きらめく星粒

(粗筋) 夏の北海道を宿無しサイクリングする大学生の自転車に、盗品のダイヤが隠された。昆布漁のアルバイトをし、旅行者と触れあい、景色の風を日記につけながら気ままに旅する速水芳男を、仙台から呼び寄せられた社会人グループと独立心旺盛の女子高生の京子が四台の車で追う。互いに探り合い、自転車対自動車のアクションと勝ち気な京子の気持ちの揺れが決戦の二重火山で炸裂する。
 完全版は原稿用紙228枚です。

 フェリーの斜板が開き、車両甲板に北海道の光と風が吹き込んだ。
 速水は襟裳岬への道を走った。チェーンの音が軽やかに風に溶けた。手の平がドロップ・ハンドルに吸いつき、ペダルを踏む足がアスファルトを感じている。血が体の隅々まで穏やかに流れていた。風が胸元に触れていく。左に太陽をきらめかせる海が広がり、右手に山が連なり、整備された国道が緩やかに伸びていた。
 九州や北陸も考えたが、ここで良かった。アパートのある世田谷で試走した時は、道路の段差や駐車している車に気を取られてフラストレーションが溜まるばかりだった。都市を避けて東半分を回る計画を立てた。この道は路肩が広く、追い上げてくる自動車が気にならない。路上駐車もなく通行人もほとんどいなかった。
 ペダルが頂点を過ぎたあたりで少しだけ、脚を踏み込む。汗を吸い取っていく風と路面を噛むタイヤの他は抵抗を感じない。ちょっと山へ入れば牧場や競馬に関する観光施設があるのだが、不足を感じない。
 速水は砂利の浜が広がる田舎町で、歩いているおばさんにテントを張っていいかときいた。そっちならいいと言われたが、あっちもそっちも同じ砂利で区別がつかなかった。
 ガスに火をつけ、水筒の水でインスタント・コーヒーを作った。挑戦した飯盒での飯炊きは固いけど食べられるという点で成功した。缶詰の焼き肉を暖めたら、歯の頑丈さが試された。取り説を読みながらテントを立てた。直径二、三センチの石が深くまで敷きつめられてありペグが打てない。テントの端に小石を盛った。太平洋が目の前に広がっていた。穏やかに砕ける波が左右にそして左へと移っていた。
 早朝に人の声で目が覚めた。テントから顔を出すと、昨日のおばさんがにこにこしながら寄ってきた。
「あんちゃん、アルバイトしねえがい」
 速水は苦笑いしてうなづいた。
 数十メートル先で、小舟に立った男たちが昆布を引き上げていた。波打ち際に上げられたそれを速水たちが背負い、引きずって砂利に並べた。半日干されて幅が四分の一に縮む。コンビニで売ってる日高昆布の正体が分かった。速水の干したそれが短く畳まれてパックされ棚に並ぶ。一人暮らしのOLが買い、おいしい出汁を取る。この素晴らしい昆布を乾かしたのはどんなに素敵な人かと思いを馳せる。夕方に作業小屋に引き入れた。
「明日もどうっしゃ」
「はい」
「んで、家で寝れ。夕飯も食え」
「はい」
 大きすぎてホタテとは思いつかなかった白い刺身と山盛りの漬け物が振る舞われ、ペットボトルの三五度の焼酎が回された。訛が爺さんの東北弁そっくりだった。子供は男四の女三で成人している。男の上二人は商業高校を出て、下の二人は工業高校を卒業して、後継者はいない。
 作業小屋には昆布の香りがつまっていた。一メートル五センチに切るのには手を出させてもらえなかった。そこの二階で昼寝をしていると、速水君と大声で呼ばれた。にわか雨が降っていた。砂利浜の至る所で人が昆布を引きずっていた。すべてを作業小屋に引き入れた。すぐに雨が上がり、また引き出した。砂利は完全に乾いていた。二度目の雨が来れば同じ作業を繰り返すはずで、これでは浜から離れられないとわかった。二日目の晩もご馳走を振る舞われた。馴れると量は半分でいいと感じた。きつい焼酎の代わりに少しのワインと食後のコーヒーが欲しくなった。
 
 襟裳岬をターンすると、ペダルが重くなった。前輪のバッグが風を受けている。これまでは背中を押してくれていたのだ。
 黄金道路の砂利道を過ぎると、前のタイヤが潰れた。速水は路肩に尻をつけてチューブを引き出した。本のうろ覚え通りに取り組んだが、穴が見つからない。
「パンクしたんか」と柔らかい声がした。見知らぬ自転車乗りが止まっていた。
「ええ」
「砂利だとなるんよね」
 関西弁の男は速水の手元を見るともなしに見ていた。
「こないな事きいて悪いんやけど、パンク修理したことあるんかい」
 速水は苦笑いした。
「生まれて初めて」
「もっとチューブ膨らませな。かしてくれ」
 細い腕で空気入れを使った。
「バラスに噛まれると二、三カ所空いてる時が多いんや。ほら、ここに小さいけどもう一つあるやろ」
 ちょっとしたゴムの毛羽立ちみたいだった。
「釘とかだと一カ所やけど」
 ヤスリでこすり糊を塗り、ゴム板の角を丁寧に切り落とした。
「もうちょっと乾くの待ってやな」
 手慣れていた。速水は彼のを見た。テントが見あたらないし、後輪のバッグもしぼんでいる。
「どのぐらいツーリングしてるんですか」
「半年やな」
「半年」と思わずきき返した。
 細身の男が笑った。
「みんな驚くんよ。仕掛けは何てことないんやけど。一日二千円で生活して、金がなくなったら旅館とかパチンコ屋とかで住み込みするんや」
 速水はこれが生活とは考えていなかった。
「あんたは何日目や」
「三日目です」
 男がうなずいた。
「寝るのはテントですか」
「持ってないんよ」
「ユースですか。でも二千円で泊まれますか」
「ユースにはしばらく泊まっとらんな。これでええやろ」とチューブの空気を少し抜いてタイヤへ戻した。
「じゃ、どんなとこなんですか」
「バス停小屋や。無人駅とか公民館の軒先やな。日本は無人島やないからテント要らんのよ」
「食事は。テントのとこで火を起こさないと」
「わいもな、初めの頃はキャンプしてたんやけど、今は全部外食や。昼のうちに朝のパンとジュース買おて、あとは食堂や。コッフェルも何も要らんようになって軽ろうなる」
「あのう、一日二日いっしょにツーリングしてかまいませんか」
「かまわんよ」
「修理、助かりました」
 二人で併走した。
「にいちゃん、学生か」
「そや」
 二人で笑った。
「やっぱしな」
「関西弁の、ツーリングのベテランは」
「何を隠そう、無職や」
 二人でまた笑った。
 大阪からの男は郵便局を見つけて入っていった。
「こないすると、通った町が通帳に残るんや」
 銭湯へ入り、雑貨屋の前で停まった。
「あんな、田舎ほど配達が毎日やないから、パンに黴、気いつけて買うてな」
 国道沿いに一坪ほどの建物があった。時刻表がぽつんと立っている。
「バス停小屋ってこれですね」
「そうや」と数字を読んだ。「最終が行っとらん。明るいから走ろう」
 薄暗くなりかけてから、関西弁の男が停まった。国道からの未舗装道路の雑草が太い轍でつぶされていた。その先に資材置き場が建っている。水道管が一本地面から突き出ていた。
「こういうとこは昼間しか人が出入りせん」
 ドアに鍵がかかっていなかった。中は掃除が行き届き、様々な太さや形のエンビのパイプが整頓されてあった。
「こんなええとこ、めったにないわ」
 ドアを閉めた。動かない空気に気が静まった。
「なんも動かさんといて。ごみは全部持って出て駅でほかす。人が入った跡は残さんようにしてや」
 なるほど、知恵に満ちた生活と呼べないことはないと速水は思った。

 スニーカーは音を立てないけど、京子は固い歩道にヒールを響かせている気分だった。夜の街路が好きだった。バイト先のハンバーガー店を出て、家の方へ歩いた。再開発された仙台駅の東側はオフィス街で、九時を過ぎると人通りはまばらだった。硬質な陰影があった。防犯灯がついている不動産屋の前で立ち止まった。昨日までの1K四万の貼り紙がなくなり、2LDK八万七千の案内が貼り出されていた。
 新市街が途切れる手前で、京子は喫茶店へ入った。壁の焦げ茶色と窓ガラスの多さが気に入っていた。来春には広告制作会社に就職が内定していた。毎月の家賃は大丈夫だが、礼金、敷金、前家賃がかなりの金額になる。一人で暮らすと決めてから冬と春にアルバイトをしてきたが十分ではなかった。
 アイス・ティーを飲みながら、ファッションとアウト・ドアの雑誌をめくった。こういう小さな四駆とか小粋なワゴンが可愛いのに、兄貴ったらあんなつまんないファミリーカーなんか買って。でも契約抽選であれを引き当てたのにはびっくりしたけど。春休みに試したいばっかりに兄貴の仲間と高原へ行って、夜に教わって乗り回した。ほんとにそよ風になった。わたしが買うなら絶対風になれる車にする。
 兄貴は仲間と信州に行くらしい。部屋の壁が薄いから、こっち側で携帯電話を使うと声が聴こえちゃう。女友達ができたらすぐにわかるんだけど、できないみたい。きっと押しが足らないんだ、宅配便で稼ぎはいいんだけど。このあいだお昼を食べている時に兄貴にきかれた。
 ││おまえ、不動産屋の前で貼り紙見てたろ。
 ││え、どこで。
 ││どこでも見てるのか。
 ││わたし、社会人になったらアパート借りるわ。賛成してね、可愛い妹には旅させろって。
 ││おまえ、親が娘に見放されたらかわいそうだと思わないのか。
 ││おとうさんは仕事で充実してるようには見えないわ。帰ってきてビールとナイターじゃあね。
 ││おかあさんは。
 ││自分が箱入り妻で満足しているからって、あたしにまで箱入り娘を強制することないわ。兄貴はうまいことやれるのよ、男だから。車仲間と夜遅くなったって何にも言われないし。
 ││当たり前だろ、社会人なんだから。
 ││わたしは遅番のバイトから帰っても、不純異性交遊してきたみたいな目つきで見られるわ。残業しても課長さんと不倫してきたっていう目で見るに違いないんだって。
 ││考えすぎだ。
 ││籍を抜くわけじゃないのよ。自立するだけ。
 ││アパート借りる必要なんかないって言ってるんだ。
 ││じゃ兄貴は何年わたしがこの家にいたら納得するわけ。
 ││そういう問題じゃない。
 ││結婚するまで。
 ││まあな。
 ││じゃずっと結婚しなかったら何年もいるわけね。兄貴はどうするの、結婚したら同居する。わたしが出れば二部屋使えるわ。
 ││先のことはわかんないだろ。
 ││結婚したら兄貴は親を捨てて別居する可能性も大いにあるって事ね。わたしとどう違うの。
 ││そんなに言うならさっさと出ちまえよ。
 ││高三で一人暮らしの女の子を雇ってくれるとこなんかどこにあるの。就職すればこっちのもんだけど。
 兄貴がじっと見た。
 ││おまえ、年々危なっかしくなる。そのうち銀行強盗でもやるんじゃないか。
 ││お手伝いしてくれる?
 喫茶店を出て少し歩くと、区画整理されなかった旧市街に入った。植木や不揃いな軒先が柔らかな住宅地を作っていた。
 京子は静かに玄関を開けた。茶の間で明かりとテレビがついている。階段へ忍び足になった。障子越しにいさめるような声がした。
「京子」
「ただいま」と障子を開けずに言った。
「遅かったわねえ」
「深夜番の人が遅刻したのよ。帰るに帰れなくて」
「その人、よく首にならないわね。きちんとしたお店じゃないのかしら。あんまり夜の遅いのはムム」
 九時に終わって十時の帰宅を遅いとは、あんまり言わないと京子は思った。毎日わたしだけ早番というわけにはいかないし、時給が違う。
「遅いから休むわね」と階段を上がりかけた。
「京子、夕食は」
「遅番だったから、店で出たの」と夏休みに入ってから四度目の同じ返事をした。
「お風呂は。お風呂」
「入るわ」
「早くしなさいよ」
「はい」
 京子は兄貴の部屋の前を通って、ベッドに座った。パジャマに着替える気が起きるまでじっとしていた。一人で住んで、認められて広告代理店に移り、独立して会社を持つ。自然成長なんて絶対いや。ジャンプするように変わっていくんだ。
 夕焼けのない空を見ながら、速水は塒に目を配り始めた。バス・キャビンには世話になってきた。何度も雨風をしのいでもらって、小屋とは呼べなくなった。最終が行ったのを確認して、ベンチに寝袋を敷く。早朝にサッシのドアが開けられて、箒とちりとりを手にしたおばさんが顔を出す。
「あんちゃん、泊まったのがい」
「そうです。すみません」
「ええんだ。ええんだ」
 それがなければ駅だったが、国道から線路が遠く離れている地域もある。道路脇へ淡く漏れる微かなライトの光の中に目を凝らした。
 資材置き場の倉庫に寝たこともあった。鉄骨や鉄板がきちんと重ねられており、壊れたガラス窓で風が口笛を吹いていた。通路に寝袋を広げた。翌朝、鉄板を金槌で叩く音で目が覚めた。引戸を開けたとたん、六十歳ぐらいの腹巻をした爺さんと目が合った。
「起きたか。茶でも飲んでいきなさい」
 しかし国道四十号線にバス・キャビンは見あたらず、駅へ行くには早すぎる時間だった。
 雨が降り出して、速水は黒いヤッケをかぶった。通気性ゼロだが九百八十円ではやむを得ない。こんなに遅くまで塒が見つからないは初めてだった。十キロ先の駅で寝ようと決心した時、小さな平屋を見つけた。全く人気がない。窓から覗き込んだ。パイロンやヘルメットが整然と並べてある。戸をあたった時、背中に向かってくるタイヤの水音が聞こえた。パトカーだった。水滴の滴る窓が降りて、制服の男が真っ直ぐに、立ち尽くす速水を見据えた。
「どうしました」
「いえ、その、まあ」
「はっきりしないね」
「いえ、いいんです」
 警官のメガネに雨粒が増えていった。拭わない。助手席にも一人いる。
「どうしたんだね。何をしようとしたんだね」
「いえ、あの」
「それじゃわからない」
 レンズの雨滴越しに、細い目が視線を外さない。
「寝ようと思ったんです」
 警官は鼻から息を出した。
「最初からそういえば事情がわかるんだ。家宅侵入になるよ。盗みか放火かとも勘ぐってしまう。はっきり言われれば、そこは寝るところではないと答えるんだ。それに黒いの着て。目立たない服装してれば、挙動不審だ」
 速水は何も言えず、警官は顔つきを変えなかった。
「九キロ行くと蘭留の駅だ。軒先貸して下さいって頼めば、駄目だって言うほど北海道の人は悪くない。根性あるんだろ。だからそんな旅行してるんだろ」
 速水は雨の中をまた走り始めた。
 蘭留の駅は暗く小さかった。入っていくと、待合い室にバイクが二台あり、シュラフで二人眠っていた。明かりの残っている事務室へ行き、申し訳ないが寝させて欲しい、朝早く立ちますからと頼んだ。中年の駅員は速水の全身を見回した。そこに、仲間もいるからと許された。
 速水は乾いたTシャツに着替えて寝袋へもぐり込んだ。暑くて、ジッパーを下げた。駅の入り口から待合い室を通り、改札口とプラットフォームへ抜けていく湿った風が心地よかった。

 夜明けに目が覚めた。水道で顔を洗うと、鼻水が垂れた。風邪ぎみになるのは二度目だった。納沙布岬から知床へ北上するときに発熱した。目の炎症も重なって、苫小牧へ戻るかどうか迷った。薬を買い、キャンプ用品を十キロも荷造りして厚床から仙台の実家へ送り、身軽になって北上した。ここは旅の真ん中だった。完全休養の一晩を取ることにした。
 駅の電話帳で、九十キロ先の層雲峡のホテルを探した。電話を入れると、シングルを予約できた。
 石北ホテルが目に入った瞬間、汚れ一つないドア・ガラスに速水は気後れした。鼻をかんでから玄関に乗りつけた。
 金モールの制服を着た年輩のドアマンが出迎えた。雨のかからない場所がいいでしょうと、建物の左脇に案内された。従業員の出入り口のようで、スクーターが二台あった。スコップや一輪車の脇の洗い場の水道管にチェーン錠でロックした。建物へのガラス・ドアがあり、エレベーターを待っている客を横から見て取れた。ロビーの奧らしかった。
「貴重品はフロントに預けて下さい。夜そのドアには鍵をかけますので、こちらへ来るには正面の玄関から回るようになります」
 ロビーには北海道の夏休みという雰囲気がなかった。四季を通じて同じリズムで事が運ばれるような、ネクタイが似合う空気が漂っていた。速水はフロントに歩み寄り、白いブラウスに肩までの髪の女性に名前を告げた。宿泊票に東京の住所を書いた。
「あんなに高橋さんにお願いしたのよ。今更できないもないわ。何とかするってお答え、いただいてるのよ」
 速水の左にいる太めの女性がクレームをつけていた。
「もう一度、確認して頂戴。きっと用意できてるはずよ」
「かしこまりました。少々お待ち下さい」とフロントマンが裏のドアへ入った。
 速水は電話番号を書いていた。中年の女性が気に入らないといった顔つきで周りを見回した。
「まったく」と独り言のように言った。「夏は観光客でどうしようもないわね」
 速水の前の女性がキイを差し出して、「ごゆっくり、おくつろぎ下さい」と頭を下げた。
 速水はちらっと見た。この暑さに、濃い紫のワンピースを着ていた。真珠のネックレスが重そうだった。離れて歩いたが、化粧品のにおいがした。エレベーターを待っている間に左を見ると、ドアのガラスの向こうに自分のが見えた。
 一二○七に入り、ロックしてベッドで大の字になった。鼻水は止まりかけ微熱もおさまっていた。自分だけの完全に閉じられた空間の解放感は最高だった。
 フロントマンはこれも給料のうちと諦めて対応していた。
「ですので、支配人とも連絡が取れまして、お電話を戴きました時点では昇龍の個室は予約でいっぱいでしたので、キャンセルが出ましたら一番にお入れすると。あいにくと││」
「それがお宅の努力なの」
「まことにあいすみませんが││」
「しょうがないわね。大事なお客様なのに。近藤が来れないから、わたしがお相手するようになったのよ。信頼して頼んでるんだから、変な料理出さないでちょうだいね」
 速水はエレベーターを降りて、左へ曲がった。フロントの手前から中華料理店へ入った。ほとんどの席が埋まっていた。ウエイターに相席を頼まれた。
 奧の壁にドアが二つあり、御予約室と書かれたスタンドが立っていた。右側の壁に金色のプレートが二枚かかっている。遠目にはよくわからないが、男女の顔の浮き彫りらしかった。
 案内された小さなテーブルで、若い男がメニューを見ていた。速水は軽く頭を下げた。ニキビ面が上目使いに見て、視線を下げた。
「相席、すみませんね」
 うなづいた。速水もメニューを読み始めた。
 背中の方で「支配人はまだ来ないの」という声がした。「ホテルの手違いで個室を用意できなくて申し訳ないって、席へ来て謝ってちょうだい」
 隅の円卓でさっきの紫のムームーの女性がどぎつい笑いをふりまいていた。接客の相手はネクタイの中年とコードタイの年寄で、太っちょの隣の若い男は随行の社員らしかった。
「あのばばあ」とニキビ面が速水の肩越しに見やった。「ロビーで俺んとこ、ゴミみたいに見やがって。な、あんた。ここは四人掛けだ。これ以上相席増えたらたまんねえ。二人でコースとって皿でテーブルを埋めちまわねえかい」
「いいよ。Cにするかい」
「いやあ、せっかくだからBでいいんじゃねえか」
 Aだと二、三人前で一万八千円だった。
「ああ、あと生ビール」
「いいねえ」
 注文すると、すぐジョッキが届いた。何も言わないで乾杯した。
「ああ、うめえ。あんた一人かい」
「そうです」
「車で」
「いえ、自転車で」
 えっと見た。
「たくさん走ってるあれか」
「そう」
「雨降ったらどうすんだい」
「停まって傘さして止むのを待ちます」
 じっと見た。
「どういうとこに泊まるんだ」
「テントですね」と答えることにしていた。
「でもあんたは。飯食いに入っただけかい」
「泊まりです。風邪ぎみで野宿じゃちょっと」
「ああ。しかし信じらんないな。あの連中はみんなそんな旅行してるのかい」
「いや、ユース使うのもいるし、いろいろですね。カッコ良く言えば、その日その時で広がる景色のおいしい空気を息する旅ってとこです」
 またじっと見た。
「一日どのくらい走るんだい」
「七十キロから百五十かな」
「車なら一時間だぜ。たまんねえな。どこどこ見てきた」
「襟裳から納沙布行って知床まわって稚内、そこから旭川に下がってきた」
「じゃ何日いるんだ」
「二週間かな」
「ずっと自転車だよな、もち」
「ああ」
「いやあ、俺、あんた尊敬しちまうよ。まったく」
「あなたは何日目ですか」
「三日目だな。高速ぶっ飛ばして青森から、俺は家が仙台だからよ。函館入って札幌泊まって、稚内まで行ったけど、宗谷岬ってあんがい軽いとこだったな。そんで今日はここよ。で、明日フェリーで仙台帰るつもりなんだ。盆休みがあさってまででさ。面白くねえよな、一人者は。休み、ずらされて。ほんとなら仲間と信州に行くはずだったんだ。高校の同級生でよ。他の三人は決まった女がいて一緒なんだけど、俺ともう一人が今んとこシングル。そいつの妹が可愛いんだよな、性格きついんだけど。俺としてはあの妹が兄貴と一緒に来てくれて││。まあ、いい」
「そういうグループって何をしてるんですか」
「集まって車の話ししたり、旅行どこ行くかって。あと、あっちの店に新型のホイールが陳列してあったとか。まあ、しょっちゅうクラス会してるようなもんだ。明日はどこ行くんだい」
「摩周湖です」
 冷たい前菜が届いた。
 二人は料理を次々に平らげていった。速水は東京から来たと答えた。仙台でお友達になりたいタイプではなかった。満腹になった。ニキビがガムを口に放り込んだ。
「なあ、これ」とくしゃくしゃ噛みながら言った。「歯磨きの代わりになるってんだけど、あんたにも一つやるよ」
「どうも」
「食う物食って、呑む物呑んだから」と立ち上がった。「出す物出してくる」
 ニキビは見渡して奧へ歩いた。狭い廊下に入ると、向こうから紫のワンピースの中年女性が歩いてきた。ニキビはガムを噛みながら眼つけた。彼女から目線を外した。すれ違いざまに、「ビヤ樽」と言ってやった。女性が顔を上げ睨み返した。
 ニキビはすんなり右の出入口に入った。洗面所を抜けて立ち止まった。小便器がない。扉だけだった。職場の事務所のトイレが、男女そういう並びになっていたからだ。苦笑いして戻った。と、洗面台に指輪があった。安物には見えない。歩きながら、右手を伸ばしてつまみ綿パンのポケットに入れた。小便は我慢できないほどではない。そのまま女子トイレを出た。

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「初めの12,000文字」版の終わりです。よろしければ、「完全版」をご注文下さい。