ラクダとニッポン

    日本に初めてラクダが訪ずれたのは、推古2年(599)百済からでした(日本書紀)。

   その後も、推古26年(618)には高麗の国から(続日本書紀)、斎明3年(657)

   に再び百済から(紀)、天武8年(679)には新羅からと(紀)、いづれも朝鮮半島経

   由で訪れています。

   しかし残念ながら、これらは全てフタコブラクダでありました。行動半径が狭かった昔で

   は、日本からより遠い所に住んでいるヒトコブラクダより先により近く西アジアに住むフ

   タコブラクダが先に訪日したことは当然ではあります。

 

 文政4年(1821)、初めてオランダ船がヒトコブラ

クダを2頭舶載しました。(サウジアラビア)メッカ産の

5才のオスと4才のメスでした。

 長崎奉行間宮筑前守が、今は県庁のある長崎奉行所西役

所で見物しました。

 当時、長崎出島のオランダ商館長ブロムホフ(Jan Cock

Blomhoff1779-1853)が時の将軍家斉に献上を願いでますが、

  将軍家からは無用とされてしまいます。そこでブロンホフは、

寵愛していた遊女・糸萩に2頭のラクダを与えることにしました

(巷街贅説)。文政6年にブロムホフが帰国した後、糸萩は付きあっている男性に請われ、ラクダを

手放すことになります。          ブロンホフが書いた長崎オランダ商館日記へ


ラクダは香具師(やし)の手に渡り、九州・四国を巡

り、紀州公のご所望で和歌山に行き、その後、文政6

年4月、大阪の木津川口に辿り着きます。しかし、札

銭が32銅と高く、客足はいまひとつでした。(上図)

 8月下旬には大阪を去り、9月19日夜京都に着き、

四条道場で興業します。

 その後、木曽路を経て、文政7年8月5日、板橋の豊

田市右衛門の家に一泊した後、翌6日、江戸に辿り着き

ます。9日から両国広小路で開場、32銅という高価な

木戸銭にも拘わらず、見世物は大盛況でした。(左図)

「和漢三才図会」などの付図でフタコブラクダだけを見てきた人々は、背中のコブがひとつしか

ないのを不思議がりました。ラクダは大きな話題となり、草紙・錦絵にも現れ、次のような狂歌

も謳われました。

    「押しあうて 見るより見ぬが らくだろう」

文政8年春まで興業し新記録を樹立した後、東国を巡り、越前・加賀で巡業後、文政9年11月

名古屋大須賀門外で興業するも、ここでも大盛況でした。

その後三河・遠江を巡り、文政10年正月、再び名古屋へ、そして伊勢・大和を経て、同年5

月、大阪・難破新地で興業します。しかし、もう見慣れたためか見世物は不評だったため、まだ

訪れていない北国へ向かうことになります。その後の消息は不明のままです。