書記官運動の歴史をふりかえって
(でーやん註・・以下の文章は、第7回全司法全国書記官集会で行われた報告です。調査資料150号に出ていますので、組合員の人は書記局の棚でも探してください。なお、機種依存文字は適宜置き換えました。なお、段落分けのレイアウトの読みにくい部分や、誤字は適時なおしていきたいと思います。)
はじめに
実は書記官集会が書記官運動の歴史について取りあげるのは今回が初めてではありません。今から一二年前の第五回集会で当時の吉田委員長から、書記官よもっとしっかりして欲しいという観点から激励を込めた歴史を聞いたことがあるのですが、私は当時本部中執をしていたものですから今もみずみずしくその内容を思い出すことがあります。
今回はその吉田さんの話、物語全司法史、今まで七回に及ぶ書記官集会の資料の中から私なりにまとめをしてみたものです。
本論に入る際に書記官運動の歴史を見るうえで大切なことを私なりに四つあげてみると
イ 裁判官は殿様、書記官は家来という封建的な身分関係が戦後どう克服され、民主化されたのか。
ロ 全司法に対する組織破壊攻撃があった時にはいつも書記官が矢面に立たされていたのですが、それをどうはね返したのか。
ハ 司法をめぐる情勢とのかかわり、臨時司法制度調査会答申から司法反動化と言われる流れの中で国民の裁判所を展望し、書記官はどう対応して来たのだろうか。
ニ 待遇改善、労働条件改善と書記官運動とのかかわりはどうだったかということがあります。
(一)戦前の先輩たちは、どんな状態におかれていたのか
(1)戦前の官吏は「天皇陛下及天皇陛下ノ政府」に対して忠実無定量の服従を義務づけられ、同じ官吏でも特権層である高等官と下級の判任官とでは給与や身分保障に差別があっただけでなく、食堂やトイレまでが区別されるという大変な身分差がもうけられていました。
裁判所の場合には、とりわけ裁判官は大名や家老などいわば高級武士、書記・雇は下層武士の失業者からというような裁判所の創設以来の伝統が底流にあり、封建的な身分関係は輪をかけてひどいものがあったと言われています。
その中で裁判官の引越しの手伝いから奥さんの使い走りを光栄と心得るような感覚まで支配していたということがあります。
労働強化も大変なもので、風呂敷包みで記録の持帰りをして、いつも調書作成に追われ、肺結核で亡くなる人が多く、使い捨てにされ、古雑きんのように死んでゆく姿があっちこっちの裁判所で見られたということです。物語全司法史によると、横浜地裁では昭和一一年頃までの四、五年間に、退職者四〇人のうち肺結核によって退めざるを得なかった人が一二人もあり(書記六、雇六)、そのうち一〇人が間もなく死亡し、その他にも在職中死亡が一人、又大阪では書記・雇のなかの結核患者は一八人に一人という割合で、これは大阪市民の平均「三〇人に一人」はいうまでもなく"女工哀史"で有名な紡績女工の「二一人に一人」という比率さえ上まわるというまさに驚くべき数字(結核が国民病の時代とは言っても)だったことが紹介されています。
(2)労働組合が存在しないことが如何に悲惨な状態を作り出すかの見本みたいなものだったわけですが、それでも私たちの先輩は闘いの経験をしております。記録に残ってるものの一つを紹介すると、昭和六年の東京の書記を中心とした官吏の一割減俸に反対する運動がありました。
当時としては勇気がいることだったと思うのですが、司法大臣宛に上申書を出し「書記連絡協議会」を結成し、減俸反対から"書記の地位向上、高等官への登用、公証人、弁護士への進路開拓"などの嘆願までやったということです。
(二)全司法結成で書記官の待遇改善へ
昭和二〇年一二月にまず旭川地裁に司法部職員組合が結成され、全国的な動きもうけて、二二年の二・一ゼネストを構える雰囲気の中で全国に激がとび一月二五日に全国組織が結成されたわけですが、この時に確立された制度要求のトップに「裁判所法案を修正し、書記の進路をひらけ」が入り、更に結成後最初に取組んだ問題が裁判所法の改正問題でした。当初、その改正案には書記の進路のことがふれられていなかったものですから、司法大臣交渉、国会の各政党に対する請願行動、中労委への斡旋申請などを行いました。その結果、二二年四月一六日成立の裁判所法の中に簡裁判事についての特任制度を明文化させることができ緒戦で大きな成果をあげることができたのです。
これがスタートになって全司法への書記官の結集を大きく作りだし、以来様々な成果をあげる基盤ができたのでした。
(三)全司法のもとで書記官運動が作り出した成果について
以下七点に亘って整理をしてみましたが、いずれも全職権を含む全司法全体の力が基調にあって書記官運動の発展の中で勝ちとられて来たものばかりです。
(1)裁判官との封建的な身分関係の一定の打破をして来たということ
イ、昭和三〇年にかけて行われた裁判官総点検運動というのがありました。三一年の第一二回全国大会の運動方針案は「われわれ組合員の人権をまもることのできない裁判官は、国民の人権をまもることはできない。封建的裁判官の総点検運動をおこそう」という提案が、まさに乾いた土に水の如く迎えられました。の中で裁判官の暴言や暴行がきっかけとなって、長い間つもりにつもった職場における身分差に反対する運動が各地でおきました。この闘いは結果として非行・暴言のあった裁判官のみということで狭い取りくみに終ってしまいましたが、それまであごで職員を使っていた裁判官が急におとなしくなったり、私用を頼まなくなったことが各地で成果として報告されました。
ロ、「うどん運び反対闘争」「裁判官の転宅手伝拒否闘争」「奉仕労働返上闘争」など職場からの闘いが起るようになり、三三年にはその中で裁判書原本作成の返上闘争が大きく広がりました。
この闘争に対し、最高裁は全司法運動史上かつてない一三名の首切り、六名の停職という弾圧をしました。この闘いから引きださなければならない教訓は別として、この時の書記官を中心とした活動、裁判官への毅然たる態度をとった先輩たちの活動は、その後の裁判闘争を通じても公証官としての書記官の独立性を内外に大きく示すものとなりました。
それが当時一〇年間に亘ってストップしていた最高裁の書記官制度調査委員会を突如招集させると共に、後でふれる'六%調整への大きな引き金にもなったということが言えます。
(2)組合破壊、弱体化を狙っての書記官への分断攻撃をはね返してたこと
イ、戦後早々の昭和二九年に全司法、全検察(検察庁の労働組合)に対し、組合解散と引換えに四号調整をつけるという提案が当局からありました。これに対し検察庁の組合は解散を決めたのですが、わが全司法は全国大会で満場一致で組合つぶしの攻撃を拒否したのです。どちらの選択が正しかったかは両方の職場の状況を比較すれば歴然としているのではないでしょうか。
ロ、次いで一六%調整をめぐる歴史的な経過です。最高裁は三四年一二月に前述の裁判書返上闘争がきっかけとなって書記官制度調査委員会を突如招集しました。それを受けた形で当局は裁判所法六〇条三項を改正し、裁判官の調査事務の補助を明文化することと勤務時間の延長をして一六%調整をつけるという提案を行って来ました。この問題をめぐっては書記官を二分するような大きな問題となったのですが、これには全司法が頭から反対するであろうということを見こして、全司法から書記官層を離反させようという意図もかくされていたということが言われています。事実、当局側が書記官一人ひとりから同意書を取るというような動きもあり大きな試練に全司法は立たされたのですが「金は取る、六〇条改正案は修正する、時間延長には反対」との考えに基いて全国的な運動を進めたのでした。その結果、当局の期待した書記官層の全司法からの離反を失敗に終らせ、時間延長の形がい化をさせることができたのです。
ハ、主任書記官の官理職への大幅指定も攻撃の一つでした。昭和四〇年に政府は国公労働者の強い反対を押し切って「指定管理職制度を新設し、強制的に組合を脱退させる」ことを始めとして重大な内容を含む国公法改悪を行ったわけですが、これを先取りする形で最高裁は、本来職制系列による管理・監督になじまない書記官職の一部である主任書記官についても大幅な管理職指定を行って来ました。それまでは主任書記官も組合の中で大きな役割を果していたし、安保闘争の時には主任書記官も沢山デモに参加したという歴史をもっているのです。この攻撃は、明らかに全司法を弱めるために出されたもので、だからこそ他官庁に較べると異常な指定率の高さとなったのでした。
(3)代行制度廃止闘争のこと
昭和二四年に書記官制度が確立するのと同時に書記官の事務が本格的に軌道にのるまでの当分の間ということで書記官補制度がもうけられ、格付は官が五・六等級、官補が六・七級、調整は官が八%、官補が四%というふうに差がつけられました。
その実態は、書記官の定数を少なく押える少数精鋭で、書記官補に代行書記官という一片の辞令を与え、同じ仕事をさせながら書記官と任用上、待遇上の差別を一〇年以上も長期に亘って強いるという状態がありました。これに対し書記官補の怒りが爆発、補とり運動として全国的な闘いが広がり調書に補を入れないなど創意的な取組みをし、ついに自らの手で書記官への大幅任用をさせる成果をあげることができました。
(4)昇格闘争のこと
こうした代行制度廃止の運動の盛上りは、更に「六等級頭打ち解消と五等級定数の大幅拡大」「四等級実現」への闘いに発展し、行政措置要求を始め全書記官の集会決議、要求署名、ハガキなど様々な行動を展開しました。その結果、四六年に四等級の本定数化が行われ、以来毎年の下部からの強力な闘いで四等級定数の急増を勝ち取ることができたのでした。
(5)旧調整額切下げに反対する闘いのこと
昭和四七年に人事院が「根本的に検討する」と勧告して以来、他国公の仲間との調整額問題連絡共闘会議が結成され、中央・地方での共闘・全司法独自の調査官と一緒になった取組みをし、上京団行動も度重ねてやるなど(一年に二回やったことも)大きな行動を展開しました。その結果、五四年に至るまで何度か迎えた山場を切りぬけ、当初意図した調整数削減に手をつけさせず、二分の一凍結案を定率三%プラス定額に止めさせることができたのです。昨年以来、再び削減の動きが浮上しており過去の教訓を生かす必要があります。
(6)増員と労働条件の改善のこと
残業・持帰りの職場実態のあるところ至るところで増員闘争、労働条件改善の闘いが展開されてきました。より少ない人員と予算で訴訟促進をする政策に対し職場での団結した取組み、在野法曹との共闘、国会の活用、期日簿の写を持っての上京団行動のような創意的行動もやるなどして沢山の成果をあげることができました。複雑・困難な事件が増える中で録取事務軽減にもつながる速記官の養成について、一時減らしていたのを増員させる成果もあげることができました。今年初めて行った全司法総行動はきびしい情勢を切りひらく運動方向として大きな期待を持たれています。
(7)民主的司法制度と書記官制度の確立に向けて
司法の反動化が進む中で、これを阻止し、司法の独立と民主々義を守る国民的大運動の一翼を荷い、同時に、全司法に対する組織破かい攻撃をはね返してゆくうえで大きな役割を果したのが司法制度研究運動でした。
その中で書記官は大きな役割を果し、それが第五回全国書記官集会で書記官制度確立の方向を作り出すことにも大きく結びつきました。この間三八年に簡易判事(仮称)制度新設の構想、裁判制度と補助機構に関する諸問題ということで簡裁判事の法曹資格付与を求めた論文が発表され職場討議を行ったこともあります。五四年にはヨーロッパに書記官を派けんし、私もその一員として加わり、前回の書記官集会で「ヨーロッパの書記官制度」と題した報告をしております。
以上のような経過をふまえて、昨年には民主的司法制度、民主的職員制度確立へ向けての方針を確立したのでした。
(四)第一回書記官集会から第七回書記官集会まで
昭和四一年の第一回書記官集会は、自主カンパで費用をまかなって上京した書記官で行われ、「書記官の持っているいろいろの要求解決は、まず書記官自身が話し合い、要求を確立し、労働組合の場で行動を強め、さらに他職種との話し合いを積極的におこない相互理解を深める」ことを活動の方向として確かめあい、特に書記官の要求とたたかいの方向を明確にするための討議を行いました。四二年の第二回集会はそれをうけて事務官との合同集会を持ち、独自課題と共通の問題を明らかにし、共通の要求で団結して闘う立場を討論しました。第三回集会は四四年に開かれ書記官のあるべき姿ということで書記官をめぐる問題を解明し、制度問題について書協の提起したものも紹介しながら一定の考え方を示しました。第四回集会は四六年に改悪国公法のもと、書記官の管理、監督体制が強化される一方で、書記官のうち八三%が五等級に集中し、そのうち八○%近くが二桁という深刻な実態のもと、四等級定数が初めて本定数化されたものの一六しかないという状況の中で開かれました。書記官制度についてそれまでの論議を基礎にして書記官制度研究委員会を本部に発足させることも決め、それが四八年の第五回集会の制度討議資料として実りました。この第五回集会が契機になって、調整額削減、四等級昇格等の課題で書記官いちろくの日常的な運動が大きく進み、一六行動も提起され書記官対策委員会も各地で作られ書記官運動にあらたなぺージを作り出しました。調整額削減が緊迫する中で開かれた五四年の第六回集会は、同時に三等級昇格実現への理論的な解明をはかり、闘いの重要性を確認し合ったのが特徴です。今第七回集会は、定年制のスタート、大量退職期の始まりを控えて、最高裁の進めようとしている大がかりな「合理化」政策としての簡裁の統廃合、OA化、職員制度の「合理化」等についてどう考えるかが問われるものとなってい
ます。
このように書記官集会は、要求の確認と運動の方向を明らかにし、先程述べた要求解決に節々で大きな役割を果して来ました。書記官集会の度に新鮮な活動を紹介して来た福岡の仲間、大阪や東京家裁、千葉等の特別報告は、あらためて読んでみると、書記官運動が脈々と生きているという感じがしているところです。裁判官会議に対抗する書記官自治を昼食会形式の書記官会議として実らせている東京家裁の活動は今日講演された利谷先生からも大きく評価されたものでした。
(五)全国書協の動き
昭和三六年に全国書協が発足したのですが、その経過では、これが第二組合になるのではないかということで全国の多くの書記官が心配をしました。そこで@大法廷首席や各庁の首席が当然役員になる規約に反対するA第二組合的なものにしないことを確認させるとかB書記官補も含めさせるとか条件をつけて参加を決めたところ、参加すべきでないと対応したところなど様々な動きの中で研究・親睦団体として発足したのでした。
その後書協は「新官職の創設と権限移譲」「首席、主任等の名称変更」「録音反訳方式」「訴訟進行管理事務」等を手がけ、昨年には「裁判所書記官の大量退職に伴う執務体制の確立について」と題した提言を最高裁に提出しております。
これまで書協が打出した構想については、全体として展望が開けておらず、僅かに訴訟進行管理事務と言われるものが最高裁の政策と結びついて実現しているわけですが、実はそれすらも書記官の権限として確定することを最高裁は拒否しているのが現状です。
昨年の提言をめぐって、当初書協が打出した少数精鋭主義構想は会員書記官からの反ぱつで撤回せざるを得ませんでした。
この問題では、全司法の場でも大きく議論されましたが、更に書記官制度を展望するうえで、人べらし「合理化」が先行するような臨司・臨調路線に協力する最高裁の政策の先取りは許されないし、それでは制度そのものがゆがんだものとならざるを得ないのではないでしょうか。
今、集会でも提起している書記官制度確立の方向は、書協からも注目されているところですが、その実現に向けて司研運動の実績を生かしつっ大きな努力を今こそ私たちは払わなければなりません。その展望は大きく広がっています。
まとめ
以上見て来たように、労働組合組織のない時代から労働組合組織を持っての活動へ、当局の厳しい攻撃で停滞したり飛躍したりジグザグを通りながら、要求を着実に前進させて来ました。要求が前進をした時には書記官の力がそこには大きくあったし、逆に書記官の運動が停滞した時期には全司法の運動も弱く、要求もなかなか前進しなかったということが言えます。
書記官をめぐる様々な不満、要求を自らの力で解決するという源点に立った活動、草の根運動を一層強化すると共に、自分達だけにしか目が向かなかった時代から他職種も含めた中で書記官はどうあるべきかを問い直し、同時に、今の司法をめぐる情勢の中で書記官はどういう役割を果さなければならないかを問い返した政策づくりと運動構築が求められているのではないでしょうか。
そのことなしには裁判官との封建的な身分関係を真に打破する方向は見つからないし、働き甲斐のある書記官制度確立の方向は実現しないというふうに思います。現にそういう方向に運動が進みつつあるということを書記官運動の歴史から見出すことができます。
これからは若い書記官の時代です。大量退職後を受け継ぐ書記官がこの伝統をくんで全司法の下、書記官運動がますます発展するよう期待してまとめとします。