エッセイ6:音楽を私にも

 昔々、人が声を発した時から音楽があった。自分がここにいると知らせるための声が、心を伝えるための歌となり、歌声だけでは表現しきれない感覚を楽器に託した。

 最も興味深い作曲年代は19世紀前半である。音楽史上初めて、自分の意志は神によって支配されているのではないと自覚し、自分の意識で創造する音楽家が現れた。ベートーベンである。彼は鬘(かつら)と半ズボンで演奏するのを拒んだ。しだいに耳が聞こえなくなり、短気さが親しい人たちを遠ざけ、また、会話を書いてもらうために弱々しく石版を差し出した。それでも、自分の感情、思想を表す傑作を生み続けた。

 もう、ベートーベンのピアノ演奏やモーツアルトのチェンバロ演奏は聴けない。彼らは、即興演奏が群を抜いてると評価されて、それで生活費を稼ぐことができた。20世紀初頭からは幸いにして、録音という技術が発明された。バルトークのピアノ演奏あたりから、今日の私たちも聴くことができる。

 クラシックの演奏家は楽譜に託された精神を読みとろうとする。同じ五線譜なのだから、同じ音楽が書かれているはずである。しかし、違う演奏家による同じ曲の演奏を聴き比べれば、創り出された音楽があまりにも異なるのに誰でも驚く。

 優れたクラシック演奏では、沈黙から音が生じ、沈黙に戻る。高音は伸びやかに上空へ向かう。低音部に耳を集中すれば、砂浜に打ち寄せる波を動かしている海底の流れを体感する。私たちはその表情の移り変わりを味わい、感覚の物語に感動する。

 最も印象的な演奏の記録は、第2次大戦直後に現れる。ドイツにおける敗戦という重み、根底から崩れた信念、焼失した家、亡くなった家族、失われた友人、そして敵を殺して生きて帰ってきた自分。そういうベルリン・フィルの楽団員達が、無罪にはなったが戦犯に問われた指揮者のもとで、1947年からの数年間、ベートーベンを演奏した。その一音一音と、今日の大金がらみの演奏会で奏でられる一音一音とでは、音に込められた思いが同じはずはない。

 1960年前後のジャズにも同じ事が言える。公民権運動とそれへの反動的な動きの中で、ミンガスは人種差別への怒りを音楽にした。ドルフィーは、内に秘めた思いを音で表現した。この2人は1964年のヨーロッパ公演旅行で、米国のプロモーターからシャワーも出ない宿舎をあてがわれるが、人種に関係なく耳を傾けるヨーロッパの聴衆の前でエネルギーに溢れた長時間の演奏を繰り広げた。その音楽的成功は、会場に持ち込まれた録音テープの磁気の中に残され、30年以上たった現在でも生命力に満ちている。

 学生時代に私はギターとフルートに取り組み、すぐに断念した。だが、優れた演奏に繰り返し耳を傾ければ、音痴でも頭の中では1947年のベルリン・フィルを指揮できる。頻繁にテンポを変えるミンガスのベースにも、私のフルートは柔軟に対応できる。残念なのは、私の頭の中で創造された世界最高の音楽を、あなたにお聞かせできないということだけだ。

 さて、民報サロンでの私の文章の掲載はこれで最後です。掲載しきれなかった分は、ホームページ http://homepage1.nifty.com/endow/ に近日中に載せる予定ですし、電子メール endow@nifty.com の郵便箱はいつでも開いています。6つの文章をお読みいただいて、ありがとうございました。