2月の日記とエッセイ
2006/02/28(火) 県庁の星

なんだ、もう、3月になるのか。
この時期って季節がとても中途半端で、時々、今がわからなくなって・・・
だから、たぶん、ほとんどの人達が、「もう、3月か?」になってしまうんだろうな。
とりあえず、オリンピックも終わったし、かかりっきりの仕事も一段落、
ついたことだし・・・ここらでゆっくりとイスに腰掛けて
「さぁ、この先、どんな楽しみが私を待ってるんだろうか?」とじっくりと考えてみる。
・・・なんてね。そんなこと言ったって、私には仕事しかないんだよなぁ。
あぁ、やだな、そんなつまらない人生は。
明日もとても忙しい。まぁ、そんな忙しさも、
あとになって「よかった」と思えればそれでいいんだけど。
そういえば、織田祐二さん主演の「県庁の星」が大ヒットしているとか。
実は先日、うちの奥さんが「”県庁の星”、絶対見ようねっ!」と
勝手に前売り券を2枚買ってた。(私も見に行くのか?)
でも、とっても楽しみ。
私の今の職場、「食品スーパー」が舞台みたいだし。
あぁ、そうか、3月はこれを楽しみにしよう。
これを楽しみに、もうちょっとだけ頑張ってみよう。
「県庁の星」。
私は「スーパーの電球」(意味不明)
よしよし。
2006/02/28 23:41:47
2006/02/26(日) 大嫌いな理髪店

わが家の散髪は、ずーっと奥さんがしてくれてるのだけど
「そろそろ理髪店でしてくれない?」という
半強制的威圧感(あぁ、なんて怖い漢字の羅列)のある言葉で
私は恐怖におののいた。
私はかれこれもう10年くらい理髪店には行っていない。
ずっと素人の奥さんにしてもらっている。
(うちの奥さんは、元美容部員。しかも3ヶ月で辞めたといういわくつき。)
昔の日記にも書いた記憶があるけれど
私はどういうわけだか、理髪店がだいっきらいだ。
なぜだか理髪店に行くと、とても不快な気持ちになってしまう。
昔、たまたま、ある店で、ものすごく怠慢な接客態度をとる店員さんがいて
それがずっとトラウマになって、それ以来、無理やり奥さんに
散髪してもらったという経緯がある。
だいたい私は、今でも人見知りな性格なもんで、あんなふうに見知らぬ誰かと
ふたりきりで、無駄な業務的な会話をさせられて、そして、髪を触られて
というのがどうも心が受け付けない。そんな私なもんだから、もしかしたら
相手の店員さんが、どんなに普通に接客してても、私には最悪に映るのかもしない。
(10年前の記憶なんで、今の理髪店がどんな状況か知らないけれど。)
そういえば、10年前に行った最後の店では、店主のおじさんが
いかに個人経営の理髪店が儲からないか、売上が上がらないか
という愚痴を、嫌というほど延々と聞かされた想い出がある。
あれは最悪だったなぁ。話がそんな内容だっただけに
「それじゃ、また、来ます」なんてにこやかに言ったけれど、
あれがみごとに最後になった。
で、奥さんの「散髪、辞めます宣言」をどうにか阻止しようと計画中だ。
仲間にと、息子のゆーくん(小学3年生。息子もずっと奥さんの散髪)にも
知恵を絞ってもらっているけど、彼の場合「僕は散髪屋でもいいよ」と
早速私を裏切ってきたっ!
こりゃいかん!私はゆーくんを説得する。
「でもね、ゆーくん。散髪屋に行くと、ちゃんと好きな髪形にしてもらえるように
口で説明しなきゃならないんだよ。そういうのって出来るの?」
そういうと、何の不安もなくゆーくんは、こう言い切る。
「大丈夫だよ」
驚いて私は、また、聞く。
「じゃ、何て言うの?」
うーん、と悩むこと約5秒。
「そうだ、坊ちゃん刈りでってお願いする!」
その答えに、思わず大笑いしてしまった。
いいね ・・・坊ちゃん刈り。(どこで覚えたんだろう?この言葉)
もはや、死語じゃないのか、この言葉は。
でもね、がんばれ!わが息子よ。
お母さんに髪を切ってもらうことが
一番最高だって、いつかわかるから。
2006/02/27 0:00:25
2006/02/24(金) 心がまだ、見えていた頃

1年前の日記をたまたま見てたら、
こんな小さな物語を書いていました。
ちょっと懐かしくなって、もう一度、書き直してみました。
たぶんこれは、私が小さな頃、よくわけもなく泣いていて
そのたび、先生に叱られていて・・・そんな悲しい想い出から
きまぐれに書いたような気がします。いわばこれは
私にとって、物語というより、小さな頃の私といえるのかも。
明るく元気な子供時代だった人には
たぶん、読んでもつまらない話だと思います。
でも、幼い頃、泣いていて、それが大人や友達にわかってもらえなくて・・・
という実に不器用で泣き虫だった子供時代をおくった人には
少しはこの気持ち、わかってもらえるのかなぁ・・・なんて思います。
子供の頃、泣いているときの心の中は、実は一生懸命に
走るかのように、いろんなことに戦っている自分がいたような気がします。
今はもう、あの頃の気持ちは薄れてしまったけれども、かすかな光となって
今も私を少し照らしている気がします。
実は私は密かに思うのですが、はるか昔、人は、みな
誰もが人の心を見ることが出来たんじゃないのかと。
人はこうして”心”というものを知っているのに、見えないことでこんなにも
間違った争いや哀しい出来事を、いつまでもくりかえしている。
本当は見えていたのに、人はその心を大切に扱わなかった。
その結果、いつしか心をあまり見なくなって、それでいつしか退化してしまって
ついには形あるものしか、見えなくなってしまったのではないのかと。
妖精も本当は見えていたのかもしれない。
木や動物たちとも、心を通わせることが出来たのかもしれない。
心が見えていた頃に見えていたものが、本当は世の中にはたくさんあるのかもしれない。
そう思うと、今のこの生きにくい時代は、人が形あるものしか信じなくなった
愚かな結果のような気がして、ふと寂しく思えてきます。
・・・なんて、実にバカな考えです。
でも、私はそんな気がしてなりません。
今の世の中は、お金を多く手にした人だけが、まるで”勝者”のような作りになっています。
私は今、食品スーパーに勤めていますが、売上がそう伸びることのない今の時代、
上司は常に売上を伸ばすことばかり考えていて、肝心のお客様の心を見なくなっています。
(今の世の中に起きる信じられない出来事も、そんなことばかりですよね。)
そんなところでも、愚かな人の過ちを、くりかえしているような気がします。
もちろん、きれいごとを並べても仕方がないでしょう。
私も売上を伸ばさないと、十分な給料はもらえないわけですから。
でも、心を見ずに、お客さんを騙すような(というと語弊があるけど)
ただ、売上を伸ばすためだけの今のやり方に、正直、うんざりしています。
私はただ、単純に、お客様に喜んでもらって、それが売上になってくれれば
それが私の働き甲斐になるし、単純にそれでいいだとも思っています。
でも、それでは生き残れないわけです。
なんて生きにくい世の中なんでしょう。
お金に関係なく、生きる術があればいいのに。
勝者だけが生き残るような、世の中なんてなくなればいいのに。
私のような考え方は、たぶん、負け犬の遠吠えにしかならない。
でもこの遠吠えは、聞こえる人には聞こえるのだと私は信じていたい。
信じるというその気持ちが、私には心が見えていた頃の
かすかな名残のような気がしますから・・・。
2006/02/24 23:19:11
2006/02/24(金) 鬱の疑問

外はなんて明るいんだろう。とてもよく晴れていて
とても虚しくなる。ここ最近、ずっと無気力な感覚が抜けなくて
また、病気が悪化したのかなぁなんて思う。
実は鬱の薬をもう1ヶ月以上、飲んでいない。
鬱の薬はほとんど副作用がないと聞いていたけれど
これまで経験したことのないような腹痛に私は悩まされ
薬を一時、やめてみたのだった。
もちろん、鬱の薬が直接の原因だったのかはわからない。
ただ、あまりにも痛みがひどかったので、内科の病院にも行ってみたけど
調べてもその原因はまったくわからず、鬱の薬を服用していることを
伝えたうえで、とりあえずの薬をもらった。
でも、それでも、腹痛は治ることはなかった。
それで何気なく、鬱の薬をやめてみたら、その腹痛は収まった。
不思議だった。なぜなのだろう?よくわからないけど
たまたま私に鬱の薬は合わなかったのかもしれない。
誤解をして欲しくはないのだけど、鬱の薬そのものがダメだと言いたいわけじゃない。
鬱という病気は、脳内にある物質の不具合から憂鬱な気分がいつまでも
抜けないのだという。その不具合の手助けするのが鬱の薬だといわれている。
ただ、私が思うのが、鬱がすべてそのために起きるものなのかなぁ?というそのこと。
心の病気はもっともっと、計り知れないくらい奥が深い気がしてならない。
出来るなら、薬に頼らないほうがいいのだろう。でも、時として
薬に頼ったほうがいい場合もあるのだろう。
私の場合は、(私の勝手な判断だけど)鬱の薬はあまり効き目がなかったように思う。
半年ほど、飲み続けたけれど、薬を飲んでいるという安心感しかなかった。
私には、脳内の物質というよりも、別に何か原因があるような気がしてならない。
はじめての診察のときも、私は何か小さくも釈然としないものがあった。
いくつかの質問を受け、それで”鬱”と診断され、「脳内の物質の・・・」と
医師から説明を受けても私には、「そうなのかなぁ」という疑問がいつまでも
抜けなかった。
鬱の場合、癌とか肺炎のように、何かレントゲンに影が映るような
具体的な形あるものに見えることはない。何か数値で判断できるものでもない。
すべてはその気分によるもの。見えないその心みたいに。
ただ、その簡単な質問だけで、その回答だけで「脳内の物質が・・・」と
決め付けたような感じがどうも、私には、うまく言葉には出来ないけれど
”違うんじゃないか?”という小さな疑問がいつまでも抜けていなかった。
今、これを書きながら、私は不思議に思っている。
私は何が言いたいんだろう?
私のこの考えは、たぶん、間違っているように思う。
途中で治療をやめたりしないで、続けたほうがいいのだと思うし
また、もしも、鬱の治療を考えている人や、今、治療中の人がこれを読んで
「やっぱり薬は止めたほうがいいのか?」と考えてしまうと「ちょっと、待って!
これは勝手な私の考えだからっ!」と一生懸命止めたくなる。
結局のところ、心はよくわからないに行き着いてしまってどうしようもない。
今の鬱の治療方法が、ちゃんと研究を重ねた結果なのだと私は信じたいし
それによって救われた人も数え切れないのだと思う。
ただ、人の心はやはりいろんな意味で、いろいろと形が違うのだと思う。
私は今、自分の心が何を求めて、どうしたいのか?それがまったくわからなくて
この手足にまでその指令がうまく伝わらなくて、いつまでもずっと動けやしない。
一体、どうすればいいんだろう?
今、私は鬱を治すというよりも、無性に誰かと話をしたい。
それだけで、なぜだかわからないけれども、心が救われるような気がする。
でも、現実には誰とも話をしたくはない。そんな矛盾が私を苦しめる。
外は何て、よく晴れているんだろう?
こんな部屋の中で、こんな日記を書いていて
私は何をしてるんだろう?
外はこんなにも、晴れているというのに・・・。
2006/02/24 12:06:59
2006/02/21(火) 隠された本当の私

あの頃から、ずっと心に引っかかってた気がする。
あれは、私が中学生くらいだったか、
その状況は、詳しくは忘れたけれど
確か、父に切らしたタバコを買ってくるように言われ
なぜか、私はそれにものすごく腹を立てていたことがあった。
別に腹を立てるほど、父にひどい言い方をされたわけでもなく
別にそれは特別なことだったわけでもなくて、いつもそんなふうに
私は気軽に近くのタバコ屋に買いに行くのに、とにかくその日は
むしゃくしゃしていて、あきれるほど機嫌が悪かった。
心に引っかかる出来事は、その後に私に起きた。
タバコを買って家に戻った私は、父にお釣りを返そうとした。
父は笑顔で「ありがとう」といつものように言うと
お釣りを受け取ろうと右手を出してきた。
その右手に私はお釣りを乗せようとせずに
そのままま床の上にバラバラっと落としたのだった。
その行動に、自分でビックリした。
そして、もっともビックリしたのは父のほうだった。
「お前がそんなことをする子だとは思わなかった」
父は叱ることなくそんな言葉を
ポツリと哀しげに私につぶやいていた。
そのあと私は泣いたのか、それとも部屋に引きこもったのか・・・
たぶん、何も言わないで、ただ、ぼーっと立っていたんだろう。
何も感じることもなく、どんな表情も浮かべることもなく・・・
そして、今、父のその言葉だけ心に、
ずっと消えずにこうして引っかかっている。
なぜだかわからないけれど、今頃私はその何かに
ようやく気付いたのかもしれない。
たぶん、父はいつも素直な私に別の一面を見つけてしまい
本当に哀しかったのだと思う。本当に寂しかったんだと思う。
でも、あの私が、たぶん、隠された本当の私なのだと思う。
今も私は人からは、たぶんまじめでいい人と思われている。
幼い頃から、いつも私はそう言われ続けた。
でもそれは、私が傷つきたくないためだけの、私の必死な行動によるもの。
すべての人に好かれることなど、不可能とわかっていても
私の心は常に疲れている。
そして、時々、本性の私がこうして現れる。
傷つけられた誰かに傷つけるためだけの言葉を探そうとしている。
その荒れた心のままに、無関係な誰かをも傷つけようとしている。
心が暴走をし始める。あのお釣りをわざと落としたときのように。
認めたくはないけれど、私はどうしようもなく臆病だ。
認めたくはないけれど、私はどうしようもなく冷たい人間だ。
認めたくはないけれど、認めたくはないけれど
それが私という人間だ。
それをわかっていることそれが、大切なことなのかもしれない。
別に誰かに優しい言葉を、求めているわけじゃない。
人は誰もそんな一面を、どこかに隠しているものなのだろう。
人は誰も人には言えぬ、酷さを抱えているものなのだろう。
けれど、傷つけてしまったその心は、傷ついたこの心は
ずっとその場所に居続けている。
その苦しみは解かれることなく、その事実は変えられることもない。
それが、ただ、そのままに、こうして私を戸惑わせるだけだ。
父はもう、死んでしまったけれど
あのときの言葉がまだ、私の中で生き続けている。
あのときを後悔しながらも、まだ、父に何か言いたいと
心の中はあふれている。
それが遅すぎることと、わかっていても
おもちゃをねだる子供のように、
心はずっと、あきらめきれないで・・・
生きてゆくことはたぶん、体に出来た傷の痛みを
ひとつひとつ憶えゆくことで、人がこうして生きられるように
心に出来た傷も同じように、そんな意味があるのかもしれない。
だから人生は、哀しくも苦しくも、こんなにも愛おしい。
2006/02/21 10:37:41
2006/02/19(日) 裸の人間

忙しい日々をいやというほど過ごし
気付けば何もかもイヤになった。
自分に嫌気が差したとき、私はすぐにそれがわかる。
鏡を見たくなくなるのだ。こんな自分を見たくないのだ。
こんな自分を認めたくないのだ。
目をそらしながら、私は手を洗ってる。
手はとりあえず、表情を持たないから
私は手をじっと見てる。
変だな、と思う。不思議だな、とも思う。
普通に目の前にある鏡が、
こんなにも私を不愉快にさせるなんて。
馬鹿だな、愚かだな、情けないな、
弱虫だな、泣き虫だな、卑怯だな、最低だな・・・
ありのままの私をただの言葉にしたら
そんなありふれたことしか思い浮かばない。
しゃーないか。
それが裸の人間だもの。
もう寝よ。
2006/02/20 0:13:07
2006/02/13(月) 波のように

家族や子供たちはもう眠っていて、遅く仕事から帰ってきたら
私のこのノートパソコンの上に、まーちゃん(小学6年の娘)のこんな書置きが。
父へ。
早く帰ってこないのが悪いんだっ。
ということで、タイ王国(バンコク *これは首都だから気にしないで)
について、なんでもいいので調べといて。
絶体(対?)ね! |
ということで、さっきまでタイ王国について調べてました。
(私がいないときに勝手に、パソコンは使ってはいけないことにしている。)
やれやれ。この頃の小学校は、一体どんな勉強してんだ?
それより”絶対”という漢字を、ちゃんと覚えたらどうなんだ?
この春、まーちゃんは中学生になる。
つい先日、新しい中学校への体験入学も済ませたばかり。
いろんないい意味で、いい刺激を受けたみたいで
部活動もさっそく”美術部に入りたい!”なんて言ってた。
(ちなみにまーちゃんは、絵を書くことが大好き。)
奥さんいわく。その中学校は、校舎が広くて活気があふれていて
とてもいい雰囲気みたい。
よかった。一安心。
今日は昨日と違って、とても心は晴れやか。
心の向こうからやってきた憂鬱は
そのまま抜けて過ぎていったみたい。
やれやれ。何て気まぐれな心なんだろう。
でも、この気まぐれが
私は好きなんだなぁ。
心はね、波があるほうが心地いいんだ。
ゆらりゆられて夏の海みたいに
風にまかせてしまえばいいんだ。きっと。
そう、いつも波のように
いつも、感じていられるように。
2006/02/14 0:47:53
2006/02/12(日) 心の向こうから

やってきました。心の向こうから。
久しぶりに、こんな気持ちが。
沈んじゃってます。どっぷりと。
やだね・・・なんか。
理由としては、いくつかあって・・・。
そのうちのひとつ。
また、ひとり、社員が辞めてしまったこと。
まだ、若いと言うのに・・・彼が私に最後の挨拶をしてきたとき
私は「お互いにがんばりましょう」なんてありきたりなことしか言えなくて
本当は「この先どうするの?本当にそれでいいの?」と尽きないくらいに
聞きたかったけれど、なんだかそれは、ルール違反のような気がして
触れてはならないことのような気がして・・・とても私には聞けなかった。
それに私が聞くまでもなく、彼は悩みに悩んで、悩みつくしたその結果が
そのひとつの答えだったのだと思う。
私がそんなこと聞いても、ただの余計なお世話というもの。
私が助けられるわけでもない。
あんなに頑張っていて、汗を流し夜遅くまで頑張って
それで意に反した転勤に、きっぱりと笑顔で辞めるその勇気。
うーん。それを勇気といっていいのかわからないけれど
そんな人生の選択に、他人事だけど、すごいというか、あーあと思う。
去ってゆくときは、こんなにも静かに人知れず
去ってゆく。会社から暖かな言葉が(たぶん)あったわけでもなく
もちろん、そこに感謝のような笑顔があるわけでもなく・・・
辞めてゆくときは、いつもその人の背中には、そんな冷たい風が吹く。
あーあ。やだね、こんなのって。
同じ仕事をしていて、辞めてゆく人を見送ることはやっぱり哀しい。
どっちが正しいんだろう?というような不安がどうしても生まれてしまう。
明日はわが身か?というような自分勝手な陳腐な不安だ。
そこにはなんの優しさもない。
あーあ。私にとってはなんとなく、心開ける人だったから
自分が思っているよりも、心はかなりのダメージを受けてる。
なんか、小学生レベルの寂しさだな。友達(と言えるほどでもないけど)
がひとりいなくなったくらいで、大人の私がこんなことじゃ、ダメだよなぁ。
この先の不安は絶え間ないけれど、今はまだ、私はココでがんばらなきゃ。
家族を自分を、守らなきゃ。がんばらなきゃって思うけど、
なんか、それって息がつまる。
なんて甘い考えだと、心ではわかっているし
生きてゆくにはそれなりの、覚悟が必要だともわかっているし・・・
それでももっと単純に、ただ、誰かに喜んでもらうために
この仕事が出来ればいいのに、と私は心から思う。
恥ずかしいことだけど、はっきりいって、今の生活は苦しくなるばかり。
給料は下がる一方で、持ち家もない(持てない)この私に、
もしも仕事を辞めなきゃならない立場に追いやられたとしたら
私は恐らく、無様にも、この仕事にしがみつくだろう。
”お願いですからどうか私を、”と、私はプライドも何もかも捨てて、懇願するんだろう。
ただ、家族を守るために、この生活を維持するために。
あーあ。
でも、そのときの私にならないと、本当はどうするのかわからない。
頑張るしかないだけのはずなのに、もう、なんだかあきらめてしまってるような
そんな無気力におそわれる。おいおい、私よ、どうすりゃいいんだ。
愚痴ばかりだなぁ。
こんなくだらない日記は、ぐしゃぐしゃにして投げ捨てても
たぶんごみ箱を大きく外れて、床を転がって、そのままベットの下にでも
もぐりこんでしまうんだろう。
あーあ、どうしようもないや。こんな私は。
あとの理由は、いくつかあるけれど、もう書くまい。意味がない。
どう書いても似たようなものだ。
久しぶりにやってきたなぁ。こんな気持ち。
一体、どこに隠れてて、そして現れたのかなぁ。
あぁ、わけも分からず哀しい気持ちになる。
この先を生きてゆくことって、つまりはこんなことなんだなぁ。
何も見えない、何も確かなものもない。あるのは非情な現実だけ。
あるのは夢のような幻だけ・・・。
でも、でも、と繰り返すような、かすかな望みがあることを
それでも信じてゆけるような、いつか、私で、私でいたい。
私でいたいというのに・・・。
2006/02/13 0:17:24
2006/02/09(木) ありふれた朝でも

久しぶりの休日。今日は特に予定がなかった。
ボーとした頭のまま、さて、どうしよう?と思っていたら
とても久しぶりに図書館へ行きたくなった。
思えば年末に借りて以来、忙しくてずっと本を読んでいなかったのだった。
なんてことだ。こんなことじゃいかんなと思った。
子供の「いってきます」の声を送りつつ、(奥さんはすでに仕事に出掛けてる)
朝食にパンを食べシャワーを浴びて「とくダネ!」を見つつ、
洗濯物を干して、ジャスト9時。車で出掛ければ、ちょうど9時30分の開館に間に合う。
(これがいつもの私の図書館への準備)
図書館までの運転にBGMを選ぶ。
昔のカセットテープからユーミンの「ラブ・ウォーズ」が出てくる。
懐かしくなってこれにする。
歌を聞きながらつくづく思う。彼女の歌は、映画を見ているようだなぁと。
昔見た映画をまた見ているようなイメージ。そしてまた、同じシーンで
泣いてしまうような切なさ。喜び。まるで彼女の言葉そのものが
映像のようで、音楽のようだ。
やがて図書館に着いて、ゆっくりと本を選ぶ。
ここはわりと大きな図書館で、私は結構気に入っている。
駐車時間が1時間と決められてなきゃ、もっとゆっくりと本を選べるんだけど。
今日借りたのは、五木寛之さんのエッセイと覚和歌子さんの本。
(まーちゃん(小学6年の娘)の好みそうな本も2、3冊借りた。
ちなみにまーちゃんはダレンシャンの大ファン。)
覚和歌子(かく・わかこ)さんは、「千と千尋の神隠し」の主題歌
「いつも何度でも」を作詞した人。私はこの歌が大好きで
彼女の本は、以前にも借りたことがあって、「見えないものの大切さ」という
その考え方にとても共感して、密かにファンでいる。
五木さんは私がずっと若い頃「生きるヒント」で随分と助けられて
それ以来の長いファン。五木さんのエッセイが出るたびに、私は
必ず読んでいる。
さて、本を選んで私はカウンターへ。
「これ、お願いします」と言って、本と図書カードを係の女性に手渡す。
彼女は20代後半くらいだろうか?ちょっとOL風できつそうな顔つきだけど
そのメガネはよく似合っている。
何か書類の整理をしていたその彼女は、私にちょっと邪魔されたせいか
ちょっと「むっ」として、それでも、ちょっと「はい」と明るい声で
わずか1秒で自分の気持ちを、コントロールしているみたいだった。
図書カードにあるバーコードを読み取る。
ピッといつもの音がなると、すぐに別のエラーのような音が。
彼女の頭にハテナマークが浮かんだみたいに、「うーむ」といった
表情をしている。なんだろうと私は不思議に思う。そして、私にこう尋ねた。
「あのう・・・まだ、返却していない本が一冊あるみたいですが・・」
「え?」と私はかなり驚く。でも、もしや、とどこかで思い当たる。
以前返却したのは、去年の年末のこと。私が忙しくって
図書館が休館日に、返却ボックスに10冊入れたのだった。
全部返したつもりが1冊、部屋のどこかに残っていたんだろう。
「何と言うタイトルですか?」と私がたずねると
彼女は、”このタイトルは声に出しちゃ、いけないもの”と思ったのか
静かにパソコンのモニター画面をくるりとひっくり返すと
それを指差し、私に見せた。
タイトルは「寺山修二少女詩集」。
いや、寺山修二を知ってる人なら、全然恥ずかしくは
ないのだけど、その彼女は、知らなかったのか
勝手に気を使ったようだ。
やれやれ。
まるで私は、アダルトビデオを返し忘れた人の構図になってしまった。
困るよなぁ。図書館員が寺山修二を知らないとは。
ま、とりあえずは、今度返却するときに、一緒に返してくれればいい
ということで収まったけど。でも、よく考えたら、2ヶ月以上も
ずっと借りっぱなしになってたわけだ。彼女に感謝。
すいません。ごめんなさいです。(メガネ、とてもいい感じですよ。)
帰り道、空が青くって、少年みたいにワクワクとした気持ちになった。
まわりの人たちもうれしそうで、私もなぜかとてもうれしくなった。
テープからはユーミンの「アニバーサリー」が流れている。
私のとても大好きな歌。なんていいタイミングなんだろう。
♪ありふれた朝でも 私には記念日。
なんて気持ちのいいフレーズ。
こんな気持ちを忘れないでいよう。
2006/02/09 20:52:23
2006/02/07(火) スリップ事故多発

いきなり寒くなって、季節も風邪を引いたかのよう。
なんて、メルヘンしている場合じゃなかった。
店の駐車場では、スリップ事故が多発して、クレームの嵐に。
私が直接、対応したわけじゃないけれど
昼食も食べずにお客さんと話し合ってた管理職のあの難しい顔
(簡単に言えば機嫌の悪さ)は、つまり、そういうことなんだろう。
お客さんの言い分としては、「店が雪かきをするなど、
駐車場で車がスリップしないよう対策を怠った」
というあたりじゃないかと思う。
雪かきはしたけれど、そこまで対応が間に合わなかった、というのが
店の本音の部分だと思う。駐車場のおじさんいわく、
実際、スリップしなかった車もあったそうだし、原因を追究されても
とても難しいことらしい。
そうはいっても、何十万もの修理代がかかるわけだ。
どちらかが責任を認めるまで、お金はあっちに行ったり
こっちに来たりで・・・
結局どうなったのかはわからないけれど
店側に非があるなら素直に認めるべきだろうし
そうでなけれは、どうすればご納得いただけるのか
それをひたすら考えるしかないだろう。
あぁ、今、他人事のように私は書いているな。
でも、もしも、責任を取れ!と言われたら
私はどうするんだろう?
あぁ、本当にイヤだなぁ。
こんなたくさんのお金が絡むと。
いっそのこと、すべて燃えてしまえばいいのに。
2006/02/08 0:27:50
2006/02/06(月) イライラしないコツ

これは私のメモ書き。
イライラしないコツは
ひとりで頑張ることじゃなく
時間を作ることだなぁ・・・と
今頃になってわかってきた。
実に投げやり的な言い方かもしれないけれど
所詮、私ひとりなんて、とてもちっぽけなもので
何の役にもたちゃしない。
たとえば私ひとり、仕事に行かなくたって
別にたいしたこともなく、なんとかなるものだし
一生懸命、頑張らなくても(もちろん、頑張ることはいいことだけど)
その力は微々たるものだ。
大切なのは、周りの人を巻き込んで
一緒になってすることだ。
一緒になって楽しむことだ。
ひとりじゃなく、ときにはワイワイと関係のない話でもしながら
最小限のするべきことを、手帳に書き込んで忘れないように
それさえ忘れないように、確実に行うこと。
それでいいんだ。
わかっているようで、全然わかってなかったんだなぁ。私は。
でも、やっと、わかった気がする。やっと、そのことに。
すると、随分と気が楽になったような気がする。
難しいことって、こんなふうに
単純なことで何とかなるんだなぁ・・・
なんてね。
以上。
メモ書き終わり。
2006/02/07 0:02:35
2006/02/04(土) 空の青さと子供の笑顔と

人の心は、案外、簡単にどうにでもなるものだなぁと、この頃の私は思う。
人の、といっても、それは私自身のことだけど。
最近、とても穏やかな気持ちでいる。
不思議と何にも気にもせずに、空を眺めているような感じ。
忙しそうにしているいつもの自分が、どこか間違ってると
漠然と思うようになってからは、自分の時間の流れで私の
この道を歩くようにしている。
とはいっても、どうしても時間に追われてしまう。いつもそれが現実だ。
気付けば私の人生の、二度と戻らぬ大切な時間が知らぬうちに終わっている。
もっと踏みしめるように、私は時を歩いていたいのに
本当はいつも、もっとたくさんの笑顔で私はいたいというのに
心は痛むことばかりで鏡の中の私はいつも、苦しいような表情ばかりしている。
どうしたらいいのだろう?そんなことを、この頃、ずっと考えていた。
そんなとき、ふと、昔、思い浮かべていたある方法を私は思いついた。
それは、家電店で働いていた頃の私のひとつの心を落ち着かせる方法。
そうか、いつしかすっかり私は忘れてしまってた。
あの頃、クレームにあうたびに、心に強く念じていたと言うのに。
別にそれは特別なことではなくて、画期的な方法でもなくて
誰もがたぶん、無意識のままにしていることで・・・
ただ、ちゃんと言葉にしていないだけのこと。
なんだかもったいぶってしまった。
答えは簡単。
たとえばあまりにも忙しすぎて、自分を見失っているとき
またはお客さんに叱られて、むっとした気持ちになってるとき
そんなとき、私は自分の子供たちのことを思い浮かべるようにしている。
すると暴走しかけた気持ちに、ゆるやかにブレーキがかかってゆく。
たとえば私がクレームを言うお客さんに対して(または、私に叱り飛ばす上司に対して)
正直、怒鳴りたいような気持ちになっているとする。たぶん、その表情は
悪魔のように、ひどく濁ったものだろう。
そのときの状況で、私がぶつけたい気持ちのままに、その怒りをあらわしてしまえば
私の気持ちは一時、収まるかもしれない。自分を正当化するために
簡単に嘘を言ってしまえば、自分の立場やプライドは、一時は守られるかもしれない。
そして悪魔の私が耳元で、こんなふうにささやくかもしれない。
「ほら、やっちまいなよ」と。
そんなとき、私は自分の子供の顔を思い浮かべる。
もしも、私の子供が今、ココにいて、こんな私を見ていたとしたら
どんな風に思うんだろうかと。
つまりは、今の自分から少し離れて
私は自分を客観的に思ってみる、ということ。
すると見えなかった間違いが、私の中で見えてくる。
あの子供の笑顔が私の間違った思いを正してくれる。
「お父さん、それは違うよ」って。
すると、不思議と我慢が出来る。
いや、我慢じゃないな、弱い自分を認めることが出来る。
あぁ、そうか、こんなふうになったのは、私のココがいけなかったんだろうと。
すべての私の心を傷つける出来事は、どんなことでも相手が100%間違っている
なんてことはありえない。どこか自分が間違っている。というか
自分の間違いがほとんどを占めている。その間違いは、怒りや恨みが生まれてしまうと
どうしても都合よく見失ってしまう。
それをちゃんと見せてくれるのは、私の場合、あの子供の無邪気な笑顔だ。
どんな大人でも、子供の前で、誰かを叱り飛ばすことは出来ない。
それが唯一、出来るのは、その子供を守るためか、もしくは家族を守るためだけだ。
それでも子供の目の前で、怒りをあらわにする大人がいるとしたならば
それはもう、自分の子供を愛せていないのかもしれない。
そんな姿は、子供に見せるものじゃない。
愛するものを忘れてしまうなんて、なんて哀しいことなんだろう。
生きることはつらいことの、連続にしか過ぎないけれど
ちゃんと”心”を忘れなければ、穏やかに生きていられる、と私は信じる。
今はただ、忙しすぎて、誰もが本当の自分じゃなくなってるんだ。
心を忘れそうになって、本当の自分がどっかいってしまって
今、まさに誰かの言葉に傷つきそうになって、そしてその誰かを
思いっきり傷つけたくなったとき・・・
そんなときは、大切な誰かを思い浮かべて欲しいと私は思う。
それは、両親だったり、妻だったり、夫だったり、子供だったり、好きなタレントだったり
愛する人だったり、そして片思いの人だったり、(あるいは飼い犬だったり、猫でも構わない)
そんな自分を助けてくれる、自分にとっての大切な人は
こんなにもたくさんいるんだ、ということに、気付いて欲しいと私は思うんだ。
その人がもしも、今、目の前にいて、こんな私を見ていたとしたら
どんなふうに思うんだろうか?そんなふうに考えられたら
別の正しい解決の糸口が、見つかるんじゃないだろうか?と私は思う。
それはとても単純で、きれいごとばかり並べたような
何か笑ってしまうようなことかもしれないけれど
でも、とても難しくて、そして、とても簡単なことだ。
人の心は、考え方ひとつで、正しい方向を示してくれる。
人はひとりで生きてゆけないように、その正しさも
自分ひとりで決めてきたものではなくて、
実はいつも、誰かの助けがあってのことだ。
人は結局、誰かに助けられなきゃ、生きてはゆけない。
本当の自分を思い出すのもきっと、自分ひとりじゃ出来やしない。
誰かの笑顔がいつも、必要なんだ。
そう思えたとき・・・この人生の生きてる意味がほんの少し分るような気がする。
結局人は、自分のためではなく、人のために生きているのだと。
その人のためが、必ず、自分のためになっている。
そのことに本当に信じられたとき、人生はきっと輝きだすのだと思う。
別に自分の考えを押し付ける気持ちはまったくないけれど
そういう想いもあるのだなと、思ってくれればそれでいいと思う。
ひとりでいるとき。
忙しくて、見失いそうなとき。
私は子供の顔を思い出す。
今ココに、私の子供がいたら、何て思うだろうか?と私は考える。
時には空をぼんやりと眺める。
空はいつも、同じ空で、時には雨になったり風が吹いたりと
その表情は変わるけれど、それでもあの空の透きとおった青さを
私達は知っているから、晴れた朝を待つことが出来る。
だから空の美しさを、私達は見失うことはない。
そんなふうに私達も、生きてゆけたらと思う。
私にとって、空の青さは
子供たちの笑顔とよく似ている。
2006/02/05 0:41:37
2006/02/03(金) 中学生の君からのメール

とてもうれしいメールをいただきました。
あまりにもうれしくて、(ココは私の日記でもあるので)
この気持ちをこうして書いてます。
まずは、そのメールを紹介させていただきます。
なんと、中学生からのメールです。
初めて送ってみました。失礼でしたらスイマセン。
僕は中学生で大人の事情は良くわかりませんが、
このサイトはとてもいいサイトだと思います。
普通に読んでいるだけなのに心がとても動かされます。
特に学校で嫌な事があったとき、
そういうときはここの日記を読んでいると閉ざされていた心がよく開いてます。
(表現がおかしいかも…)
嫌な事があっても励まされてる気分になり元気とは違う物が沸いてきて嬉しいです。 これからも頑張ってください。また送らせていただきます。
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素直にとてもうれしいです。どんな偉い評論家よりも、純粋な君の綴られた言葉が
私の果てしない勇気につながってます。よかった。こんなでも、このサイトを続けてきて。
私も嫌なことがあった日は、君のこのメールを開きます。
私にも、元気とは違う大切なものが、この心にあふれてきます。
そして、君の頃にはあったはずのあたたかな気持ちが
この私に蘇って来ます。
ありがとう。本当に心から。
大切な宝物が、またひとつ、私に増えました。
EACH TIME
2006/02/03 9:26:54
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