■1■「ヒッタイト」は西暦19世紀の造語

 フランス人のシャルル・テクシェがトルコの大地を旅行しました。1839年に「小アジア記」を出版し、ボアズカレ町の外に残る遺跡の白黒のスケッチを載せます。由来も呼び名も不明のまま、重要な都市遺跡があると知れ渡りました。

 50年後、イギリス人のセイスが、小アジアの東部からシリアにかけて、広範囲に散見される岩壁浮彫をとらえ直します。ギリシア・ローマ様式ではなく、アジア的であると把握します。岩壁浮彫にはある程度の均一な様式と、判読不明の象形文字があり、1つの文化圏の中で刻まれたものだと考えます。その文化圏には、名前がありません。そこでセイスは、この文化圏の候補名として、エジプトの文書に刻まれた「ヘタ」と、旧約聖書に印された「ヒッティム」を思い浮かべます。そして、「ヒッタイト」という新語を造ります。「ヒッタイト文化圏」の想定される中心地は北シリアのどこかであり、「小アジア記」に記されたボアズカレ町の郊外の遺跡は「ヒッタイト文化圏」の辺境に位置するはずだと考えました。

 したがいまして、今日の私たちが呼ぶ「ヒッタイト帝国」とは、当の「ヒッタイト人」が自称していた国名ではありません。紀元前16〜紀元前13世紀の粘土板から、彼らは自らを「ハッティ人」と呼び、首都名と国名を「ハットゥシャ」と呼んでいた、と推測されています。

 以下に、固有名詞を整理しておきます。

   ●ボアズカレ(=19世紀のボアズキョイ)……現在の都市名。ハットゥシャ遺跡とヤズルカヤ遺跡を含みます。
   ●ハットゥシャ(=ハットゥシャシュ)……ヒッタイト帝国の国名と首都名の自称(推測)、及び遺跡名。
   ●ハットゥシ……前1700年頃以前の、ハットゥシャの古名(推測)。
   ●ハッティ……ヒッタイト帝国人の自称(推測)、及び現代の英語国名。
   ●ヒッタイト……1884年頃のイギリス人のセイスの造語。
   ●ヤズルカヤ……ハットゥシャ郊外にあるヒッタイト帝国の岩神殿の遺跡名。
   ●ビユックカレ……大城塞という意味。
   ●アラジャホユック……ヒッタイト帝国の第2の都市の遺跡名。
   ●フルリ人……ミタンニ王国の人々。