箱が差し出された。

「……これ」

「誕生日おめでとう、アーシェ」

 箱を手に、茫然としている彼女の横を、彼は静かに通りすぎていく。何か言わなければと彼女が口を開きかけたときには、もう彼は遠くにいた。

「……アレクス……」

 どうしようもなく熱くなる胸を、彼女は強く抱きしめた。

 

 

 

 


2525Hitの朔月様へのプレゼントですが、

アーシェの誕生日企画にもなってしまいました。

おかげでとってもあわただしい話しになってしまいま

した(背景が)。ヤルルとアーシェ、ちゃんと姉弟

でしょうか? そしてなぜかいるアレクス。

と、ともあれ朔月様、ありがとうございました。

 

 

 

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