●終りに●
登場するのが神々や怪物ですので奔放過ぎる展開になりがちですが、最後まで人間の視点を崩さずに物語が編まれていくのは見事だと感じました。
「重箱の隅つつきゴッコ」として、途中の心理描写や行動の理由づけ、物理的整合性などを取り上げるのは容易です。私も多少は楽しみましたが、もちろん、程度の差はあれ、すべての物語がそういう箇所を内包していますから、強調すべき点ではないでしょう。
タイム・マシンはまだありませんので、現実と叙事詩をくらべることはできませんが、メソポタミアの人たちが抱いていた神々のイメージが薄らと思い浮かびました。同時に、神権社会で支配する側が、支配される側へ受け入れてもらいたかった内容が展開されているといるという感覚を得ました。あくまでも、基本的には。
多くの場合、宗教社会は「死後の世界」での「より良き生」を保証する事によって成立します。「この世での生が苦しくとも、私たちの言葉に従えば、あの世では楽できますよ」と請け合います。そして「死後にはこんなに幸せですよ」と解説し、「自分たちに従った者はこれほど幸福で、逆らえばこんな地獄に落ちちゃいます」と物語るようになります。
この叙事詩で最も大きな構成は、最初の粘土板の暴君ギルガメシュと、エンディングで涙を流すギルガメシュの変化だと感じられます。
だとすれば、第11の粘土板には、ギルガメシュ王はエンキドゥを生き返らせる草を手に入れ、復活した彼と抱き合って感激の涙を流し、神々に感謝して終わるエンディングが用意されていても不思議ではありません。ところが、エンキドゥは生き返らず、ギルガメシュ王は最終的には若返りません。ギルガメシュ王が流した涙は、不死を望んでついには得られなかった無力感の涙だと感じられました。
ニネヴェの公文書庫で出土した「前1100年頃のシン版」が何故そうなったのかを示す状況は報告されていません。シンの肩書きが呪術祭司ですので、神権社会の支配階層に職業をもっていた人物だったはずです。神殿に貢ぎ物をし、神官の言葉を聞くだけの一般人とは立場が正反対であり、神権社会の支配階層とは何なのかということを内部から知っていたはずです。そういう立場にありながら、あのようなエンディングにしたのは、逆に、神権社会の支配階層にいたからこそなのかもしれません。
何がどうあろうとも現世では死を避けられないという、「宗教を離れても成立する現実性」で物語を閉じた呪術祭司シン・レキ・ウンニンニという人は、興味深い人物だったかもしれません。
神々の躍動と右往左往やモンスターとの活劇がエンタテインメント性を高めていますが、もしかすると、それでも得られなかった不死という考え方が聞き手の心をつかんでいたのかもしれません。
あらためて、二人の像と期待されている浮き彫りを見つめてみましょう。
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なんとなく、造型に暖かみを感じます。いずれ死ぬ彫刻家が永遠なる神々を彫ったのではなく、不死を得られれなかった英雄に親近感を感じながらノミをふるったような印象を受けました。約3,000年後の今日、メソポタミアから遠く離れた大英博物館とルーブル美術館の展示物の数々は、壮大なスケールで四散した紙芝居の一枚一枚のようでした。