七面鳥、横切る

(粗筋) 27歳の阿部茂をリンダが不穏に訪問する。茂は東京の街を歩きながら、リンダが話す草自動車レースのその後に驚き、彼女の行動の不可解さにも動揺する。ジャズ喫茶の友人が落死した山梨へ向かい、フリー・ジャズ演奏家が滞在する盛岡へ出向き、五年勤めている商社での仕事とリンダに繋がる新しい生活の分岐点にいるのを自覚する。見知らぬ客のオールド・ターキー、冷凍された丸裸の七面鳥、自由即興演奏の中の七面鳥が、茂を摩天楼の靄に誘い込む。
 完全版は原稿用紙251枚です。

 あなたは珍しい生きものよという囁きは、思い出のはずだった。実家から転送された航空便に、そちらの二月は寒いですかと書かれてあった。いつ来日するのか、仕事か休暇かと手紙を出した。返事の来ないまま、三月になった。
 小さなアパートや民家の間の狭い一方通行をくねりながら歩いていくと、ゆったりした二車線道路に出る。中央分離帯が低い煉瓦の壁になっていて、そこにさつきが植えられてある。この道は京王線下高井戸駅と私大を結び、昼間は広い歩道を大勢の大学生が行き来する。球形のフードをかぶせた街灯が目立つ時間になると、コンビニやドーナツ屋のある駅から離れたこのあたりにはほとんど人通りがなかった。
 八階建てのマンションの一階が五つの店舗になっていた。左隣のブティックでは今は防犯灯が洋服の影絵をつくり、右側のスポーツ店は倉庫がわりに使われているらしかった。メインストリームの広い窓からほの暗い通りに透明な光りが斜めにさしていた。この店に車で来る人は少なくて、アルメニンZと書かれた白いカローラは村越がいることを知らせた。隣の濃紺のベンツで来てるのは権藤のはずだ。黄色いプレリュードで蓮田麗子が権藤を乗せてくることもある。私も車を持っているがアパートの裏に置いたままだった。面とりガラスの向こうに、いつもの連中がカウンターに集まっているのが見えた。
 ドアを開けると風除室があり、公衆電話と傘立てが置かれてある。二つ目のドアを引いて入った。いらっしゃいと、カウンターの中のマスターが言った。見知った顔がこちらを振り返って笑顔になった。デューク・エリントンが低くスイングしていた。接待で行くゴルフ場や料亭とは逆に、ここに来ると一晩得した気分になれた。
 マスターはジャズ喫茶を含む賃貸マンションの持ち主で、入居者の出入りや家賃は権藤の不動産屋が管理していた。昼間はビッグバンドのジャズが流れる喫茶店として大学生がよく入っていた。
 他に客はいなかった。カウンターには四人しか腰掛けられないので私は村越の座っているテーブル席についた。この高さから外を眺めると路面は見えず、さつきの並びが垣根に見えた。私は水割りを頼んだ。
「これだよ、これ」と、村越がカウンターに顔を上げた。「会社と家の途中にあるのがメインの唯一の欠点なんだ。自動車通勤の俺だけがビールを呑めない」
 結婚前の彼はここで酒を呑み、よく私のアパートへ泊まっていった。結婚後はコーヒーを飲んで多摩へ帰っていく。
「あーら。お家にかわいい咲子さんがお待ちになってるからでしょう」と、一年前から権藤に連れられて来るようになった麗子がからかった。貴金属と紺や黒の服との組み合わせには水商売のにおいがあった。一言口に出すと、その場をクラブとか寝室の雰囲気に変えた。彼女ほど巧みに男を誘える女はいないように私には感じられた。変な例えだが、とろろ蕎麦をすすってくれるように受け入れてもらえそうだった。
 それが権藤の好みなのだろう。自慢気に語ったところによれば、バーで働いていた麗子の身の上話を聞いて自分だけがこの女を救ってやれると確信したらしい。マンションに囲っているが同居はしていないようだから、権藤は内縁の通い夫になる。
「ねえねえ、どうしてわたしを披露宴に呼んでくれなかったの。阿部さんには司会、頼んだのに」と翔子がストゥールから半身になった。一度コンサートへ誘った。プロの仕事を聞きながら隣の翔子の髪の香りをかいでいた。どんなシャンプーだろうかと思ったが、その後は何もない。ペアの待遇を求められるのは心地良さから迷惑に変わりつつあった。
「きみが眼鏡をかけると約束しなかったからだよ。乾杯のシャンペン・グラスに煙草が浮いちゃうとひんしゅく買うからさ」
「やだ。謝ったでしょ。阿部さん、根に持つほうなのね」
 眼鏡を嫌いでコンタクトが目に合わない翔子が私のコーヒー・カップに煙草の灰を落としたのが半年ぐらい前で、その時から言葉を交わすようになった。
 権藤と二人だけの時に、麗子さんはきれいだ、大人の女を感じます、苦労を表に出さないのが素晴らしいとリップ・サービスした。ああ、二度中絶して子宮をいじってるから妊娠は無理らしい、俺は子供は絶対要らないと言ってある。
 一緒になるんですか。
 今はいっしょさ。それよりあの娘とは。
 誰ですか。
 知ってるんだぜ、一緒にコンサートへ行ったの。
 友だちです。
 やっちまったんだろ。
 そうなら友だちなんて呼びません。
 翔子がストゥールの上でこころもち麗子の方へ小さな尻をずらした。マスターと話している黒田がカウンターへ身を乗り出したからだ。わたし、あの人嫌い。こんな言い方いいのかな、あのね、黒田さんのパンツ汚れてるようなカンジで。
「でも、一つのセッションの曲が何枚ものLPとかCDに分れて入ってるのがあるでしょう。カセットに入れ直さなくちゃわからないと思うんだけど。演奏順に」
「うーん、そこまではね」
「でも、いくらかでもジャズを歴史の流れの中で聞こうと思ったら、このLPが出版されたっていう、レコード会社の都合でこっちが聴くんじゃなくて――」
 カウンターで唾を飛ばしている黒田とは私はほとんど話しをしたことがない。マスターによれば、十年も常連で郵便局に勤めていて独身だった。
「つまり、それはレコード会社の都合で、それからLPの収録時間の技術的な問題でそうなっただけですよね。だから――」
 権藤がぬっと入った。
「黒田さん、まだカセットなんか使ってるの。俺は何年前かな、とっくにMDに替えちゃったぜ」
 黒田はむっつりと黙った。
「あ、ステレオって言えば新しいCDプレーヤー買ったよ。モルフォーゼから出たばっかりのセパレートのやつ。なかなかいいよ」
 誰もコメントしなかった。
「うっかりしてました。ちょうどいい。皆さんにプレゼントがあるんですよ」
 マスターがレジから何かを取り出し、カウンターの上で一人ずつ配った。黒田が残りをこちらに手渡した。コンサートのチケットだった。
「あー、びっくりした。お金くれるのかと思った」と翔子が自分で笑った。「そんなはずないわよねえ」
「これ、誰ですか」と村越が顔を上げた。製薬会社のプロパーで、向こうは薬学へ行ったから大学は違ったが私とは高校時代からの友人だった。就職試験の直前にメタル・フレームから黒縁の眼鏡に変えた。
「ヴァンギー・ブルームっていう、フリーでは有名な人らしいですよ」
「マスター、知らないんですか」
 うなづいた。「最初はね――」
「あー、ここ変だ。メインストリームってハンコ押してある」
「そうなんです。もともとフリーエイジでやるはずだったんだけど、火事になったでしょ。復旧ついでにエレベーターとか空調とかも改修することになったんですって。いまさらキャンセルできないから店を貸してくれって頼まれて。残った六枚のチケット、サービスするからって。うちのお客じゃ買ってくれるはずはないから、皆さんに差し上げましょう」
「わあ、もうかった」と翔子。
 権藤が言った。「期待しないほうがいいかもよ、翔子ちゃん。フリーだと聴くに耐えないのが多いからな。マスター、この人のCDあるかい」
「一枚も」
「どんなフリーなんですか」と村越。
 笑った。「一度聞きましたが、口ではとても言えません」
 村越がきいた。「それで、俺たちはどんな手伝いすればいいんですか」
「さすが、村越さん。簡単なことですよ。テーブルとパーティッションを裏の駐車場へ運び出して、椅子を並べ替えてチケットのもぎりをやって、終わったらまた運び入れるだけでいいんです」
 私はカウンターの向こうの棚のワイルド・ターキーを眺めていた。二週間前からそこにあった。
「なーんだ、アルバイトなのか」と、翔子が言った。
 私は週に一、二回来ているが呑み手に会ったことがない。時折、中身が減っていた。
 麗子が笑って何か言って、権藤がどうのこうのとつけ足して――。
 生徒用の駐車場の向こう隅で白い車がエンジン音を立てていた。行ってみると、ボンネットを立てて上半身を突っ込んだバズが真横に伸ばした左手の親指を横に向けていた。手首を捻りながら徐々にその指を立てていった。エンジンの回転がゆっくりと上がり、急に激しく吠え上がった。バズが上体をエンジン・ルームから引っこ抜き、運転席に怒鳴った。チャーリーがいた。私に気づいたバズが車体からはみ出たタイヤを叩いて、こいつでやってやるぜとか何とか言った。門外漢の私にも、新品のそれは粘り強く頼もしそうに見えた。
「阿部、何見てんだ」と村越がきいた。
「いや。いつだい、コンサートは」
「来週の九日です、火曜日の七時半から」と、マスターが答えた。

 チケットをデスク・マットにはさみ、ガラス戸に歩いた。歩道から見上げればマンションの七階の、中に入れば1Kの風呂付きアパートは築二十年を過ぎているが、しっかりした二重サッシが長所だった。
 新卒で入社して五年たっていた。海外部門の業績を睨みながら支店長たちの首のすげ替えに影響力を持ち、視察で日本を訪れる外国人の接待もする営業部海外課で課長補佐の地位にいた。十年前の留学で学んだ英会話力が大いに仕事を助けていた。
 長年ロサンゼルスに単身赴任した河合課長から見合いをほのめかされていた。そろそろ身を固めさせられ一、二年の内に海外勤務に出される。五、六年で戻り、次は海外支店の副支店長となるのが営業部海外課のレールだった。切れる上司に引き上げられ親戚のお嬢さんと見合い結婚、向こうの支援で土地付き住宅と、ひた走ることになる。周りがセット・アップしてくれた中で仕事をこなしているだけなのに結構な話だった。同時に自力で勝ち取ってきたとはまるで感じられなかった。
 阿部さんていいとこにお勤めなんですねと麗子が言っていた。わたし、全然わからなかったわ。
 お褒めの言葉なのかどうか判断しかねた。水商売の世界にいた彼女が一流といわれる商社の社員が何をやっているか知らないはずはなかった。
 例えばこんなことだ。経常利益を調べて搾れる金額を計算しておき、他所からは実現しない値段の見積りを出させてある。呼び付けられて、エアコンも入っていない旧型のライトバンを運転して納入業者の社長が作業服でやってくる。三十二、三の係長が相談する。これこれの製品の見積りで別のところからこれだけ安く打診されている。取引の長いおたくから購入したいが、それだけの経営努力をしていただけますね。笑みを絶やすまいとして六十過ぎの顔面が硬直していた。
 私は奥のガラス戸へ歩み寄りベランダ越しに外を眺めた。
 このマンションの足許から百メートルぐらいは二階建ての住宅が広がり、その先に集合住宅が並んでいた。建築中の一棟をおおっていたネットが今日は外されエンジ色の外壁を見せていた。
 初めて新宿の高層ビルに登ったのは目をしかめさせられるような晴れ渡った朝だった。視野いっぱいに建築物が密集していた。広すぎて、すべての建物やそこで生きる人々の把握を諦めさせた。延々と続く屋根の影には無数の道路があった。
 東京では街とは通りのことだった。一つ向こうの通りに入ると街の表情が変わる。田舎に帰ると阿部さんちの長男以外の誰でもないが、ここではあそこの通りとこちらの路地では違う顔を装えた。暗黙の諒解だった。しかし少なくとも私の場合には装って他者を排除する快感と素顔を気に入られたい欲求のせめぎ合いが仮面の不透明さを変化させた。
 部屋の照明を消した。さっきよりたくさんの明かりが夜に浮かんだ。その分闇の暗さが増した。
 あそこにはほとんど明かりがなかった。真っ暗な山道で二台の車が疾走していた。勝った負けたで終わればどちらでもいい遊びのはずだった。
 噂は聞いていた。バズが三連勝の勢いで四人目の挑戦を受けた。今度の相手はすごいエンジンの車を持ち込んでくるらしく、バズはカーブの連続するレース前半でよほどリードしていなければ後半の車線変更禁止の直線で抜かれてしまうということだった。
 駐車場からスクール・バス乗り場へ戻ってジェイクに頼んだ、応援に行くんだろ、俺を拾ってくれないか。その時の言葉を今でも覚えている。くだらないとジェイクは言い切った。ああいうのはもう勘弁させてもらう。シゲル、他のやつに頼みな。
 卒業式を翌月に控えてのんびりした五月の午後だった。六月は帰国の時だった。その前のちょっとしたアメリカ的なトピックを見逃す手はないと思った。
 高校三年生として中途入学した私は特例でどんな科目でも選択できた。時間割りの都合で二年生のクラスが多かった。私が一年滞在した二千五百人程度の町が三つ集まって一つの学校を持っていたので、生徒たちは十二年間の同級生となる。季節ごとのスポーツ・チームも毎年同じようなメンバーで構成された。春のテニス・チームに残れたメンバーの中でバズは例外だった。極端なスラングで罵ったり露骨に反抗的な態度をとるわけではなかったが、親分子分の人間関係を作ったのは彼だけだった。高校二年までの十一年間の流れで昼食の同じテーブルについているのだろうと私は想像した。
 一度だけあの酒を呑んだ。三次会か四次会のワン・ショット・バーで学生仲間が勝手に注文した。勢いで呑みほした。数秒後に店の外へ飛び出して喉を軋らせて吐いた記憶がある。
 レコード棚でヴァンギー・ブルームのCDが見つかった。ソロではなくグループの一員として演奏していた。聴いて笑ってしまった。体力勝負の音楽で人様に披露できる代物ではまるでなかった。

「あれは音楽じゃないぜ」と権藤が断定した。
「じゃ、何なの」と翔子がきいた。
「騒音だ、あんなの」
「ちょっと面白いとこもあったけど」
「でもひどかったわよ、あれは」と、麗子が権藤をもちろんフォローした。
 カウンターの向こうを向いたままの黒田は黙ってコーヒーをすすった。
「うーん、阿部さんは聞いた?」
「ホーランド・ユニティ・一九九二ってやつ、聞いたよ」
「どうだった」
「まあ、ずいぶんエネルギッシュな演奏だったね。電圧が高いって印象だった。権藤さんは何を聴いたんですか」
「ソロ・イン・アムステルダム。CD丸々一枚、延々とわけのわからんメチャクチャやってた」
「七十五分間ずっと一曲一人で吹きっぱなしですか」
「いや、三曲ぐらいだけど全部メチャメチャだから同じだよ、どれ聞いても」
 黒田が鼻で笑った。権藤が鋭い視線を走らせた。
「本当にアルト・サックスなのかい。わざとすっとんきょうな音ばっかり出して。何を考えてるのかね」
「そうかなあ」と翔子は力がない。「マスターはどう思います」
 村越が言った。「翔子ちゃん、ルール違反だよ。政治とひいきの話は客の前ではやらないもんだ。好みはそれぞれだから売上を減らすことはないさ」
 声を出さずに笑っているマスターの後ろに例の瓶がまだあった。一昨日より一センチ半、減っていた。昨日来れば、その客に会えたかもしれない。
 誇るべきものが何もないという扱いを受けていたチャーリーは名前も縮められてチャズと呼ばれていた。黒い髪と小造りな顔がいつも湿り気を帯びていて濡れ鼠とも呼ばれた。一方のバズは白黒フィルム時代のロックンローラーのイメージを大切にしていた。少しでも暖かい日があるとTシャツの半袖をまくって煙草のパックをはさんだ。時折ささくれだつボスがバズであり、チャーリーは小心者の子分だった。ハンバーガーをいつまでも口の中で噛みこねているチャーリーが誰かに馬鹿にされると、バズはかばった。一方、あれしろこれをやれと命令し、うまくできないチャーリーを怒鳴りながらもその日帰るまで引っ張っていくのもバズだった。そういう二人の関係は今でも当時でも私が受け入れられる性質のものではなかった。ただ、チャーリーにすれば対等に付き合ってくれる友人はなく、したがってバズの後ろにいれば彼が他へ向ける針のような視線で保護される安心感を感じていたのかもしれない。四月初めに正選手と補欠を振り分ける校内予選で二人が試合した。途中からポイントをコールしなくなった。誰かがバズが負けてるぜと言った。数人がコートに集まった。その中でイージーミスを重ねたチャーリーが逆転負けした。
「阿部、欲しいんならボトル・キープしろよ」と村越が言った。
「いや、そんなんじゃないんだ。あんな強いのはとても呑めないよ」
「どれ」と、翔子が目を細めて捜した。
「上から三段目の、右から二、四、五本目、ワイルド・ターキーって書かれてあるやつだ。古くさいラベルで尻尾がはみ出てる」
「ふーん」
 私は翔子が誤解して、贈り物にしないように願った。
「ねえねえ、ターキーって七面鳥でしょ。尻尾の毛のきれいな鳥だっけ」
 村越が言った。「翔子ちゃん、それは尾長鳥だよ」
「何を言ってる。馬鹿だな。そりゃくじゃくだ」と権藤。
「くじゃくってどんな字、書きましたっけね」
 権藤は答えない。
「きれいな鳥よね」と麗子が言った。
 いや、どちらかと言えばグロテスクなはずだ。
「まるで麗子さんみたいに」
 村越の皮肉とも私には受け取れた。
「そんなふうに言われたら困っちゃうわ」
 村越が翔子に向き直った。
「体でかいだろ。低い声で鳴く。ゲッ、ゲッ、ゲッて」
「キャハハ、それ蛙よ」
「ほんとうはクリスマスに食べられちまう哀しいやつさ」
 翔子は笑うつもりであけた口をぽかんとさせた。
「飛べないんだよな、鳥のくせに」
「歩くだけ」
「だったと思う。人間でも――、まあ言うまい。マスター、コンサートは九日でしたっけ」
「そうです」
「開演が七時半ですよね。五時頃まで来れば間に合いますか」
「助かります。店は四時にいったん閉めますから」
「模様替えはどんなふうに」
「演奏はこのカウンターの正面の壁のところでやってもらいます」
 みんなが背後に振り向いた。
「店の奥でなく」
「そうです。ですから椅子を窓際とここの前と奥の壁の前に並べて。真ん中は座りになりますね。工事用のシート借りてきますから」
「椅子の上のクッションを座布団代わりにしますか」
「それしかないでしょう」
「何人来るんですか」
「五十人ぐらいだそうです」
 私が言った。「じゃ、メインストリーム始まって以来の超満員じゃないですか」
 マスターが笑った。「他所様のコンサートでいっぱいになるなんて喜んでいいものだか悪いもんだか」
 この頃感じるんですがメインは、特にカウンターで話をしてると東京という気がしないんです。
 阿部さんも今日みたいに来て一人の時は学生さんたちと話したいなんて思わないでしょ。
 ええ。
 常連さんが何人いても皆さん別々なんです。一人一人の生活がありますから。でもたまに何人かに接点ができるとその人たちの世界ができますから、ここが千葉でも横浜でも関係なくなるようですよ。
 いづれ、ずれてきますか。
 利害関係がないですからね。
 黒田が申し訳なさそうに言った。「すみません、僕、火曜日は六時まで仕事なんです」
「郵便局員はずいぶん働くんだな」と権藤が言った。
「電報部の当番なんです。後始末やりますから」
「お願いします。力仕事は男性にやってもらうとして、チケットのもぎりとCDとカセットの即日販売は女性のお二人に頼みたいんですが」
「ええ、お手伝いさせていただきますわ」と麗子が答えた。
「売店も開くんですか」と村越がきいた。
「あの人たちの生活も楽ではないようですから」
 チケットは四千円だった。二十日間やるとして約四百万。そこから宿代と交通費と航空券とプロモーターの取り分とポスター代、通信費などを引いて、この演奏家はいくら家に持ち帰れるのだろうかと心配した。

 アパートに帰り、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
 シシイがいつからバズと付き合いだしたのかは覚えていない。レースの少し前あたりから登下校の送り迎えを始めたような、ぼんやりした記憶がある。たぶん、チャーリーの振る舞いにぎこちなさが見え始めたのもその頃だったような気がする。彼女が入り込んで自分とバズが遠くなったからだと思った。そしてちょっと前にバズが運転する車でシシイが怪我をしてチャーリーが腕を折る衝突事故もあった。
 あの夜のシシイはよく覚えている。とても小柄で顔が小さく、車のライトに暗い銀髪のポニー・テールが似合っていた。下品でなまいきな言葉使いが直されれば西部劇の牧場主の娘にぴったりだった。立派な二車線の国道一一三号線から右に枝分れするように、ざらついた舗装の旧一一三が真っ暗な山に消えていた。丸太のバリケードをみんなで持ち上げた。四台か五台の車を通し丸太を戻して、急な坂を登っていった。
 スタート地点は尾根を削ったゆるやかなカーブで、右の山側は切りたっており左の谷側は夜空そのものだった。ずっと向こうのはるか下に遠く、外灯がともる長い橋が見えた。誰かが、あそこは大雨で沼になる湿地帯だ、このオールド・ワン・サーティーンで事故が頻発するまでは橋を架けようなんて誰も言い出さなかったと教えてくれた。星のない、春の空気が湿った夜だった。廃棄されて何年もたつ旧一一三はアスファルトがひび割れ雑草が生えていた。車のライトに照らされたガードレールは埃を被り接触の跡が補修されず、支えている柱の根本に錆がまわっていた。バズの車と相手の車を残し、私たちは分乗してゴールに向かった。確か、相手の友だちも二、三人、別の車で来ていたから、こちらはテニス・チームの誰か、思い出せない、その誰かが私をミスタ・デイヴィッドスンの家から拾ってくれたはずで、二台か三台でゆっくりと走った。
 車は雑草をなぎ倒しながら右へ急カーブを切り、短い直線で体勢を直したかと思うとすぐ左へ曲がった。その組み合わせが数え切れないほど連続し、曲がりの緩急と直線の長さがそのたびに違った。道を下って、古くて狭い橋を通った。オールド・ストーン・ブリッジが中間点だと誰かが言った。橋を渡る時に助手席から頭をそらせて左下を見た。あっちがニュー・ストーンだねときくと、頭いいねと、そうだ、ブライアンが言った。体の大きなブライアンが運転していた。はるかかなたの国道に走っている車のライトがかすかに見えた。あっちが見えるんならこっちも見られるんじゃないか、そんな意味のことをきいた。さっさと勝ってさっと引き上げるのさとブライアンがそんな意味のことを言った。
 橋を過ぎると道はほとんどまっすぐだった。しばらく緩やかな登りがあって、なだらかな下りがずいぶん長かった。急な登りがライトに入った時、前の車に続いてブライアンは道路の左側の狭い空き地に車を乗り入れた。切り通すはずの尾根の出っ張りを平らに削って、工事車輌の駐車場に使っていたのかもしれない。ここがゴールだった。
 遠く、スタート地点で待つ二台のライトが一つに見えた。こちらは二台ともそちらへ頭を向けて駐車した。みんな外へ出た。競走相手の友だちがボンネットの上に座った。チャーリーの車のヘッドライトだけを点けて他は消した。エンジンも止めた。静まり返っていた。向こうのエンジン音はまったく聞こえてこない。湿った風がひんやりした。さあ、始めようぜとブライアンが双眼鏡をかかげた。チャーリーは運転席に腕を突っ込み、ヘッドライトをゆっくりと三回点滅させた。イエーッと誰かが押し殺したように叫んだ。遠いライトがふっと消えた。スタート直後のカーブを曲がり最初のヘアピンへ飛び込んで行ったのだと思った。
 電話が鳴った。時計を見ると、十一時半に近かった。
「ハロー、シッグ」
 声を聞いた途端、私は受話器に吸い込まれた。
「リンダ」
「そう、元気」
「ああ、きみは」
「元気よ」
「今日、日本に着いたの」
「三、四日前かな」
「仕事で来たのかい」
「ええ。ジェイクは覚えてる? ジェイク・マクデイド」
「もちろん」
「彼は今ニューヨークに住んでて一度会ったわ」
「何をやってるんだい、弁護士かい」
「そうよ。まだ独立はしてないけど。知ってたの」
「いや、高校の時弁護士になりたいって言ってたから。きみはどんな仕事で」
「広告関係よ。休暇で来てるの。近いうちにあなたのお宅を訪問してもいいかしら。一人で住んでるの? おじゃまじゃないかしら」
「一人だよ。歓迎するよ、いつでも」
「また連絡するわ。じゃあ」
 こちらを待たずに電話を切った。受話器を握り過ぎて右肩が痛かった。不可解さはあの頃のそれに似ていた。間違いなくリンダ本人だと思った。
 押し入れの奥の段ボールから卒業アルバムを引っ張り出した。冬に転校したリンダは一枚も写っていないが、表紙を開くと夕暮れの校舎が載っていた。校舎の右端に三階ぐらいの高さの体育館が建ち、その前にバス・プールがあり、もっと右に生徒用の駐車場があった。左端には大きな会議場が写っている。その二つの高い建物を結ぶように一階だけの教室が並び、写真には写っていない廊下の向こう側の中央にカウンセラー室があった。
 通いだして二、三か月たち、体育の時に着替えを入れるロッカーに南京錠がかけられる嫌がらせを受けた。犯人のめぼしがつき、問い詰めるためにそいつら二人の時間割りを知る必要があった。
 カウンセラーは不在で、金髪をヘアバンドで押さえた若い女性がいた。その女性を夜のフットボール場で眺めたことがあったし、聞いてもいた。学校が九月に始まってすぐフットボールのホームカミング・ゲームのクイーンの投票があり、ホームルームで誰かが来たばかりの私にリンダ・パーヴィンスという名前を薦めた。別の一人が男と家出した女だぜと言った。それでも女王に選ばれた。
 リンダとの初めての会話の細かいところは忘れてしまったが、見せる権限のない人に見せてはいけないものを見させてもらう緊張感は覚えている。幾つかの英単語を思いつけなかったことと彼女が非協力的だったことで話しは進まなかった。やっと彼女はカウンセラーの仕事を手伝っているだけだとわかってから、私は頼み込んだ。きみに頼めて僕は幸せだ。どうしてわたしなの。僕が想像するにきみは質問抜きでやってくれそうな気がするからです。
 彼女が事情を知っていたはずはない。面白そうだと感じたのかもしれないが、気が向いただけなのかもしれない。黙ってファイル・ロッカーを開けてくれた。私は彼女の顎から耳へかけての線に見とれた。額から髪の生えぎわの清楚な柔らかさに惹きつけられた。大きな目玉の青に近い緑色の瞳が私を観察しているようだった。早々に引き上げて計画を練り直した。
 カウンセラー室での稚拙な会話力ではとても犯人を問い詰められそうになかった。そこで最初から最後まで何があったかを慎重に時間をかけて知ろうとする第三者を引っ張り込むことにした。
 三百人が昼食を食べているカフェテリアで、そいつの前に行き練習した台詞を大声でまくしたてた。興奮して飛びかかってきたあいつの腕をつかみ腰を払い上げて壁に投げつけた。衝撃で外れた大きな時計のガラスが床で割れた。生徒たちが騒然となった。
 学校側が事情を聞き、そいつらと私は一週間の停学になり、私は嫌がらせから開放された。私は自分を褒めた。だから、リンダがスクール・バスを待っていた私を赤いスポーツカーで家に送ったのもデートに誘ったのも、困難な障害を自力で解決したからだと私は思い込んだ。向こうには向こうの理由があるとは思いつきもしなかった。

 エア・コンディッショニングの効いたオフィスで取り組んでいる仕事は海外セールスマンが流した汗をどのようにして数字化するかということだった。これまでは個人の販売金額と支店長による勤務評定しかなかった。完璧な社員を望めぬように完全な支店長もありえず、ほかの物差しが求められた。
 販売成績に影響する事項をまず上げてみた。その国の国民総生産の伸縮、競合商社の盛衰、支店長の優劣、前任者の影響、従来商品と新規取り扱い商品の比率、セールスマンの滞在期間、本社の販売戦略の変化、また数字化しにくい要素としては家族の対応、社会環境についての個人の向き不向き。数字の参照先と重要度、加減乗除の式の設定。
 人事課とも相談できればいいが、それは部課長会議の議題となるから私の仕事は叩き台となる原案を制作することだけだった。
 理屈はつけられるもので、これまでの尺度では計りきれなかった優秀なセールスマンを浮かび上がらせることができる計量基準を作っていると自分に納得させていた。

 やらなくてもいい本棚の整理をしているうちに電話が鳴った。
「もしもし」
「ハロー、ミスタ・アベ」
「イエス、リンダ」
 十一時十三分。今夜も遅い時間だった。
「もう眠ってた? 起こさなかった」
「起きてたよ。きみから電話が来るんじゃないかと胸騒ぎがして」
「――」
「――」
「あれから学校生活、楽しんだ」
「テニス・シーズンが面白かった。ジェイクは何か言ってなかったかい」

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「初めの12,000文字」版の終わりです。よろしければ、「完全版」をご注文下さい。