エッセイ12:スピーチ・2000
2000年9月14日(木)
ただ今ご紹介いただきました遠藤です。大宮さんからおっしゃっていただいた肩書きの他にも、旅館組合理事、観光協会青年部長、旅館組合観光協会の合同インターネット委員会の副委員長、また、皆様のお手元にお配りしてある、観光協会から春夏秋冬の年四回発行しています「ぶらーりんぐ飯坂」新聞の編集長をしています。肩書きはたくさんありますが、今日は、それから離れたところから、スピーチを始めさせていただきます。
ロータリー・クラブという言葉に、私は特別な感謝の念を抱いています。人生にとても重要な1ページを書き加えてくれたのが、ロータリー・クラブでした。
私がまだ宮城県の仙台に住んでいた頃、入学したのが仙台育英高校でした。今でもときどき甲子園や駅伝大会に出ますので、名前はご存じかと思います。学生部長の中村さんという先生が、仙台のロータリー・クラブに入会なされていて、国際親善を進める係りをなさっていました。当時の育英の理事長とご相談されたのだと思いますが、ロータリー・クラブ主催の交換留学制度を利用して仙台育英の生徒から選抜して送り込もう、という時期でした。行き帰りの航空券だけを留学生の家族が支払い、留学先での滞在費などはいっさい受け入れ側のロータリー・クラブが負担するというものでした。私はアメリカを申し込み、選ばれました。29年前のことです。1971年、高校2年の夏、一人で羽田空港から旅立ちました。約3ヶ月ずつ、3軒のアメリカ人のロータリー・クラブの会員の中流家庭に一時的な養子のような存在でお世話になりました。そして黄色いボンネット式のスクール・バスで公立高校に一年通いました。私をお世話していただいた3軒はそれぞれ個性的でしたが、最も印象に残ったのが、最初の1軒でした。当時35歳ぐらいの両親、母はペギーさんと言います、5人の子供がいました。16歳の2人とも女の子の双子、14歳の息子、そして12歳と10歳の娘、つまり娘4人の息子1人でした。ニューヨークから少し南の、人口2,500人という農場町でした。ペギーさんの家はかつては酪農を営んでいたので10万坪の牧草地の真ん中にある石造りの3階建てで、窓から見ると隣の家が目に入らないという環境でした。しかし酪農では食べられなくなり、建築業に転身していました。ちょうど、タウンハウスという、西洋風の巨大な長屋を広大な土地に建設中で、売り出そうとしてました。その、カレッジビルという町のアメリカ人にとって、生まれて初めて見る生の日本人が私であり、日本からの輸入品が胡椒入れなどの小物から、ニッサンやトヨタの自動車に変わりつつある時代でした。
1年間の留学中にあった、学校や家庭でのたくさんの出来事は、短時間ではとても語り尽くせません。今日ここでは一つだけ、印象深いエピソードを述べさせていただきます。私はテニス・チームに入り、10の高校で2、3ヶ月間のリーグ戦を行いました。3つのシングルスと2つのダブルスをつくり、3勝すればその高校の勝、という試合でした。試合が始まって、奇妙だったのは、審判がいないことでした。今でこそ日本でもアマチュアの大会では審判がいないのはよくあることですが、30年前の日本では考えられないことでした。30年前のアメリカの高校の公式戦では、アウト・セーフは選手同士が判定することになっていました。
一つの試合が始まって間もなく、私が勝ち始めます。すると、試合相手が、コートのラインぎりぎりのボールを「アウト!」とコールしました。それが2、3度繰り返されます。私は試合を中断し、監督に尋ねました。「敵はインチキしている。試合なのに何故、審判がいないのですか?」と。監督は「中立の審判を頼んだら、お金がかかる。敵が1ポイントごまかしたら、君も1ポイントごまかせばいい。それで公平だし、金もかからない」と笑いました。あとから考えました。アウト・セーフの判定は、現実には極めて微妙なものです。ルール上は、テニス・ボールの表面にあるケバケバの毛の1本でも白線に触れたならセーフです。線審でも見極められない場合があります。しかしジャッジせざるを得ませんから、ミス・ジャッジが発生します。またしばしば、審判はえこひいきをします。なるほど、審判がいないので、すくなくとも審判のミス・ジャッジは存在しませんし、えこひいきもありようがありません。また、ルールそのものが人間の目で見極められない状況を設定しており、相手のボールが白線に触れたか触れないか判断しがたい場合、「アウトだ」とコールしてしまいたい誘惑を退けるのは難しい、だから、「アウトかセーフかわからない時は、アウトとコールしても罪には問われないよ」という、懐の深さのようなものを、感じました。「微妙なボールのアウトとセーフを分けるのは、5、6センチの幅の白線の端の直線ではなく、選手の、人間の視力と心をダブらせた帯のようなものですよ」と言っているような気がしました。相手がインチキしたら、こちらもインチキ仕返せば、インチキの影響は極めて少なくなります。
向こうは負けているのでむっとした顔つきで、私はインチキの応酬をせざるをえないことにむっとしながら、試合が続きます。私は最後のポイントのボールを相手のコートのど真ん中に打ち込んで、向こうは打ち返せずに試合が終わりました。相手はすぐに私の方へ駆け寄ってます。互いのインチキのなじりあいか、殴り合いになるのかと私が身構えると、相手はネット越しに右手を差し出しました。握手しながら、相手は微笑み、「僕は負けちゃったけど、良い試合だったね。君は東洋から来ている留学生だろう。そんな君と試合できて、思い出になるよ」と、インチキした後ろめたさが微塵もなさそうにニコニコしていました。
つまり、そしてそれらのすべては許される、ということでした。アメリカでの1年がたち、私はその高校の卒業証書をもらいました。すぐには日本に帰らずに、全米を繋いでいるバス会社のチケットを買い、一人で1ヶ月間のバス旅行をやりました。世界中からの、金のない若者がそういうバスを利用します。ほとんどが徴兵前にリュックだけで長期間の旅に出て、片言の英語でアメリカを旅していました。フランス人やスウェーデン人やオーストラリア人などの男の子や女の子との面白いエピソードは、これも語り尽くせませんので、省略します。
さて、その旅を終えて日本に帰国し、大学に入り、就職しました。しばしば旅に出ますが、どうしても、北アメリカ大陸のスケールの大きさ、自分が旅した期間の長さ、アメリカで出会った人たちとの触れあいの深さを上回ってくれる旅になりません。
私は結婚し、飯坂に移りました。ちょうど、飯坂温泉旅館協同組合では特別企画というものをやっていました。皆さんの記憶にも新しいかと思いますが、オーストラリアのケアンズに3年間、アメリカのラスベガスへ3年間という海外招待旅行をメインとする企画でした。そして今日、先ほど私を紹介していただいた大宮さんといっしょに、ラスベガス招待旅行を担当することになりました。
私はラスベガスに行ったことがありませんでしたが、年間3,000万人も泊まる観光地がどんなものか、興味を駆り立てられました。飯坂温泉は100万人です。いろいろと調べていくうちに、今日の砂漠の不夜城は、170年前はたんにオアシスがあっただけの土地だったとわかりました。わずか170年前に泉が沸いていただけの場所に、ゴールドラッシュとともに鉄道が引かれ、鉱山町となり、賭博の町となり、軍事基地ができ、グランドキャニオンにフーバーダムを造って水を得、原子力で発電し、マフィアが暗躍しました。しかし単に「歌手のショーとルーレット」があるだけで、観光客の数は横這いの観光地になってしまいます。そこで、ラスベガスの町おこしが行われ、子供や女性も楽しめるディズニー・ランドのようなテーマパークが造られていきます。その成功に安住せずに、会議場の町を目指します。統計を見ますと、ラスベガスに泊まる「目的別宿泊者割合」で第1位は、ギャンブル目当ての観光客ではなく、「見本市開催関係者」です。第2位が「学会などの会議」、第3位が「テーマパークやギャンブルが目的の純粋観光客」です。
飯坂温泉とは目指す方向は異なりますが、この町づくりのエネルギーには、吸収すべきものがあります。旅館組合の招待旅行先にラスベガスを推薦したのは、今の組合理事長の畠さんですが、その時に、旅館関係者も行ってラスベガスを体感すべきだという発言をなさったのを、私は今でも覚えています。そして今現在、飯坂町の町づくりに活躍している若い旅館組合員の全員が、ラスベガスの招待旅行の添乗員として、あの砂漠の町の観光業へ対する熱意を身をもって体験してきた人たちです。さて、私個人としては、ラスベガスそのものももちろん面白かったのですが、ラスベガスの歴史を調べることが、とても楽しい作業になりました。すると、中学校の頃、図書館で呼んだエジプトのツタンカーメンの墓を発見したイギリス人のハワード・カーターという考古学者の本を思い出しました。エジプトの歴史というのは、どんなものだったのだろうか。確かツタンカーメンは、ピラミッド建設が行われなくなってから何百年もたってからの若いファラオだったはずで、どんな人だったのでしょうか。いろいろ調べ出しまして、エジプトへ行きます。すると、古代エジプトに触れるだけではなく、国で2番目の産業が観光業のイスラム教徒の現代エジプト人と触れることになります。現代エジプト人はもちろんアラビア語を話しますが、観光関係者は片言の英語を話します。私も片言の英語を話しますので、お互いの英語の知識の少なさが幸いして、つまりお互いにあまり難しいことは英語では言えないという同じ制約の中で、会話が成立しました。
エジプトでのエピソードを一つだけ。1,500万人が住んでいると言われているカイロに、カイロ・タワーという展望台があります。そこで雑然としてカイロの町並みを眺めていると、13歳か14歳ぐらいの子供が、滑らかな英語で私に話しかけてきます。どこから来たの。日本から。僕、日本大好き。カイロは好きですか。好きです。1人で来ているの。そう。奥さんは。日本にいます。子供は何人? いません。1人の妻しかいないんですか。この質問がいかにも、4人まで合法的に妻をもてるイスラム教徒の、しかしイスラム教徒が極めて少ない国ではそうではないとまでは知らない子供の質問です。そう、1人だけ。大人になったら、日本に行きたい。それじゃ、カイロ大学に入りなさい。どうして。カイロ大学に日本語学科があるから、そこで日本語を勉強しなさい。私は、双葉旅館の露天風呂が印刷された、日本語だけの名詞を上げました。私のホテルです、これはアウトサイド・ウッドン・バス。この日本語が読めるようになったら、私の住所も名前もわかるから、日本に訪ねてきなさい。そうします、約束します。で、私が帰ろうとします。すると、少年が言います、僕には2人の兄弟と2人の姉妹がいます、彼らにもあなたのネームカードを上げたいから、もっと下さい。
その時に少年といっしょに撮った写真があります。日本に帰って友人に見せると、「遠藤のこんな笑顔は見たことない」と言われました。こうなりますと、世界にはもっと触れるべき土地、触れるべき歴史、触れるべき人がいるはずだ、と感じ始めます。40歳を越えてからの、世界史の勉強の始まりです。
メキシコでは、マヤ文明の人たちが何を残し、何故人間の生け贄を太陽に捧げ、あっけなくスペインに征服されたのかをかいま見てきました。メキシコの国土は広大ですが、ほどんどが石灰岩の地質です。雨水を透過してしまい、農業は成立しません。工業も成長せず、石油がなければとうに破産している国のようでした。わずかに見込みのある産業は観光業だけでしょう。その目玉であるマヤ遺跡、テオティワカン、モンテ・アルバン、パレンケ、ウシュマル、カバー、チチェン・イツァといった場所には、誇らしげに、「世界遺産」という金属の銘板が掲げられています。メキシコの観光産業は、これらの世界遺産を中心にして伸ばしていく、という姿勢が、遺跡の復元の努力に感じられました。
ひるがえって、飯坂温泉には世界遺産がありません。飯坂温泉の過去30年間の入湯税収入金額の推移を見れば、悲しげな右肩下がりのグラフとなります。特にこの10年間を見ますと、毎年5万人ずつ減少しています。ラスベガスを体験してきた私たちが小さな努力を重ねても、入湯税のグラフが右肩上がりになる気配はまだ感じられません。
古代文明のように100年単位で把握する必要はありませんが、すくなくとも10年単位で、飯坂温泉で何がどう行われて、あるいは、やるべきことを何故やらないで、ここ30年間が過ぎてしまったのかということを、この地域の特性をも考えて、過去を理解することから、飯坂温泉の町づくりは始まるはずです。様々な思いつきや試みが過去数年間に行われてきています。ラスベガス招待旅行もその一環でした。そして、この地の観光産業は、ともすればこれまで言われることがあったように、旅館だけで成立しているのではないのではないか、という分析にたどり着きます。私は旅館業に携わっていますので、旅館主体に全体を考えてしがちですが、旅館は実は、桃の季節にはお客様へ桃をお出しします。その桃は、飯坂周辺の果樹農家で生産されています。またお客様はよくコンパニオンを求めますが、彼女たちは置屋から派遣されてきます。さらに、4年前の組合青年部のアンケートで、旅館が仕入れる割り箸や魚などの86%が、飯坂町を含む福島市内の業者から仕入れています。旅館での夕食が終われば、お客様は下駄を履き、飯坂の町中の飲食店へ行きます。こう考えてきますと、飯坂温泉の観光業を支えているのは旅館だけではなく、飲食業、社交業、商工業、農業なども、飯坂の観光を構成しているということがわかってきます。
それを統合する組織として飯坂温泉観光協会があります。しかし活性化や町づくりは10年、20年、30年という先を見ながら進めなくてはならない活動ですので、どちらかと言えば年輩の方々よりも若い人々がより真剣に考え、実行を積み重ねていかなくてはならないはずです。その若い人が交流し、討議し、実行する組織が、観光協会青年部という組織です。過去30年間、存在しなかった観光協会青年部が、中野会長を初めとする協会理事の方々の賛成を得て、去年の12月に誕生することができました。
これから、56名の協会青年部が活動していきます。私たちは飯坂の状況が危機的な状態にあるのは理解しています。このまま向こう10年間に渡って毎年5%に近い入湯税収入の減少が続いていくなら、私を含めてこの場にいる旅館関係者の半数は10年後のこのロータリー・クラブの会合には出られなくなっているだろう、と予測されます。ですから、焦ってはいけませんが、急ぐ必要があります。協会青年部から新しいことが提案されると同時に、古いことの幾つかを取りやめることも、当然、含まれるはずです。協会青年部の提案や活動には、これまでご指導してくださった皆様方の思い入れに反することもあるでしょうが、なんとかしなくてはならない状況下で、過去に続けてきて愛着のあることだからという理由で同じ事を繰り返していたら、新しい試みへお金とエネルギーをつぎ込む機会がなくなる、ということです。私は観光協会青年部を代表いたしまして、この場を借りてご理解を頂戴したいと思います。地域の話を離れまして、個人的なことですが、今年の2月に南太平洋のイースター島へ行って来ました。皆さんも写真をご覧になったことがあるでしょうが、モアイという石像のある島です。4世紀にポリネシア人が移住し、10世紀頃に最盛期を向かえて酋長の記念碑たるモアイを建立し、椰子の木をすべて伐採してしまい、わずかな土を押さえていた根がなくなったために、大雨のたびに土が海に流され、農業ができなくなり、互いに食べ合い、モアイを倒しあって、18世紀にオランダ人が訪れた時には「乞食の群しかいない」と航海日誌に書かれた島を4日間、歩き回ってきました。観光業だけしか成立しない人口2000人の島に、年間10,000人が訪れています。
遠藤さん、何日旅行してたんですか、と聞かれます。15日間です。イースター島って遠いんでしょう。ええ、行くのに3日、帰りも3日かかりました。15日間の旅行で、行き帰りに6日、イースター島に5日、すると、3、4日計算が合いません。説明するのに時間がかかりすぎるので、普通は、空白の3、4日には私は触れません。しかし実は、帰り道の途中で、留学の時に世話になったペギーさんに会っていました。29年ぶりの再会でした。
私が17歳で日本に戻ってから今まで、ペギーさんとだけは、クリスマス・カードのやりとりが続いていました。ペギーさん一家は、私が留学した町から引っ越して、ニューヨークの北のヴァーモント州のリゾート・タウンで小さなホテルを経営していました。インターネットが普及してからは、電子メールのやりとりです。ペギーさんはまだ65歳くらいのはずで、私は46歳です。数年後に再会したいと考えていました。しかし去年のメールに、ペギーさんが白血病にかかった、と書かれてありました。2週間入院して抗癌療法を受け、2週間退院するという状態でした。アメリカのボストンから小さな14、5人しか乗れないプロペラ機で1時間半ほど飛び、倉庫のような地方の空港に着きました。笑みを浮かべ、29年前を思い出せてくれるペギーさんが、待ち受けていました。ちょうど私の母が末期にそうなったように、太っていました。
たくさんのことを話し合いました。建築業で社運をかけたタウンハウスの販売がうまくいかず、月に200万円も利息を払わなくてはならなくなり、10万坪を売って、残った金でここへ越してきたこと。そのトラブルのさなか、20歳になった双子の娘たちが、麻薬とアルコールに走り、何故そうなったのか理解できずにペギーさん自身がもがいていたこと、私がいた頃に14歳だった長男は、自分に自信をもてないまま大人になってしまったこと、下の2人の娘はしっかりした大人になり、素晴らしい子供たちを持っていること。
ちょうど、その長男から、長男の娘が赤子を流産した、という電話が入りました。私は電話に出て、短い会話をしました。日本に来なよ、無料で泊めてあげるから。いやあ、とても行けそうもない、でも、君が作った日本食を覚えているよ、美味しかった。私は全然覚えていませんでした。ペギーさんが言います、確かに作ってくれたわよ、ライスと黒い海草で。たぶん、お握りだったのでしょう。あの食事の前に、私、子供たちに、あなたが作るものは絶対に残さず全部食べることって命令しておいたのよ。子供たちはとても不安がっていたわ。もし美味しくなくて残したら、私に怒られるのを知っていたから。でも、美味しかったから、みんな、安心したの。
倉庫のような空港で別れる時、私はペギーさんに告げました。私は2度、貴方にお世話になりました、16歳の時と46歳の今です、次は、日本で私が貴方をお世話する番ですよ。まだ、その機会はありません。次はどこへ行くんですか、とよく聞かれます。先日、観光協会の専務理事の宗形さんと、インドかエーゲ海へ行ってみたいと話しました。宗形さんは、インド、面白いよ、写真に撮るような所ではなく、自分のルーツを感じてしまうかもしれないね、とお話なされました。インドにはバラモン教や仏教が広まる前から輪廻転生という考え方があったようです。宗形さんが尋ねます、じゃ、遠藤さんは前生は何だったと思いますか? 多分、私の前生は、渡り鳥だったのではなかったでしょうか。
ご静聴、ありがとうございました。