ひとりごと。

思いつくまま気の向くまま。

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タイミング。2004.10.04
目をそむけるな。2004.03.31
内定の条件!?2004.01.14
井の中の蛙体験ふたたび。2003.12.26
帝王学。2003.11.15
勿論個人でも持ちたい意識。2003.10.22
「バカの壁」の根源。2003.09.07(11.27追記)
そこに見える過去。2003.09.03
終戦記念日。2003.08.15
少年よ、大志を抱け。2003.06.26
天才と凡人の差。2003.06.07
普遍からの昇華。2003.05.15
精神は確かに大切だが。2003.03.26
今日の出来事。2003.01.26
若さゆえの過ち。2003.01.19
酔っ払いの戯言だが。2003.01.17
同意語!?。2003.01.15(転記)
かるたクイーン。2003.01.08
下町のナポレオン。2002.12.20
ハタ、と気づいた。2002.12.08
発想の転換。2002.12.01
一皮剥けたオタクとは。2002.10.25
情報に接して。2002.10.16
表裏紙一重。2002.07.02
世界に通用する作品。2002.05.15
久しぶりに感動。2002.05.07
座右の銘。2002.04.02
仕事と単車の相関関係。2002.03.23(03.25改)
不運はあなたの行いのせい。2002.03.20(03.23改)
本質を暴く。2002.03.19
数にまつわる話。2002.03.07
GREEDの原型。2002.03.05
ことわざについて。2002.03.05

ご報告

以前ここに書いた手前、報告しなければならないだろう。
2003年末に退社し、色々と就職活動をしてきた。
これを機会にと、興味ある分野、経験した分野の会社を数社受けたが
結果的には全滅した。

「この人はこれがスゴイから採用したんです」
と皆に説明して納得してもらえる"何か"がないと採用は難しい。
そう言われた事が、全てを物語っている。

言われずとも判っていたつもりだったが、実際は思ったより厳しいものだった。
1次2次面接や試験はパスするのだが、社長面接でどうしても落とされる、
そんな就職活動だった。

結果的に、今もバイトのまま、建築業界に関わっている。
普通のバイトと違うのは、時給や日給で無いこと。
実は、請負なのである。自分ではバイトのつもりだったが実質個人事業主みたいなもの。
もう少し勉強してCADが使いこなせるようになったら、
自分で材料を発注して輸入、施工までやれるようになると思う。

ただ。私は建築現場の仕事は嫌いなのだ。
ドヤドヤしているから。


はぁ、これで人生の方向は決まりなのか…
と思っていたら、そこで「縁(えにし)」である。
思わぬところから思わぬ話が持ちかけられた。
まだどうなるか判らないので内容は伏せておくが、
個人的にはパッと目の前が開けたような、そんな目標を与えてもらった感じである。

不思議な事に、このような話がまとまった途端、
別のご縁でお知り合いになれた方からもお呼びが掛かったり。
マーフィーの法則という奴だ。
出版関係の仕事だったのだが、残念、お断りする事にした。
これもまた、「縁」だろう。


さとうきび畑の戦争

「その時歴史は動いた」
沖縄戦を取り上げていた。今迄で一番の反戦番組であった。

お涙頂戴なしで
死体や、弾を受け崩れ落ちる人、
手榴弾攻撃の爆圧で圧死した人を引きずり出す米軍の実録映像を流す。
起きた事実を、存命の方の取材も交えて淡々と説明する。

今までの反戦ものなら、崖から飛び降りるシーンくらいが関の山、
とてもお茶の間に流す映像ではない、とカットされた事だろう。
個人的に、ようやくにして
直接操作すべく作られてきたステレオタイプでない「反戦」を見れた気がした。

本当の反戦は、戦争そのものを映し出す事だと私は昔から思っている。
だから大学時代に生協活動をやっていたものの、平和活動だけはやらなかった。

私の子供の頃の記憶で東京にまつわるものといえば
東京タワーでもなく、親戚の結婚式でもなく
上野駅の片隅に戦闘服で座っている、足や手のない人々の姿である。
昭和50年代くらい迄は見かける事が出来る光景だった(と思う)。

インターネット上でショッキングな画像が簡単に手に入る昨今ではあるが、
背景が見えれば、本当に「問題」を考える事が出来ると思う。
もちろん、反戦に限らない。


 
就職時に問われる意識

大学生の就職内定率73.5%。高校生は61.4%だという。
なるほど、世の中は不景気。
だが。その発表があった今日(1/13)、奇しくも次のような興味深い番組があった。
NHK「クローズアップ現代」。そして、テレ東「ガイアの夜明け」。


前者は作家大江健三郎氏が書いた、若者に向けての言葉をつづった本の話題だった。
何故学校に行くのか。
若者はその価値観を見出せずに不登校になるが、大江氏は言う。
「学校は自分を作るために行くのだ」。
集団生活を通して自分を固める、という事か。
いい大学、いい会社が目標ではない。自分が如何にあるべきかを見つける所だ、という。
そして。若者に取り返しのつかない事はないのだ、ともいう。
「ある時間待ってみる力が必要だ」
どっしり構えて事にあたれ、という処世術の一方法というべきか。
それらの記述に光明を見出した若者達もとりあげていた。
私も会社を辞めた時、まあ、どこにでもある事だよな、何処に行っても同じだよな、と
妙に達観したものだが、それを悩み多き若者達に述べたものらしい。

コーリン・パウエル氏(湾岸戦争当時の司令長官)が言った言葉
「これはとてもどうにもならないと絶望的に見えた事も、一眠りしてからみると、
さしたる事でないことに気づく」
が思い出されるが、まさにこれは至言である。世の中そんなものだ。
それに気づいたのは、私は30を過ぎてからだから、彼らは恵まれているかもしれない。
閑話休題。

後者は、ナムコのナンジャチームや、大阪淀屋橋の話題だった。
人通りの無い道を、集客の見込めない地域を、メインストリートにしたい、そう述べる人たち。
そして、集客にかける意気込み。
有名パティシィエ達の店に出店依頼の為、一年以上通いつめる担当女性。
ベルギービール系の会社やビルオーナーを口説き、淀屋橋を活性化しようとする男性。
無論利益を上げる(喰い扶持を得る)という"社会人"ではあるが、それをしつつも
ビジョンを着実に成し遂げて行く人達の熱気がそこにはあった。
食い扶持を得るためだけではない、何か。


以前、ビジョンについて述べた。何をしたいか。
それを書ける人はそうはいない、そう書いたはずだ。
"再"就職活動をしていて、玩具メーカー、バンダイの求人に巡り会った。
驚くことに、職歴表が求められていない。そして、専用フォームには次の項目があった。
「あなたの夢・ビジョン」
流石バンダイ。こんな項目を書かせる会社は、中途採用でも、そうは無い。
いや、新卒でも滅多に無いだろう。
逆に、新卒でない中途採用の身としてはどう書こうか。
これは面白い挑戦であった。


画一的な教育をうけた"人"(あえて若者とはいうまい)があふれる今日。
どんな人がこれからは必要なのか。
---根本から何かを理解できているか否か。あるいは、熱心であるか。
それとも、斜に構えつつも熱中できる人なのか---。
そんな事を問い掛けられた一日だった。
これらのどれかが出来る人は内定されるのだろう。そんなふうに思うのである。



昨日から、昔やった石工の経験を生かしたバイトをやっている。
今の私は求職中の失業者。普通の会社勤め人生を過ごしてしていたら、
こんなお声掛かりはなく、収入無しでハロワ通いの毎日だっただろう。
職人芸は一朝一夕で身につくものではないし、
実際、出来るか否かが問われるシビアな世界。
ビジョンとは違う次元、内定の要因である"スキル"。
転職は職場を変わるのか職業を変わるのか。私は後者なので大変ではある。


芸は身を助く。けれど、少年に限らず、誰もが大志を抱くべきな今日この頃なのだ。
きっと。                                     (2004.01.27 改訂)



面接を受けて
転職活動を(いや、もう就職活動だが)初めてマトモな方法でやっているのだが
大変勉強になる。
いや、勉強になるなどと驚いていては面接先に使ってもらえる訳がないのは
承知しているが、それでも感嘆を禁じ得ない。


面接先で具体的にやってきたこと、出来ることを並べて述べたところ、
要するに、何ができるのか?CRPなのか、MRPなのか…という感じで問い直された。
一言そう言ってくれれば、説明されなくても分かる。そう面接官は言った。
(正直、この時言われた言葉は殆ど覚えていない)

TQC、EMS、EPM…こういう略語の意味がわかっていて、
それをやれる、と言えないと駄目だという現実だった。
正直言って、TQCやQCといった言葉以外、未知の言語だった。

生産管理、工程管理、生産技術…そんな分類を気にしないで
普段は仕事をやって来た。
人材銀行登録時に初めて、そんな分類があると知ったくらいだ。

踏み込んだ"言葉"は、普段から意識していなければ絶対に分からない。
やっている事を一言で言える言葉がある。それが分かるか否か?

意識レベルを測られた訳だ。
間違いなく、この会社の選考には落ちたと思う。
帰宅して間髪入れずに製造業の用語をググったのは言うまでも無い。


「では」面接官の質問は続く。「5Sとはなんだ?」
これなら分かる。整理・整頓…
「では、整理とは何だ?」
私はここで整頓の内容を言ってしまった。間違いを指摘され、では、と別の質問をされた。
「5Sの前にやることは何だ?」
分からなかった。完敗。なんと、工場の床にペンキを塗る事だと言う。
そう。ペンキを塗る為には工程計画や配置計画がなければならない。
計画をする為には…

私もそれなりにやって来たつもりだったが、そんな自負、カス程でもなかった。
こんな会社ばかりではないと思う。しかし、これが標準と思えば、間違う事はないだろう。

この話を先日転職したO氏とした。O氏は言う。
「面接した時に、作業に大切な事は何かと問われた。安全と答えた。」
間違いなく、私なら効率と答えただろう。そう、安全が正解である(と思う)。
普段見慣れた"安全第一"の文字。
だが、問われて初めて自分自身の意識が何処にあるか判明するわけだ。

惰性で仕事をやってきた事を改めて感じた。



ところで。世の中は随分変わった。
ハローワークの求人内容をネットで検索出来る。
わざわざ毎日通わなくてもok、更には故郷のハローワークの情報も、
全て自宅で時間に関係なく入手可能である。
また、三年以上の経験があると登録できる人材銀行の存在。
ハローワークと金額も違う。もちろん求められるレベルも違う。(面接はここ経由だった。)
そして、民間主催の転職システム。ハローワークよりも明らかに良い仕事が並ぶ。
金を払ってネットに載せるわけだから、PC使用という篩に掛かった人材が全国から
応募する。良い人材が確保できるわけだ。
数年前であれば想像すら出来ない環境である。ある意味、恐ろしい世の中になったものだ。
PCを持っていなかったりITのコツが分からないと
転職活動以前の段階で差が付いてしまうのだから。


(追記:大学時代のゼミの教授にこの話をしたら、そんな用語は教えたじゃないか、と
 呆れられた。いや、覚えてませんって。)
                              
リーダーとは

リーダーの資質として必要な事…まぁ、こんなのは本屋に行けばいくらでも
関連書籍を見つけることができるだろう。
しかし。
現実問題として、この手の本を読んだ事もないであろう上司を頂く事は多々ある。
こうなると愚痴るか直訴か辞めるしかない。
馬鹿に使われる事程馬鹿馬鹿しい事はない。だから能力ある人間は辞めてゆく。
「無能を役付けにすることは罪であると心得よ!!」
こう上司に伝えたい。…ああ、愚痴だw
愚痴ついでに、思うことを記しておきたい。
(私は会社務めの傍らで設立登記していたので、ここでいう上司は前者の、である。)




究極のリーダーと言えば"皇帝"であろう。
そして、彼が修めるべきは「帝王学」。
誰しもが名前を聞いたことのあるこの学問、しかし庶民である我々が学ぶ事は、まず無い。
過去、私が漏れ聞いた帝王学のエッセンスはたった二つだけであった。

  ・代わりのいない人間はいない
  ・周囲に三種類の腹心を置け。
   一人は自分の言う事に素直に従う奴。
   一人は細かいところまで気の回る奴。
   そして、自分のやることを注意(諫言)する奴…ただし、この手は一人いれば十分だ

"帝王"とはかくあるものなのか、と畏怖したものだ。


しかし。帝王学の代表たる「貞観政要」を知ると、
意外や、我々庶民も十分、いや十二分に活用できる内容であるのに驚く。
「人の話(諫言)を聴け」「初心忘るるべからず」「身内贔屓をするな」「虚栄心を捨てよ」…
如何にあたりまえの事が難しいか。
唐の時代から1000年以上経っても今なお変わらない人間の業を知る事が出来る。
下手なリーダー心得ビジネス書なぞ読む必要はない。
(「帝王学」 山本七平著 日経ビジネス人文庫)


この本を読んで随分経つが、しかし
私を捕らえて離さないリーダー学は実はたった一つ。
  「○○さんの下で働いた時に、一番いろいろな事を学んだ」と言われるような
  上司になれ

呑み屋で聞いたのだったか、何かの本を読んだのだったか。

私の今のレベルでは、未だにこのフレーズがクリア出来たかどうかは不明である。



テーマ・コンセプト

中国の神舟5号有人宇宙船打ち上げ成功後、とあるBBSで出た話題で考えさせられた。
そのBBSでの、管理人おき氏のコメントを以下に記しておきたい。

  ともかく「できる国」は「できない国」に対して(中略)
  何につけアドバンテージを持てるということです。
  (中略)
  特に、こういったプロジェクトが国の勢いに与える影響といったものを政治家には
  見届けてほしい思いです。
  技術立国、技術大国のはずの日本が、道路だ建設だといったハコモノ商売で
  浮いたり沈んだりする様は技術者として見るに耐えないものがあります。


この打ち上げは国家プロジェクトとして優先して推し進められた。
国が明確な高度な目標を掲げ、一丸となって邁進する。
この結果、中国は世界に対し、大変大きなアドバンテージを持ったわけである。
全体主義の成功例と揶揄するのは、考えることを放棄した、低レベルな結論である。
"宇宙開発がさらに(安心して)進められ良いことです"なんて日本人宇宙飛行士のコメントを
当たり前のように放送していられるレベルの話ではない。

日本だって30年前は、国民車構想とか列島改造とか官民挙げたからこそ
高度経済成長し得たのだし、
さらに昔は軍事産業(重科学工業)を基幹として列強の仲間入りをし得る程の発展し、
造船大国日本という高度経済成長につながる根本を構築したのだ。
国のTOPが唱えるお題目はかくも国家の発展と国際的地位を左右するという事実を
改めて考え直さずにはいられない。
経済大国の冠を与えられ、世界中から無心されるだけである日本の現状。さてさて。


そして、思ったものである。
問題意識やテーマ、コンセプトの持ち方で、随分違うものだ、と。

現在の日本は社会をとりまく環境を考えることが第一とされている。
勿論、先進国は総じて、その傾向である。(偏った感情を伴う環境問題は認めないが。)
福祉関係産業の発展は特に目覚しい。(というか、日本が遅れていただけだが)
なるほど、未来を考えた技術かもしれない。
だが。
売れる為の環境対策であり商品開発。
そんな姿が見え隠れしているように思えてならない。
もちろん、技術は発展するが、
規制をクリアするのと未知の分野への挑戦は違うと思う。

挑戦。
やはり、ワクワクする挑戦をしたいものである。そして、してほしいものである。



人間は細胞から出来ている。細胞は核と…  なるほど、それも一つの説明である

バカの壁の作者、養老孟司氏のインタビュー番組を見た。
養老氏は解剖学が専門。その言葉は解剖という職業を通じて得られたものだが、
大変興味深い。
(以下、私の脳内解釈であるので間違いがあるかもしれない)

現代、死体を見る事が無くなった。
まじまじと見つめてはいけないものだと皆が思っている。
たとえば流産した無脳症の胎児。(画面に出て来るのが凄い。)
見てはいけないものだ、と普通の人は思ってしまう。
だが。
そこにあるものは現実である。
現実(死体)を見て自分が変わるなら、変わるのが正しいことなのである
そう養老氏は言う。


グロい写真へのリンクを某巨大掲示板で貼られる事があるが、
その時我々は眼を伏せる。
そこに恐怖を感じ、また、してはならないことへの畏れと憤りを感じるからだ。

だが、どうだろう、養老氏のコメントは。

死体は穢れである、or死体でも、もともとは人である。だから尊厳を持て…。
そんな考え方に縛られていては"見つめて観察する"解剖学という行動は生まれない。
見たくない、と思うのは、それまで見ずに築き上げてきた自分を否定する
それが壊れるのが判っているからだ、怖いからだ、だそうだ。

無論、グロ写真を貼る事を肯定するわけではない。見たい人と見たくない人がいる。
解剖学を40年やってきた氏も、必ず法要に参加して検体者への弔いを欠かさないし
顔、目、手という部分の解剖は特に辛い、とおっしゃっている。

人間の放棄をすすめているわけではないのだ、養老氏は。
グロ写真を面白がってネット上に貼る輩で、
果たして何人が心の中で手を合わせているか知らないが、
氏は怖い、面白いといった感情などとは無縁の「学問」をしていたことを
勘違いしてはならない。
その経験を踏まえて、事実を事実として受け入れろ、という訳だろう。

さて。
表題にも書いたが、あたりまえの常識とされている
人間は細胞から出来ている、細胞は核があって…という説明。
氏は、これは一つの説明である、と言い切る。
one of explanationであってそれが全てではない、私は信じていない…。

囚われていては、壁は壊せないということか。


「バカの壁」の記述そのもののような気もするが、
養老氏はこういった。
バカの壁の向こうには何があるのか、おもしろいではないか。
そう、ロマンがあるのだ、と。

久しぶりに見た、ショックを受けた番組だった。



                                  (2003.11.27、12.27 改訂・追記。)
 
北朝鮮報道に見る
私は新潟県生まれの新潟県育ち、行方不明事件(拉致事件)があった頃は
集団登下校を毎日やっていた上、学校で誘拐回避教育を度々受けていた位だから
昨日今日拉致被害者を返せと言っている人に何ぞ諭される必要も無い、という事を
先に述べておこう。

さて、こんなことを書くと右翼に刺されそうだが、
最近の北朝鮮関連の報道を見ると、苦笑してしまう事がある。

ドラムを神懸りのように叩く少年や、体操を大人顔負けに笑顔で踊る少女達、
その驚嘆に値する姿が時折画面に流れる。
アメリカや日本を敵視したTVドラマを取り上げ
さらには国家元首を崇拝する思想を珍しげにそして恐ろしげに放送しているわけだが
私たちはこれを見て、変な国だと笑っていいのだろうか。
日米の要求に対し、まったくもってけしからん事を言う、という北の発言に
憤りや嘲りを表明する人も随分見てきたが、一寸待って欲しい。


今から60余年前。
我々に対する意見、けしからんと国際連盟を脱退した国があった。
国の長を神と崇拝していた。
ミシンの前で一心不乱に、無駄の無い動きで作業するグリグリ眼鏡の少女の姿を
見たことはないだろうか。
その国は鬼畜米英と叫んで敵視政策を取っていたわけだが。


私たちは今、60年前の連合国の立ち位置そのものにいる。
蔑視して笑う事は、裏返せば自分達の過去を笑う事にならないだろうか。

日本人の悪い癖。過去から学ばない事。
もしも学んでいるなら、笑う事など出来ない筈だ。
今の北朝は60年前の日本とどう違うというのか。
ならば、私たちは良い方法を見つける事が出来る筈だ。
60年前の枢軸連合両サイドの愚行を繰り返す必要は無い。





追記)…頭が痛くなるくらい恥ずかしい姿が垣間見られる気がするのは私だけだろうか。

自分の意見を表明するのは正しい事だが
議長国も他の参加国も、今回は核問題だけで一杯だから
二カ国間で話をしてくれ、というところに意見を押し込むのは正しい事なのだろうか。
(結果的に各国の圧力もあり二国間で話をする事になったわけだが
ならば二国間協議を押してくれ、と頼むべきだよなぁ?)

北朝の船に対してだけ厳重な検査をするのは国際的には正しいのだろうか。
(中国、フィリピンetc違法なモノはゴマンとあらぁね、全部にやれや)

核問題の国際会議で是非拉致被害者問題を問うてくれと政府に嘆願する
その姿勢は正しいのだろうか。
(問題解決の会議の約束を取り付けてくれってのなら理解できるが)

こんな営業を自分でやったらと想像してみて欲しい。
私は恥ずかしくてとても出来ない。


 
戦争について考える
往々にして「戦争反対」という意見には、只々感情のみで良しとする傾向が
あるように思えてならない。

原爆の被害にあった人たちは、その時の悲惨な光景を皆に伝える。
空襲体験者、引揚体験者も大抵、そうである。
戦地に亭主や父や息子を失った家族の言葉は愛する人を失う辛さを伝え、
神風特別攻撃隊隊員の最後の手紙は涙を誘う。
戦時中はこんなものを食べていたのだ、とスイトンを食べてみたり、
戦時中の軍人の非人道的な振る舞いを論って見たりする。


しかし。何時も思う。
確かに、感情論は訴えかけやすく、身近な事として理解しやすい。
言っている事は正しく、従軍慰安婦問題等の問題があるにせよ、
被害者の立場として「戦争は悪」と言う事に何ら反論するものではない。
が、片手落ちではないか。

誰もが「ゼロ戦」を知っているだろう。
日本が誇った、世界最高(開戦当時)の戦闘機。
戦争中から旧式になり、最後は爆弾すら落とせない、着陸もできない少年達によって
機関銃も外され、片道分の燃料しか与えられず敵の船に突っ込まされた、あの名機。
だが。
積んでいた機関銃はスイスのエリコンのコピー、イギリスのビッカースのコピーであった。
プロペラはハミルトンの特許を使っていて、照準機はドイツの大戦初期のレビのコピー。
独自開発も出来ない技術科学力で戦争をはじめた訳である。

何故これで戦争をしようとしたのか。

感情論で反戦を叫ぶのもいい。間違っていない。
だが、本当に戦争反対を訴えるなら、こういう事実も知らなければ
薄っぺらい反戦に聞こえてしまう、そんな気がする。

鯨が食べる水産資源の量の科学的数値を見ないようにして
鯨が可愛そうだから反捕鯨、と叫ぶ、その姿と
何処か重なる気がするのだ。


 
その先にあるもの
受け売り要素が大きい事を先にお断りしておく。

人間、お金が欲しいのはどうしようもない。
なるほど、俗世を捨てて、お金と縁の無い世界に進むのもよいだろう。
しかし、そんな自己満足の世界に浸らない限り、
夢がかなっても、生活が追いかけてくる。
結局"金"という呪縛から、人間は逃れられない。

中国人は世界的に"ウケ"が悪い。
彼らの互助制度は、まず「出資者在りき」。
お金を出した人がいたら、その人の恩に報い、利益を相応に還付するのが習慣である。
そのせいかもかもしれない。
(もちろん、悪い事ではない。日本にも義理という言葉がある)

欧米では、ある程度の地位を築くと、福祉等に力を注ぐ"義務"がある。
成功した者は、社会的弱者に施しをする義務が生じ、
それはなんら普通、当たり前の事として存在している。

日本はどうか。
日本においては、福祉に貢献することは義務でも義理でもないような気がする。
もともと農業国であり、身内や知り合いで助け合うのは、対価が得られなくても
やるのは当たり前(建前は)なのかもしれない。
sonyという会社がある。
様々ないきさつはあるが、この会社は福祉面にかなりウエイトを
割いているのはご存知と思う。
彼らは義理でもなく、義務でもなく、福祉に力を注ぐ。


呑み屋で聞かれた。
"あなたは、お金や地位を得たら、いや、得ていなくても現状下で、
次に何がやりたいだろうか。"

「次のビジョン」を持っているか。

いない人が多い、その人はそう言った。

「次になにをやりたいのか」(レベルアップ)」考えていない人は、
今のままで終わってしまうか惰性で行くか、になる。
現状を維持し、少し上の生活を望む。これが大多数。
やりたいことは夢想かもしれない。
しかし、「次」を考えているかいないかの差は大きい。

今得ているスキル、いろいろなところから得る知識。
生かすも殺すも、どこかで繋がる可能性も「考え方」次第。
飽くなき探究心の、別の意味での昇華。

なるほど。社会貢献は奇麗事ではなく、辿り着く場所なのかも知れない。



エジソンとエースパイロットとノーベル賞と串揚げ屋のマスター
先日あるサイトのBBSに以下のような書き込みをしてきた。
天才的な戦闘機パイロット数名の名が挙がっていたので、
戦闘機乗りの書いた本から得た、いらぬ薀蓄をこぼしてきた次第。

********************************************************
天才的パイロットというのは、いないのだそうです。
訓練や試行錯誤をし、他人より「早く正しく多く深く」判断できるようになった結果コツを得、
加えてそれらによって裏付けられる直感(あそこに敵がいそうだ、とか)もあたるようになり、
結果的にエースになれるものらしいです。天才も努力の賜物、という事ですか。
当然、経験や理解力が乏しい人は、説明されて理解できるわけもなく、
実践で適切な判断が下せない。
パイロットになれるくらいの頭があっても、さらに凡人と天才の差がつくのですねぇ。
********************************************************
天才とは1%の閃きと99%の努力という言葉がある。
上の文章元になる記述を読んだ時、おお、なるほどエジソンの言葉と一緒なのか、と
思わず手を打ったものだ。


だが。勘違いなのではないか。
私は、エジソンは閃いてから実現すべく努力した、そう思い込んでいた。
実は閃いてから努力したのではなく、同時進行だったのではないか。
閃きと努力の連鎖だったのではないか。


2003年の正月に、日本のノーベル賞受賞者3名のインタビュー番組を見た。
日本の英知が集まって、出た言葉が、興味深い。
・「感は磨けば磨くほど当たる」
誰もやったことが無いことは、感が頼りになる、こう述べたのは小柴さんだったか。
(氏の書いた文字が勘ではなく、感であるのが面白い。)
・「五感を磨くこと」「好奇心を育むこと」
これは野依さんだったか。「憧れと感動、そして志」が、
野依さんの公演会のタイトルである事は知られている。

無論、これらの根底に、勉強してきた基礎がしっかりあるわけである。


戦闘機乗りの言葉とこれらの言葉が頭の中で交差する。
感性と五感を磨く事。厳しい訓練と試行錯誤(努力)。
「音」が「震える」という事に気づく感性。はっと閃めいたエジソン。

先日紹介した「高校三年間」思想も、
大学に進学したらばそれまでの三年間に蓄えた力が自分を支えてくれる、と
まるで同じ事を示唆している。


「勉強なんてしてないよ、という姿勢を見せながら、裏でみんな勉強している」
納得半分で胡散臭く思えた頃は誰でもあると思うが、
社会の常識に触れた第一歩がこれだったのだなぁ、と今更思う。
(きっとここで、そうなのかと努力した奴と皆んなおんなじ、遊んでるはずと思った奴で
 人生のフラグの立ち方が変わったハズw)

努力、努力、天才でも努力なのだから凡人は…いや、凡人も努力次第で
天才になり得るという事か。



最後に。同番組の中で、江崎玲於奈氏が述べた五訓も、興味深いので紹介したい。

1)シガラミに捕らわれるな
2)大先生(既成概念)にのめり込むな
3)無駄な情報は捨てよ
4)戦うことを避けるな(自分の主張を通すため)
5)初々しい感性を大切にせよ

嗚呼、簡単な事がなんと難しいのだろう。



 
石の上にも三年
誰もが知る、諺である。

「三日、三月、三年」と昔から言われ、この「三」という区切りの数字は
不思議な事に、人間の思考の転換が訪れるタイミングと一致するらしい。
そして、どんな場面でも言われ続けてきたのが、上の諺、「石の上にも三年」。
どんなに辛くても三年頑張れば、何かが変わる、何かが判る。石だって温まるという
辛抱や努力の代表の言葉であろう。
そこには、先人が経験した語り継がれる普遍がある。

さて、私の家のそばに、行き着けの串揚げ屋がある。
ここのマスターが、先日HPを開いた。
訪れるお客様との会話から、面白い話を掲載しているのだが
これを読んで感嘆した。「串揚げ工房 遊季 人の恩の話」Topはこちら

まぁ、読んでいただければ判ると思うが、
石の上にも三年、という当たり前の考え方からは完全に昇華した、
素晴らしい思考方法である。商売だけでなく、どんな場面でも役に立つだろう。


商売を高校時代になぞらえて、三年間を考える。
一年目は謙虚に勉強。
二年目は少し判ってきた所だから色々な見極めを習得。
三年目で初めて自分らしくし、やりたい事に向かう。

三年の終わりに総括したとき、結果が出なかったら留年。結果がでたら大学に進学。

進学とはレベルアップした世界。しかし、そこに行ったらまた一年生。
三年間に蓄えた力が、自分を支えてくれる。


なんという発想だろうか!!
闇雲に「三年頑張れ、そうすれば判る」という、禅問答にも似た一般論なぞ、
笑い飛ばしてしまう破壊力。

振り返ってみると…私は現在留年何回目だろう。


 
標語の功罪
「私に出来ない事はない」
ウチの会社の、ある部署の壁に掲げてある言葉である。

為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり 上杉鷹山

恐らくこの言葉が出所かと思われる。
私は上杉鷹山は嫌いではないし、素晴らしい思想の持ち主だったと思う。
この言葉を文面どおりにとるのは間違いではない。
しかし、精神論とするのはどうだろうか。


旧日本軍は精神論で戦った。
「生きて虜囚の辱めを受けず」
死ぬまで戦え、という思想である。負けると考えてはいけない、という思想である。
その精神でなんとかするのだ、という思想である。
そして、実際に戦う兵科が褒め称えられ、前線で戦わない兵科は蔑まれた。
「医者坊主に戦が分かるか」思想そのままである。

日本は負けた。
精神論を重視し、客観的な分析や行動を怠ったからだ。
戦闘機戦で落とされた日本のパイロットは、脱出しても自らパラシュートの紐を切った
との米軍パイロットの目撃証言がある。
米軍の機関銃弾の中を突撃して全滅した話など枚挙に遑がない。
ノモンハンなんて、味方戦車が破壊されるのが勿体無いから撤収させ、
人間に爆薬を背負わせて敵戦車を破壊させたくらいだ。
戦わない兵科の必要性を考えないから、補給が出来なくて弾も食料も尽きる。
ガタルカナルもインパールも、兵達は重い銃を捨て、飯盒や水筒を抱えて彷徨った。


対して米軍はどうだっただろう。
物量で勝ったと言われるが、それだけではない。
客観的に日本軍の戦術を分析し、開発や研究にも十分力を注いだのだ。
有名な話を一つ。
船舶が被害を受けた場合最小限に押さえるべく
ニューヨーク市消防本部経験者の予備役大尉を抜擢、研究させ
ノウハウや意見を積極的に取り入れた。
結果は。そう、ご想像の通りである。


自ら命を絶ったパイロットは、何故相手に負けたのか、その理由を伝える事が出来ない。
とにかく戦え、死んで来いという精神ではフィードバックなど得られるはずがない。

為せば成る為さねば成らぬ…たしかにその通りである。買わなきゃ宝くじは当たらない。
しかし、成るために「如何に」為すか、これを分析追求する事は忘れてはならない。
単なる精神論として読んでいるだけではいけないと思う。

まさか、ウチの会社のその部署、毎朝朗読してるんじゃないだろうな。





ついでに言うと、私は「反省しなさい」と言う時にしんみりする姿を求める傾向が大嫌いだ。
反省して落ち込んだ素振りは、注意した者の優越感を満足させるだけでしかない。
省みるのは繰り返さない為であろう。
すぐに対策(次善策)をとり、対策をとりながら反省したって良いわけで
しんみりする姿を求める必要などないと思う。違うだろうか。
反省は後悔と同じではない。


類は友を呼ぶのか
折に触れて「縁」に対する考えを書いてきた。
今日ほど劇的だった経験は無い。


1/26、クラッシックカーのイベント「ニューイヤーミーティング」に行って来た。
クルマにはあまり興味のない、先輩でもあり、CVF社長でもある中村氏が
珍しい事に今回は参加するという。なんでも、ウルトラセブンに登場する
「ポインター」についての集まりがあるのだそうで、
門外漢であるが社員である私も合い席する事になった。
中村氏は現在、Hyper Hobby誌で執筆中のポインター研究家でもある。


私は先行。会場でまず、行き着けのBBSの管理人、おき氏と合流した。
この方、かなりレアな車を所有している。暫し一緒にイベントを見て回る。
んで、BOLTS&NUTS!をお描きの漫画家、田中むねよし氏と初顔合わせ。
むねよし氏とは以前よりメールやBBSでお話しており、おき氏とは知り合いの仲。
ここにtaba164氏と武田氏が合流。taba164氏も武田氏もそのBBSの常連で、
武田氏と私は共通の知人がサトゥルノ乗りという事でも縁がある。
また、むねよし氏は武田氏に車のパーツ作りの依頼をしている。

中村氏合流。ここで武田氏を紹介する。

中村氏の友人でレプリカポインターの作者、城井氏とその友人牛久保氏合流。
なんと牛久保氏と中村氏はTVチャンピォン、ミニ四駆選手権で戦って以来の仲。
城井氏が共通の友人であるとは知らなかったというw
イラストレーターふじたゆきひさ氏合流。(言わずと知れたタミヤのモ子ちゃんの作家)
ふじた氏はレプリカポインター製作時から携わっている城井氏の友人でポインターマニア。
んで、ふじた氏はおき氏と知り合い。
(ちなみに私は中学時代ふじたゆきひさFCに入っていた)

ここで出版関係の方が現れた。そう、本日のポインター対談の為である。
ポインター対談は城井氏、田中むねよし氏、ふじたゆきひさ氏であると判明。

場所を換える。結局、この場にいた全員が移動。
対談中、残りの人たちは雑談。

解散間際、出版関係の方が「最近ドゥカのF3を買ったのですが調子が悪くて」と
言うのが耳に入った。どこかで聞いた話だ。
「ひょっとして「えのあきらファン掲示板」をご存知ですか?」「はい」
なんと…ウチのサイトの常連さん、ドラゴンYさんだったのだ!!!
固く握手。これには私えるまぁ、非常に感動且驚いた。

帰り道、城井氏「おきさんの呑み会でオリジナルポインターの話が出たそうですが」
ポインターの話をしたのは武田氏。中村氏と暫し話し込む。
なんと共通の場所に出入りしていた事が判明。
城井氏とおき氏も知り合いだったという事か。(共通の知人がいることは知っていた)

ふじたゆきひさ氏を中村氏の車でご自宅までお送りする。
一寸寄っていきますか?のお声がけに喜んで寄らせて頂く。
綺麗に整理されたショウケースの中に、なんとCVF初製品、ウルトラアイの初期ロット物が。
中村氏、感激。


人間、30年も生きていると、いろんなところで「縁」が繋がってくるものである。
「世間は狭いなぁ」という感慨と共に。



確率論のおはなし
私が大学時代、バイト先の部長に言われた事がある。
今も折に触れて思い出す。
「同じ事が二回あったのなら、君が間違っているんじゃないのかね?」
綺麗に書くとこうなる。
「二人に否定されたなら、その意見については再検証したほうがよい」

ある見解に対し、
全く接点が無い状態の二人に主張した場合、連続で否定される確立は、
10人に対して統計を取ると仮定し、肯定的な人が8人いると仮定しても
2/10×1/9=2.2%。
たったこれだけの確立しかない。
三人連続で否定されたなら、0.8%。


これにあたってしまうのだから「間違った見解である」と認識し
再検証すべきだ、というわけである。
該当する見解が客観的に見て間違いなく正しいとしても、
サンプリングしたターゲット(見解を聞いてもらった人)にとってはそぐわなかったのだ。


勿論、これはのっけから連続で起きた場合の話であり、
全統計を取ってみれば肯定否定率がイーブンの可能性もあるだろう。
いや、肯定率が高いかもしれない。
だがそんな見込みなど、否定者が連続して現れる圧倒的事実の前に霞んでしまう。


「同じ事が二回あったのなら、君が間違っているんじゃないのかね?」
別に連続して起きた事実でもなかったが、
当時は説明を考えるでもなく、目から鱗が落ちたものだった。


(補足:友人に、これは1/2×1/2=1/4ではないかと指摘された。その通りである。
    どうも数学は苦手で…英語もだめなんだよなぁ…)


何より大切なことは基本
えるまぁの守備範囲としては、イラスト、造型、単車等があり、
仕事としては金属製品の製作をしている。
「仕事ができるかできないか」にも書いたように、センスが重要であるとは思っている。
しかし、なにより大切なのは「基本」なのだという事に異論はない。


イラストと造型に共通する基本、それは「デッサン」。
学生時代に一番苦手だったのはデッサンだった。
何故これをしなければならないのかが理解出来ていなかった。
極論ではあるが「骨格」の理解である、と思えるようになったのは最近の事だ。
骨格(骨、柱、構造、比率etc)が見えてくれば、何がおかしいのか分かる。
筋肉の付き方も同様。とにかく、観察と理解。

なんかヘンだなぁと思う場合はまず、デッサンの狂いに起因しているそうだ。
骨格(建物の場合は柱、機械の場合はフレーム)はそういう位置を取り得るのか。
そういう長さ(割合)なのか。
そのパーツはそうであって良いのか否か。
建築用語で言うところの「収まり」。

これが出来ないので私の作る造形物やイラストはなにかおかしいのだ。




「基本」は如何にして得るのか。
世の中には天才型と努力型が存在するのだという。
天才型は洞察力が高く、一見しただけで的確にポイントを掴み、瞬時に理解する。
努力型はそうではないので、地道な鍛錬・反復学習により分析/学習し、
ポイントを理解/体得する。
(勿論これらには「経験」が大きく影響する。)


なんて薀蓄ばかりたれても仕方が無い。天才型でない私は練習しなきゃなぁ、と
思うばかりである。やってないけど。



オタクとマニアの違いとは?
(イラストメニューコンテンツより転記改筆)

2002年新春の仲間内の新年会において、興味深い分類がなされた。
えるまぁも常日頃から定義付けに苦慮していたのでここに記しておきたい。
(オタク⊆マニアかマニア⊆オタクかと思っていたσ(^^;であった。)


オタク…共感や共有を求める。
つまり、
使用、保存用、布教用と三種類の買い方をするあなたは、オタクである。
もしも「これ、いいから君も買いなよ」と勧めたり、あげたり(布教)、
「いいよね!?このコ(物である事も)いいよね!!」と同朋を見つけて嬉しくなるなら、
あなたはオタクに分類される。

マニア…自己完結する。
つまり、
別に他人がどう思おうが、共感など不要。我が道を行く。
他人に同じ物を薦めたり、あげたりする(布教する)くらいなら俺が集める!というあなたは
間違い無くマニアに分類される。
同朋を見つけると嬉しい反面、敵が増えたと思うなら、確実である。
ただし、物々交換など、自分のコレクションの充実のためには他人に物をあげる事もある。
基本的に自分のコレクションの充実に心血を注ぐ。


(これらには更に、コレクターという分類項目が作用するであろう。
 モノに興味の対象の重点が置かれるわけだが、
 上記二つと切っても切り離せない要素を持っている。)


もちろん、この切り口がすべてではない。これらの境を行き来する人は多いはずだ。
が、非常に解りやすい切り口だと思った。


短歌の詠み方
元々国語の授業は嫌いではなかったが、短歌(や俳句)は得意ではなかった。
好きなように自分の気持ちを詠めと言われても
こそばゆく恥ずかしい気持ちと天邪鬼(アマノサクガミと言うそうですな)な気持ちもあり、
かといって教科書で見るような短歌の研ぎ澄まされた高尚さなど及びもつかないという
あきらめが邪魔をしたからである。
サラダ記念日がもてはやされた時分に、その世俗さに「けっ!」という
捨て台詞を吐いたのが懐かしい。


「かるたクイーン」というドラマがNHKで始まった。「競技かるた」…百人一首の競技…を
題材にしたものである。
純粋無垢で「クダラナイ」という言葉を知らなかった子供の頃を除けば、
初めて「興味のもてる」ドラマである。

というのも、私、ドラマが大嫌い。何故かって?
役者が大根で腹が立つ。脚本が屑で腹が立つ。でなきゃ、
役者も脚本も良くて感情移入して(腹立たしいシーンで)腹が立つ。
どう転んでも、腹が立つ(w
(日本のアクション「映画」を見ても同じ感想なのは過去に書いた通り。)


さてさて、短歌である。ドラマはどうでもいいのだ、実は。

私が短歌というものを再認識したのは、
林望(はやしのぞむ。もちろん私はリンボウさんと呼ぶ)さんの「落第のスゝメ」という本を
読んでからなので、なんと西暦2000末の事。
(ちなみに"ゝ"はひらがななのでこの場合"ヽ"が正しいらしい。)

ここで解説された短歌に衝撃を受けた。
本来なら本を読んで欲しいのだが、あえてご紹介。


さく花のいろまだ見えぬ暁の 山しづかなり春のよの月

普通に読んだら、どうってことは無いのかもしれない。ここでリンポウ先生の注釈が付く。

 「(前略)咲く花の色、とまず詠みだされて、その色(桜花の白に近い色である)を脳裏に
 想像させておいて、その次に「まだ見えぬ」と打ち消していることに注意したい。
 それによって、桜花の朦朧たる色彩は一種の残像のごとくに脳裏に想起されながら、
 しかし意識の表面にはいわゆる「暁闇」とよばれる夜明け前の真の闇がたち現れるのだ。
 その時空のなかに、黒い、「しづかな」山である。その山の形はいかにして眺められるので
 あろうかと思う刹那、春の夜の月が彷彿と浮かび上がる、と(以下略)」
                    文春文庫刊 「落第のスゝメ」 林望 著 P93 L13-19

この一連の記述を読んで、瞬時に「宮中歌会はじめ」での高い調子が頭をよぎった。
妙に語尾を延ばして上げる、あの詠み方こそが、まさに短歌を味わうにうってつけなのだ、と
感嘆した。
さあ、どうぞあの調子そのままで、この歌を詠んで頂きたいっ!!
勿論、目を閉じてだ!!!





どうだ、この広がり。この雄大さと繊細さ。

この点に気づいてから詠む短歌の面白いこと素晴らしい事。
では、同じ詠み方で詠んで欲しい。

「この味がいいね」と君が言ったから 七月六日はサラダ記念日
                                    俵 万智 「サラダ記念日」

どうだ!(苦笑

私は林望さんが国語の先生だったらどんなに良かっただろうと思わずにいられない。
まるで「面接の達人」を読んだ時のような衝撃、理解するという喜び。

さて、先の歌。明治天皇の御製である。
流石、スケールが違う。
短歌って、素晴らしい。

(追記:小倉百人一首のサイト。なかなか。)



正統派もんじゃの焼き方
浅草にある、とあるお好み焼き屋では正統派の「もんじゃ」の焼き方を教えてくれる。
四人がけの席が4つしかない小さなお店だ。
初めて訪ねてから10年以上たつ。

世間一般には、もんじゃ焼きは「土手」を作る。
しかしこれは、昭和30年代に入ってから・少し日本が裕福になってからの事だという。
そう、貧しかった頃、
もんじゃが子供たちのおやつとして駄菓子屋の鉄板の上で陣取り合戦を繰り広げた頃は
「具」が殆ど無かったのだそうだ。
土手などつくれる筈も無い。
土手が作られるようになったのは、月島あたりに住宅地が広がった頃だそうな。


では、どうしたのか。
…本当はお店でオーナーに聞いて欲しいのだが、あえて書こう。

具の無いもんじゃ、バッ、と鉄板にあけるとジビジビとしてくる。
周辺の色が茶色に変わる。そこで、ガガガッともんじゃを掻き寄せるのだ。
すると…醤油煎餅のようなモノが出来ている事に気づくだろう。
それが、うまい。
煎餅を堪能し終わる頃には、プルプルになったもんじゃを楽しめる頃合になっている。
とにかく、この方法は現在も通用する


もんじゃはうまくない、という人がいる。旨いわけが無い。
もともと駄菓子なのだ。五円、十円未満なのだ。如何に楽しく、旨く食うか。
これが「もんじゃ」の真髄なのである。

土手を作って周りから崩し食べるその過程には、
自分の陣地(鉄板のスペース)からはみ出したもんじゃは
隣の奴に食われても文句を言ってはならないという「切羽詰った攻防」も、
有限でありかつ無限である空間の生かし方も存在しない。
つまらないのだ。

自分のなけなしの小遣いで買ったもんじゃが、隣の奴に食われるのである!
逆に、隣の奴がへぼなら、陣地からはみ出しこぼれた「もんじゃ」を
ガガッと寄せて食っていいのである。
テクニシャンは、他の奴が出来ない「焼き方」を示し、
自分のセンスを洟垂れ小僧共に見せ付けつつ堪能するのである!

もんじゃ煎餅にプルプルになったもんじゃを入れて巻き、春巻き風にする。
煎餅を二枚焼き、間にプルプルを挟む。
三角に切り、くるくると巻いてクロワッサンのようにするetc。
これらが子供達にとって、如何に「ハイカラ」だったか。
ああ、古き良きもんじゃの世界!!


あえていおう。土手をつくるもんじゃは、邪道である。
遊べない。
なにより、まずい。

                             (2002.12.24加筆)

 
ヲタクの一側面
通勤途中に、精神障害者の施設がある。
駅のホームであるシーンに遭遇し、衝撃をうけた。
いや、関東地方は人口も多いし、今までも様々な人を目にしているので
そのようなシーンは慣れっこではあった。
しかし。突然気づいた。

大きな声で親御さんと思わしき方と話をしている。
周りには通勤の人々が沢山。
親御さん、見ていて辛そうなくらい憔悴している。

いや、障害者を差別するとか、そんな話ではない。
ただ、そこにヲタクと共通の仕草をみたのた。


そう、精神障害者の特徴は「自己中心的」であること。
周りに気遣って声を抑えるとか、大人しくしている、という事がない。
(気遣うケースも見たことがある。電車の座っている人の前を通るたび、
失礼します、と大声で断りながら歩くのを…)

どうだろう。ヲタクの嫌な面をあげるとすれば、
1)大声で話をする(周囲の状況を考えない)
2)自分の興味ある分野の話を相手の様子を見ずにする
3)分かっている人にはわかるが、知らない人から見れば変な人、という行動を
 平気でする
という感じで、周りへの配慮が無いという事がないだろうか。
例えば主催者や近隣住民の迷惑を考えないで、徹夜で並んでいないだろうか。

そう。精神障害者と同じ行動なのである。


ある種の対象に入れ込むという、パラノイア的側面がある「ヲタク」。
決して悪いとはいわない。間違っているともいわない。
現代、総おたくの時代である。こだわりが大切な時代である。
だが、醒めた目から見れば…。

私がヲタクと言われると抵抗がある、その理由になんとなく気づいた気がした。



いろいろ考えてみた
カヤックツアーで内田正洋さんに伺った話を自分なりに咀嚼してみた。
内田さんの考えは下の通りであった。

◇魏志倭人伝には、邪馬台国の所在地が書いてあるが、
そのあとに、「一年行くと裸国、歯黒国がある」とも書かれている。
これは、一年航海できる技と、さらに、帰ってくる技があったという事である◇

◇金印には「漢委奴国王」と彫られている。
これを歴史では「漢の倭の奴(な)の国王」と教えるが、どう読んでも「委」は「倭」とちがう。
中国北方からユーラシアを押さえていた強い勢力を「匈奴」と呼んだ。
魏志倭人伝と合わせて考えると、「委奴」と呼ぶ強い勢力があったと考えたほうが
自然なのではないか。つまり、一大海洋勢力が。
そこの国王という意味の印であると考えるのが順当ではないか◇


ある人によると、中国人が「和」という音に対し、侮蔑の意味を持つ「倭」をあてた、と
いう。眉唾ではある。(侮蔑の意味があるかどうかもわからんし)
しかし、侮蔑の音を他民族の呼び名にあてるという考え方は納得できる。
インタネ、特に「2ちゃんねる」では日常茶飯、人間の本質だからだw

そこで思い出すのは、昔中国では「東夷西戒南蛮北狄」と呼んでいた事。
そう、東の異民族は「夷」。「委」と音が同じである。
いや、じゃあ西と南北は何になるんだ、と言われると困ってしまうが
そのへんは当時何と呼んでいたのかに関係してくるのでなんとも解らん。
とにかく、諸葛孔明が「東夷」の一つとして「倭」を論じた史実もあるし
地域的に倭は夷(委)に含まれていたのは間違いないと言えよう。

卑弥呼に与えられた金印は「親魏倭王」。
これにならって「漢」の「委奴国」の王と考えるのが普通かもしれない。
魏志倭人伝にも、最初の目的地は「伊都国」だというし、
「奴」の付く国は沢山出てくる。

だが。
一年もの航海をする術を持った、たった一国があるだろうか。
海洋「民族」ならば可能だったであろう。
ならば。
金印の国がどの国だったとしても、それは「夷」、つまり海洋民族勢力の
一員に過ぎなかったのだろう。

少なくとも、漢の倭の奴の国王と読ませるのは間違っている。



とにもかくにも、視点が変わるというのは面白いものである。
発想は立ち位置によって思わぬふくらみ方をするものだなぁ、と
感嘆せずにはいられない。



スーパーバイザー
CVFという会社を立ち上げて、一年半近くなる。全然給料が出ない。
というのも、出た利益は全て次の商品の開発資金になるからである。
商品の種類がないといけない、というのもあるが、
パイが決まっている上リピーターがつく商品でない、というのも辛い点である。

さて、そんな鳴かず飛ばずの動きをしているが、
反面驚くのがCVF社長の顔が広い事である。
勝てない。
2002.10.25発売の電撃ホビーマガジン誌に「ポインター」の新製品情報が載るのだが
そのスーパーバイザーをやっている。
ウルトラ系に造詣が深い氏であるから、普通の読者の立場からすれば
「あ、濃い人なんだな、だから何かのコネで情報提供とかしてるんだろうな」
なんて思うに違いない。
多分、裏側を知らなければ、私もそう思う筈である。

当然、ウルトラ系で知り合いが沢山いるわけで、実車でポインターのレプリカを
作った人なども昔からの知人という。それくらいなら普通のオタクでも良くある話。

電撃HJの編集部とユニファイブ(バンプレスト)にそれぞれ繋がりがあり、
そこに知り合いのミニカーメーカーを紹介した。
当然、円谷プロともツーカーの仲。
ポインターのレプリカ所有者からは実際の情報を得、
さらに製作した板金屋を紹介してもらい調査をする。

もともと全て氏と商売抜きで個々に繋がっていたのだが、事があると
ガチャガチャと音を立てて結合してゆく。その様は感嘆するしかない。
こんなとき、「縁(えにし)」というものを痛感する。
そしてそれを活かせる実力。

私はメインになれない、補佐をするのが私の役割だ、と
自分の性格は熟知している。
が、如何にモノ(この場合は趣味)に対して向き合ってきたか
その質の差、量の差は決定的に自分の人生を見つめ直させる。

趣味でも仕事でも、一つの事を続けて来た人は強い。
ミクロを追求しつつ、マクロに連動する…これが只のオタクと食えるオタクの
大きな差であるような気がする。
(私はオタクでないから、その様子を見つめるだけである。)


踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら 躍らせなきゃ損々。


 
自己批判のきっかけ
NHKのTVを見ていた。中国の自動車事情をやっていた。
以前中国の携帯電話事情のTVを見て日本製携帯の苦戦を知ったが、
それは営業面。ふーんとしか思わなかった。
しかし今回はおどろいた。いや、私の認識が甘かった。

中国といえば、私の認識は「長江」(BMWサイドカー)「上海」(Leicaコピー)
「殲撃」(Migコピー)であり、IL86(私の好きな旅客機)のコピーであった。
あ、あとはモーゼルのコピーね(笑)

だがどうだ。CADを活用し、シミュレートし、各国の乗用車のノウハウを得、
とんでもなく高度なレベルの作業をこなしている。
チタンフレームの眼鏡の加工を安い人件費目的に中国に移したばかりに
機械をコピーされ、格安の眼鏡が日本を席巻した、なんてのに
笑っていたのもつかの間。
中国独自開発の機械が既に日本レベルであるそうな。

そんなTV番組を見て愕然とするのは
今の自分の作業状況である。
CADも使えない私。感覚に頼った作業(仕事)。
井の中の蛙、大海を知らずとはまさにこのことである。

作業には職人技、という分野がある。
しかし、それを機械で誰にでもできるようにしてきたのは、現代日本。
無論、機械でも出来ない事が出来るのが職人だが…
私はそのレベルではない。
しばし反省。
以上、モノローグ。

 
危機管理と可能性
ワールドカップ、決勝戦。
ドイツの守護神、カーンがボールをファンブルしたところを、ロナウドが蹴り込んだ。
「まさかカーンがファンブルするはずがない!誰もが思う場面でロナウドは
ゴール前に走りこんでいた」とNHKニュースのコーナーでジーコは褒め称えた。
(一部表現が異なります)
対して、トルコ戦で日本が1点を失ったシーンが目に浮かぶ。
オフサイドのコールの為に手を挙げながらダラダラとゴール前を走るシーン。
なるほど負けるわけだ。

「危機管理」を連想せずにいられない。
無論、攻撃側からすれば危機でなくチャンスだが、
エラーがあった場合の対応を考えて行動する、という大前提と
チャンスを掴む為にとことんまで喰らい付く姿勢はなんとなく似ている気がする。
そして、ヒューマン・ファクター。「人とは誤りを犯すものである。」

隙を突く確率の話かもしれない。
だが、どんな事でもポイントに結びつく可能性、
つまり何かになるかもしれないという可能性はそこにある。
無為になる事が遥かに多いだろうが、可能性の芽を自分から摘み取る事だけは
やりたくないと思う。逆に種は蒔いておかねば。

最近色々あって凹んでいる自分にエールを送ってみた(苦笑

 
エンターテイメント
韓国で日本の映画が解禁されて久しいが、客が入らないという。
面白くないのだろう。同感である。
客が入るのはアニメくらいではないだろうか。

「突入せよ! あさま山荘」の映画を見てきた。
期待していた映画で、役者の演技も良く、原作に沿った面白いものだった。
しかし、これは原作が面白いからで、原作に無い脚色はもう全然ダメ。


伏線の張り方が下手、タメ(間合い)も下手。そして、ツメが甘く余韻が無い。
私の日本映画全般にに関する感想でもある。
昨年最優秀に選ばれた「ホワイト・アウト」。私にはとても優秀には思えない。

どちらも、演出の<クサさ>が鼻につく。
例えば「ホワイトアウト」、助かるシーン。山場である。盛り上がる。
だが、何故警察官が横一列に並んで迎えに出て、感慨の余り立ち止まるのだろう?
そして、何故その場で終わらず、フイルムが続くのだろう?
「あさま山荘」、突入前日。テンパった時にあのような行動をとる必然性が無い。
検挙後のシーン。あんな状況は現実には有り得ない。

こうしたら余韻があるのではないか、と小手先のテクニックを使い、
それがクサさを招く。嘘っぽさが表れる。タメ(余韻)の時間がおかしくなる。

現実に無いような事でも雰囲気で起りそうと思わせねば。
嘘にもリアリズムが必要だ。
醒めさせたら映画としては落第。
(大根役者がいれば醒めるし、下手な脚本でも醒める。だから私はドラマを見ない。)
我々お客はエンターティメントを求め、映画に没入する事を欲する。

なぜ日本の映画は醒めるシーンがあるのか、不思議で仕方がない。
アニメーションはその辺り大変に上手い。だから世界に通用するのだと思う。

…リアルを見せてエンターテイメントを忘れたアンノって言う監督もいたなぁ…


 
アイデンティティ
0507のNHKクローズアップ現代を見た。
フランスで味覚の授業が始まったのだという。
それ程迄に子供達の「味覚」が鈍くなっているらしい。

「昔、食事をするということは小さな冒険でした。
(中略)今では、高いお金を払わないと出来ません。
(中略)卵だって、買うお店によって味が違ったのです。」
さすがフランス人、食事は冒険!
美味しい物に出会うのも、何時もと違った調理法で食材が予想外に美味しくなる事も、
楽しい冒険とは良く言った!!
そして
違法であることを承知で遺伝子組み替え実験の畑の作物を刈り取り、
違法であることを承知でマクドナルドを打ち壊す!!
ああ、流石はフランス人。

日本人も、鯨を食べる文化を誇るべきだ。
外国の顔色を伺ってまで文化を曲げる必要はない。
対抗措置で輸出が減るかもって?どうせダンピングとか難癖つけて輸入制限される
んだから変わらんって。

…渋谷109下の「くじらや」のバイトが可愛い子揃いなんだわ、これが。



 
紳士と侍とハードボイルド
自己紹介にかいてあるように、私の座右の銘は「紳士たれ」である。
これがカッコいいように見えるが、実は難物である。

日本にはイギリス人にも理解できる、ある種の精神論がある。「武士道」だ。
「騎士道」に通じるこの考え方、基本的には主に従い、己を律するもの。
弱きを助け、強きを挫く、男として模範となるべき生き様。
それは自分、つまり「名」を傷つけることを潔しとしない生き方である。
特に日本では「恥」という考え方で、基本的には「家」つまり苗字を、
自分や家族を傷つけないよう、振る舞いを正す。
当然、身なりはしっかりすべきである(守っていないが)。

「ハードボイルド」小説をご存知だろうか。ダンディな男が、女や金や権威に
溺れる事無く、自分自身、そう、男を貫き通すストーリーである。
そこに、男は美学を見る。
孤独な笑みを夕日に映して、背中で泣いているのである。
これが「武士道」であり、「騎士道」であり、紳士なのだ。

だが。「ハードボイルド」という言葉、これを意地悪く翻訳すると、
「痩せ我慢」というのをご存知だろうか(笑

そう、「紳士たれ」…男は痩せ我慢をするものなのである。
私はこの言葉を座右の銘にして、誇らしくもあるが懐の寂しさに失笑を禁じ得ない。
ましてや、「一期一会」も私のもう一つの座右の銘。
人との出会い、心の触れ合いも勿論、モノとの出会いも一期一会である。
…かまうものか。

 
仕事ができるかできないか
まー、仕事をしているとイライラすることがある。
自分ができると思っている訳ではないが「できない」人は、本当に
1)段取りが悪く
2)気配りが出来なく
3)自分から挑戦しない
なぁと思う。

さて。
バイクに乗ると幸せなのだが、その原因はと考えると
味覚以外の、視覚、聴覚、嗅覚、触覚をフルに使う事にあると思う。
味覚はないが、バイクの味は味わえる(^^
あー、行く先々で旨い物は食べるなぁ。味覚だなぁ。

視覚は言わずもがな。聴覚で不具合を知り、嗅覚でオイルやエンジンの焼けを知る。
車体の異常はもとより、重心移動など感覚で感知・操作するする乗り物である。
周りに気を配らないと事故になるし、先を予測しないと死ぬ事になる。
挑戦!?してるねぇ(笑

バイクに乗る事と、仕事には、共通のセンスがあると思うのだ。
もちろん、道路の真中を時速25kmで周囲に構わず走るおばちゃんは
この条件に当てはめても仕事は出来ない人なのだと…勝手に想像するのである。

以前、やはり仕事が出来ないバイク乗りがいた。馘首になったんだけど。
大型自動二輪の免許を取り、1100ccくらいのバイクを買った。
寒いから、と黒くてでかいハンドルカバーをつけた。
やっぱ、出来ない奴は色んなセンスに欠けているなぁ、と強く認識したものである。

 
運と縁
「買わなきゃ当らぬ宝くじ」という言葉がある。
幸運量保存の法則、なんて冗談もあるが、「運」は度々訪れる。
ただ、その「運」を生かす環境に自分がいないと、運が幸運にならない。
それだけの事なのだ。

例えば、あなたの所に、イラストを描ける人がいない、という
「ボヤキ」が聞こえたとしよう。
あなたがイラストを描けなければ、知り合いにいなければ、それは茶呑み話で終わる。
描けたら? …そう、私が描こうか?の一言で、
ひょっとしたら日本を席巻できるかもしれないのだ。これは冗談ではない。
現に、私がサイトを開いているが故に検索に引っかかり、
私の紹介が元でプロデビューした人がいるのだから(^^; イラストじゃないけどね。
私の幸運ではなかったわけ。
同人誌の世界で「白馬の王子様」が来る、という話を聞いたことがあるだろうか。
出版社の執筆お誘いの事なのだが、実は私の領布していた本の表紙を見て、
一度来た事がある。別の人が描いた表紙で、その人は遠方にお住まいだった為、
進展は無かった。携帯電話普及前の話なので、今なら違った展開になったであろう。
…だが、運を幸運にできる力があったからこその「お誘い」話だったわけで。

運が良い、というのは、多分にタイミングという意味もある。
バイクでコケたが対向車がこなかった、とか、最後の一つが買えた、とか。
「ラッキー」という言葉がこれに当ると思うが、日本語の「運」とは意味合いが少し違う。
運は、やはりそれを生かす環境があってこそ幸運になるのだと思う。
日々、精進が大切だと思う。

「運」よりも、私は「縁(えにし)」を重要視する。
運は時々だが、縁は継続的なものである。
インタネを楽しむようになってから、特にそれを痛感する。
あるギャルゲーをプレイしていたばかりに某有名人と杯を酌み交わせる仲になったし、
フィギュア撮影をしていたからこそ、某有名人と杯を酌み交わす仲になった。
有名では無くとも素晴らしい人たちと、日々交流を重ねている。
(いや、酒ばかりじゃないんだョ。うん。)

この縁から得られるもの。それは大変な価値と情報があるやも知れないが、
何より、自分を磨く事ができるという事である。
だから進んで呑み会には参加するようにしているし(ぉ)企画するようにしている。
私とAさん、私とBさん、という関係しか無いのではあまりに勿体無い。
AさんとBさんが出会う事で、また縁の網が広く、目が細かくなるのだ。
勿論、この広がった網にはより運が掛かりやすくなるのは言うまでも無い。

んが。不思議な事に女性との縁がないのだ…

 
私は柳田邦男を目標にしています
私には本質を見つめるの能力が低いので
氏の「本質を解明する切り口」は目標なのである。

私は学生時代に、幸運にも「品質管理」業務というものを体験できた。
今ではCSと呼ばれる(いや、それ以上に発展しているかも)分野の原型である。
(CMR、そしてCRMと発展しているようだ:2003.01.10)
そこで教わった事は、社会に出てから大変に役に立った。
その当時のメモを一部抜粋してみる。何にでも応用できる。原典は不明。
若人よ、頭の片隅に置いてくれ。(うわっ、年寄り臭っ…俺もまだ若いぞっ!)

図面に書いていないことをまず捜せ
規格は一つ、条件はつけるな
人間を説得しても、物は変わらない
全ての物は部品からできている
不良解析に良品解析も加えよ
如何に作られるか、を「観察」せよ
クレームは数であり、率ではない
基本形を持たない方法は、便方である
わかっていない点を明確にせよ
指示のミス、不足はないか
誰の指示で動いたか、動くべきか
守らないルールは撤廃せよ
指示を出す前に希望を聞け
苦労に情をかけるな
工程で起きれば市場でも起きる
変更は目的以外にも影響する
実態を表す言葉を使え
人は自分に不利な事は言わない

其々の文章の意味は経験し、咀嚼する事で初めて解る事もある。
太字はえるまぁが個人的に重要視するものである。
何が悪いのか、原因(言い訳ではない)を追求し、再発を防ぐ。
この考え方が社会に出る前にあって、私は幸せだったと思う。

  
何故三個なの?
数には意味がある。といっても、なんのこっちゃ、と思う方が多いだろう。
先日買ったゲーム「東京魔人学園 外法帖」で遊んでいて、陽一章で
茶屋で出てきた団子に目が止まった。
一串に三個の団子が刺さり、それが三串、皿に盛られていた。
恐らく、開発時に唄「団子三兄弟」の影響が残っていたのだと思われる。
しらけてしまった。

古の昔、団子は供物であった。
願を掛け、五体になぞらえて一串五個だったのである。
現在も京都の老舗の団子屋では五個一串だそうな。
その意味が薄れた江戸時代。それまで五個一串五文だったのだが、
4文銭が鋳造されたことにより、銭一枚で買える四個一串へと変化した。
(4000文で一朱、四朱で一分、四分で一両。)
三個一串は実に、平成の世まで待たねば登場しない筈なのである。

定食についてくるお漬物。なぜ二枚なのか。
いや、刻んだのはとりあえず今回は関係ない。
一切れではケチに見られる。お客様にも失礼である。
三切れは「身を切る」に繋がる。
四切れは「死」に繋がる。
五切れでは多すぎる。メインなのか付け合せなのか。
だから二切れなのである。

数には意味がある。意味が無くなっても、それは伝統なのである。
(伝統は意味があろうが無かろうが、続いているから伝統なのだ)

いや、外法帖をやる気が無くなった本当の理由は、
会津候に「私の新撰組を江戸に派遣しましょうか」と
言わせているからなのだが。あまりにもお粗末…。

 
ZILCH (ズィルチ,Six-Dice sands)
 10年程前、六本木のドイツ風BARで面白いゲームを見かけた。
サイコロを6個、ウレタン製のカップに入れ、バコン!とカウンターに
被せてポイントを競っている。名前はわからなかった。
それから数度足を運び同席の客にルールの切れ端を聞いたものだが、
面倒くさい、と最後まで相手にはなって貰えなかった。
 数年後、友人きゃめる氏が<GREED>というゲームを買ってきた。
面白いからやろう、と言われたそのゲームは、正にあのダイスゲーム。
印刷が$GREEDの六文字でゲームしやすくなっている事が違ったが。

 インタネを始めた直後、Six Dice(シックスダイス)と言うのではないかと検索したものだが
日本語サイトでは全然見つからないので忘れていた。
あのニコリでさえ紹介していないのだ。
…簡単だった。外国のサイトで探せば良かったのだ。あほである。

zilch
用意するもの:ダイスカップ、ダイス6個、紙と鉛筆。
ポイント:
目(コンビ) ポイント 目(コンビ) ポイント
100 5-5-5 500
50 6-6-6 600
2-2-2 200 1-1-1 1000
3-3-3 300 123456 1500
4-4-4 400 zilch(sands) 0
注)コンビは一振りで揃わねば成立しない。
ポイントになるダイス(コンビ)を「カウンター」と呼ぶ。

ルール:プレイヤーはダイスを6個カップに入れ、振って伏せる。
重なった場合はやり直し。こぼれたらターンオーバー(だと思う)。
必ずカウンターを出しつづけなければならないのがこのゲームの要だ。

カウンターが出た場合、そのダイスの目を保持したまま、脇に避ける。
何個、何組を脇にどけても構わない。
(一振りに付き一カウンターだったかもしれない。
なお、11あるいは5がでたら、必ずどけるルールのほうが燃える)
残ったダイスを振りつづける。
カウンターが出続ける限りダイスを振る権利があるが、
振ってもカウンターが出なかった時、ターンオーバーとなり、
そのターンのポイントは0、「zilch」(あるいは「sands」)になる。
つまり、カウンターが出ている段階で振る事を止め、
自発的にターンオーバーしなければポイントにならない!

そして、ポイントを溜めるには、最低要求ポイントをクリアしている事が
必要である。初めてポイントを溜められるのは500ポイント以上が出た場合。
500ポイントを超えた段階で、500+ポイントが紙に記録される。
一度このハードルをクリアすれば、次回以降は350ポイントを越えた場合から
350+ポイントで記録される事になる。
最低ポイントをクリアしない場合はもちろん、ポイントは記録できない。
従って記録されるポイントは、初回が500未満二回目以降350未満という事は
ありえない。

ダイスを振る毎にダイスの数が減ってゆくわけだが、6個とも無くなった場合、
そこまでのポイントを控えておき、6個ともカップに戻して同様に続ける。
つまり、最低ポイントを得る5の目が6回出た場合、
最低要求ポイントには達していなくても振りつづける事ができるわけである。
もちろん、カウンターが出ない時点でZilchになるが。

ゲーム終了は5000ポイント。
5000ポイントを超えてもなおカウンターが出続ける場合、任意の取り決めで
ターンオーバーまで加算しつづける事もできる。

なかなか最初の必要要求500ポイントが出ないうえ、
1人が出ても相手が出ないとなると、もう独走、という状態になる。
チンチロリンや丁半といった日本の博打と違う熱さが体験できること
請け合い。
くれぐれも、1ポイント1円などというレートで掛けないこと。( ̄▽ ̄

(Six-Dice sandsはzilchと微妙にルール、ポイントが異なる。)
TWINSON COMPANY URL: http://www.infolane.com/twinson/というところが
考えたらしい。

 
ことわざ
「情けは人の為ならず」
情けを掛けたらその人の為にならないよ、という意味だと思っていたら
情けを掛けると廻りまわって自分の為になるんだから…
という意味だと随分前に聞いた。

「弘法は筆を選ばず」
弘法大師(名人)はどんな筆(道具)でも上手く書ける、だと思っていたら
弘法大師くらいになると選ぶでもなく良い筆を手にとる、んだそうで。
ちょっと穿った見方ですなぁ。

「井の中の蛙、大海を知らず」
というが、続くのが「空の蒼さを知る」だという意見があるそうな。
本当かしら?
原典:荘子「井蛙不可以語於海者、拘於虚也」
…誰が作ったんだ?

全く、何処から何処まで信じていいのやら…

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