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| 横綱 雲龍久吉 |
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〜地元が生んだ大横綱について〜
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皆さん、相撲がそんなに詳しくなくても「雲龍型」という言葉を聞いたことありませんか?横綱になり土俵入りの時に使う型のことです。その生みの親が、雲龍久吉です。
その雲竜久吉の故郷が、大和町です。 |
■少年時代
雲龍久吉は、文政5(1822)年、9月大和町大字皿垣開字甲木の農家塩塚久平治の長男として、生れました。久吉は12歳の時、4月14日に父、2日後に祖母、5月2日に母を亡くすという悲しい出来事が起こりました。身寄りの少ない久吉は、4人の兄弟の世話をしなければなりませんでした。また3年後15歳の時には祖父も亡くなりました。
久吉は幼いときから、逞しい体と力に恵まれていましたので、田畑の仕事や馬の世話などをして一家4人の生活を支えてきました。柳河藩立花帯刀邸に役夫として雇われて行き、3〜4人前の飯をペロリと食べて平然としていた。ある時5〜6人かかっても動かない大石を一人で運んだので、その後大飯食いは公認になったそうです。
また16歳の時、矢部川の改修工事のに人夫として、働きました。その帰りがけに、大きな川石2つを天秤棒で担ぎ、3里の道を歩いてきましたので、村人達はびっくりしました。その石は,今もなお「力石」として甲木の海童神社にあります。またこの海童神社には北の海や千代の富士も参拝に訪れました。
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| ★108kgと78kgの力石 |
★海童神社 |
久吉少年は地元では非凡な力量は目を見張るものがあり、回りからは力士になることを勧められていた。しかし兄弟のことが気にかかり断りつづけていたが、柳川の魚問屋高椋新太郎及び菅原某などからも資金面でも協力を得ることにより、ようやく力士になることを決意して上坂するのであった。
■飛躍期
天保13年(1842)21歳、上坂し大阪相撲6代陣幕長之介もとで修行を始める。大阪で5年半ほど修行した甲斐あって、引化4年冬場所には江戸相撲の好待遇を受ける。
1852年 2月 新入幕8勝1分けで初優勝。運龍久吉31歳
1852年 11月 7勝1敗1分けで2回目の優勝
1853年 2月 6勝1分1預で3回目の優勝
1853年 11月 全勝で4回目の優勝 連続優勝が認められ小 結に。
1856年 11月 全勝で5回目の優勝
1857年 11月 7勝1敗1預で6回目の優勝
1858年 1月 大関昇進、運龍久吉37歳
■全盛期
大関になってからの成績は思ったほど振るわず、安政5年(1858)春5勝2敗の成績に終わった。
1859年 春 5勝2敗
1859年 冬 3勝1敗1分け1預かり
1860年 春 5勝2敗二分け
1860年 冬 5勝1敗
1861年 9月
大関になってから成績はあまりよくなかったが、大関以前の成績が認められ、老堺にいった感ではあるが、40歳にして、吉田家より横綱の免許がおりる。
■完成期
相撲取りを志し、夢にまで見た晴れの横綱である。幼少でなくした両親、兄弟や郷里の人々の暖かい心遣いがあったからこそ、ここまでのぼり詰められたことだろう。それまで数人しかいない横綱は、観衆の前で土俵入りが出きること自体名誉な事である。
1862年8月3日 2度目の郷里興行
三柱神社の境内で行われ、特に藩主鑑寛公も大いに喜ばれ、土地の人々も大変な騒ぎで歓迎した。
三柱神社での土俵入り
1862年 11月 6勝1敗1分けで7回目の優勝
1865年 引退、第5代「追手風喜太郎」を襲名
横綱の地位を保つこと5年、44歳で引退しました。入幕以来の成績は127勝32敗15分け5預かり、優勝七回(全勝2回)でした。
1890年、明治23年 自宅にて永眠 享年69歳
今日見られる横綱土俵入りを行ったのは、一般には幕末の第10代横綱雲龍久吉と第11代横綱不知火光右衛門とされ、それぞれの名前を取って雲龍型と不知火型と称している。
雲龍久吉は2度目の郷里興行の時、三柱神社に石灯籠1対、海童神社にも石灯籠1対と石の鳥居を奉納している。また荒人宮えを建立し、祭田2反(20アール)を寄進し、雲龍久吉の信心深さを物語っている。
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| ★鳥居 |
★石灯籠 |
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| ■雲竜公園 |
| 大和町には雲龍公園があり その中に立派なドーム式の土俵があり、年一度、小中学校の、子供相撲大会が開催されます。 |
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| ★ドーム式相撲場 |
★子供相撲 |
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